【洋画】「ビューティフル・マインド/A Beautiful Mind」(2001)【邦画】「醉いどれ天使」(1948)

2018年04月06日

【人物評】「三文役者の死 正伝殿山泰司」新藤兼人さん

P91
11 ペエペ役者は忙しい

(前略)

乙羽信子が「原爆の子」に出演したいといってきた。「愛妻物語」で、乙羽君は映画への希望をつないだのである。宝塚で〈百万ドルのえくぼ〉と騒がれた娘役のスターを、松山英夫が引きぬいた。鳴物入りで宝塚から大映へ移ったものの、アイドルスターとして売り出そうとしたため、出る作品が悉く失敗、映画演技の本質にふれる機会がなく落ちこんでいた。そこへ「愛妻物語」だったのだ。共演者の宇野重吉と出会ったのも幸いして、彼女なりに活路を見出したのであった。

原爆の子 [DVD]
出演:乙羽信子、滝沢修
監督:新藤兼人
角川書店
2001-07-10


愛妻物語 [DVD]
出演:宇野重吉、乙羽信子
監督:新藤兼人
KADOKAWA / 角川書店
2016-12-22


(中略)

広島でオールロケでやることにした。資金が乏しいのだから合宿である。(広島)市内に被爆した親戚が商人宿をささやかにやっていたのでここへ泊まりこんだ。

タイちゃん(=殿山泰司)の役は巡航船の船長である。乙羽信子の女教師が疎開先の能美島から教え子に会うために広島へやってくる。タイちゃんはファーストシーンとラストシーンに出る。女教師と二言三言交わすだけだが、映画の出発と終わりをしめくくる大事な役である。主役の乙羽君はドラマを引っ張ってきて終点に立ち、その結論を出すのだがバイプレーヤーはその主役の立つ場所を安定さすのである。

これはむつかしい、演技が過剰ではいけないし、過少では支えることにならない。なにより必要なのは実在感である。タイちゃんにはそれがあった。演技らしい演技は何もやらない、自然のまま出てくるという演技。

しかしドラマというものは、クライマックスで盛り上げ、観る人を引きつけて陶酔を与えるのだから、役者の演技力がものをいうことになる。バイプレーヤーはバイプレーヤーなりにそこに参加しなければならない。タイちゃんのような、日常生活のなかからそのまま出てきたような演技はそこがむつかしい。「愛妻物語」のタイちゃんは、実際の人が出演しているように自然だったが、ラストシーンの主人公が死ぬ悲劇のクライマックスにも自然のままなのである。若妻の死を悼む雰囲気に積極的に乗ってこない。バイプレーヤーの節度として主役の邪魔をしない配慮と受けとれなくもないが、なにかものたりない。

ところが、「原爆の子」の船長のように、終始主役に客観的立場でいられるような役どころでは、タイちゃんの演技はリアルで抜群なのである。

バイプレーヤーの鉄則として、主役の邪魔をしてはならない。主役をたすけなければならない。ときには主役に対してセリフを喋らないで、喋った効果を出さなければ、脇役とはいえない。バイプレーヤーはドラマの通行人なのである。主役を上手に通してあげなければならない。犬や猫や鶏がすばらしい効果をあげる場合がある。それならばバイプレーヤーは犬や猫であればいいのか。

タイちゃんの先輩の滝沢修、宇野重吉、小沢栄太郎、東野英治郎といった人たちは、ときには主役に代わってドラマを盛りあげる。笠智衆、志村喬などはときには主役であったりする。しかしタイちゃんが主役を演じるとは想像できない。宇野重吉や小沢栄太郎のような、ドラマのなかに深くふみこんだ演技もできそうにない。タイちゃんがペエペエの役者だからできないのか。そうではない。タイちゃんの役は笠智衆にも滝沢修にもできないのだ。だいいちこの人がちが一言もセリフのないような役に出ることはない。

しいていうなら、タイちゃんの魅力はペエペエのよさである。ふらりと出てきて、ふらりとひっこむタイちゃんという役者。タイちゃんが欠けてはドラマが成立しないということはないがタイちゃんが出ればドラマはふくらむ。そうなるとやっぱりタイちゃんは犬や猫と同じなのであろうか。ともかくわたしは生涯タイちゃんに拘りつづけることになる。

(中略)

「狼」は、乙羽信子、殿山泰司、高杉早苗、浜村純、菅井一郎が主役。郵便車を襲った保険外交員の事件にヒントを得てシナリオ化したもので、五人が最後につかんだのは保険外交員の仕事だったが、成績をあげることが出来なくて、絶望的に郵便車を襲撃する。いずれも生活に敗れた弱者。

狼 [DVD]
出演:乙羽信子、浜村純
監督:新藤兼人
角川映画
2001-07-10


生活能力のない弱者というのが、タイちゃんにうってつけである。外ではいつも人のあとからついて行く。家へ帰っては女房に頭があがらない。子どもたちからも馬鹿にされている。会社が潰れてながい失業ののち保険外交員となる。タイちゃんは実際にその人ではないかと思えるほどぴったりであった。

高杉早苗は役作りに腐心し、殿山さんはどうしてあんなにリアルなのかしら、と嘆いたものだ。実生活の住んでいる場所がちがうのだから仕方がない。

だが、ここでタイちゃんは、ラストで失速した。自然のままに終わって、クライマックスにのめりこんでいけない。演技者としての盛りあがりがないのだ。私は演出者としての能力の無さに臍を噛んだ。

なぜ、我々は映画やテレビでドラマを見るのか。
「人はパンのみに生きるにあらず」だからである。
過酷な現実を生き抜くには、ドラマという「ふくらみ」のある抽象的、かつ、希望的な現実を見ると、自身の客観(相対化)と楽観が促され、助かるからである。
「ふくらみ」のない剥き出しの現実は、切なくなるばかりだからである。
パンにはジャムやハムが要るように、ドラマにもバイプレイヤーが要るのである。
サンドイッチの付加価値はジャムやハムに潜在し、ドラマの付加価値、そして、肝はバイプレイヤーに潜在するのである。
人間は「ふくらみ」を求め、それぞれ創る生き物である。







kimio_memo at 06:56│Comments(0) 書籍 

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
【洋画】「ビューティフル・マインド/A Beautiful Mind」(2001)【邦画】「醉いどれ天使」(1948)