2017年07月07日
【人生訓】「〆切本/のばせばのびる、か」外山滋比古さん
P276
仕事をするのは気迫である。
(中略)
都会の人間は、刺激のつよい環境の中で生活している。いつも競争の意識がある。よし、負けてなるものか。混雑したところへ出ると、そういう気持になる。いったんしてしまおうと考えれば、たいへんだと思われたことが何でもなくできてしまうものだ。気迫さえこもっていれば仕事はできる。仕事をおそれていては、仕事にかかったつもりでも、その実、ぐるぐるまわりを廻っているにすぎない。
(中略)
大学では卒業論文を書かせる。もっともこのごろは学部では論文は無理だとして、卒業論文を廃止した大学もすくなくないが、なお、多くの大学では論文を卒業の条件にしている。
卒業論文には締切りがある。R先生のように締切りのころから動き出すというのでは間に合わない。一時間おくれても受理されない。締切り厳守である。
その日が近づくと、もうとても間に合わない、ことしは無理だ、一年論文留年しようという気持をおこす学生がかならず何人かあらわれる。いま急いで不本意な論文を提出するより、もう一年じっくり時間をかけて悔いのない論文を完成しよう。この空想は甘美である。目前に迫った締切りと、手がけている進行中の論文はいかにも醜悪である。ここはどうしても空想の美酒を飲みたい。そこで教師に通告してくる。ことしは提出しない、一年のばす、と。
もし、ここで教師が折れるとどうなるか。この学生は永久に卒業できないおそれが出てくる。教師たるもの、ここでは心を鬼にしなくてはならない。何が何でも書き上げろ。死んだつもりで書け。でき栄えなど自分で気にするのは生意気である。ことし書けないのなら、来年はもっと書きにくい。来年になれば名論文が書けるように思うのは幻想にすぎない。来年のいまごろになれば、いまとまったく同じ気持になる。さらに悪いことに一年のハンディキャップがある。せっかく一年かけたのに、このていたらく。もうすこしましなものができなくては留年した手前もはずかしい。そこで、ひょっとすると、もう一年留年したくなる。一度あることは二度ある。またのばす。こうしてとうとう四年留年したが、それでも論文が書けないでついに退学したという例も実際にある。はじめの気の弱さが事の起こりである・・・。そういう訓話をして、しゃにむに書かせてしまう。
仕事にかかるのは気迫だが、仕事をし終えるには諦めが必要である。大論文を書こうと思ったら決して完成しない。できるだけの努力はする、あとはもう運を天にまかせる。不出来であってもしかたがない。そう思い切るのである。色気をすてる。そうすれば案ずるより生むはやすし、である。
(中略)
仕事を先にのばせば、いくらでものびる。そしてのびた仕事ほど、やりにくくなる。あがりもおもしろくない。兵は拙速をたっとぶ。どうせ上々の首尾などということは叶えられないことだとあきらめる。
今日できることがあったら、してしまえ。明日までのばすな。忙しい人は、すぐ手をつける。ひまな人は明日に期待をかける。明日には明日の仕事がわいてくる。きのうの仕事と今日の仕事が重なってはとてもできるものではない。もう一日のばそう。ところが、その日になってみるとその日の新しい仕事が待っている。こうして高利貸から借りた借金のように仕事が累積して、どこからどう手をつけたらよいかわからなくなる。
今日できる仕事を明日にのばすな。これはそういうにがい思いを何度もした多忙な人間がようやくたどりつく心境である。そういう気持になったとたんに多忙の人は忙中おのずから閑あり、と達観することができるようになる。ひまな人は永久にそういう真理を実感しないで結局はいつもあくせくしていなくてはならない。
仕事はのばせばいくらでものびる。しかし、それでは、死という締切りまでにでき上がる原稿はほとんどなくなってしまう。
「仕事にかかるのは気迫だが、仕事をし終えるには諦めが必要である」のは尤もであり、耳が痛すぎる。(笑)
だから、私は先ず手を動かし、乏しい気迫を鼓舞する以外ないし、また、色気を捨て、悪い諦め、および、自分の買い被りと決別する以外ない。
死という締切りの遠くない到来を、絶えず意識して。
kimio_memo at 07:01│Comments(0)│
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