【第57期王位戦第四局】木村挑戦者、格言を具現し羽生王位に勝利、2-2タイへ【洋画】「ザ・ファン/The Fan」(1996)

2016年08月29日

【野球】「負け方の極意」野村克也さん(著)

P181
第五章 負けを活かすために何が必要か

限界を知り、知恵を振り絞れ


失敗を成功に変えられるか、負けや挫折を勝ちにつなげられるか、それを最後に分けるものーーそれはやはり、「頭脳」であると思う。言い換えれば、どれだけ考え、知恵を振り絞ることができるか、ということだ。

繰り返すが、私は天才ではない。器用でもない。プロ野球界のなかでは、むしろ鈍才の部類で、不器用だ。しかし、結果として私は、半世紀以上ものあいだユニフォームを着続けることができた。私ほど長いあいだグラウンドに立っていた人間は、そうはいないのではないか。

それがなぜ可能だったかといえば、答えはひとつ。
「頭を使ったから」

失敗し、壁にぶつかるたび、徹底的に考え、知恵を振り絞ることで、失敗や挫折や負けを糧にすることができたからこそ、いまの私がある。これは絶対に間違いない。本来ならば、二流で終わっていたかもしれない私が、まがりなりにも三冠王を獲得できるまでの選手となったのは、また、齢七十を超えても監督として迎えてくれる球団があったのは、それが最大の理由である。

では、私がどうして頭を使ったかといえば、限界に突き当たったからにほかならない。言葉を替えれば、おのれを知ったからだ。どうやっても二割五分しか打てないと悟ったからこそ、知恵を振り絞り、データやピッチャーのクセを研究して配球を読むことで、残りの五分の壁を乗り越えたように。

これは私の固定観念かもしれないがーーまずは自分の限界、技術的限界を知らなければ、人はほんとうに頭を使おうとはしないのではないか。
「これ以上は努力しても、どうにもならない」

そう思ったとき、すなわち、何回チャレンジしても超えられない壁にぶつかったとき、負けを受け入れるしかなくなってはじめて、人間は「頭を使おう」と考えるのではないか。というより、もはや頼るもの、使うべきものは頭しか残されていない。

そして、プロの戦いとは、そこからはじまるものだと私は考えている。プロと呼ばれる以上、その道の専門家であらねばならない。そのためには、人との差を認め、それを克服すべく頭を振り絞ることが求められる。そうしてはじめて、プロとして生き残っていくことができるーー私はそう信じている。だからこそ、私はたびたび口にする。
「技術力には限界がある。しかし、頭脳に限界はない」

失敗したり、挫折したり、敗北したときにどうするかで、その人間の価値は決まる。「もうダメだ」とあきらめてしまえば、それまでだ。

そうではなく、目指すべきビジョンと現状との差を明確にし、つまり課題をしっかり把握し、その差を埋め、克服するための方法論を徹底的に考え抜き、それにもとづいて日々の行動を規定していくーー負けを活かす方法は、言い換えれば負け方の極意は、まさしくそこにある。それこそが一流と二流と分けることになる。あきらめが役立つときはただ一度、新しく物事をやり直すときだけなのだ。

ただしーー断っておくが、限界を知るのは並大抵の努力では不可能だ。それこそ血を吐くような努力を要する。日々精一杯努力を続けていった果てに見えてくるものなのである。

「限界」と「未熟」は違う未熟者とは、仕事に対する熱意や研究心、向上心に欠ける者のことをいう。未熟者のいう限界とは、「たんにつまづきをこじらせただけ」の状態なのだ。


ところがたいていの人間は、ほんとうの限界を知る前に、つまりつまづきをこじらせただけであきらめてしまう。努力をやめてしまう。そして、未熟者ほど失敗や敗戦の原因を「スランプ」という言葉で片づけ、さらには問題を素質の多寡にすり替えてしまう。いわく「自分には才能がない。これ以上は無理なのだ」と・・・。当然、そこで思考も停止する。それ以上知恵を振り絞ることもない。それでは負けを勝ちにつなげることなどできるわけがないと心得ておいたほうがいい。

『限界』と『未熟』は違う」とは成る程だ。
たしかに、我々凡人が直感する「限界」、それも技術的、能力的な「限界」の多くは、「未熟」な現時点における「限界」であり、完熟した本来の「限界」ではまずない。

私がこのことを初めて学んだのは、母親に嫌々ピアノを習わされた(笑)幼少時分かもしれない。
当時、ピアノの練習は嫌で仕方なかった(←友だちと遊ぶ時間が激減するし、当時はオトコがピアノを弾いていると「オンナみたい!」とオトコ友だちから馬鹿にされた)が、教則本が「赤のバイエル」から「黄色のバイエル」、「ソナチネアルバム」へと変わり、自分の演奏の限界が目に見える形で破られ、高まっていくさまは子ども心ながら誇らしく、このことを学ぶに十分だった。



こうして考えてみると、ピアノは習わずとも、大人であれば幼少、青年時分、勉強等(笑)何らか習っており、物事に習熟する過程とその果実を、ひいてはこのことを、大なり小なり学んでいるはずである。
にもかかわらず、野村克也さんの仰る通り、我々大人の多くは、自分の「未熟」から逃げ、素質の多寡を口実に、眼前の「限界」を破ることを諦めている
なぜか。

主因の一つは、「豊かな現代は、『他にやる(やれる)コト」、即ち『オプション』で溢れかえっており、『コスパ』、ないしリソースの『投資対効果性』のより良さが、確率論的のみならず慣習的に期待、選好されるから」ではないか。
これは、ダイエット商品や離婚が増加の一途なことからうかがった。
もう一つは、「豊かな現代は、『未熟』を自認し、眼前の『限界』を破ってまで達成したい(せねばならない)コトが欲求段階説的に高次だから」ではないか。
これは、野村さんが赤貧の学生時分に芸能人をも目指したことと、入団初年度契約更改時分に解雇通告に自殺宣言で抗ったことからうかがった。
近年、アナ雪のテーマ曲がヒットしたのは、「限界」の敵前逃亡癖のついた「未熟」な自分を、「ありのまま上等!」と開き直って肯定したい現代人の悲願かもしれない。







kimio_memo at 06:11│Comments(0)TrackBack(0) 書籍 

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