2016年07月01日
【人生/経営】「小倉昌男 祈りと経営」小倉昌男さん、森健さん(著)
P243
第8章 最期の日々
平穏の祈り
(前略)
あえて指摘するまでもないことだが、現代において物流は電気や電話と同じような基礎的インフラとなっている。インターネットでの通信販売やものの流通が加速度的に展開するなかで、物流はかつてないほど重要な基幹産業になった。
いまや電話一本かければ、どこの地域でもクロネコヤマトは集荷に来るし、どこの地域に住んでいてもクロネコヤマトが届けにくる。
(中略)
そんな宅急便という発明を行ったのが小倉昌男だった。
これまで多くのメディアが小倉を語ってきた。曰く、宅急便の父、曰く、行政の規制と闘った闘士、曰く、障害者福祉に私財を捧げた篤志家・・・。どれも間違いではなかったが、それですべてが表現されているわけでもなかった。
長い取材を振り返ったとき、そのほかにもう一つ、現代を先取りする問題に小倉は向き合っていたことに気づいた。精神の病という問題である。
うつ病が社会問題となって知られるようになったのは、90年代後半から2000年台に入ってのことである。いまではうつ病など気分障害の患者は約百十万人を超え、広く知られるようになっている。また精神科や心療内科の医療機関も格段に増え、精神の病は身近なものとなった。
だが、それ以前、うつや精神疾患はさほど一般的ではなく、周囲に隠すのがつねだった。偏見や誤解も少なからずあったうえ、親族に精神の病をもった者がいた場合、就職や結婚などに影響が及ぶ可能性もあった。そのため、精神の病は秘匿されるものだった。そんな時代に、小倉は妻と娘の病を抱え、対峙していた。明晰な頭をもつ小倉からすれば、娘や妻の異常な振る舞いをただの性格と片付けていたわけではないだろう。真理は中学にして長期の入院をし、長じてはアルコール依存や摂食障害になった。妻の玲子は世間体に対するストレスや娘の対立から、アルコール依存や抑うつ状態になっていた。
たびたび家庭内で繰り返された毒の込められた言葉の応酬。そんな地獄絵図のようななかで、小倉は二人を叱らず、つねに曖昧な態度に終始していた。小倉が声を荒立てなかったのは、彼が「小心者」だったからではないだろう。
その理由を考えると、合理的な答えが自然と浮かぶ。小倉は早い段階で、二人の振る舞いの根源が病から発していると気づいていたのではないか。そう考えると、小倉の対応がいつでも控えめだったことも納得がいく。娘がいかに暴れようとも、妻がいかにアルコールに溺れようとも、そして自分を傷つけようとも、心の病とわかっていたから怒れなかったのである。
もちろん、ただ単に家族に声を荒げたくなかった可能性を否定するわけではない。心根のやさしき小倉であれば、主義としてそうしたくなかったのも理解できるからだ。
それでも、精神疾患や精神障害という病に理解の乏しかった時代に、小倉が娘に心を砕いていたことはうかがえる。思春期の端緒から心に病をもった娘には、本人の希望どおり、宝塚音楽学校に行かせてあげ、ハワイに留学させてあげる。それで娘が前向きになり、精神疾患が安定するのであれば、小倉にとっては何でもないことだっただろう。
同様に、妻の玲子が気持ちがふさぐのであれば、海外の出張にも同行させ、北海道や九州への出張へも同行させた。そして、妻のならっていた俳句も自身でも嗜み、宗派も改宗した。もしかすると改宗という決断も、妻と同じ宗派に合わせるというだけでなく、毎朝歩いて教会に通うという日課が妻の心を安んじさせると思ったのかもしれない。
それでも悲劇が起きた。わずか一夜、自身の下を離れ、妻が葉山に泊まったことで、悲劇を防ぐことができなかった。その後悔がどれほどだったか、想像するにあまりある。
衝動的な出来事で妻を喪った小倉が、精神の病や障害に対して、どのように考えを巡らせたのか。正確なことはわからないが、その二年後に財団をつくったという事実は、なによりも小倉なりの強い結論と考えるのが自然だろう。
後半の人生をかけて、小倉は精神の病に向き合わざるをえなかった。その根っこにあったのは、何万人もの障害者に対してというより、妻と娘に対する一人の父、どこの家族にも共通する父親としての思いだったように映る。
1992年6月、妻を喪って一年ほど、財団を立ち上げる一年ほど前、小倉はヤマト運輸労働組合の研修会に呼ばれて講演を行った。群馬県・水上温泉のホテルのホール。演題は「新時代の転換とヤマト運輸」という味気ないものだったが、副題がついていた。「変わるべきものと変わるべからざるもの」。ビデオに残る当時六十六歳の小倉はまだ動きにも語り口にも若さが残る。「これは私の遺言です」と述べたこの二時間半の講演で社員に訴えていたのは、「サービスが先、収益(利益)は後」というおなじみの哲学や、一部の強者だけが幸せになるような社会への批判、弱者でも充実した人生を送る会社でありたいという希望などだったが、じつはもう一つ密やかな意味が込められていた。
「副題です」と指摘したのは、現在ヤマト労組で書記長を務める片山康夫だった。
「『変わるべきものと変わるべからざるもの』というフレーズは、アメリカの神学者・ラインホルド・ニーバーの、一般に『ニーバーの祈り』と称される有名な言葉でした。その含意に気づいたとき、小倉さんがわれわれに伝えようとしたことは、その意味で、もっと大きな意味で語っていたのかなと思いました」
そのニーバーの祈りは世界的にこう伝えられている。
〈神よ
変えることができるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることができないものについては、それを受け容れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ。〉
この言葉には小倉の洗礼名であるイタリア・アッシジの聖フランチェスコが原典という説も過去にあったが(現在は否定されている)、なにより興味深いのはこの言葉がアメリカ精神医学会の掲げる「十二段階プログラム」という治療プログラムメソッドの言葉として採用されていたことだ。アルコール依存や薬物依存、そして衝動強迫という精神的トラブルの治療プログラムで、このニーバーの祈り(「平穏の祈り」ともいう)は参加者によっていまも唱えられ続けている。
妻と娘の二人の病に悩んだ小倉は、この「ニーバーの祈り」を胸に、自身の祈りを捧げる先を模索していたのではなかったか。そして、その結果として浮かんだのが翌年設立する福祉財団だったとすれば、私財を投じて捧げた思いは、あまねく障害者への思いとともに、安らかならんとする家族の心への祈りではなかっただろうかーー。
私は、かつて「小倉昌男 経営学」を読み、宅急便の成功要因を「『経営者小倉昌男』の秀逸な論理と高邁な矜持」と断じたが、本書を読むに、正しくは「『人間小倉昌男』の秀逸な論理と高邁な矜持」なのだろう。
そして、人間が真に合理的に、誇り高く生きるということは、公私の別なく不断に到来する問題、否、苦難の一つ一つに真摯かつ構造的に向き合い、その原因の根本、又は、一端に必ず自分の非を認め、その贖罪に論理的な最善努力を絶やさないことなのだろう。
やはり、人間が授かる幸福の総量は決まっており、「何かを得れば、何かを失う」のは自然かつ不可避なのだろう。
強欲は、目先の幸福を掴むのは得意でも、生涯の幸福を掴むのは不得意なのだろう。
「人間小倉昌男」の生涯は、正に理不尽な苦難、絶望を、生きるべき糧、希望に絶えず置換した、強欲と無縁のそれだったのだろう。
私は、「人間小倉昌男」に心から敬意を表すると共に、終生少しでも近づきたい。
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