2016年05月24日
【デザイン/マーケティング】「だからデザイナーは炎上する」藤本貴之さん
第二章 インターネットがデザインを変えた
P59
デザインとアートの違いとは
デザインとアートを分かつ最大かつ唯一の条件、それは「客観性の有無」であるといわれている。アートは制作者の主観的な表現のみで作られることが許されたものであり、客観的な説明や合理性を必要としない。
(後略)
「建築」はデザインでなければならない
デザインとアートの関係を考えるうえで、わかりやすい事例として「建築」がある。住居などの建築物はあくまでデザインであってアートではない。言い換えれば、アートとしての住居は理論的には存在できない。
その理由は簡単だ。建築とは「住む」という具体的な目的を果たすために、必要十分な実用性を具備したうえで、立案や設計がなされなければならないからだ。
もし建築物がアートであれば、「2階に行けない2階建て」や「入口がない部屋」、あるいは「途中で切れている階段」などの表現も、アーティストの主観的表現の下に許される。そもそも「住むことができない家」というコンセプトだってありうる。しかしそのような、住居としての具体的な機能や目的を充足していない建築物はデザインではない。建築をモチーフとした「アート作品」だ。
客観性と実用性を具備していない建築、すなわちデザインではない建築は、社会的ニーズがないばかりか、合法的に建設することさえ許されない。もちろん、アート”風”建築は多数存在しているが、それらもアートな”装飾”を表面的に施しているだけに過ぎず、実質的にはアートではないはずだ。
ほかにも企画書の執筆や企画・立案・設計などは、デザインでなければならない事例だろう。合理性がない企画、目的不明のアイデア、根拠なき理論などによって作られた、それこそ「アートな企画書」は、具体的な機能や目的を有さず、何ら役割を果たせないのは明白だ。
それなのに、多くの分野でアートとデザインを混同し、勘違いして使ってしまっている場合に出くわすことは少なくない。しかも消費者はもとより、デザイナー自身も同様に勘違いしている。もちろん、学校などの教育現場でもその傾向は顕著だ。
そうなると現実として、「アートとデザインの勘違い」に気づくチャンスがない。誰からも指摘されることなく、違和感なく消費してもらえるのだから、当然だろう。この帰結として自身がデザイナーであることを、アーティストである、クリエイターであることと勘違いしてしまう。
本来デザイナーとは、目的と機能を果たすための事物を設計する技術者(エンジニア)である。それは必ずしも、アーティストやクリエイターを指すわけではないのだ。
第三章 「パクリ」の呪縛を乗り越える
P121
筆者のケースからパクリを考える
(前略)
125ページに掲載しているピアニスト、竹井詩保子氏によるリサイタルのポスター。このときのクライアントの要望は実にシンプル。それは「『ティファニーで朝食を』(1961年、ブレイク・エドワーズ監督)の映画ポスターでのオードリー・ヘップバーンにしてください」というものだった。
もちろん、映画ポスターから主演のオードリー・ヘップバーンを切り抜き、そこにピアニストの顔写真を埋め込む、といったことを期待しているわけではないし、デザイナーである筆者も、当然そのようなことはしない。
つまり、ここで筆者に期待されているデザインとは、パッと見て『ティファニーで朝食を』のポスターから受けるような印象の残るデザインにしてほしい、ということである。これはさらに言うと「イメージをパクってください」という依頼なのだ。
クライアントはデザインの専門家ではないことが多いため、こういった要望を告げられることは頻繁に発生する。チラシなどのデザインを打ち合わせる会議に「パクってほしいデザインサンプル」を持参するクライアントは、非常に多い。それは、美容院に希望する髪型としてヘアカタログの切り抜きを持っていくイメージと近いかもしれない。
(中略)
デザインでは、街中にあふれるビラやポスター、あるいはコンビニに並んだ雑誌まで、すべてが教科書であり参考素材になる。デザインは生き物であり、現在進行形で変化する。
雑多で膨大な参考素材の中から、目的や機能、あるいは意図や狙いに応じて選んだものをさまざまに組み合わせ、そして「模倣」や「盗用」と思われないよう、自分なりの技術や加工を施し、クライアントからも消費者からも満足されるコンテンツを作る。それが今のデザイナーに求められる現実である。
そういった意味で、「印象のパクリ」は盗作ではない。むしろリスペクトである。
既存のコンテンツを許可なくコピーしたり、そのまま利用したりすることは、もちろん犯罪的行為だ。しかし、ニュアンスや印象を「パクる」ことは、むしろ先行者への畏敬の念を表しており、問題もない。
デザイナーに限らず、作家・作り手なら誰にでも、憧れ、理想とするデザイナーや作家がいるもの。自分が創作を始めるきっかけとなった人やその作品に、作風が煮ることがあるのは当然だろう。先行者への憧れと尊厳は、次の世代の作家を生み、成長するための原動力にすらなる。それはいわば当然の類似だ。
しかし今回の騒動によって、当然の類似さえも否定的にとらえられるようになった危険性は少なくない。筆者としては、その点に大きな危惧を抱いているのも事実である。
繰り返しとなるが、トレースや模倣は技法であり、表現であり、そして模倣は尊敬を表すものでもある。手続き的な過失のあった場合や倫理的・道義的な逸脱をした場合に問題が起こるのであり、正しい手法、常識的な方法としてそれらを用いるのであれば、何ら問題はない。
(後略)
デザイナーへの「期待」
先の騒動では「パクリではない」と主張すればするほど相反して、炎上と粗探しが加速していったように見えた。
「第三者のものと思われるデザインをトレースし、そのまま使用するということ自体が、デザイナーとして決してあってはならない」「許諾の得られた第三者のデザインであったとしても、トレースして使用するということは、私のデザイナーとしてのポリシーに反する」といった、ごく当然にも感じるクリエイターとしての釈明。「たとえ合法でもパクリはしない」という自身のポリシーを表明することで、佐野(研二郎)氏は身の潔白を主張したのである。しかしこれこそが、結果として、自らをさらに追い詰めたことは先にも述べた。
デザインはアートではない。だから、完全なるオリジナリティを求められるようなことはまずない。
デザインにおけるクライアントの多くは、美術評論家でもなければ芸術学者でもない。担当者もほとんどが、企業の広報課などに勤務する一般のサラリーマンだ。そもそもはデザインや広告などは無縁、無関心であり、たまたま広告やデザイン物の進行管理を担当している人も少なくないだろう。
だからこそ彼らが求めるのは、「どこかで見たことがあるアレ」である。「これまでにまったく存在しない、オリジナルでクリエイティブなデザインをしてください」と言われることは多くない。というのも、そのようなオリジナリティや作家性が求められるのはあくまでもアートであって、その場合、依頼すべき相手は芸術家(アーティスト)になるからだ。
よって「どこかで見たことがあるアレ」のようなものを優れた技術で制作することが、デザイナーに求められる能力でもある。クライアントに喜ばれつつ、しかも、公表してもトラブルにはならないように作る技術が一定の評価を受けるのは事実である。結果としてそれが消費者に広く受け入れられれば、それは「良いデザイン」だ。
また言いかえれば、クライアントの要望をいかに受け入れ、取り入れるか、という柔軟性がこれからのデザイナーには要求される。デザイナーである以上、自分が「青」だと思っていても、クライアントに「赤」といわれれば、素直に「赤」にできる柔軟性だ。
もしそれがデザイン的な完成度を下げてしまう要望であれば、クライアントの要望をくじかない絶妙なさじ加減で、コミュニケーションを重ねて、限りなく「青っぽい赤」にじわじわ寄せていく。それをうまくこなすことこそ、デザイナー、その技術の真髄である。
自分のセンスに基いて、「この作品は『赤』ではなく『青」と譲らない人がいるならば、彼らはデザイナーではなく、やはり芸術家なのである。
「アーティスト(芸術家)と異なり、デザイナーは客観性(⇔主観性)を担保し、社会の、即ち、他者のニーズに合理的に応えるエンジニア(技術者)兼ソリューションプロバイダーであって然るべきであり、具体的には、彼らの依頼である『どこかで見たことがあるアレ』を、彼らの喜ぶカタチに制作、成果物化する必要がある」。
著者の藤本貴之さんの主張は尤もだが、これは、デザイナーに限らず、社会の構成員で、「どこかで見たことがあるアレ」としか言葉にできない非専門家かつ善意の第三者と協働、共生する我々全員に通じるだろう。
アカウンタビリティの担保は、他者の理解と支持を取り付ける有効な試みだが、結局、客観的な営為の本質は、自分の居場所を社会的に担保する試みなのだろう。
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