【洋画】「スティーブ・ジョブズ/Jobs」(2013)【第65期王将戦/第一局】郷田王将、禁じ手の新構想で羽生挑戦者に先ず一勝

2016年01月07日

【将棋/人生】「長考力」佐藤康光さん(将棋棋士九段)

P28
「正しく迷える」ことがバロメーター

(前略)

たいていの子どもはものすごく早指しだ。とくに強い子ほど大人よりも迷いがなく決断がいい。アマチュアの子どもと大人の対局では、子どもの早指しに挑発されてペースを乱した大人がとんでもない「ポカ」をする場面もしばしば見かける。

私も奨励会時代は持ち時間が一手10秒の「10秒将棋」、あるいは持ち時間10分が切れると即負けになる「10分切れ負け将棋」もよく指した。

とにかく多くの経験を積むために、少しでも番数を稼ぎたいという気持ちが強かったのだ。また、公式戦で秒読みになったときのためのトレーニングにもなっていたし、直感力を磨く効果もあったと思う。

だが10秒将棋で経験を多く積むことのデメリットもある。当然のことだが深い読みはできないので、直感だけで指してしまいがちになるのだ。しっかりと読みを入れる将棋を指さないと、いつの間にか悪いクセがついてしまって修正が難しくなる。

私はどちらかというと、子どもの頃から切り捨てるべき枝も深入りして読んで長考してしまうタイプだった。そしてプロになってからもやはり目の前の勝負の本筋から離れた枝についても、つい考えてしまっていたような気がする。

だがそれが無駄だったとはまったく思っていない。本筋以外を切り落としてばかりいれば、実戦の場で緊張感をもって読んだ経験がどんどん少なくなってくる。そうすれば、指さない戦型や選ばない変化ばかりが増えて、自分の将棋はマンネリ化するだろう。

子どもが早指しなのは、まだ「考える材料」が少ないせいだともいえる。だが、将棋は強くなればなるほど選択肢が増える。だからプロになる頃には多くの棋士はどちらかといえば長考派になっていくし、序盤から長考するタイプの棋士でも、終盤で持ち時間がなくなってからも正確に早指しで指すことができたりもする。

長考することつまり「正しく迷える」ことは、強さのバロメーターでもあるのだ。

成る程、「長考」とは「正しく迷える」こと
「下手の考え休むに似たり」という言葉はあるが、上手の中の上手、かつ、強者の中の強者である佐藤康光九段が長考を厭わないどころか励行している以上、私たち下手クソ(笑)かつ弱者こそ、たとえ他者から「休み」と中傷されようと、「考え」を決して止めずに「正しく迷う」、つまり、敢えて「決断を悪くし(=ギリギリまで先延ばしにし)」、目先の勝負、結果と無関係であれ、「気になる」枝、選択肢の解明を不断かつ極力試みる、必要がある。
大事なのは、単に「長く考える」、「迷う」のではなく、かくして「正しく長考する」、「正しく迷う」ことなのだ。
「正しく迷う」努めとその経験値が、独自のアイデアと太くて柔軟な思考筋を、即ち、強さを育み、中長期で勝利をもたらすのだ。



P32
なんだこの手は」と思ったときほど危ない

中盤以降のねじり合いのなかでは、まったく自分が読んでいない手を相手に指されることもしばしばだ。

そんなとき、こちらの第一感はおおまかに言えば「なるほど。こういう手もあるのか」と「なんだこれは。ひどい手じゃないか」に分かれる。

「なるほど」のときは当然慎重に対応するので、その「読んでいない手」が悪手だった場合には大きなチャンスになる。

反対に「なんだこの手は」と思ったときが、かえって難しい。

いわば直感的に相手を見下してしまっているわけで、読みが雑になりがちだからだ。とくに持ち時間が切迫している状況では落ち着いて考える余裕はないので、どうしてもミスを誘発されやすくなる。だから、「なんだこの手は」と思ってしまったときほど、なるべく自らの油断を戒めなければならない。

指されて直感的に悪手だと思ってしまう手は、相手が「形勢が悪い」と思っていそうなときに出てくる場合が多い。自らにアドバンテージがすでにある状況であれば、素直に正しいと思える手を指していけば、リードを保ったまま勝てるはずだからだ。

逆に不利な側は、素直に指しただけでは逆転できない。だから、驚くような手を出した側は、実は形勢を少し悲観していることが多い。

こういう認識を実戦のなかでも保っていられれば、トリッキーな手に惑わされることはなくなる。ただ、ある程度勝負に「熱く」なっていなければ、直感が働かないので、熱さと冷静さの兼ね合いが難しい。

熱くなっても冷静な状態を保てるようにするためには、普段から頭と身体の体力を維持する努力を続けるしかない。直感的に相手の手を否定してかかるときは、こちらもどこか無理して突っ張っているわけで、気づかないうちに心身のバランスを失っているのだ

良いときは自然に、悪いときは複雑に、勝負の線が曲線的になるように指してチャンスを窺う。この基本を見失っていないかどうか、目の前の勝負に熱くなりつつ、時々クールダウンして検証する必要がある。

佐藤さんが本書で強調なさっていることの一つは「勝負におけるバランスの重要性」だが、本稿はその最たるだろう。
成る程、勝負は冷静で、相手のリカバリーショットにも落ち着いて応手できなければダメだが、余りに冷静だと今度は直感が鈍り、踏み込みや斬り合いのチャンスを逃し易く、冷静さと熱さのバランスをマネージすることは棋士の、更には、あらゆるプレイヤー、ビジネスマンの最大重要事だ。
また、成る程、それを実行する上で、戦時中の無意識の心身状態を、「なんだこの手は?」と、相手を直感的に見下す脳内台詞から読解、意識化することも、棋士だけでなく、あらゆるプレイヤー、ビジネスマンに通じる有効事だ。
「何事も程々が大切」というのは余りにも言い古された、当たり前過ぎる言葉だが、強者ほど当然事に従順なのだ。

ともあれ、相手を見下す直感から自分の心身バランスの乱れを読み解くとは、トップ棋士の読みの深さには改めて脱帽するばかりだ。



P176
全ては疑いうる

(前略)

室岡(克彦)先生は、「全ては疑いうる」という言葉をよく使われていた。

これは室岡先生が若かりし頃に読んだ『世界名言集』にあった、カール・マルクスの名言で、娘のジェニーに「好きな言葉は?」と聞かれたマルクスが、こう答えたそうだ。この発想に共感した室岡先生は、以降、この言葉を将棋を研究するときのモットーとされている。

ブリュッセルでの観戦以降も、何度か室岡先生とヨーロッパでのチェス大会を観戦したが、序盤から緊張感が最大限になるトッププレイヤーの対局は「すべてを疑う」姿勢が横溢していた。研究会での室岡先生もまた、全てを疑って曖昧さを残さない研究者の顔をされていた。

常識は歴史の蓄積で培われた大事な財産でもあるが、現代に生きる私たちを先入観に縛りつける鎖でもある。「全ては疑いうる」とはそのような教えだと解釈している。

「常識とは、先人の財産であり、また、先人来の先入観に我ら現代人を縛りつける鎖、でもある」、とは成る程だ。
財産に限らないが、やはり、他者から無条件に施しを得るのは、凡そ短期的には楽かつ得だが、中長期的には大変かつ高くつくのだ。
私たちは、無条件の当然視と誘惑に絶えず注意する必要がある。



P187
コンピュータは研究パートナーになるか

(前略)

「人とコンピュータはどちらが強いのか」という世間の関心は、そのうちに賞味期限切れになってしまうかもしれない。それでも、人間にしか指せない将棋でファンを惹きつけることはできるはずだし、我々はより努力しなければならない。

人間にしかできない将棋とは何か。その答えは持ち合わせていないが、深い読みに支えられた「読みだけではない驚き」を与えることにあるのではないだろうか。

試行錯誤や挫折を経て私が得た、自分にしか指せない将棋を指したいという強い願いは、コンピュータが進化する時代の棋士が進むべき未来と、それほど遠いものではなかったのかもしれない。

後出しジャンケンに思われるかもしれないが、私は、数年来のプロ棋士のコンピュータとの対戦に懐疑的だった。
なぜか。
一番の理由は、将棋連盟が所謂「出口戦略」の「出口」を明確にしないまま、世間の関心を引くことにばかり躍起になっているよう見えたからだ。

たしかに、彼らが数多在るエンタメコンテンツの一つとして将棋と現況を悲観し、マーケットの拡大を志すのは正しい。
また、そのために、こうしたキワモノ企画、端的に言えば「余興」を催し、将棋の「敷居の高さ」を低めるのも正しい。
しかし、彼らは次の二つのことで誤った。
一つは、プロ棋士を余りに買いかぶり、コンピュータを余りに見くびったこと。
そして、もう一つは、拡大を志したマーケット、即ち「将棋童貞&処女」のプロ棋士と将棋に対する先入観を余りに軽視したこと。
つまり、彼らは、「プロ棋士は正に『選ばれし者』であり、いかに性能向上が不断とはいえ、コンピュータ、機械に負けるはずがない」と、また、「『プロ棋士も将棋も勝ってナンボで、勝たねば意味ナシ』とまでは、素人も思ってはいないし、これからも思わないだろう」と、無根拠かつ好都合に楽観してしまった。

結果はどうだ。
佐藤さんの仰るよう、「人とコンピュータはどちらが強いのか」という世間の関心は賞味期限が切れ、「選ばれし者」であるはずのプロ棋士の立場と存在意義、及び、将棋を指すことと観ることの意義は対象マーケットのみならず、社会全体的に減退した。
当たり前だ。
社会一般の人から見れば、将棋の見所、妙味は勝つか負けるかだけで、勝てないプロ棋士は、また、プロ棋士でさえ勝てない将棋は、関心の対象になど成り得ない。

繰り返すが、将棋連盟は、コンピュータとの対戦を始める前に、佐藤さんがここで主張なさっている「人間にしか指せない将棋」の定義、提唱を盛り込んだ「出口」を設けておくべきだった。
もはやそれは後の祭りだが、まだ決して遅くはない。
佐藤さんの本主張は将棋ファンの私には希望であり、また、本件は不断に成長するコンピュータ、機械との共存が不可避の私たちには生き残りのヒントだろう。
たしかに、深く正しい「読み」、即ち「営み」だけでは、人間はコンピュータ、機械に未来永劫勝てず、逆に、営みが深く正しい余り欠損する「驚き」、それも「『人間が好ましく感じる』、『人間が積極的に肯定できる』驚き」を定義、創造、付加することが、人間がコンピュータ、機械と共存共栄する唯一の道に違いない。

余談だが、かつて立川談志さんは「落語は『業の肯定』」と、また、どなたかは「小説は『人間の肯定』」と、仰った。
それらと同様、将棋も「人間の肯定」であり、また、将棋も落語やゴルフと同様、その妙味の最たるは「業の肯定」ではないだろうか。







kimio_memo at 09:06│Comments(0) 書籍 

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