【第63期王座戦第三局】佐藤挑戦者、羽生王座に作戦勝ちし、一足先に王座に王手【邦画】「細雪」(1983)

2015年09月29日

【医療】「緩和ケアという物語 正しい説明という暴力」岸本寛史さん

P211
おわりに

(前略)

『緩和のこころ』は緩和ケア病棟での臨床経験を元に書いたものだが、当時がん患者に「適応障害」という「病名」が用いられていることを知り、憤りを感じたことが執筆の大きな動機となった。精神医学の立場からはDSMの診断基準を用いて正しい診断を行うことは当然のことかもしれないが、がん患者の多くは、病気を患うまではふつうに社会生活を行っていたことを考えるなら、安易に精神疾患の診断基準を適用するのではなく、「異常な状況における正常反応」と捉えて接するのがよいのではないか、と論じた。



(中略)

(筆者が)京大病院で緩和ケアチームを立ち上げるにあたり心がけたのは、依頼を受けたらなるべき早期に顔を合わせて主治医と直接話をして、求められていることを把握した上で可能な限りそれに応えるような動きをすることであった。

(中略)

依頼件数が増えてくると、チームの中からこんな意見が聞かれるようになった。依頼が多ければよいというものではない。依頼の質を高めるために、オピオイドの導入のような初歩的な依頼を減らし、もっと高度なケースの依頼の割合が高くなるように働きかけるべきではないかと。筆者は反対であった。依頼主を評価するという居丈高な姿勢に反発を覚えたことも理由の一つではあるが、それよりも、依頼に「初歩的な依頼」も「質の高い依頼」もない、と思ったことが大きい。

オピオイドの導入という、一見「初歩的」にみえる依頼であっても、オピオイドを導入すれば事足りるとは限らない。第4章で示したように、治療の流れの中で様々なことが次々と展開していく。そういう時にこそ、チームの真価が発揮されるのである。症状にスポットライトを当ててそこだけ見るのではなく、治療の流れの全体を見ようとするなら、「初歩的な依頼」と「質の高い依頼」を区別することなど不可能に思えてくる。また、「初歩的な依頼」と評価する姿勢の背後には、「こんな簡単な依頼は出さないでほしい」というニュアンスを言外に含むことになりやすいが、そのような姿勢では主治医と良好な関係は築けない。主治医は一緒に診てほしいと考えて依頼を出しているのであって、依頼の質を評価してほしいなどとは思っていないだろう。依頼に応えようとするところにコンサルテーション・チームの意義があるのではないか。

結局のところ、筆者が大切にしたいと思うのは、患者に対してであれ、(緩和チームへの依頼主である)主治医に対してであれ、「緩和医療とはかくかくしかじか」という「正しい緩和医療」を基準に考えるのではなく「まず聞いてから考える」というスタンスを可能な限り持ち続けようとすることに尽きる。ところが、現在の学会の基本的なスタンスも、緩和医療の教育や研修も、前者に力を注いでいるように見える。そしてそういう教育を受けた緩和チームのスタッフが、主治医や患者に対して「緩和のことを全然わかっていない」と不満を抱いたりするのを、直接・間接に耳にするにつけ、「緩和医療の正しい理解」の弊害を思ってしまうその極端な形が「正しい説明という暴力」なのだと思う。

(中略)

最近、がん拠点病院の要件として苦痛のスクリーニングが義務づけられることになった。スコアの高い患者は緩和チームに自動的に紹介されるシステムを作るなどして、緩和チームへの依頼を増やそうとの意図が見え隠れするが、臨床現場の個々の文脈を無視して、そんな強引なやり方をしてもうまくいくとは思えない。ここにも「正しい説明という暴力」が影を落としていると思う。

「病状を正しく説明すること」も「痛みを正しく評価すること」も、それ自体、間違ったことを言っているわけではない。しかしそれぞれの医療の文脈を無視して押しつけられるなら、深い傷を残す暴力になることもあるのだ。そのことを、身を以て体験したことが本書を出版したいと考えた大きな動機となっている。

私は「寄り添う」という言葉が嫌いだ。
以前は特にそういうこともなかったが、今では見聞きしただけでうんざりする。
なぜか。
今の使われようの殆どが、文脈的に筋違いかつ阿漕だからだ。

本来「寄り添う」と言えば、その対象、及び、目線の先(見るべき所)は[相手/他者(の心情)]だろう。
しかし、「目は心の鏡」だが、言葉も心の鏡であるもので、311が起き、「絆」や「不謹慎」といった感情系意味不明言語、ないし、「同調(似非一体感)」&「空気読めよ」」圧力が大流行してからというもの、私は、それが[自分(の欲求)]にすり替わってしまったように感じる。
もっと言えば、311以降、「寄り添う」という言葉を愛用している人が本当に寄り添っているのは、「オレ、良いこと言ってるなあ!」とか、「オレ、ひと先ず空気を逆撫でしないよう言ったよね!」と、偽善的かつ戦略的に希望を演出し、かつ、矜持と自分の身の安全を担保している[自分]であるとしか感じられない。
本来の、「自分はもうダメかも・・・」と、希望や自己を失いかけている[相手/他者]とは到底感じられない。

ただ、こうして本来の文脈が確信犯的に無視され、[相手/他者]であるはずの対象が[自分]にすり替わっている言葉、並びに、行為は、「寄り添う」に限らない。
両親を早く亡くし、年齢の割に医療に多く触れてきた私は、医療もその一つだと思ってきたが、本書を読み、確信した。

医療こそ、正に[相手/他者]に「寄り添う」行為であり、その対象、及び、目線の先は[患者のニーズ]、即ち、[「病苦から心身共々解放されたい」という患者の切望]であるべきだろう。
そしてそれに最適なソリューションを「まず本人の声を聞いてから考え」、提供することこそ、医療の具体であり、また、本来の文脈であるべきだろう。

然るに、著者の岸本寛史医師の指摘は尤もで、医師が、肉体疾患のがん患者に「適応障害」と精神疾患の診断基準を適用するのは、疾患という問題を表層的かつ非構造的にしか見ていない、対象、目線の先を[患者]ではなく[自分]にすり替えた、底の浅い自己中心的かつ利己的な行為だろう。
そして、その、患者の声と遊離した行為は、患者のニーズに最適でないどころか全く応えていない、筋違いのソリューションの一方的な提供であり、患者にとっては暴力に等しいだろう。

母は乳がんを二度患い、女性の象徴とも言うべき乳房を左右全摘出したが、当時、生じていたに違いない心理的動揺を主治医に「適応障害」と診断されていたら、憤りや無念を通り越して、肉体の前に精神が崩壊し、もっと早く逝っていただろう。
「ソリューションありき」、「自分目線ありき」、「自分(の身の)可愛さありき」で行うには、医療は余りにも筋違いであり、かつ、相手に期待を持たせる分阿漕過ぎる。







kimio_memo at 07:25│Comments(0) 書籍 

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