2015年06月18日
【人生】「思考力の方法 ―『聴く力』篇」外山滋比古さん
P125
書かれたものにはウソがある
本を多く読んでいると、文章が本当のことを正しく表現しているような錯覚をもつようになるらしい。
文章を信用する。反面、そのもとになっていることば、気持ちなどは、文章より低いもののように感じられる。
つまり、文章を過信と思わず信用する。
これは、文章がある種の加工であることを無視することで、現実的でない。
(中略)
文章は、話すことばの要約、圧縮である。
かなり自由な翻訳であることを、われわれは教えられることもなく、活字、文章を信用している。文章から元のことがらへ到達できるようにも思い込んでいる。
いかに忠実でも、翻訳は翻訳である。完全な翻訳というものが考えられても、実際には存在しなように、対象を過不足なく忠実に表現している文章は存在し得ない。
日記は、人に見せるものではない。文章を飾ったりする必要もないから、あったことをありのままに書き記すことができるはずである。
ところが、日記をつけていると、文章の勢いにつられて、より大きく、より劇的に、事実と異なることを書いてしまうことがないとはいえない。
文章は話しことばよりずっときびしい制約をもっているから、実際をあるがままに伝えることは、話しことば以上に大きな異物が介入するおそれがある。
つまり、文飾が入って、本体を歪めるともなく歪めるのである。
人間は、決して、ものごとをあるがままに表現することはできない。思ったことをそのまま表現することもできない。
はじめに、話すことばに”翻訳”して、話にする。その話に、さらに、文章化の翻訳を加えて、文章が生まれる。
文章は元の思い、考え、ことがらに二重の翻訳を加えたものであることになる。
文章第一主義によれば、元のことから話されることばを止揚して、文章を借用することになるが、そこに含まれる一種のウソに目をつむるのは問題である。
(中略)
文章のかかえる必然的な虚偽、ウソを認めると、われわれは広い意味でのフィクションにつつまれていることを認めなくてはならなくなる。
文章を書くのがむずかしいのは、その問題を自分なりに乗りこえなくてはならないからである。
文章を書くというのは、そういう意味でもっとも個性的な活動であるということになるが、それだからといって、話すことより高い価値があるかどうか、じっくり考えてみなくてはならない。
録音、映像などの再生技術が発達した現代において、こういう認識上の”翻訳”が新しい角度から見直されてよいように思われる。
文章を書くのがむずかしいのは充分に知られているように思われるが、このなかにある”創造”的側面は、これからの考究にまつところが大きい。
「思ったことを思ったように書く」は、決して古くならない命題である。
「文章を書くのが難しい一番の理由は、真実や本意にウソをつく必然に、方法(技術)と精神の双方で打ち克つ必要があるからだ」。
思考の達人の外山滋比古さんの思考は、相変わらず(笑)成る程だ。
たしかに、日記に限らず、こうしてブログなり(笑)何なり文章を書くと、いかに事実や本意だけを記そうと試みても、仰せの通り、つい文飾を加えてしまい、それらをより大きく、より劇的なものにしてしまう。
これまで私は、文章を書くのが難しい元凶を「客体化(=主観を客観化すること)の難しさ」に見出してきたが、外山さんのこの思考の方がより本質的かつ妥当に思う。
では、そもそもなぜ私たちは、文章を書くとつい、事実や本意をより大きく、より劇的なものにしてしまうのか。
日記のような「人に見せない」それにもしてしまう事実から窺えるのは、「書き記した文章、及び、書き記したプロセスに対する、他者ではなく自己の評価、満足を可能な限り高めたいから、極論すれば、自己肯定を最大化したいから」、だ。
女性が異性の男性より、同性の女性に「厳しい」のは周知だが(笑)、聞くところによると、女性が化粧をする一番の理由は「同性の女性に勝ちたいから」だという。
男性は社長や総理大臣に成りたがるが、女性は女王様に成りたがる生き物なのかもしれない。(笑)
ともあれ、文章をより大きく、劇的に書いてしまうことと、とりわけ女性のブログの本文と自撮り画像が共に大きく、劇的な傾向にあるのは、自己肯定最大化の潜在的欲求の現れとして通底しているのではないか。(笑)
kimio_memo at 06:54│Comments(0)│
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