【経営/人生訓】「成功体験はいらない」辻野晃一郎さん【洋画】「メリンダとメリンダ/Melinda and Melinda」(2004)

2014年08月12日

【心理学】「記憶力の正体:人はなぜ忘れるのか?」高橋雅延さん

P254
さまざまな語り口から見える記憶

それでは自分一人で記憶を書き換えることは不可能なのでしょうか。そんなことはありません。なぜなら、記憶を想起する(語る)のは私たち自身だからです、私たちの立ち位置(語り口)を変えれば、龍安寺の石庭の見え方が変わるように、その記憶の内容や感情も変わっていきます

ただ、実際には私たちの多くは、自分の過去を想起する際に、どうしても自分の慣れ親しんだ(いわば、クセになっている)立ち位置から過去を振り返りがちです。そのため、別の立ち位置から見えれば、異なる物語ができあがることに、なかなか思い至らないものなのです。このような自分特有の語り口をもつことは、いわば個性と呼べるものであって、それ自体は、けっして悪いことではありません。しかし、時として、自分の語り口のクセのために、必要以上に自分の記憶の物語(ストーリー)に悩まされることが起こります。

そうならないため、(嫌な記憶を中和化するため)に必要なことは、突き詰めれば語り口のレパートリーを多くもつことではないでしょうか。そもそもレパートリーが少なければ、自分の語り口のクセに気づくことすらないでしょう。先のナラディヴ・セラピーでは専門家である他者が自分の語り口のクセに気づかせてくれ、同時に、語り口のレパートリーを広げてくれました。

では、自分一人で語り口のレパートリーを増やすためには、いったいどうすればよいのでしょうか。おそらくもっとも有効なのは、他人の生き方、考え方について広く知ることだと思います。もちろん、生身の人間と濃密に接すること(熱愛や私淑など)がベストなのでしょうが、それ以外にも読書であれ、ネットであれ、映画であれ、演劇であれ、古今東西の人びとのさまざまな生き方、考え方を知ることができます。

こうして、たくさんの語り口のレパートリーを知った上で、さまざまな語り口で記憶をながめてみれば、必ず記憶は変わっていきます。

哲学者でありフランス文学者でもあり、パリに居を定め自我のあり方に葛藤し続けた森有正は、記憶について、きわめてユニークな主張をしています。まず、森は「体験」と「経験」ということばを区別します。たとえば、戦争に行った出来事を何度も何度もそのままの形で繰り返すのは、戦争経験ではなく、戦争体験だというのです。その人の経験全体が過去化してしまって、体験になっているというのです。つまり、森にとって、体験とは、いわば固定化してしまって、閉ざされた記憶ということになります。

一方、経験とは常に変容する可能性をそなえた、開かれた記憶といった意味合いをもつものです。つまり、「絶えず、そこに新しい出来事が起こり、それを絶えず虚心坦懐に認めて、自分の中にその成果が蓄積されていく。そこに『経験』というものがあるので、経験というのは、あくまでも未来へ向かって開かれる。すべてが未来、あるいは将来へ向かって開かれていく」というのです。



このように過去に閉ざされた記憶(体験)と、未来に開かれた記憶(経験)を区別した上で、体験を経験に変えていく努力の必要性を森は強く主張しています。さまざまな語り口で記憶をとらえるという作業は、体験を経験に買えることだと私は思います。これこそが私が第一章で強調した忘却力の本質です。その意味で、忘却とは「無にする」ことではなく「変化させる」ことであり、そこには常に私たちの積極的な関与が要求されるものなのです。

年齢と知識は凡そ比例関係にあるが、年齢と知恵は必ずしもそうではない。
なぜか。
私は専ら、「知識を知恵化する」習性と能力、即ち、「インプット(経験)を総括の上、抽象化、普遍化する」習性と能力の問題と考えてきたが、高橋雅延さんのお考えを伺い、「インプットを紐解く」語り口のレパートリーの問題も考えて然るべきだと感じた。
たしかに、現場で同様に働いても、現場一筋の人と、本社の「オカミ業務」(笑)など現場以外の仕事も経験している人とでは、問題の発見とその対処が大いに異なる。

知恵と比例関係にあるのは「出会い」、即ち、「異なる思考と価値観の理解経験」なのだろう。
私は、そのコストパフォーマンスの最たる読書に一層励みたい。







kimio_memo at 07:10│Comments(0) 書籍 

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