【邦画】「男はつらいよ 第33作 夜霧にむせぶ寅次郎」(1984)【邦画】「男はつらいよ 第34作 寅次郎真実一路」(1984)

2014年08月20日

【野球】「プロ野球VSメジャーリーグ 戦いの作法」吉井理人さん

P104
犠牲的精神の考え方

無死二塁。

メジャーでも進塁打という精神はある。

さすがに三、四番打者にはないが、他の打者は早いカウントでは来た珠を思い切りスイングしてくるが、追い込まれると、逆方向に狙いを変えてくる。それでセカンドゴロを打って奏者を三塁に進めれば、ベンチでは「よくやった」と本塁打を打った時と変わらず、皆から称えられる。

このあたりの自己犠牲は日本と同じだ。

だが実際にメジャーでプレーしてみると、日本と違いを感じる。

日本の場合、最初に自己犠牲の精神があって、その考えの下でチームが一つになって野球をやっている。

だがアメリカは違う。

たまたまそういう場面に遭遇しカウントも追い込まれて、いわば仕方なしに自己犠牲になった時にみんなから誉められるのである。


その打者にしても、なにもセカンドゴロで打率を下げたいとは思っていない。本当はホームランを打って、自分が一番目立ちたいと思っている。だから最初から自己犠牲が求められる送りバントというのは選手もやりたがらないし監督も早いイニングからはサインを出さない。

そもそもメジャーリーグがバントをしないのはもともとビッグイニングを狙うためのラインナップになっているということもある。

日本の場合は一点ずつ取ろうと、二番にバントが巧い打者、つまり自己犠牲ができる選手を入れる。

メジャーの二番はチャンスメーカー。無死一、三塁の場面を作れる打者(あるいはデレク・ジーターやヤンキース時代のボビー・アブレイユ)のようにそこで点が取れてしまうような打者を二番に入れる。2013年でいうならマイク・プイグがそうだ。延長戦がエンドレスということも関係あるだろう。早いイニングに勝負を決め、後半戦に勝負を引きずりたくないと考える。


P208
アメリカを知るための野球映画

(前略)

アメリカにいると不思議なのだが、時として人種を揶揄するジョークが飛び交ったり、日本では眉をひそめる酷い言葉をロッカールームで平気で言ったりして、それが笑いの渦となる。

白人選手にもイタリア系、ユダヤ系、アイルランド系がいて、それぞれ差別的な呼び方をすることもある。黒人やラテン系選手にはもっと酷い。映画『42』でフィラデルフィアの監督が「ニガニガニガニガ・・・」と小学生のようにしつこいくらいジャッキー・ロビンソンを罵倒したシーンがあったが、さすがにあそこまで酷いのは僕は聞いたことはないが、それでもそう呼ぶ選手はいたし、黒人選手自身が「俺ら・・・は」と自分から呼ぶこともあった。自虐ではなく、あくまで普通の会話でのことである。

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監督:ブライアン・ヘルゲランド 
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世界中に差別を受けている人がいて、その撲滅のために一生懸命活動している人もいるので軽はずみなことは言ってはいけないし、あくまで言われた相手のことを考えなくてはいけない。それは僕も東洋人としてアメリカで生活し、嫌な思いをしたことがあるのでよく分かっている。

だけれどもこうも思うのである。

人種に違いがあるのはアメリカでは誰もが分かっている。

メジャーリーグでもそうだ。

その感覚には個人差があり、最初から受け入れられる選手とそうでない選手がいるのだが、それでも長いシーズンを一緒に生活し戦っていくうちに、自然と仲間意識が芽生えてきて、最後は同じ目的のために気持ちを一つにできる。

だからこそ優勝した時はみんなで抱き合って喜び、そしてシーズンを終えた後は別れを惜しむのだ。

最初から一つになれれば、それが一番いいのかもしれないが、実際問題として難しいし、上から押しつけられると選手は反発してしまう。

だから僕はチームワークというのは最初から主張すべきではないと思っている。

「和」が大事なのはスポーツをやっている者なら誰でも分かっている。

しかし団体スポーツであっても、プロフェッショナルは「個」で勝負している。優勝しても活躍できなければ給料は下がるし、クビになる。組織のためより、個人のためにプレーしないことには、生き残っていけない。

その強い自我が、いつしか、フォア・ザ・チーム、そして自己犠牲の精神へと変わる瞬間がある。

それをやり遂げたチームがシーズン最後にパワーを発揮して、ポストシーズンまで勝ち残り、世界一に向かって勝ち進むことができるのだーー。

僕はそれこそが野球という年間162試合(日本は144試合)にも及ぶ長丁場の戦いを強いられる競技には不可欠だと思っている。

最初からチームであることを強調するのが日本の組織論であるが、メジャーでは個人の上にチームがあるというのが基本的な考え方であり自然発生的に生じるチームの和を重視する。


僕はそのことをメジャーに行って学び、体験した。一度だけとはいえ、リーグ優勝決定戦まで進み、仲間たちと気持ちを一つにできた。

それは僕にとってかけがえのない経験である。

吉井理人さんのお話から、とりわけ以下(改めて)気づかされた。

[1]野球の「送りバント」の様な、団体戦における自己犠牲は本来、「所属チームの勝利/成功」を目的とするプロセス、及び、手段である。

[2]チームメンバー(個人)が優先すべきは、自己犠牲ではなく先ず本分である。打者は先ずヒットやホームランを狙い、積極的に出塁or一点でも多く得点する(→ビッグイニングに貢献し、観客を最大限喜ばせる)こと、そして、自分の打率と打点をあげること、に専心すべきである。だから、メジャーリーグの打者は、カウントで追い込まれて初めて送りバントを試みるし、監督も、早いイニングでは打者に送りバントを命じない

[3]自己犠牲は、本分を全うするのが困難、かつ、他に有効な手段が無いと自他共に合理的に判断できる場合にのみあり得る、最終手段である。だから、多様性と個人主義を基盤とするメジャーリーグでは、打者がカウントで追い込まれて送りバントを敢行すると、チームメンバーから称賛され、結果的にチームワークの構築、強化に貢献する。

[4]個人は人種が同じでも、主義主張や価値観は大なり小なり違う。所詮、チームは個人の集合体であり、同質性は限られる。チームワークと「和」は「先ずありき」ではない。自己犠牲はチームワークと「和」の前提ではない。自己犠牲の結果、或いは、積み重ねがチームワークと「和」である。

[5]最終手段でない自己犠牲は、本来の自己犠牲ではない。自ら行う場合は、自虐に見せかけたチームへの忠誠心のアピールであると共に、責任の放棄である。チームリーダーが求める場合は、チームプレイに見せかけた滅私奉公の強要であると共に、同質性と規律の維持であるこれらは日本ではよく散見され、「踏み絵」や「罰ゲーム」と見間違うほどである。

[6]同質性に依存し全体主義を所与の条件とする、「先ずありき」のチームワークと「和」は、非現実的かつ底が浅い。メンバーの納得性と主体性を引き出すのが困難で、成果も知れている。だから、同質性と全体主義を是とし、やたら送りバントをする日本の野球は、観客(エンタメ)満足度が低い。


なぜ、日本では野球に限らず、最終手段でない自己犠牲がよく散見され、チームワークと「和」が「先ずありき」なのか。
詰まる所、私たち日本人が最も馴染み、また、愛好するのは、目的達成の美酒より、そのあるべき思考態度である「道」の方だからではないか。
たとえば、私自身、「和をもって尊しとなす」との言葉は幼い時分に教わったが、その言葉の根拠、或いは、本意である「なぜ『和』を達成すると尊いのか?」は教わった覚えがない。
かつて日本の海軍が「神風特攻隊」を敢行したのも、また、今日本の企業の多くが死に体の既存事業に依然固執しているのも、「いかなる時でも自己犠牲を厭わず、ただ愚直に生きること」を人生道と心得、盲従する私たちには、自然なことなのかもしれない。







kimio_memo at 07:05│Comments(0) 書籍 

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