【洋画】「ミクロの決死圏/Fantastic Voyage」(1966)【邦画】「春との旅」(2010)

2014年07月01日

【将棋】「ルポ 電王戦―人間 vs. コンピュータの真実」佐藤康光さん、松本博文さん

P221
(第三回電王戦)第五局、屋敷伸之ーponanza
「得体の知れない強さ」


従来の定跡をはずされた進行に、対局者だけではなく、観戦者の側も息を抜けない展開となった。飛車が交換されて局面が大きく動き、屋敷側の金桂桂香四枚の駒と、ponanza側の飛一枚とが交換された。駒の損得はponanzaの方が得をしているが、駒のはたらきの効率を見れば、屋敷の方がよさそうだ。屋敷の駒台に載っている飛二枚は、ポテンシャルが高い。この兼ね合いをどう見るか。いつもながらに将棋はこうした判断が難しい。人間の目からは、人間側がやれそうにも見える。しかし多くのソフトの示す評価値は、ソフトの方が圧倒的によいと訴えている。

ニコファーレの大盤解説会には、(ゲスト解説棋士として)渡辺明が訪れている。渡辺はソフトについて、
「形勢判断には賛同できなくても、実際に指すと強いということはありますね」
と語った。盤上の端に香を打って、屋敷の角を取りに行ったのだ。
「えっ?」
と驚く渡辺と深浦(康市 )。プロの常識からは、考えられない筋だ。
「ぱっと見はありがたいですよね・・・。どういうことなんですかね。この香で負けるってことは、ちょっと考えにくいことですよね」
中継には、渡辺が首をかしげる姿が映される。ponanzaの意図は金桂香を惜しまず使って、屋敷の角を追い回し、取ってしまうことなのだろう。しかし人間の見方ではどうしても、それだけの駒を投資するのは、割に合わないと判断してしまう。
「こういう手は浮かばない方が幸せなんです
という佐藤康光の言葉が人間が指す将棋の本質を端的に表わしているとも言える
。直感と経験である程度候補手をしぼり込み、読みを集中できるのが人間の特徴である。そしてponanzaの香打ちは、探索能力にものを言わせて、どんな手でも読んで最善手を探そうとする、ソフトの特徴を示す一手だった。

渡辺は後日、ponanzaの香打ちを評して「得たいの知れない強さ」と語っている。従来の人間の価値観では、その強さは理解しがたいのだ。

ただし屋敷はこの香打ちは、打たれそうな気がしていたという。ソフトと指し込んだ末での感覚であろうか。

男はつらいよ」の名台詞に、「それを言っちゃ、お終いよ」がある。
あなたさまが知らないといけないので(笑)、この台詞が登場する基本パターンを以下定義する。(笑)

[1]寅次郎が、生来の「悪気の無いバカさ」(笑)から、不始末をしでかす。

[2]見かねたおいちゃん(※寅次郎の叔父。おばちゃんの場合もある)が、まっとうにたしなめる。

[3]たしなめがまっとう、正論なため、大人の皮をかぶった子どもの寅次郎は、逆ギレしてしまう。

[4]
釣られて、おいちゃんもキレてしまう。

[5]
挙句、おいちゃんが売り言葉に買い言葉で、「出てけ!もう二度とこの家の敷居をまたぐな!」と寅次郎に勘当を言い渡してしまう。

[6]
返す言葉の無い寅次郎は引込みがつかなくなり、「それを言っちゃ、お終いよ。こんな家、出て行ってやらあ!さくら(※妹)、止めるなよ!」と正に捨て台詞を吐き(笑)、実家のとらやを出、旅に(また)出てしまう。


なぜ、「それを言っちゃ、お終いよ」は名台詞なのか。(笑)
たとえば、スーツのパンツをきちんと折り目をつけて履くのは、それが装いの「お約束事」だからだ。
きちんと折り目をつけて履いていると、周囲に正に「折り目正しい心得者」と良く思われる(→得意や安堵を自覚できる)は、きちんと折り目をつけていない人を「だらしない、ダメな奴」と心中そしることもできる(→優越感や有能感を自覚できる)はで、ハッピーに成り易い(→少なくともアンハッピーに成り難い)。
即ち、「お約束事」とは、人間、或いは、個々の社会や物事に存在する、合理や善悪では単純に割り切れない(or割り切るべきでない)「本筋」と「習わし」の集合であり、「『そうすべきコト』と『そうしてはいけないコト』」と呼称される。
「それを言っちゃ、お終いよ」が名台詞なのは、この「お約束事」の意義と存在を、私たち一般の貧しい労働者に(笑)、繰り返し面白可笑しく再認識させてくれるからだ。

ではなぜ、私たちは、折に触れ「お約束事」を再認識すると良いのか。
「お約束事」に絶えず従順だと、先述の通り、ハッピーに成り易く、アンハッピーに成り難いからだ。
たとえば、「それを言っちゃ、お終いよ」の「お約束事」の最たるは、「家族は腐れ縁が上等であり、たとえ合理的にも、確率論的にも、全体最適的にも最善解であったとしても、離縁を試みてはいけない」ということだが、この台詞から本事項を再認識し、従順になることで一家離散の後悔に苛まれずに済んだ家族は少なくないだろう。
たしかに、寅次郎はこの台詞を捨て吐いても、半年に一度はとらやに舞い戻ってくるし、また、それをおいちゃんも咎めないどころか喜ぶが(笑)、これは寅次郎と映画の話だからであり、実際にはあり得ない。
松下幸之助さんの夫人、むめのさんは、いかに幸之助さんと激しく喧嘩しようと、決して「離婚」の二文字を口にせず、「神様の女房」として生涯を全うされたと伝え聞くが、これはむめのさんが「それを言っちゃ、お終いよ」の「お約束事」に絶えず従順であられたからだろう。(笑)

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しかし、これまでの話をひっくり返すようで恐縮だが、私たちは絶えず「お約束事」に従順であって良いのか。
「こういう手が浮かばない方が幸せなんです」との、王ではなく角を総力戦で詰まそうとした、コンピューター将棋の「お約束事」破りの好手△1六香とに対する佐藤康光九段の所感、及び、「人間が指す将棋の本質を端的に表わしている」との、佐藤九段の所感に対する著者の松本博文さんの所感から、私はこう考えさせられた。

勿論、この問いに正解は無いに違いない。
しかし、一つ明らかに言えるのは、「お約束事」に従順であることに違和感や後ろめたさといった否定的な感情や懐疑を自覚したなら思いとどまるべきであり、さもなくば後悔が残り、却ってアンハッピーに成り易い、ということだ。
屋敷伸之九段が△1六香を想定でき得たのは、また、△1六香で負かされたのは、現役トップ棋士のお一人だからだ。
つまり、屋敷九段は、現役トップ棋士として人間将棋の「お約束事」に高次に精通し、コンピュータ将棋に負けるわけにいかない。
コンピューター将棋の事前研究を相当深く重ね、その中で、コンピューター将棋の「お約束事」が人間将棋のそれとかい離し、異筋かつ非情であるも満更的外れではないのを、正に痛感していた。
そこで、実戦において、見事△1六香を想定でき得、嫌な予感を覚えるも、時間的かつ肉体的制約下での候補手の絞り込みを名目に、精通している人間将棋の「お約束事」に敢えて従順、忠実であり続けた、ということだ。
結果、負けてしまった屋敷九段の後悔と無念は、想像するに余りある。

そして、私は、屋敷九段が△1六香を想定でき得るも、人間将棋の「お約束事」に敢えて従順、忠実であり続けたもう一つの理由に、「見たいモノを見たい(→見たくないモノは見たくない)」という人間の根源的な欲求と弱さを邪推した。
屋敷九段にとって△1六香は、見えてはいたし、実際に指されたら「痛い手(困る手)」ではあったが、「見たい手」ではなかったのではないか。
つまり、おいちゃんが「寅次郎との離縁」という最善解に気づいていながら実行しなかったように(笑)、はたまた実際、テレビ局やラジオ局が既存のビジネスモデルの賞味期限切れに気づいていながらリストラ(事業の再構築)を依然先送りしているように、屋敷九段も△1六香に気づいていながら気づかなかったことにした、見えていながら見えなかったことにしたのではないか。
この邪推が相応に正しければ、人間の強情さは正に諸刃の剣に違いない。







kimio_memo at 08:54│Comments(0) 書籍 

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