2014年07月09日
【自伝】「未完。仲代達矢」仲代達矢さん
P192
41歳になり、長年待ち望んだ役が回ってきた。シェークスピアの『リチャード三世』(1974年)である。ずっとやりたかった作品だ。
(中略)
舞台では隠し味として愛嬌を入れてみた。岡本喜八監督が見出してくれた自分の中の子供っぽさというか、コミカルな部分を加えてみたのである。悪の権化のようなキャラクターにもかかわらず、時おり、客席から笑い声が聞こえてきた。やっていて本当に楽しく、何度もやりたいと思った。
舞台に上がって約20年、ようやく少しだけ、演じるということが分かった気がした。逆に言えば、20年もかかったのである。
演じるとは面白いもので、正解があるわけじゃない。どうしようもない癖がウリになることもある。
かつて恩師、青山杉作先生が「ファンというものは、役者の悪い癖に魅力を感じるものだ」と言われた事を思い出す。
なぜ、ファンは、好きな役者の悪い癖に魅力を感じるのか。
理由の多くは、「あばたもえくぼ」や「不出来な子ほど可愛い」の言葉が示す通りなのだろう。
即ち、人は、愛情対象を贔屓目に見る習性から逃れられないし、愛情対象の悪癖に一層の人間性を垣間見るし、悪癖と心中するであろう愛情対象の不憫さに一層の同情を覚える。
そして、そうして愛情対象の悪癖や不憫さをあたかも自分のそれと同様に認識し、肯定的に扱う自分の度量に、一層の自己満足を覚えるから、なのだろう。
しかし、主因は、愛情対象を一旦愛してしまったから、ではないか。
あり得ない例えだが、もし、親としても、我が子をテレビゲームのようにリセット、即ち、授かり直すことができ、かつ、事前に選べるなら、「あばた」ではなく「えくぼ」の有る子を欲するのではないか。
こうして考えてみると、我々人間は、既存の愛情対象に投じた各種のコストのサンクコスト化が思う以上に苦手であることに改めて気づかされる。
我々は、既存の愛情対象を愛してしまった自分の決断と実行、並びに、その根底に潜在した自分の不明さを恥じたくないし、そもそも省みたくない、自己否定のトビラを開けたくない、のだ。
かつてクライアントで友人のTさんが、「近年めっきり幽霊会員化している近所のジムをどうにもやめられないのは、かつて自分が進んで計画したダイエットを挫折することへの未練と後ろめたさのせいだ」と仰っていたが、今ようやくそのロジックが正確に理解できた気がする。(笑)
kimio_memo at 07:28│Comments(0)│
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