2014年05月19日
【BSNHK】「井上陽水ドキュメント『氷の世界40年』」小室等さん
【ナレーション】
そして、12月1日、 発売と同時に異常な売れ行きを示し、二週間後には、アルバムチャートの一位に躍り出る。
そのまま113週連続トップテン入りなど、音楽史を塗り替えるモンスターアルバムになっていった。
【みうらじゅんさん】
新しかったですよ。
新しいモノの見方を提示したアルバムなんですよ。
【リリー・フランキーさん】
所謂、今の日本のポピュラーソングよりも分かり易い歌ではないですよね。
【みうらじゅんさん】
分かり難いですよ。
【リリー・フランキーさん】
でも、それが130万枚位その当時で売れて、その当時はみんなが針を落として聴いてたっていうわけじゃないですか。
だから、いろんな人の血肉になってるわけですからね。
【みうらじゅんさん】
それはね、本当に、マニアだけじゃないっていうか、それが凄いよね。
【谷村新司さん】
50年に1枚しか出てこないくらいのアルバムだろうと(思うんですよ)。
このアルバム作っちゃったら、この後陽水はどうするんだろうって、同じ仲間としてはちょっと心配になったくらい。
それくらい斬新に感じたし、クオリティが高いし・・・。
【なかにし礼さん】
今までのLPレコードっていうのは、ヒット曲の寄せ集めの、所謂「ファンのためのアルバム」だったのが、井上陽水は、ファン相手ではなくて、日本全国に向かってこの作品を提出したわけです。
若者ばかりでなくて、老人も、おばさんも、そして、少年少女〔・・・〕普段音楽を聴いていない人たちも、みんなこの作品には感銘を受けたわけ。
そのぐらいの普遍性があったということです。
(中略)
【ナレーション】
一方で、「氷の世界」の大ヒットは、アルバムのあり方を大きく変えたという。
【小室等さん】
70年代、とにかくね、シングルなんかよりアルバムを作りたい。
そして、そんなに売れなくても自分を表現することができる世界っていうようなモノだったんじゃないかと思うんだよね。
陽水さんが売れて・・・ることによって悲劇は始まって、そして、ユーミンでブレークして売れて、オフコースが売れてっていうようなことの中で、明らかに置き去りにされたものがあるはずなんですよ。
残念ながら、^「氷の世界」は「終わりの始まり」っていうかね、悲劇的な側面を持った出来事だったんだなっていう・・・。
(中略)
【ナレーション】
森本レオは、陽水の闇を垣間見たことがあるという。
【森本レオさん】
うちで遊んでて、陽水が居るんだから、陽水を囲んで、陽水を聴こうぜっていう話になって、そして「断絶」の何かを聴いたんですよ。
そうしたら〔・・・〕歌いだす瞬間、(ゴクリと唾を)飲んでいる気配なのね。
「アガってんじゃん、何だよ!っていう話で、みんなで大笑いしたんですね。
そうしたら、陽水さんがものすごい怒り出して、「生きるか死ぬかなんだ、この瞬間にかかっているんだ。緊張するに決まってるじゃないか!」ってすごい怒って、そのフッと息を呑んだ二秒が、本当に彼にとっては神聖な瞬間だったなって、人生を凝縮した瞬間だったんだなって、それを笑いものにして本当に申し訳なかったなと思うんだけど。
彼は本当に命懸けっていうか、人生の全てをかけて作ったんでしょうね。
【伊集院静さん】
これはもう明らかに、これをアルバムを一つしたら(≒作ったら)終わりだってことは、もう感じてるよね。
「この後が続きますよ」というアルバムではないね、じゃなきゃ、こんなタイトルつけませんよ。
そのくらいの覚悟というか、覚悟じゃなくて、そういうものだったんじゃないですかね、彼にとってあの時代と、彼の、モノを作ったり、語ったり、歌ったりすることは。
「恐らく「これが多分生涯の自分の最後のアルバムだろう」というものは、感じられますよね。
なかにし礼さんの話を受けた(と思しき)小室等さんのコメントに、とりわけ考えさせられた。
というのも、小室さんのコメントは、以下解釈できるからだ。
「『氷の世界』というアルバムが、既存の陽水ファンや(フォーク)音楽ファンに留まらず、世の老若男女の共感を得、前代未聞に大ヒットしたのは、陽水本人や制作スタッフは勿論、レコード会社や他のミュージシャンにとっても喜ばしかった。
なぜなら、『アルバム』という音楽の商品が、あたかも漫画の単行本のような、過去のヒットシングルを寄せ集めただけの特定のファンへのサービスパックではなく、作者の内面を表現した、大衆向け私小説集ならぬ私音楽集として『売れる(=ビジネスに成り得る)』のが証明されたからだ。
けれども、結果的にはこのことが、『アルバム』という商品の『終わりの始まり』に成ってしまった。
なぜなら、この既成事実が作り手側に好都合に解釈、曲解され、『アルバム』という商品は、作者の内面を表現した私音楽集であって良いのだと、作者の内面を一方的に表現して作られて然るべきなのだと、作者の内面を赤裸々に表現して作りさえすれば良いのだと、彼らに誤ったお墨付き、免罪符、成功法則を与えてしまったからだ。
結果、多くのミュージシャン、レコード会社がこぞって、老若男女が共感できる普遍性はなおざりに、『ファンが聞きたいモノ』ではなく、専らミュージシャンの内面、即ち、『自分が言いたいコト』を羅列したアルバムをリリースするようになってしまった。
つまり、手段と目的を混同し、ファンとビジネスを忘れ、『自己満足の罠』にハマッてしまった。
『アルバム』という商品は『売れなくなった』のではなく、『自ら売れなくした』のだ」。
今から約30年前、テクノブームが起こり、ヒカシューやプラスチックスなど、シンセサイザーを使った所謂テクノバンドが雨後の筍の様に出現したが、ビジネスとしても音楽としても残存したのはYMOだけだ。
なぜか。
YMOヲタとしてのたまわせてもらえれば(笑)、主因はメンバーが「シンセサイザーの従順な奴隷」ではなく「シンセサイザーの賢明な使い手」だったから、もっと言えば、「シンセサイザーの使用」を「理想の音楽」の手段と割り切っていたから、だ。
坂本龍一さんは過日も、当時の心境を以下述懐なさっていた。
音色のことで言うと、シンセサイザーを使うっていうことはね、例えば、尺八のような音は作れる訳ですよね。やはり、手段はあくまで「(特定の)目的を達成する為の」手段であり、目的には成り得ないのだ。
尺八の音を使いたいとして、シンセサイザーが無ければ、奏者を呼んでくるか、自分で3年だか8年だか練習して、吹けるようになるまで待たなければいけない。
まあ、大変ですよね。
で、シンセサイザーで作る尺八の音は、尺八ほど複雑な音響は出ないけども、近いような、(尺八の)ような音が出る、と。
これはもう、すぐできるわけですよね。
そういう風に、使える音色が飛躍的に増える、或いは、30人の弦の奏者が居るような音を自分で一回でジャンと弾けちゃう。
勿論、オーケストラの本当の複雑さに比べれば随分単純ですが、弾けちゃう、かなり、近似値まで弾けちゃう、っていうことには、物凄く喜びも感じていましたね。
※2014年1月23日放送『スコラ 坂本龍一 音楽の学校 シーズン4"電子音楽"編(3)』にて
https://www.nhk.or.jp/fm-blog/1000/178144.html坂本龍一commmons2012-06-20
プレイヤー足る者、手段に心を奪われた暁には、お客を他のプレイヤー(商品カテゴリー)に奪われてしまっても致し方無く、自業自得なのだ。
★2013年12月28日放送分
http://www.telecomstaff.co.jp/blog/nowmaking/002301.php
kimio_memo at 07:06│Comments(0)│
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