2014年05月15日
【科学】「背信の科学者たち」ウイリアム・ブロードさん
P285
欺瞞と科学の構造
真理の探求と名誉
伝統的な科学観からは、欺瞞という問題に対する充分な回答を引き出すことはできない。伝統的科学観は欺瞞を広く一般的なものとしてとりあげず、重要な問題ではないと否定してしまうだけである。しかし、欺瞞は科学の全歴史を通じて見られた現象であったし、今日でもしばしば耳にする問題であり、排除されねばならないのは欺瞞ではなく、この型どおりの科学観なのである。
欺瞞の分析により、科学が実際にどのように機能しているかが明らかにされ、研究者個人の動機と、科学者の社会が新しい知識を受け入れる仕組みとの双方が明らかになる。
科学はその初期の時代から二つの目的のために人間が争ってきた舞台であった。その一つは森羅万象を理解することであり、他の一つは理解のための努力について評価を得ようということである。このことを理解することによってはじめて、科学者の動機や科学者の社会の姿、科学の過程そのものが適切に理解できるのである。
科学者のこの二つの目的は、多くの場合、相伴って機能するが、ある状況下においては衝突する。実験結果が期待どおりでなかったり、理論が広い支持を得られなかった場合であり、その場合には、科学者はいろいろな方法でデータを改良したり、捏造などさまざまな誘惑にかられるであろう。中には、自分の理論の正しさを頑固な仲間たちに説得しようとしてごまかしを行う場合もあるだろう。ニュートンは自分の重力理論に対する批判者たちに反駁するため、細かな点に手を加えた。メンデルのエンドウマメの割合に関する統計は、いかなる理由にせよ、事実としてはあまりにもできすぎている。また、ミリカンは電荷を説明するためデータを選択したのである。
このように、もし歴史が科学者に対して好意的な結果をもたらすならば、それは彼らの理論が正しかったためである。しかし、倫理を重んずる者にとっては、真理のために偽りを述べその結果が正しかったアイザック・ニュートンと、結果が正しくなかったシリル・バートとを何ら区別できないのだ。ニュートンもそしてバートも、自分が正しいと信じたがために偽りを述べたのであり、それはおそらく、自己弁護や、あるいは自分の理論の妥当性を専門家仲間に認めてもらいたいがための行為だったのである。
科学者は真理を曲げてまで個人の栄光を求めはしない。しかし、プトレマイオス、ガリレオ、ニュートン、ダルトン、そしてミリカンたちさえ打ち勝つことのできなかった誘惑は、科学が、19、20世紀に至り、職業化するにつれてさらに大きなものとなった。エリアス・アルサブティの輝かしい経歴の中に見られる虚偽は、名誉への欲求が正当な真理の探求をいかに完全に打ち砕いてしまうものであるかを示している。アルサブティの行為は決して一般的なものではなかったが、現代科学の中に常に存在する野心と立身出世主義を極端な形で表していたと言える。さらに重要なことは、彼の成功は科学者の社会の仕組みが過剰なまでの野心と立身出世主義の規制のためにはいかに無力なものであるかを示していることである。
科学者の多くが研究に執心するのは研究が好きなのであって、出世のはしごを登り、科学のスターの座を目指すためではない。科学には単一の社会的組織が存在するのではなく、むしろ理想的で平等な仲間社会から、縦型に組織された論文生産工場まで幅広くさまざまの組織が存在している。一般化するにはまだ不充分ではあるが、明らかな一つのパターンとして捉えることのできるのは、欺瞞はそのほとんどがアルサブティやバートのような一匹狼か、あるいはまた、論文生産工場におけるスタッフたちによるものだということである。
科学者の社会は立身出世主義を助長するよう組織されているようである。階層的に組織化された論文生産工場においては、研究室の責任者は自分の貢献がどの程度だったかということにかかわらず、自動的に若い研究者たちが行った研究の栄誉を共有してしまうのである。そこでは他人を犠牲にした上で、あるひとりの科学者が栄光を一身に集めることができるのだ。努力を搾取されている者は、それが組織における変更不可能な部分であるとみなして研究を行っている。しかし、彼らもまた、その組織からいつかは利益を得たいと願うのである。
ひとりのボスが率いる研究室では、立身出世主義だけではなく、冷笑的な態度をも助長する。なぜなら組織が真理の探求と名誉への欲求の二つを別々に引き裂いてしまうからだ。論文の生産や研究員の獲得のみを重視する組織は、冷静な真理の探求をさしおいて、栄光や名誉を求めるよう圧力をかけるのである。
一般に科学研究には多くの困難と失望が伴うものである。すばらしい着想を得たり、実験の成功による大きな喜びを得るためには、研究者は実験室の机に向かって長時間、困難な仕事をこなし、新しい実験技術を習得し、誤りを見つけ出し、さらには混沌とした自然の中から明解な答えを引き出すための不断の努力が強いられるのである。研究の遂行には非常に強固な動機が必要であり、栄光がしばしば動機となり、研究費を断たれまいとする一念が刺激となるのだ。しかし、もし自然の冷静な探求より、科学界での名誉の獲得に余念のない先輩研究者の姿を若い研究者たちが目のあたりにすれば、彼らの研究意欲はたちまちにして冷笑へと変わりうるのである。
「社会の仕組みは、そもそも立身出世主義を助長するよう組織されており、過剰な野心と立身出世主義の規制に無力である」。
これは、科学者の所属する社会に限らず、いずれの人の所属する社会にも当てはまるのではないか。
そして、その分り易い証左は、山崎豊子さんが著した「白い巨塔」が、発表後約半世紀を過ぎてもなお大衆から愛され続けていることではないか。
主因の一つは、財前五郎の正に過剰なまでの野心と立身出世主義を後押しした境遇が、とりわけ医学の社会が、自分の所属する社会と通底しており、財前の人生に同情を禁じ得ないから、更には、財前の悲劇が他人事に思えないから、ではないか。
たしかに、財前の不遜さ、手段の選ばなさは、同情どころか、眉をしかめて然るべきだ。
しかし、かつての石川遼選手に見る「若者ならではの秀逸さと強さ」が、無知とそれに因る怖いもの知らずさとワンパックであるのと同様、財前は不遜で、手段を選ばない人間であったからこそ、他の医師の追随を許さない独自高度技術を持ち得たし、医学の進歩も牽引し得たとも言える。
同期の親友である里見修一が、野心と立身出世主義の持ち主で全くないどころか、それらを否定し、結果、不本意かつ志半ばで独自高度技術を持ち損ね、医学の進歩も牽引し損ねたのと比較すれば、財前の不遜さ、手段の選ばなさなど知れている。
なぜ、財前は、野心と立身出世主義の過剰な持ち主、否、虜になったのか。
勿論、主因の一つは、マズローの欲求五段階説に因る「承認欲求」だろうが、同等かそれ以上の主因は、同じそれに因る「自己実現欲求」に思えてならない。
というのも、そもそも財前が医学者を志したのは、幼い時分に父に早世され、女手一つで自分を医大に通わせた母親に対する報恩と、同様家族の悲劇の回避が出発点かつ根底に在るよう窺えるからだ。
真に有為な医学者に成るには、独自高度技術を創造、会得することが最重要かつ不可欠だが、それには当然十分なリソース、即ち、ヒト、モノ、カネが不可欠であり、然るに、過剰なまでの野心のもと立身出世を大きく果たし、より高く、強く、豊かな権威、権限、権力を得ることが不可欠なのだ。
二宮尊徳が「経済なき道徳は寝言」と言っているように、「権威なき医療は寝言」なのだ。
なぜ、医学の社会の仕組みは、立身出世主義を規制するどころか、助長するよう組織されているのか。
根本原因は、エンドユーザーの大衆が、「無限の安心」を欲求し、「権威ある医療」を選好するからではないか。
何時の世も、大衆は権威に脅威と安心を覚え、迎合、盲従する。
医学の社会におけるその分り易い証左は、大学病院が絶えず混雑していることではないか。
マルクスが「地獄への道は善意で舗装されている」と言っているように、立身出世主義の助長、繁栄は、大衆の無知で舗装され、いずれの社会にも通底しているのではないか。
kimio_memo at 07:24│Comments(0)│
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