2014年04月15日
【毎日】「新たな『伝説の戦い』に」大崎善生さん
(前略)
今年の名人戦第1局も8日に開幕した。ともに永世名人の資格を持つ森内俊之名人に羽生善治王位が挑むという、またとない組み合わせで、これが4年連続の対決となる。しかも驚いたことにこれが2人で戦う9度目の名人戦だという。その数字の意味は重く、伝統のライバルといわれた大山康晴十五世名人と升田幸三実力制第四代名人が戦った9回の記録に並んだことになる。
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大山対升田という永遠のライバル。
その伝説の戦いに今回の名人を争う2人が肩を並べかけたのだ。
羽生は不可能といわれていた7冠制覇を成し遂げた天才棋士であり、生涯勝率も7割2分を超え、タイトル獲得数も含めありとあらゆるレコードをいまだに塗り替え続けている圧倒的な存在である。その数字や実績が残したものだけではなく、羽生の凄さはそれまでに100年以上もの常識として確立されていたことを次々と解体し洗い直していこうとしたことだ。その結果、将棋の定跡は壊され、新しい価値観が開発されていった。常識という先入観を徹底的に洗い直そうとしたわけで、その作業は今も将棋界で現在進行形である。
羽生の将棋には何かを変えていこうとする意思がある。言葉がある。そしてときとしてそれが旋律のように聞こえてくる。それがファンを心酔させずにおかない魅力である。羽生の将棋を見ていると、自分に問いかけてくる言葉が聞こえるように思えて背筋が寒くなるようなことが、まれにある。
一方の森内は何も語らない。寡黙なまま庭に落ちた実を丁寧に拾い集めていく。無駄なことはなるべくしない。しかし不思議なことに、そうすることで圧倒的な天才肌の羽生に十分対抗しうる力を身につけている。その結果が名人戦の記録に如実に表れている。久しぶりに見る対局姿には、名人らしい風格を感じた。
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思えば升田と大山もよく似ていた。
新手一生を標榜する升田は、次々と常識を疑い新しい定跡を作りそれを引っさげて、名人戦という最高の舞台で大山に挑んだ。大山はただ実直に、おそらく将棋界歴代最高とも思える演算力を駆使して升田の出す問題に答えていった。升田の構想、理論にひとつひとつ解答を出し続けたのだ。
コンピューターが間違いなく人間に迫っている。それは将棋のプロや関係者ならずともファンの目にも明らかなことである。自分が将棋界に足を踏み入れてまさかこんなことが現実に起こるとは思ってもみなかった。
升田と大山。
2人の天才が、争ったその本質はいったいなんだったのだろう。升田は新手という難問をつきつけどんな解答を引っ張り出そうとしたのだろう。
時代を超えて今、同じく9度目の対戦を迎えて森内と羽生は同じことを問われているように思えてならない。
将棋はいつも迷っている。どこにいくのか、何のために勝つのか、何をどうやって誰のために表現するのか。厳しいけれど名人戦には、いつもその解答が求められている。だからこそ将棋ファンは誰もが注目するのだ。
赤フォントした二箇所に、強く共感した。
そう、リーダーやヒーローと称される人は凡そ改革者だが、人が彼らに真に惹かれるのは、彼らの未知かつ破壊的なパフォーマンスや実績ではなく、それらに通底する有形無形のメッセージだ。
その中に在る、巧みに言語化された高い普遍性(本質を正確かつ広範に押さえていること)と独自の志に心を鷲掴みにされた時、人は彼らをリーダーやヒーローと称えるのだ。
いずれの社会も、時と共に現状維持が自己目的化する。
リーダーやヒーローは、そんな硬直かつ閉塞した社会の産物であり、要請であり、希望だ。
人は、改革者として彼らに惹かれているのはではなく、説得的かつ粋なビジョンの語り部として彼らに惹かれているのであり、もっと言えば、彼らに惹かれているのはではなく、実績と本質と志に確然と裏打ちされた彼らの言葉に酔いしれているのだ。
そう、娯楽は「不可能」と「絶望」からの解放を主眼とし、人生に通底しているが、中でも将棋は、「絶えず考え、迷いながらも、自分という羅針盤を頼りに答えを捻り出し、前へ突き進む以外無い」点で、甚だ人生に通底している。
将棋は、もはや娯楽を超えた人生の縮図、抽象であり、知れば知るほど救われる所が多い。
将棋ファンがタイトル戦を頂点とするトッププロの対局に求める最たるは、名局ではなく、最上の救いではないか。
★20014年4月10日付毎日新聞夕刊四面から転載
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