2014年06月04日
【人生】「自殺」末井昭さん
P263
特に、自殺まで考えている人は書くことがいっぱいあるはずです。自殺することを決意するまでの経過や、考えている自殺の方法や、死ぬことの恐怖や、自分の頭の中にあるものをすべてさらけ出してみることです。自殺となるとただごとではありませんから、きっとみんな注目すると思います。
どんなにつらい状況でも、それを笑えるようになれば、生きていくのがうんと楽になります。
不思議なもので、自分を肯定できると、相手のことも肯定できるようになります。
自己嫌悪から抜け出してからは、美子ちゃんと喧嘩することも少なくなってきました。そして嘘もつかなくなりました。嘘は自分に都合が悪いことを隠すことで、自分が孤立することです。嘘をつかなくなると、晴れ晴れした気持ちになります。
P307
最初に聞いたのは、一番頭に残っていたイエスと性欲のことです。千石(剛賢)さんは、原罪の話は僕らには難しいと思ったのか、イエスに性欲がなかったことを、別の角度から話してくれました。
何かに熱中している場合は性欲は起きない。たとえば野球がクライマックスになっているとき、満塁でこの一球が勝負みたいなときに、キャッチャーがきれいな女の人で股広げていたとしても、そのときピッチャーに性欲は起きないと。まあ、確かにそうです。
精神状態があるところまで高揚したら性欲は起きない、つまり、あのイエスは四六時中おそろしい精神の高揚状態にあった、と千石さんは言うのです。その話を聞いて、十字架に掛かっているの弱々しいイエスのイメージが崩れたのでした。
P316
「愛」という言葉は世の中に氾濫していますが、愛とはなんなのかということは、実は僕もよくわかっていませんでした。「俺がこれだけおまえを愛しているんだから、おまえも俺のことを愛してくれよ」というのは、愛の商取引のようなものです。見返りを求めない、無償の愛というものが本当の愛だと思うのですが、多少のことはできても、「金魚のウンコ」と言われたぐらいで、相手を憎む気持ちに変わったりします。ましてや、相手のために命を投げ出すことなど絶対にできません。しかし聖書には、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15-13)と書かれています。
これを千石さんに解説してもらうと、「友」というのは、単に友達ということではなく、相手の中に自分自身が見え初めている他者のことだ、と言います。自分と他人を(区別ではなく)差別していると、愛というものは生まれない。自分が自分のままで相手を愛そうとしても、すべて偽善になってしまう。だから、他者の中に表れた希薄な自分をもっとはっきりさせるために、生まれつきの自分を二義にしていく、つまり自分を捨てて、他者のことを真剣に考える。そうすることによって、生まれつきの自分は死んで、罪からも解放される、と言うのです。
僕は美子ちゃんを愛していると思っていたのですが、「金魚のウンコ」と言われて、自分のプライドが傷ついてカチンとくるようでは、本当に愛しているとは言えません。僕を愛してくれる美子ちゃんを愛していただけだと思います。それは単なるエゴイズムです。聖書にある「自分を愛するようにあなたの隣の人を愛せよ」(マタイ22-39)というイエスの言葉は、相手を自分と同じように思うことです。
たとえば、大嫌いな人がいたとします。絶対付き合いたくない、自分とは別の人種だと思っていても、実は自分の中の嫌なところをその人に投影しているだけかもしれません。「相手の中に自分自身を見る」ということは、誰もが気づかないうちにしていることではないかと思います。
僕は一時期、「あんなバカと付き合えるか」と思っていたりしていたのですが、そういう傲慢な自意識のせいで孤立して、人はみな孤独なんだと思っていました。しかし、自分がバカだと思うようになってからは、好きになる人がたくさんできて楽しくなりました。
人はそんなに大差ないのに、自分だけは特別だと思うことが、生きづらさを招きます。そう思うことが正しいことだと思い込まされているので、自分の力を信じて、頑張って頑張って頑張り抜いてヘトヘトになっている人も多いと思います。そういう人は孤独です。本当に愛せる人がいないと干からびてしまいます。
相手の中に自分自身を見ることができれば、その人を本当に愛することができます。そして、孤独ではなくなり、ウキウキした気持ちになり、周りにもいい影響を与えます。
愛する人がいればそれで充分です。そのことに真剣になれば、あとのことはいい加減でもいいのではないかと思っています。
末井昭さんが千石剛賢さんから教示されたイエスの教えは、真否は不明だが、主旨に少なからず合点がいった。
たしかに、人は、自分を肯定せずには、即ち、自分の考え、行い、存在が社会的に有意だと思わずには、生きられない。
そして、人は、それらが有意だと自覚、納得するために、凡そ二つのアプローチを取る。
一つは、それらがもたらす成果物や社会的価値を創造、増殖させることであり、もう一つは、自分よりそれらが有意でない(と思われる)人を見つけ、「自分の方がマシだ」とか「自分はまだ捨てたものではない」と自己満足に耽ることだ。
例えるなら、前者は孫正義さんで、後者は合コンに幼なじみやクラスのブスを誘う女子だ。(笑)
誰もが、本当は前者に成りたい。
しかし、当然それは容易でないし、また、努力をすれば必ず成れるものでもない。
よって、多くの人は安直に、或いは、妥協して後者の道を選び、後者に成ってしまうのだが、人生の悲劇はここから始まる。
なぜなら、それは邪道だからだ。
自分より有意でない人が居て初めて自分が有意に成れる、自分を肯定できる、というのは、自分の有意さが「条件付き」の不完全なものと承知せざるを得ない、自分を心底には肯定できない、のと同義だ。
千石さんの教えは、思考習性を再構築しさえすれば誰でも取れる有効なアプローチがあと一つ在ることを示してよう。
先ず自分を、それも、バカな自分を肯定し、そして、そんな自分に通底する「友」を見つけるのだ、と。
誤解を怖れずに言えば、このアプローチの本質はノーガード戦法だろう。(笑)
知れている自分の有意さをかなぐり捨て、「われ以外みな師」状態に成れば、見過ごしていた他者の有意さに敏感に成れるのは勿論、扱き下ろしていた他者の駄目さ、愚かさ、弱さに自分を見、同じ穴のムジナの友として「愛」を持って寛容に成れよう。
人生の悲劇を回避するには、「肉を切って骨を断つ」ノーガード戦法こそ正道であり、結局、遠いようで近いのだろう。
kimio_memo at 06:47│Comments(0)│
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