【野球】「野球の本当のこと、ぜんぶ話そう!」工藤公康さん【人生】「午後の遺言状/乙羽さんのことなど」新藤兼人さん

2014年06月11日

【司法】「私は負けない/第三章『一人の無辜を罰するなかれ』」周防正行さん

P177
今は、訴えた人も訴えられた人も不毛な戦いをせざるを得ない。物的な証拠や確かな第三者の目撃がない場合、裁判が難しくなるのは当たり前なのです。だからこそ「疑わしきは罰せず」という原則が重要なのです。

「疑わしきは罰せず」と一般的に言われている言葉は、「疑わしいだけの人を罰してはならない」という意味です。でも、実際の裁判を見ていると、「この人は疑わしいから捕まえておきましょう」という感じになってしまっています。無罪になるには、被告人側が有罪立証に合理的な疑いを差し挟むことができればよいはずなのに、現実には、ほかに真犯人がいることが分かったり、弁護側が無実の証明を果たさないと、無罪にならない。それが痴漢事件だけでなく、日本の刑事裁判を見ていて、私が感じたことです。

(中略)

専門家だけでなく、一般市民の感覚も問われています。

何かの犯罪を犯したとの疑いで誰かが逮捕されたとき、「もし釈放して、新たな犯罪を起こされたら困る」という発想は一般市民にもあるような気がするのです。犯罪を犯した人への処罰感情もどんどん高まっています。でも、もし、その人がやっていなかったら、どうするのでしょう。

裁判は万能ではなく、やった人を100パーセント有罪にして、やっていない人は100パーセント無罪にする、という完璧さは期待できない。だから、「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜を罰するなかれ」という考えが出てくるのです。

ところが、そうすると、逃した10人の真犯人はどうするんだ、ということになる。この時、ヨーロッパの人なら「それは神が裁く」と答えるようですが、日本ではどうでしょうか。10人を逃したことを納得できない気持ちが強すぎると、10人の無実の人を罰してもしょうがない、という社会になりかねません。しかし、真犯人をたとえ逃してしまっても、無実の人を罰するよりは、余程いいのです。なぜなら、冤罪は、無実の人を罰する上に、真犯人を逃すという二重の過ちを犯すことになるのですから。

裁判で、真犯人が明らかになるとは限らない。裁判は、事件の全真相を解明する場でもない。テレビや映画、小説のミステリーや裁判ものの多くは、最後に必ず犯人は誰、と分かる。だから、僕の映画『それでもボクはやってない』を見て、「それで、真犯人は誰だったの?」と聞いてくる人もいるんです。

それでもボクはやってない
主演:加瀬亮
監督:周防正行
2014-09-03


でも、実際の事件では、誰が犯人なのか分からないというところから捜査を始めなければならないし、必ず真犯人が特定できるわけでもない。裁判で審理をつくして被告人の有罪、無罪を判断したところで、本当にその判断が正しかったかどうかは被告人しか分からないし(もちろん被告人だって分からないケースもある)、ましてや犯人の動機や手順といった事細かな「真相」まで、ミステリー小説のようには明らかにならないのです。裁判官は全能の神ではないのに、過剰な期待をかけすぎている。そもそも裁判は、過去に起きた事件について、その場にいなかった人たちがほとんどの中、痕跡だけを集めて、ああだった、こうだったと言い合っているわけです。それなのに、裁判では真相が明らかになると、僕らは過大な期待をしすぎている

裁判は、真相究明の場ではなく、被告人が本当にその罪を犯したと、合理的な疑いを差し挟む余地がないほどの立証を検察官ができたのか、もし犯人だとすればその責任はどれくらいかを見極める場所です。なのにマスメディアも、「真相解明」を言い過ぎです。

私は裁判員として裁判に参加した経験もあり、周防正行監督の本意見には強く同意、共感する。
そうなのだ。
実際の裁判は、ドラマや映画で描かれているそれとは全然異なり、思っている以上に真相解明を果たせないし、果たさないのだ。
私たち一般市民は裁判官に水戸黄門や遠山の金さんを求め過ぎている。

なぜ、私たちは、裁判官に水戸黄門や遠山の金さんを求め過ぎるのか。
はたまた、なぜ、そこまでして、一人でも多くの真犯人、罪人を世に出し、懲らしめたいのか。
私は、主因として四つの理由を着想した。

一つ目は、「火の無い所に煙が立たない」との考えを拡大解釈する嫌いがあるから、だ。
私たち日本人は、「そういうことなら、こちらも出る所に出るぞ!」と言って、「問題が大ごとになるのは回避して当然だ」との共通認識と習性を幼い頃から植えつけられており、問題が大ごとになるのを回避せず、煙を立ててしまった人に大なり小なり非を(→潔白の不完全さを)窺う嫌いがある。
然るに、裁判に訴えられた人につい、「裁判沙汰という大ごとに至ったのには、その人に何らか非があるからであり、裁判官足る者、その非を明らかにし、かつ、咎めるべきだ」と、考えが及んでしまうのではないか。

二つ目は、自己肯定への正しい努力を怠り、他者を貶めることに注力する嫌いがあるから、だ。
そもそも、自己肯定は「自分事(⇔他人事)」の極みだ。
人は、自分を肯定せずには生きられず、どうにかして自分の考え、行い、存在が社会的に有意だと思おうとするが、その為に、それらをブラッシュアップするのではなく、それらが低位な人を見つけ、「比べれば自分はマシor捨てたものではない」と安直に自覚したがる嫌いがある。
然るに、裁判沙汰になる人はその時点で社会的に有意ではなく、裁判官足る者、「罪人」として公的に認定すべきであり、またそうすれば、自分は少しでも救われる、と考えが及んでしまうのではないか。

三つ目は、自己肯定ができない余り、他者を否定する嫌いがあるから、だ。
勿論、これは二つ目の事項に起因するが、人は自己肯定ができないと、もっと簡単に言えば、自分に自信が持てないと、不確実な他者を怪訝視、或いは、危険視し、所属する社会、コミュニティからの排除を求める嫌いがある。
然るに、裁判沙汰になるような人は不確実性が高く、裁判官足る者、彼(彼女)を留置場に隔離し、社会に危害が及ぼされるのを事前に回避すべきだ、と考えが及んでしまうのではないか。

四つ目は、不明極まりない世の中ゆえ、裁判に正解を求める嫌いがあるから、だ。
私たち日本人は、正解を「自ら創る」のではなく、親、教師、上司などの上位者や権威者から「与えられる」ものとして幼い頃から躾けられており、正解が与えられない状態が精神的に耐えられない。
然るに、権威者の最たるである裁判官足る者、必ず真相を明らかにし、誰かしらを真犯人に仕立てて然るべきであり、またさもなくば、収まりが付かない、と考えが及んでしまうのではないか。

こうして見ると、たしかに、司法は、法的には社会の他の全てから独立しているが、社会に存在する以上、私たち国民の習性や多数意見、或いは、時代の流れや空気といったモノから完全には逃れられず、相応に従う必要があるのではないか。
なぜなら、そう考えると、真犯人の類ではないが、ライブドア事件やブルドックソース事件の判決はある意味「国益の担保」と解釈でき、合点がいくからだ。
しばしば、政治は「民度を超えない」、映画や広告は「時代を写す鏡」と言われるが、冤罪を絶やさない司法も同様ではないか。



私は負けない  「郵便不正事件」はこうして作られた
著者:村木厚子
聞き手・構成:江川紹子 
中央公論新社
2013-10-24




kimio_memo at 08:53│Comments(0) 書籍 

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