【邦画】「ハレンチ学園」(1970)【邦画】「エノケンの天国と地獄」(1954)

2013年02月26日

【観戦記】「第71期名人戦A級順位戦〔第36局の5/6▲羽生善治王位△渡辺明竜王〕エアポケット/黙って見てて」上地隆蔵さん

〔5〕
迎えた本日終了図。
王手に対し、▲7七銀と強くブロックした場面だ。
羽生(善治王位)の読みは△7七同歩成ならその瞬間、後手玉が詰むーー。
渡辺(明竜王)も同様に考えた。
しかし結論を記すと、堂々と△7七同歩成で後手勝ち。
驚くことに後手玉は詰まない。
▲3四桂は△4一玉、▲2二竜は△3二飛。
きわどく逃れている。
絶対的な終盤力を誇る両雄に、不思議と同じエアポケットが生じていた。

〔6〕
△2三歩以下、熱戦はまもなく羽生の勝利で終わった。
終局後、感想戦を始める前に両者は大盤解説会場へ移動。
そこで解説の木村一基八段が問題の局面について問うた。

「▲7七銀に△同歩成だと?」

羽生も渡辺も、言葉に詰まった。
大盤を見つめたまま硬直した。
△7七同歩成で後手玉に詰みなし、つまり後手勝ちという事実を公衆の面前で初めて悟ったのだ。
さすがの両雄もショックを隠し切れない。

観客席から笑いが起きた。
内心やるせない気持ちになった。
全力を注いで指した結果、そこに単純なミスがあった。
人間である以上、それは仕方がないことだ。
敗因は究明してもいい。
棋士は棋譜に責任を持つ。
しかしその失敗に対し笑いはない。
あの場面は両対局者の気持ちをおもんばかってただ黙って見守って欲しかった。
ハハハでは神経をすり減らして一局を全うした両対局者が救われない。


「戦後間も無い時、私は学生で、食べることもままならず、日雇いの仕事で糊口を凌いでいた。
将来が全く見えず、毎日の肉体労働で疲労が極限に達していたが、よく乗る列車でおかしなオジサンと出遭った。
彼は、私をよくイジった。
まだ中学生の私に、万民の共通話題であるワイ談を堂々とふった。
私は照れて赤くなったが、彼は『コイツ、わかってるねー』と周囲の大人共々ニンマリ笑った。
すると、疲労と絶望でいっぱいの車内が、一転明るくなった
私は思った。
『笑い』は、食べ物と同様、要るモノなのだ、と。
そして、たとえ働いていなくても、人を笑わせられる人は、社会に居て良いのだ、と。
後年、私は彼をモデルに寅さんを作った」。


もうお気づきだと思うが、これは山田洋次監督の述懐だ。
「人はパンのみにて生きるに非ず」であるのは周知だが「人は笑いが無ければ生きられない」というのは成る程だ。
人は、「おかしい」から「笑う」のか、はたまた、「笑う」から「おかしい」のか、は諸説あるが、山田監督の述懐もそうだがたしかに私たちは、笑っている人を見ると、あくびと同様伝染る(うつる)。
そして、皆おかしく感じ、活力を、ひいては、希望を覚えるから不思議だ。

とはいえ、私たちが「笑う」のは「おかしい」時ばかりではないし、「笑う」ことで「おかしい」とばかり感じるわけではないから、益々不思議だ。
出先で見知らぬラーメン屋に立ち寄り、予想外の美味しさにふと笑うことがあれば、仕事で大失敗し、自分の愚かさにもはや笑うしかないこともある。

前置きが長くなったが、「将棋ファン足る者、全力を注いだもののエアポケットに入ってしまった(=錯覚してしまった)羽生善治三冠と渡辺明竜王を、ただ黙って見守るべきで、笑うなどもっての外ではなかったか」との上地隆蔵さんの思考、心情は、分からないでもない。
たしかに、両者は天才棋士かつ現代将棋の両雄であり、両者が深夜まで全力を注いだ、否、命を削った対局に、将棋ファンは心から感謝し、敬意を払うべきだ。
たとえ、結末が凡ミスの果てでいかに呆気無かろうと、決して愚弄してはならないし、さもなくば、両者も救われない
しかし、だからといって、将棋ファンの笑いを「もっての外」と一蹴、呵責するのは、両者に、棋士に、気持ちを寄り添わせ過ぎではないか。
というのも、終電を見送ってまで大盤解説会場に残った彼らは、熱心な将棋ファンに他ならず、彼らの内、錯覚した羽生三冠と渡辺竜王を愚弄せんが為に笑った人は皆無に違いないからだ。

では、なぜ彼らは笑ったのか。
あの場面」から推量すると、主因は二つだ。

一つは、大盤解説の木村一基八段のハナシが秀逸だったから、だ。
そもそも木村八段と藤井猛九段は、爆笑大盤解説の両雄である。(笑)
もう一つは、天才棋士の凡ミスに、凡人の自分と同様の人間性が垣間見れたから、だ。
かつて野球ファンが伝説の(笑)「宇野ヘディング事件」を見て笑い、宇野勝選手を好きになったり、自分に自信を持ったように、熱心な将棋ファンの彼らも両者には一層の親近感と敬愛を、そして、自分には自信と希望を覚えたのではないか。



それに、もし両者自身、大盤解説会の「あの場面」でファンからただ黙って見守られていたら、却って酷だったのではないか。
そして、居たたまれず、本当に救われなかったのではないか。
実際、状況は違うが、両者の好敵手の佐藤康光王将も、凡ミスに対するファンの沈黙、無視が応えた旨、自著のまえがきで述懐なさっている。

「将棋世界」誌に連載した自戦記は、私なりに力を入れて書いたのだが、連載中はあまり反応がよいとは言えなかった。
どうも私の自戦記は書くと難しくなってしまうようで、ファンの方から感想を聞いた覚えもほとんどない。
実際には詰みがない局面で「以下詰み」と間違ったことを書いても問い合わせがなかったくらいだから、よほど読まれていなかったのだろう。

注釈 康光戦記 (最強将棋21)
佐藤 康光
浅川書房
2004-08-01


前置きで述べたように、私たちの「笑い」は多種多様で不思議極まりないが、「あの場面」での将棋ファンの笑いは、現代将棋の両雄に対する「ドンマイ!」だったのではないか。
活力と希望の好連鎖を可能にする、人類最高のバイラルマーケティングの「笑い」は、基本、善意で解釈したい。



★2013年2月21/22日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/feature/shougi/



kimio_memo at 07:28│Comments(0) 新聞将棋欄 

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