2012年07月31日
【マラソン】「君ならできる」小出義雄さん
P116
修業している者に自主性は必要ない
「私は、練習は選手の自主性に任せている」と誇らしげにいう指導者がいる。
はたして、それは誇るべきことなのだろうか。
はっきり言わせてもらえば、「選手の自主性に任せる」ということは、「指導者の無責任」を自分から認めるようなものである。つまり、指導者はそれを逃げ道にしているに過ぎないのだ。
もちろん、世界中をくまなく探せば、自主性に任せても立派にやっていけるような逸材はきっといるだろう。だが、天才はごくわずかの例外であり、自主性だけで成功を収められる人は殆どいないはずだ。
「修業している者に自主性は必要ない」
ちょっと極端な言い方かもしれないが、それが私のモットーである。
確かに、高いモチベーションを抱き、自ら「やる気」を持って意欲的に取り組むことが、物事を成就するためには何よりもまず必要である。現に、いろいろな分野で成功を収めている人たちを見てみると、必ずといっていいほどに非常に強い自主性を持っている。
だが、自力の勝負だけで十分かというと、決してそんなことはない。彼らにはサポートしてくれる人が必ずいるのだ。まわりを固める人たちがいなければ、彼らの成功もおぼつかなかっただろう。
自分がやりたいときに、やりたいことだけをやる。そんな無計画さで、世界を相手に戦えるほどに強くなれるのなら、こんな楽なことはない。現実は甘いものではない。
真の実力者を目指そうと思ったら、それこそ世界中からあらゆる情報を集め、様々なブレーンやサポーターたちの協力を得たうえで、なおかつ死に物ぐるいの練習が必要なのだ。実力者と呼ばれる人たちは、ほとんど例外なくそのようにしている。
私が自主性を多少なりとも評価するとすれば、選手が「私の自主性に任せてください」と指導者に申し出た場合である。もっとも、その場合でも、一応「やる気」や「積極性」の表れとして評価するだけである。
たかだか八十年の人生の中で、修業できる時期はきわめて限られている。その限定された時間を、「自主性に任せてあげる」指導者のもとで、「自主性に任せていただきます」という形で過ごしてしまったら、実に不幸なことだと思う。
自主性というと、すぐに個人を尊重してくれるというふうに捉えがちだ。しかし、勝負の世界で個人を尊重するとは、その人が持っている能力を尊重することだ。
すなわち、自分の力だけでは引き出せないでいる可能性を、何とかして引き出してあげることである。自主性だけで能力を伸ばそうとしても、自ずと限界がある。
だからこそ、私は「修業している者に自主性は必要ない」というのだ。
指導者も選手も、「自主性」という言葉が持つ甘い幻惑に惑わされてはいけない。
「指導者が尊重すべきは、個人の自主性ではなく、能力である」。
小出監督のこのお考えは尤もだ。
たしかに、人間の思考、意思決定は、現在開花している能力を超えず、自主性の偏重は、成長のボトルネックになりかねない。
また、そもそも自主性は、成長過程人、勝負人にとって必要条件だ。
小出監督のこのお考えから、深く考えさせられたことがある。
それは、後にゴールドメダリストになる高橋尚子選手に対しても、当時小出監督はこの考えを貫かれたことだ。
ゴールドメダリストは天才に違いなく、高橋選手も天才に違いない。
小出監督のこのお考えは、「ごく僅かの例外」の天才にも通じるに違いない。
そして、名指導者とは、「ごく僅かの例外」にも自説の例外を認めない頑固者に違いない。
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