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2012年04月20日

【野球】「不滅/元巨人軍マネージャー回顧録」菊池幸男さん

P30
ジャイアンツ担当になった菊池(幸男)に、最初に声をかけてくれたのが「八時半の男」と呼ばれ、リリーフ投手の先駆けとなった宮田征典だった。菊池の姿を見つけた宮田が口を開いた。

「おお、坊や。また来たのか?」

何気ないひと言だったけれど、大スター軍団を前にして極度の緊張を強いられていた菊池は、このときの安堵感を終生記憶にとどめることになる。

選手たちとのコミュニケーションが深まっていくきっかけになったのが毎日のスパイク磨きだった。初めはONだけだった。それが次第に柴田勲、土井正三、高田繁、森昌彦(祇晶)とレギュラー選手ほとんどを手がけるようになった。一人分を磨くのに、どんなに頑張っても十分はかかった。それが九人分ともなれば最低でも一時間半を要する。

ときにはスパイクの歯をつけかえたり、綻びている個所を補修したりすることもあった。それは実に根気を必要とする作業だった。それでも、菊池は一心不乱に働き続けた。

地道な作業を続けているうちに、次第に選手たちとの距離が縮まっていくのが実感できた。菊池の姿を見つけると、選手たちは口々に「おう、サンキュー!」とか、「いつもご苦労さま!」と声をかけてくれるようになった。こうした小さな喜びと、スター選手たちへの敬意と憧れを胸に、菊池は日々の仕事に没頭していった。

P44
そんな菊池が、入社二年目、わずか十九歳にして天下のジャイアンツと、そして国民的スター選手たちとコミュニケーションを取ることを求められた。

自分の性格に嘘をついてまで、無理やり明るく陽気に振る舞うことはできなかった。そこで菊池が心がけていたのが、「身体を動かす」ということだった。

ーーいくら考えても、大した答えは出ない。ならば、まずは身体を動かせーー

それは、幼い頃から、父:政見に言われていた言葉だった。父の教えを胸に、菊池は積極的にジャイアンツの練習に参加するように心がけた。グラウンドキーパーがトンボをかけていれば、自ら近づいていき作業の手伝いをした。打撃コーチがノックを始めれば、すぐにグラブを身につけ、その傍らでボールを手渡すように心がけた。

(中略)

仕事を続けていくうちに菊池が手にした確信がある。

ーー「品物」を売るのではなく、「自分」を売ろう!

それは、自分だけを売り出そうと、人をかき分けてでも「前に、前に」と出ていくことではない。むしろ、人の陰に隠れていたいタイプの菊池にとって、「自分もまた商品なのだ」という思いが、次第に強くなっていったのだった。

玉澤の作り出すグラブやバット、ユニフォームの品質には自信があった。でも、「商売」には必ずそこに人間が介在するのも確かだった。現代のようにインターネットを通じて、一度も対面せずに商取引が完結することなど考えられなかった。そこには必ず「売る人」と「買う人」の存在があり、両者のコミュニケーションが不可欠だった。

当時「売る人」だった菊池は、「買う人」である選手たちのニーズに、きめ細かく対応しようと努力を続けた。そうした「売る人」の努力と誠意が少しずつ選手たちの間にも伝わると、次第に選手たちからも「菊池クンに頼みたい」とか「玉澤にお願いしたい」という声が自然に上がってくるようになった。

こうしたことの積み重ねこそ、菊池が営業売り上げトップを独占する要因となった。

「身体を動かせば、商売につながる」、「”品物”を売るのではなく、”自分”を売る」、いずれも、現代の感覚からすれば、異質な考え方なのかもしれない。

ーーそれでも
成果主義が優先される現代とは異なる職業美学が、この頃には確かにあったーー。

P61
結婚の報告をすると、まったく予想もしていなかった嬉しい出来事が起こった。

当時のジャイアンツ一軍マネージャー・山崎弘美の計らいで選手たちを中心に奉加帳が作られた。チーム付きマネージャーでありながら、前監督の川上哲治の身の回りの世話もしていた山崎は、しばしば菊池に仕事の協力を仰いでいた。

(中略)

そうした日頃からの誠意に対して恩義を感じていたためか、山崎がリーダーシップを取る形で、ジャイアンツの首脳陣、ナイン、球団関係者の間で奉加帳が回されることとなった。
そもそも「奉加帳」とは、神社や寺院に寄進する際に、「誰が何を寄進したか?」、あるいは「誰がいくら寄付したのか?」を書き連ねる帳面のことで、冠婚葬祭の際に用いられることがしばしばあった。

すぐに、上質の和紙を茶色い糸で綴じた一冊の帳面が用意された。その表紙には「奉加帳」と書かれてあり、さらに筆文字で次のように記されていた。

「祝 株式会社玉澤 菊池幸男君御結婚」

この帳面がジャイアンツのロッカー内で回覧されることとなった。

(中略)

そして、長嶋茂雄が、王貞治が、それぞれ「一、金壱万円也」と、菊池のために自らしたためている。川上哲治、長嶋、王のほかに正力亨オーナーの名前もある。

そこには、一軍のみならず、二軍選手の名前もあるし、ユニフォーム組だけではなく、フロント業務の者などジャイアンツ関係者だけでも七十名ほどの名前が書き込まれてあり、その他、玉澤関係者、私的な関係者を含めると、その数は百五十名以上になった。

(中略)

数日後たまたま多摩川の練習場で菊池は長嶋と一緒になった。菊池の姿を見つけると長嶋は改めて言った。

「きっと、菊池クンは酒ばっかり呑んでいて、あんまり貯金もないんだろ?この前の奉加帳とは別に結婚祝いだ、取っておけよ」

そう言うと財布から五万円を取り出し、むき出しのまま菊池に手渡した。

「偶数だとわりきれて縁起がよくないから、こういうときは奇数のほうがいいんだよ」

長嶋の気配りに菊池は涙がこぼれそうになった。

(中略)

昭和五十年一月十七日ーー。

菊池幸男、前田万里子は東京・上野精養軒で結婚式を挙げた。

選手の中からは長嶋と王の両名だけを招待した。所用があったために長嶋は参加することはできなかったけれど王は律儀に参加してくれた。

この日は、阪神タイガースのスター選手、田淵幸一の結婚式の日でもあった。王は菊池の結婚式だけではなく、田淵の結婚式にも招待されていた。そこで王は、最初に田淵の結婚式に出席した後に、そこを早々に切り上げて菊池の許を訪れたのだった。

(中略)

後日、王の取材を続けている番記者から、菊池は思わぬ話を聞いた。この日、王はその新聞記者に対してポツリとつぶやいたという。

「田淵君の結婚式もいいけれど、本当は裏方の人こそ、きちんと祝福してあげなきゃいけないんだよね・・・」

ミスター・タイガースとして売り出し中の田淵の結婚式には、黙っていても多くの人が訪れることだろう。けれども、普段自分が世話になっている菊池の結婚式ならば、何を置いてもそちらに出席する方が大切だ。それが王の考えだった。

この結婚式から三十五年以上が経過した今でも、王の考えは変わらない。王が述懐する。

「本来なら、菊池クンの結婚式に出るのが当たり前でね。だって、田淵君とは同じチームの仲間ではなく、あくまで敵同士なんだしね。ましてチームのために働いてくれている裏方さんこそ、日頃の苦労に対してみんなで祝ってあげなきゃいけないんですよ」

P101
ある日玉澤退職の噂を聞きつけたジャイアンツの広報部長・紺野靖彦が菊池に連絡を寄こしてきた。

「もし、本当に玉澤を辞めるのなら、一度、うちの一軍総務担当の戸田久雄に相談してみたらどうだい?」

しばらくすると戸田からの連絡が来た。

「菊池クン、本当に玉澤を辞めるのかい?次の仕事のあてはあるの?」

「いいえ、まだ決まっていません」

「じゃあ、うちに来たらいいじゃないか!」

あまりにもとんとん拍子に話が進むので菊池は驚いた。

(中略)

ーーこうして急転直下、菊池のジャイアンツ入りが決まった。昭和五十七年十一月一日付で、菊池は(株)読売巨人軍の一員となった。玉澤退社から巨人軍入社まで、そこには「空白の一日」はなかった。

玉澤入社から十五年、そして、これから菊池とジャイアンツの関係は、さらに二十五年ほど、続くことになる。

ーーそれにしても、と菊池は思った。

玉澤入社以来の十五年間、何か困難に直面したときには、いつも誰かが救いの手を差しのべてくれた。改めて「自分はなんて幸運なのだろう」と思った。

しかし、あえて不遜な言い方をさせてもらうとするならば、いつも誰かが助けてくれたのは、自分がこれまで頑張ってきたことが認められた結果なのかもしれない、という確かな自信もあった。

ーーきちっと頑張れば、必ずどこかで誰かが見ていてくれる!

それが、このとき菊池が強く感じた思いだった。

P268
十年に及ぶマネージャー生活の中で、菊池は一度だけ真剣に「マネージャー辞任」を考えたことがあった。それは、九十七年の開幕直前のことだった。

(中略)

まずは長嶋に事情を報告することにした。菊池の話を聞いて、長嶋は短く言った。

「代表も、本社からいろいろ言われてイライラしているんだよ・・・」

菊池が黙っていると、長嶋が続けた。

「・・・そのパンチングボールに菊池クンがなっているんだ。わかってくれ」

常に現場に出ているために、本社で何が起きているのかは正確にはわからない。それでも、菊池にも読売新聞本社と読売巨人軍の間には、さまざまにうごめくそれぞれの思惑があることは十分理解していた。長嶋の言葉を受けて、菊池が口を開いた。

「それでも、もう私も疲れました・・・」

長嶋は、菊池の目を真っ直ぐに見つめて言った。

「大丈夫オレが必ずフォローするから。オレが菊池クンを守るから!何かあったら、オレに任せろ!絶対にちゃんとするから!」

幼い頃からの憧れの人ーー長嶋茂雄が、自分のためだけに言ってくれた言葉。

それは、萎えていた心にポッと灯りが点るような温かい言葉だった。自分のもっとも身近なところに、たった一人でももっとも心強い味方がいてくれる。それは、涙が出るほど嬉しく、そして勇気が湧いてくる言葉だった。

後に振り返ってみれば、このときこそマネージャー生活最大の危機だったのかもしれない。それでも、敬愛する長嶋からの言葉で、菊池は何とか自己を失うことなく、マネージャーという職務を最後までまっとうすることができた。

企業の人事業績評価法の一つに「成果主義」がある。
周知され結構な時間が経過したが、上手く機能している話を殆ど聞かない。
なぜ、成果主義は機能しないのか。
よく言われるのは「日本文化と馴染まないから」だが、本当にそうなのか。

答えは「否」だ。
本書を読むと、それが改めてよくわかる。
選手の活躍と巨人軍の勝利を一義とする、スポーツ用品メーカー営業菊池幸男さんの自社製品の営業を超えた不断の滅私奉公と最善努力
菊池さんが結婚する折の巨人軍一軍マネージャー山崎弘美さんの奉加帳回覧長嶋茂雄さんの個別祝儀王貞治さんの結婚式参列
菊池さんがスポーツ用品メーカーを退職する折の巨人軍広報部長紺野靖彦さんの入社斡旋
菊池さんが巨人軍退社を考えた折の長嶋監督の「オレが守るから!」宣言
これらは全て、成果主義の産物と奇跡に違いない。

たしかに、成果の本質は他者評価だ。
凡そ自己評価と相容れ難く、たとえ自分がいかに上手く料理しても、食べた人が「不味い」と言えばそれまでだ。
しかし、日本人であれ欧米人であれ、自分が成果相応に他者から評価されるのはフェアであり、望む所に違いない。

成果主義が機能しないのは、概して、成果の評価基準の定義が不適切だからだ。
評価基準が会社(上司/利害関係者)と社員(部下/担当者)との間でかい離し、会社評価と自己評価に齟齬を来たしているのだ。
菊池さんが用品営業として、また、マネージャーとしての自分の成果の第一評価基準を「選手の活躍に、巨人軍の勝利に貢献しているか?」と定義していなかったら、また、巨人軍のユニフォーム組、フロント組の全員が菊池さんの成果の第一評価基準を「選手の活躍に、巨人軍の勝利に貢献してくれているか?」と定義していなかったら、先述の行為は有り得なかったに違いない。
そして、もし、菊池さんが自分の成果の第一評価基準を「自社製品の販売ノルマを達成しているか?」と定義していたら、また、巨人軍のフロント組が菊池さんの成果の第一評価基準を「用品コストの低減を達成しているか?」と定義していたら、本書は上梓されなかったに違いない。



不滅 元巨人軍マネージャー回顧録
長谷川 晶一
主婦の友社
2012-02-24




kimio_memo at 07:25│Comments(2) 書籍 

この記事へのコメント

1. Posted by S.HASEGAWA   2012年04月26日 11:38
『不滅』著者の長谷川です。
心のこもった感想、どうもありがとうございます。

最後の二行は、まさに本書のキモです。
菊池さんの働く姿を見ていて、
あるいは思い出話を聞いていて、
「働くことの意味」を改めて感じました。
そして「ぜひ、書きたい」とも思いました。

本当に、どうもありがとうございました。
2. Posted by 堀@感動人   2012年04月27日 06:55
長谷川晶一さん

こんにちは、堀です。
コメントをありがとうございます。
著者さま直々にコメントを、しかも、読了直後のなまめかしい(?w)心情を吐露しただけの駄文にコメントをお寄せくださり、恐縮ながら改めて感動いたしました。

この度は、「不滅」を上梓くださりありがとうございました。
正直、本書は「装丁買い」でしたが(笑)、読み進めて行く内に引き込まれ、数多の思考と感動を授かりました。

最後の二行が、本書のキモかつ長谷川さんのイイタイコトとのことで、光栄かつ感激です。
勝手な妄想でしたが(笑)、本書から授かった思考の最たるでしたので、書き留められて幸甚です。

長谷川さんが菊池さんの述懐から「働くことの意味」を再考し、上梓を思い立たれたのは、成る程かつ禿同(笑)です。
私は、人はみな何らか役割を持って生を受けている、と思っています。
働くことは「ハタをラクにすることだ」と言われますが、自分の生来の役割を探求し、誤解を恐れず実践することが、結果的に「働く事」、「ハタラク事」になるのではないでしょうか。

長谷川さんが本書を上梓くださったこと、ハートフルなコメントをお寄せくださったこと、並びに、直接ご縁を授けてくださったことに重ねて感謝いたします。
末筆ですが、益々のご健勝を祈念申し上げます。(礼)

堀 公夫

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