2012年01月23日
【落語】「あなたも落語家になれる―現代落語論其2」立川談志さん
P338
最後にひと言。
落語とは、”人間の業の肯定”といってきたが、それは”業”を克服するという人間の心掛けがあってはじめて成り立つものである。
本来それが人間の生き方の基本であったのだが、この頃では生き方への努力、つまり、”業”の克服への努力が少なくなってきた現在、科学文明の進歩は、人間になるべく辛いことをさせないように、便利により多くより速くにと進んできた。
科学文明が進めば進むほど、”業”を克服する必要もなくなり、従って”業”の肯定も、受けなくなる危険も出てきた。
それなら、いっそのこと、もっと凄い怠惰でも演ってみるか。
『あくび指南』のように、また『ひねり屋』のように・・・爛熱の極致を演るか。
歩いている男、何かにつまずいて転んだ。
起き上がって歩くと、また転んだ。
「さっき起きなきゃァよかった!」
という小噺があるが、いまでは、転んでもそのまま起きない子どもが増えていると聞く。
そうなると、いったいどうなっちゃうんだろう。
「何で起きるんだい?馬鹿みたい!」
となるのか。
立川談志さんの27年前(1985年)のこの予言は、正に的中した。
昨今、私たちの多くは、日常で普通に”業”を肯定するようになった。
落語に限らず、映画、音楽、文学といった伝統的な娯楽がこぞって衰退しているのは、「普遍の真理の語り部」が絶滅に瀕していることに加え、本件に拠り「事実は小説より奇なり」が珍しくなくなったからだ。
娯楽の本質は「非日常」だが、非日常で故意に”業”を肯定する必要は、即ち、公でも私でもない第三の場所で不出来な自分を絶望から救う必要は、もはや無いに等しい。
私たちの多くは、科学文明の効用ばかり享受し、自らの成長を怠った。
また、自戒も怠り、科学文明の中毒患者と化した。
談志さんは、以下仰ったが、昨年の臨終の折、本件をどう総括なさったのだろう。
そして、私たちは、私は、本件にいかに抗うべきなのだろう。
P340
貧乏人がなくなっても、人間の協力が理解できなくなっても、様式がわからなくなっても、最後まで抵抗して、現代とフィットさせてやる。
日本人ならどっかに落語とフィットする部分がある筈だ。
それを頼りに現代に通ずる良い作品を残しておいてやろう。
そのために、現代にまだまだ挑戦したいと思う。
しぶとく、生きたいと思う。
落語家の生きざまを見せてやろうではないか。
そして、最後の名人となって、私たちといっしょに生きてきた老いたる芸人やファンの支えとなって、昔のことをグラフティとしても語ってやろうではないか。
伝統を生かし、現代に生きている”語り部”になってやる。
kimio_memo at 07:34│Comments(0)│
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