2011年11月30日
【BSフジ】「立川談志さん追悼特別番組/メッセージ.jp」立川談志さん
【福田和也さん】
家元の場合、やっぱり、さっきご自分でも仰ってましたけど、プロデューサーみたいな側面も凄くありますよね。
【立川談志さん】
そうねぇ。
【ナレーション】
「笑点」大喜利の名脇役、座布団運び、(当時)談志さんがそこに抜擢したのが、昔からの友人だった若手俳優、石井伊吉。
彼に「毒蝮三太夫」という新たな芸名を与えます。
【福田和也さん】
毒蝮さんも、ある意味で言うと、やっぱり、家元のプロデュースの産物・・・
【立川談志さん】
俺の作品ですよ。
あんなの、ほっときゃ、売れなくてヨボヨボになって死んでいるかどうかもわからねえ。
何の芸もねえんだもん、アイツは。
台詞も満足に言えねえんだ、アイツ。
【福田和也さん】
昔は好青年の俳優だった・・・
【立川談志さん】
そうそうそう。
(中略)
まあまあ、そりゃまあ、傑作の一つですけれどね、私のね。
【福田和也さん】
というか、毒蝮さんのその可笑しさですよね、あの例の、ホームから突き落とそうとしたという。
ホームで、電車が入ってくる時に、毒蝮さんが、家元をこうパァっと突き飛ばして・・・
【立川談志さん】
(それで)ぐるっと回った記憶はアイツだったか誰だったか。
アイツぐらいだろうな、きっと、あんなことをやるヤツは。
【福田和也さん】
でも、(談志さんは)ホームの柱に取り付いて、「お前、もし死んだら、どうすんだ!」って言ったら、毒蝮さんがね、「そりゃ、洒落がわかんないヤツ」になるんだろうなって(言ったらしいですね)。(笑)
【立川談志さん】
だから、面白い部分だけをね、アイツ、自分でも何が面白いかわかってないんだよね。
(ある時)「ウチの母親が手を折っちゃった」って言うと、(毒蝮さんが)「そうか、大変だな。歩けねえな」って(応答したんですよ)。
(応答の内容が頓珍漢なので、私が)「お前、人の話をどう聞いているんだ!何で腕折って歩けねえんだ!」(って返すと、毒蝮さん曰く)「這って」だって。(笑)
そりゃそうだ、(腕の骨を折ったら)手を這って歩けねえよな。
(毒蝮さんの)そういう面白い所を、俺がピックアップしてやったわけよ。
だから、自分で何が可笑しいかわからねえんだ、アイツな。
山の様にあるよ、蝮語録って。
「本人が未知の、未自覚の強みを引き出し、対象顧客向けに価値化(競合優位化)すること」。
成る程、「プロデュース」の本質は、これに違いない。
天才の言は、概して比喩的だが、殊に本質的で、理解容易だ。
これは、羽生善治さんの言を拝聴する度思うことだが、立川談志さんのこの(これ以外も多々そうだが)言を拝聴し、再認識した。
天才落語家、立川談志さんの冥福を改めて祈念したい。(敬礼)
★2011年11月26日放映分
http://www.bsfuji.tv/top/pub/message.html
11月21日、喉頭(こうとう)がんのため75歳で死去した不世出の落語家、立川談志の、2008年3月4日に放送したロング・インタビューを特別放送!あらゆる芸人からあがめられている天才落語家・立川談志の歯に衣着せぬメッセージを送る。
―今の落語ブ―ムについて―
「客が来る、関心を持つということがブ―ムというならブ―ムなんじゃないですか。でも私の考えている落語の本質とは違うところにあると思う。少なくとも自分は、オリジナリティ―を含めて三木助、円生、文楽、志ん生、小さんの後継者という部分も持っている。」
―挫折したことは?―
「挫折はなかった。水泳をやっていたけど体力がないから駄目だったっていうのと、タップやったけど才能がなかったから駄目だったっていうだけでね、挫折と いうほどではない。自己分析が正しかったっていうだけでね。だってないよ。ガキのころから落語が好きで、若いころからずっと売れているんだから」
―落語と出会ったきっかけ―
「おじに連れられて松竹演芸場に入ったのが、落語に触れた最初の瞬間。中学に入ったあたりには、押入れに座布団敷いて、高座を作って寄席ごっこをしていた。落語界に入って回り見たら、バカばっかりでこれは売れるなと思った」
―中学時代、寄席に熱心に通った―
「でも小遣いがないから、焼け跡から銅だとかアルミだとかを盗んできて、それを売ったりしてね。末広亭のポスタ―が地元の駅にはなく、山を越えた駅の方にはあったから、そこまで行ってポスタ―をはがして持って来たりしていた。もう落語三昧だった」
―落語家になることに両親は?―
「"みっともないからやめてくれ"と言われた。売れ出したら"あれはウチの倅(せがれ)です!"なんて言い出した。選挙に出るときもそうだよ。"それだけはやめてくれ"と言われた。当選したら"ウチの子です!"なんて言い出した。まぁ親だから、しょうがない」
―柳家小さんについて―
「この人でなかったら俺は、ここまで育たなかった。俺のことを『いいんだよ、あれはあれで』と言っている師匠の文章を読んだことがありますけどね。普通、師匠に言っちゃいけないことを平気で言ってたけど、私たちの関係は、今考えれば親子みたいなものだったから」
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