2011年10月14日
【人生】「老いる覚悟」森村誠一さん
P23
「覚悟」とは、決意の凝縮である。
人生という長い道程の中で、考え、選択してきた心構えの凝縮なのである。
(中略)
自由に覚悟をする。
あるいは覚悟をしない。
「覚悟をしない」という選択も、覚悟の一つである。
(中略)
覚悟には三つの種類がある。
まず第一に、平穏無事で何も不満がない、弛んだ生活をしている。
そういう平常時の覚悟である。
次に、今までの人生が限定を受けた時の覚悟。
今まで築いてきた地位を追われ失脚した場合、会社が倒産して失業した場合、強力なライバル会社が台頭してきて事業が立ち行かなくなった場合、技術革新が起きて自分の培ってきた技術が役に立たなくなった場合などである。
(中略)
そして最後のひとつは近い将来起こるであろう出来事に対する覚悟。
検診を受けてがんが発見され、余命三ヶ月を宣告された。
そうなれば、その三ヶ月をどう生きようかという覚悟ができる。
臨終に向かう覚悟である。
自分が死んだときに周りの人間が困らないように遺書を書いたり、身辺の整理も重要である。
家族や親戚、友人関係にも悟られぬように整理をしていく。
これは難しくないようで強い意志の力を求められる覚悟だと思う。
なぜ、私たちの多くは、「『覚悟をしない』覚悟」をしてしまうのか。
主因の一つは、人生において大事にすべきことを決めていないからではないか。
「これは大事にするが、これ以外は大事にしない(捨てる、諦める)」と決心していないがゆえに、全てのことが大事に思える、失うべきではないと感じる。
だから、「『覚悟をしない』覚悟」をしてしまうのではないか。
しかし、これは誤りだ。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」だ。
人は、多くのものを諦めて初めて、残った少しのものを大事にできる。
P30
江戸期から昭和二十年(1945年)の敗戦の少し前あたりまで、時代の変化といっても、過去の延長線上にあった。
現在は、延長線上にない。
そんな時代は、今だけなのである。
「今どきの若い奴らは」と、よくいわれるが、今の老人たちが若いときもいわれていた。
石原慎太郎が二十三歳で『太陽の季節』を書いたときにもいわれた。
それが今、七十八歳の老人になっている。
わたしたちがいわれた「若い奴ら」と、今の老人たちがいう「若い奴ら」は、全然異質なものになっている。
『太陽の季節』の「若い奴ら」は過去の延長線上にあったが、今の「若い奴ら」は過去の延長線上にいない。
私も「若い奴らは」という言葉を使う年になったが(笑)、この言葉を使う下心に「自分の方が正しい」という思いがある。
ただ、この思いは下衆であり、そもそも正しくない。
なぜなら、「若い奴ら」の行動を、意思決定プロセスを理解せず否定しているからだ。
森村さんのお考えに従えば、「若くない奴ら」が彼らの意思決定プロセスを理解できないのは、「過去」、即ち、「自分の経験」の延長線で彼らの心情(変化)を推し量るからだ。
私を含め「若くない奴ら」は、現在が必ずしも過去のてん末と限らないのを自覚、再認識する必要がある。
P31
人生とは、生まれた瞬間から死へ向かって歩き始める道程であり、その道程を表す日めくりカレンダーのようなものである。
日めくりの残り枚数(寿命)は個人差があり、不平等である。
残り枚数がはっきりわかってしまっては、まさに死刑執行を待つ身になってしまう。
残り枚数がわからないところが人生の妙味である。
亡き母と色川武大先生が言うように、人は病気や事故ではなく寿命で生涯を閉じる。
人の不平等の最たるは寿命だ。
このことを思えば、能力、美貌、出所など、それ以外のことは知れている。
私たちは、不平等を嘆かず、予想外の日めくりが出るのではないかと、妙味に感じるのが賢明だ。
P39
平均寿命が八十歳を超える今、高齢者=尊敬という状況が、いつの間にか、崩れてきた。
現代の劇的な変化によって、社会全体の価値観が変わってきたのである。
現在の社会構造の中で、一番求められるのは便利性だろう。
少し前までは、携帯電話やパソコンなどなくても、何の不便も覚えなかった。
しかし一旦、便利性を知ってしまうと、もう手放せなくなってしまう。
(中略)
誰もが、便利性の奴隷、つまり、「便奴(べんど)」になっている。
人間がみんな便奴になってくると、高齢者はより道具に頼るようになり、さらに便奴になっていく。
最近は、社会全体が非常に過保護的になっている。
特に日本は、保護されて当然という考えの高齢者が増えているようにも思える。
これも、便奴化を加速する。
駅へ行くと、「左のトイレが女子トイレ、右のトイレが男子トイレ」と案内板だけでなく、音声でも案内をしている。
そんなこと、外国ではない。
(中略)
こうなると、自分でやれることや、確認すべきことまでも他人や機械に任せてしまう。
バリアフリーというのは、本当に身動きできない老人や、あるいは体の不自由な人のためにある。
バリアフリーの精神の過多は、ややもすると、老人を尊敬される対象から、尊敬されない存在にしてしまう。
何でもかんでも、自分でできることさえも、バリアフリーや周りの他人に頼ってしまい、それがあたり前という顔をしていたら、どう思われるであろう。
あえて悪くいえば、バリアフリー根性かもしれない。
バリアフリー根性に胡坐をかいていると、老いる覚悟も崩れ去る。
老人は尊敬されなくなってしまうのである。
「便奴」なのは、老人に限らない。
私たち中年も「便奴」であり、若い人もそうだ。
日本人は悉く「便奴」だ。
なぜ、日本人は「便奴」に成り下がったのか。
一言で言えば、馬鹿になったからだ。
「バカとハサミは使いよう」という言葉があるが、私たち日本人は馬鹿になったのだ。
便利なモノで端折れたリソースを自己成長へ回さず(投資せず)、そっくり享楽事に費やしてしまった。
馬鹿者ほど、自分の馬鹿さに無知だ。
昨今の過保護を希求、当然視する風潮は、自分の馬鹿さに気づかず、自己利益の担保を他者に責任転嫁している表れだ。
そんな人間が尊敬されないのは、当然だ。
私たちは、便利なモノを自堕落の麻薬と認識する必要がある。
P45
昔は冠婚葬祭などで、おじいちゃん、おばあちゃんに訊かないと、わからないことがたくさんあった。
だが、今の高齢者は、老いの知恵がなくなった。
「そんなこと、わたしもわかんないわよ」、と平気でいう老人も多い。
それどころか、現代では、おじいちゃん、おばあちゃんを知恵袋として頼るよりも、インターネットを気軽に活用する風潮がある。
ネット社会では、どんな情報も、インターネットの中で検索できると思われがちである。
しかし、尊敬される高齢者は、インターネットに載っていない情報を持っている。
人生で培ってきた千軍万馬の経験や叡智がある。
機械などでは手に入らない貴重な情報を高齢者の知恵が埋めてくれる。
高齢者がいるだけで、何となく社会や家庭が安定する。
そういう老人にならなければいけない。
「うちはおじいちゃんは物知りで、しっかりしているよ」、「うちのおばあちゃんの作る糠漬けは最高においしい」といわれるような存在になればいい。
家族や社会から必要とされる老人になる覚悟が大切なのである。
「そんなこと、わたしもわかんないわよ」と平気で言うのも、老人に限らない。
私たち中年も、若い人もそうだ。
日本人の殆どがそうだ。
なぜ、こうなったのか。
一つは、「恥の文化」の衰退が関与しているのではないか。
日本の美徳であった「恥の文化」は、経済の減退と格差拡大の明確化から、大きく衰退した。
昨今、「オバカタレント」なる芸能人まで出現した。
他者から「あの人、こんなことも知らないんだ」と言われることなど、もはや恥ではない。
もう一つは、知的好奇心や成長意欲の減退が関与しているのではないか。
昨今、女性を主に「いかに外見(そとみ)を良く見せるか」ばかりが注目され、「いかに内面を充実させるか」が等閑にされている。
主因の一つは、世の中の不確実性が増え、私たちが、費用対効果が読み難い後者よりも、刹那であれ費用対効果が読み易い前者が選好するようになったことにある。
かつて、私たち日本人は「一億総中流」を志向したが、今は「一億総刹那」を志向している。
P55
定年後、第二の人生のスタートラインに立って、「これから自由にしなさい」といわれたとき、そこには、「何をしてもいい自由」と、「何もしなくてもいい自由」がある。
「何をしてもいい自由」とは、自分の夢を実現したり、新しいことに挑戦することである。
会社、組織での人生のしがらみを捨てて、未知の分野に進む覚悟である。
(中略)
「何もしなくてもいい自由」とは「何をしてもいい自由」とちょうど正反対で、社会とかかわりを持たず、一日中ひとりでテレビを見て暮らすような、本当に何もしないことである。
夢を叶えるでもなく、新しいことにも挑戦しない。
日々あるがままに過ごすことをいう。
どっちを選んでもいいよといわれると、「何もしなくてもいい自由」を選ぶ人が多い。
会社、組織を退職した人、特に一流会社の、いい地位で定年を迎えた人は、「何もしなくてもいい自由」を選びがちである。
誰も計画を立てたり、命令をしてくれる人間がいなくなり、ひとりでは何をしていいのかわからなくなってしまうのである。
(中略)
組織を辞めれば孤独になるということが、現実的にわかっていなかったのである。
何十年も会社という組織の中で一生懸命働いてきたのだから無理もない。
それまでは、会社のポリシーの奴隷であった。
会社に忠誠を誓い、ポリシーに縛られている人を、わたしは「社奴(しゃど)」とよんでいる。
しかし「社奴」から放たれた人のほとんどが途方に暮れる。
何をしていいのかわからない、どこに出かけていくのかも決められない。
長年放っておいたので、家庭にも居場所がない。
リタイアして年金生活をおくっている私の仲間も、やはり、何もすることがない人のほうが、多い。
しかし、家にはいられないので、仕方なく、ひとりで街に出て時間を潰している。
本当に何もすることが見つけられない人は、電車の環状線に乗っている。
環状線に一日中乗り続けて、本を読んでいる。
自分ひとりでは何もできずに、仕方なしに「何もしなくていい自由」を選ばざるを得ない悲劇。
「タイムイズマネー」を地でいっていたエリート社員が、時間を潰すために、一日中電車に乗っているなどと、本人たちも想像できなかったであろう。
「何をしてもいい自由」よりも「何もしなくてもいい自由」を選ぶのも、定年後の老人に限らない。
私たち中年も、若い人もそうだ。
日本人の殆どがそうだ。
なぜ、私たちは「何もしなくてもいい自由」を選好するのか。
主因の一つは、憤怒の諦観化ではないか。
かつて、私たちは、世の矛盾や問題に少なからず憤怒を覚えた。
そして、その憤怒が「何をしてもいい自由」の選択を強く迫り、新しい行動を呼び覚ました。
しかし、今や、私たちは、世の矛盾や問題に、「所詮そんなもので、自分にはどうしようもない」と諦観を覚えるようになった。
そして、その諦観こそが、私たちに「何もしなくてもいい自由」の選好を奨励しているのではないか。
P83
田舎の町は隅々まで密着している。
近所の人が覗き込んで、「おじいちゃん、元気?」と声をかけたり、「これうちの鶏が産んだ卵だからあげるね」などと隣近所で気を遣う。
それがときにはうっとうしいと感じることもあるであろう。
田舎暮らしでは金銭とかかわりなく、毎日しなければならない仕事がある。
同じ仲間と毎日会える。
都会暮らしの人から見ると何と地味な生活だろうと思うが、田舎の生活とコミュニティは老人を孤独にさせない底力を持っている。
反対に都会のマンションは、どの部屋にどんな人が居るのかわからない。
人との交流がないというより、相互不干渉主義という名のもとの、人と人とを隔絶する力を持っている。
私も約二年前から所謂都会のマンションに住んでおり、「相互不干渉主義という名のもとの、人と人を隔絶する力」を日々痛感している。
この力は、私たちが隣人を愛せない囚人のジレンマも増幅するため、老若男女問わず厄介だ。
P85
若いときの欲望は、十代や二十代ではきれいな女性にもてたいとか、いい車に乗りたい、早く結婚したいなど、比較的に単純で直截的なものが多い。
簡単にいえば、物欲と肉欲である。
三十代、四十代では、会社で出世したい、起業して社長になり金持ちになりたい、など出世欲とか金銭欲が中心になってくる。
そして壮年になると、将来がある程度見えている。
勝ち組は世間で賞賛されたい、権力を手に入れたいと思い、その他は平凡な暮らしがいつまでも続くことを第一に考える。
ごく一部の欲望むきだしの老人を除き、老いてきたときの欲望は、枯れてくる。
枯れるということは人間の夢や希望、新しい可能性も枯れてくることを意味するのである。
老いても人間枯れたらおしまいだという執念が必要になる。
自分は絶対枯れないという覚悟を持たなくてはならない。
人間は歳をかさねても、欲望を持ち続ければ、艶がなくならない。
生涯現役で生きていくために、欲望はビタミンと同じ必要なものなのである。
「枯れること」は「絶望すること」だ。
「枯れること」を抑止するには、「大地の子」の陸一心の如くいかなる状況でも「絶望しないこと」だ。
「絶望しないこと」は「希望を持つこと」と同義ではない。
希望、夢、可能性といった、生きることのプラスの私的インセンティブ(誘引)が絶えてもなお、他に何か自分が生きるべき一片の理由を見出すこと。
これが「絶望しないこと」だ。
本当の「自分探し」は、自分が生きる一片の理由を見出すことかもしれない。
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