2011年10月01日
【私小説】「いねむり先生」伊集院静さん
P196
ポスターの中で笑っていたのは、二年前に亡くなったボクの妻だった。
(中略)
「サブロー君、行きましょう」
「は、はい」
ボクは返答し、先生のあとを追うように歩き出した
(中略)
この二年、つとめて忘れようとしてきて、ようやく平静になったと思い込んでいたものが、突然、目の前にあらわれ、しかも先生と一緒の時に、そうなったことがよけいにボクの感情を揺さぶった。
(中略)
「サブロー君、人は病気や事故で亡くなるんじゃないそうです。人は寿命で亡くなるそうです」
「・・・」
ボクは先生の言葉の意味がよくわからなかった。
それっきり先生は何も言わなかった。
「先生」とは、どのようなことができる人のことか。
すぐ思い浮かぶのは、特定の知識や方法論を教示できることだろう。
しかし、欠かせないのは、一歩先から適宜、物事の道理と人生の不条理を教示できることだ。
たしかに、一歩先ゆえ、教示直後は、100%未満の理解しか得られない。
だが、一歩先かつ適宜ゆえ、後年、120%の理解と共感が得られる。
そんな風に見込んだ他者へ、徒労を怖れず長い目で根気強く、物事の道理や人生の不条理を教示できること。
「先生」とは、これができる人のことだ。
「人が亡くなるのは、病気や事故ではなく、寿命である」。
これは、生前母もしばしば言っていたが、正に物事の道理であり、また、人生の不条理だ。
サブローこと伊集院静さんがこれを私たちに教示する、教示できるのは、自ら、いねむり先生こと色川武大先生に教示され、後年120%の理解を果たした「先生」だからだ。
「先生」は、生まれ出るものではない。
「先生」は、「先生」に見込まれ、創り出されるものだ。
kimio_memo at 06:19│Comments(0)│
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