2011年10月25日
【NHK】「100分de名著 ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4回」斎藤環さん
就活も婚活もそうですけども、どうしても比較の発想になっちゃうんですよね。
こっちが大きいとかですね、こっちが安定しているとか、福利厚生がいいとか。
比較の話ばかりをしていると、私は、みんな、段々(ニーチェの言う)末人(まつじん)的になっていくというか、どっかしら、自分が置き去りになってしまう感じがするんですよね。
で、精神科医として言うんですけど、精神分析的には正しい生き方っていうのがあってですね、それは何かって言うと、自分の欲望を諦めないことなんですよ。
最後まで諦めないこと。
絶対譲歩しちゃいけないんですから。
ただ、一番難しいのは、さっきね、瀧口(友里奈)さんが仰ったように、自分が何が欲しいかわからないっていうことですよ。
これが最大の難点なんですよね。
自分の欲望は自分なんですよね、要するに。
だから、「自分探し」イコール「自分の欲望探し」なんですよ。
結構難題なんですよ。
だけど、比較の発想を段々剥ぎ取ってですね、やめていけば、ひょっとしたら僕は見つかるんじゃないか、と思っているですけど。
やっぱり、どっぷりと受験の時からですね、就職、結婚に至るまで、ずっと比較の発想に慣れ過ぎていると、欲望が逆に見えなくなってしまうんですよ。
何とかそこを一回リセットするようなですね、キッカケを、旅行でも何でもいいですから掴んで欲しいなと思いますけれどね。
「『自分探し』イコール『自分の欲望探し』」というのは、成る程かつ言い得て妙だ。
しかし、なぜ、私たちは、「自分の本当の欲望」、即ち、「本望」に気づきにくい、見過ごしてしまう、のか。
たしかに、斎藤環さんが仰るように、理由の一つは、「本望の達成に寄与すると思しき機能の選択肢が多いから」だろう。
大好きな異性にフラれ、身近な旧知の異性との逢瀬で週末を凌いだ経験は、誰にもあろう。(笑)
ただ、選択肢の多さで本当に問題になるのは、「凌いだ」自覚を忘れてしまうことではないか。
一人の週末を代替者で「凌いだ」という自覚を忘れなければ、しかと自分に課すことができれば、その異性と惰性的に付き合うようになることはなく、大好きな異性の再発見に努めるのではないか。
私たちが「凌いだ」自覚を忘れてしまうのは、目先の辛苦から逃れられた安堵についひたってしまうからではないか。
目先の辛苦から逃れられた安堵は麻薬であり、要注意だ。
★2011年8月31日放映分
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/01_nietzsche/index.html#box04
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