【BSTBS】「SONG TO SOUL 永遠の一曲」Boz Scaggs”We're All Alone”〔解説〕角松敏生さん【BSTBS】「グリーンの教え」佐々木忠さん(JUN代表取締役会長)

2011年11月01日

【漫画】「赤塚不二夫120%」赤塚不二夫さん

P17
じゃあ、ギャグってなんだろう。

ひとくちでギャグって言うけど、世の中にはいろいろなギャグがある。
テレビを見ていると、タレントが「そのギャグどこで覚えたの?」とか言っているけど、ギャグでもなんでもないことがほとんど。
ただの言葉の遊びやダジャレで・・・。

僕はギャグっていうのは、もっと違うものだと思っている。
きちんと形があって、細部まで考えられていて、ちゃんと効果が計算されているもの。
たとえば、チャップリンの無声映画は、なぜ面白いのか。
だって、台詞なんかないんだから。
それでときどき、スーパーで台詞がパッと入る。
「君は僕を好きかい?」とか、なんでもないような言葉が。
それでも面白い。

(中略)

そういえば、こんな映画もあった。
花嫁姿をした花嫁さんが100人で、キートンを追っかけてくるんだよ。
それで逃げるんだ。
理由がないんだよよ。
なぜか、なんだ。
彼の映画はみんな。
でもお客は納得してしまう。
キートンの映画は、そういう意味では乱暴だけど、でもあそこまで考えたナンセンス度はすごいと思う。
それに比べるとチャップリンの映画は、もう少し知性が勝っている。

笑いというのは、基本的には言葉とアクションのふたつなんだね。
それで瞬間的な笑いというのはどこでも作れるけど、そういうのは本当のギャグではない。
でも大部分のいまの日本人は、ダジャレに毛の生えた程度のものをギャグだって勘違いしてるんだね。
だから考えながら笑えるというギャグにまで到達しない。
面白いこと言うな、ハハハ、で終わっちゃう。
それで過ごしているから、笑いのレベルが低くなっちゃうんだ。

私たちは、昨今、何事にも「わかり易さ」を強く欲求している。
たしかに、私たちが有するリソースは限られており、かつ、人はそもそも直感で生きる生き物ゆえ「わかり易さ」は重要だ。
しかし、「わかり易い」ということは、視点を変えて言うと、「深く考えなくても理解できる」ということだ。
「深く考えなくても理解できる」モノは、ギャグであれ、笑いであれ、何であれ、価値のレベルは知れている。
「価値が知れている」と烙印を押されたモノ、ギャグ、笑いは、早晩、「そのモノは、こんなものだよな」、「ギャグって、こんなものだよな」、「笑いって、こんなものだよな」となり、成長を止め、堕落する。
成長を止め、堕落するのは、「深く考えなくなった」私たちも同様だ。
ただ、身勝手なことに、私たちは、堕落した自分を棚に置き、堕落したそれらを、また、それらのカテゴリーを、情け容赦無く関心対象から除外する。
今やお笑いのテレビ番組を見るのが、暇かつ成長意欲を失った専業主婦と老人に限られるのは、そういうことだ。
私たちは、「わかり易さ」を過度に欲求してはならない。


P129
人間って、作家にしても、一人の才能なんてたかが知れてるもの。
それを掘り起こしてくれるのが、優秀な編集者なんだと思う。
だから大作家になった人だって、もともとすごい人だったわけじゃないんだよ。
いい編集者がついて、「先生、今度こういうふうに書いたらどうですか?」って、方向を示してくれたから、伸びていったんだ。

編集者は、サラリーマンとはちょっと違う。
サラリーマンではいけないのだ。
でもいまの編集者は、サラリーマンがほとんど。
昔みたいに朝までマンガ家と酒飲んでつきあえるヤツっていないよ。
時間が来たら、帰っちゃう。
原稿もらったら、はい、サヨウナラ。
作家のほうも、あまり編集者と喋りたがらないしね。
いまの若い連中の特徴だけど、会話が少ないんだ。

僕はいままで、かなりの量のマンガを描いてきた。
でもこんなこと言っちゃ悪いけど、あんまり質のよくない編集者と一緒に仕事をした時は全部失敗している。
僕は、たった6本しかヒットを出していないのだ。
それ以外に200本くらい描いているだから、僕の作品は、ホームランか三振かどちらかだね。
もちろん自分のせいでもあるよ。
僕の実力不足。
でも担当の編集者に惚れて、編集者も僕に惚れてくれて、お互いに人間同士の信頼感が生まれて、センスがピタッと合った時には、必ず大ヒット作が生まれている。

(中略)

最初から大作家の人間なんて、どこにもいないんだよ。
小さな作品に、才能の芽生えみたいなものが見えることがある。
何か、光がある。
そこに「おっ、こいつ、なんとかなるゾ」って目をつける編集者がいた場合、伸びるんだ。
でも誰もそこに気づかないで、通り過ぎられることもある。
そうすると、ただのマンガ描きや文学少年、文学少女で終わっちゃう。
編集者というのは、僕らにとってどれだけ大事な存在であるか。
ところがいまは、編集者はただの原稿取りに成り下がった。
そういうふうになっちゃった。
本当は編集者は作家以上じゃないとダメなんだ。

ただの石ころを宝石みたいに磨いてくれる編集者がいなくなっちゃった。
昔はいたんですよ。
それで編集者も作家に触発される。
お互いにキャッチボールみたいなものだから。

漫画家と編集者の関係は、経営者と経営コンサルタントのそれに通じる。
不遜だが、たしかに、私は、赤塚さんが是とする編集者のような経営コンサルタントを志向してきた。
経営者との信頼関係の構築には、とりわけ注力してきた。
彼らの話は、時間や場所の別無く、最後まで注聴してきた。
その上で、彼らへ不断に、「であれば、今度こういう風にやってみたらどうですか?」と方向を示し、触発してきた。

しかし、私は、赤塚さんのこの「べき論」の如く、彼らの掛け替えの無い才能の芽生えを本当に見出してきただろうか。
そして、彼らの唯一無二の能力と人格を伸ばしてきただろうか。
私は、彼らのダメを指摘、修正してきただけではないか。


P210
現代の日本の笑いは、子供の笑いなんだね。
大人の笑いと作っていこうという作法がない。
送り手も受け手も、笑いに関して、もっと育っていかなきゃいけない。
そうしたらもっと面白いユーモアとかエスプリとかが出てくるんじゃないかな。
あと洒落た台詞とか。
考えてみれば落語なんかにも、いい台詞はいっぱいあったんだ。
昔の人は、そういう会話が体のなかに染みていたから、いまの人より会話が粋だったんだね。

マンガの世界も、こう言っちゃなんだけど、いまひとつ面白くない気がするのだ。
でもそれはある意味で、仕方がないことかもしれない。

昭和30年から40年くらいの10年間、すっごい勢いで新人がワーッと出てきて、マンガ大ブームになった。
いろいろな雑誌も出たし、いろいろなマンガ家が出てきた。
だから何を言っても、何をやっても通用した。
僕らの頃は、そういう時代だったのだ。
またマンガの黎明期だったから、何をやっても、おまえが大将って、それでいけた。
そういう意味じゃ、いまの若者はかわいそうだと思う。だって、スキマがないもの。
あんなクチャクチャ細かくって、本棚みたいになって、隙間がない。
だから、なかなか面白いものが出てきにくい。
みんな、絵はメチャメチャうまいんだよ。
でも、ストーリーに独創性やバラエティがあまりない。

ひとつは、送り手と受け手がくっついているんですね。
昔はすごい送り手がいて、「ああ、あれが面白い」というのがあったけど、いまはくっついているから、受け手が送り手になっても不思議じゃないし、送り手も受け手とレベルが同じ。
しかし作品っていうのは、本来そういうものじゃないと思う。
たとえば「伊豆の踊り子」なんて小説があって、一般庶民が読んでいいなぁと思うけど、作品と自分の間に距離がある。
そういう距離が、いまのマンガの世界にはない気がする。
文章の世界も、そうかもしれないけど。

最近の若い子たちは学校と家を行ったり来たりの子がほとんどで、メチャクチャ冒険してきる子が少ない。
だから、マンガを描くにしても、ストーリーの幅が狭い。
考えつかないんだね。
生活自体がノーマルだから。

大変教示に富む一節だが、一つ言えるのは、「芸術は女子供に媚びるべからず」ということではないか。

そもそも、芸術は、人が生き物として日常的に生きるだけなら要らない。
芸術が要るのは、人が人として高邁に、高潔に、即ち、非日常的に生きようとする時だ。
だから、芸術は、所謂「女子供」、即ち、「不勉強で自堕落な大衆」に媚びるべきものではない。
不勉強で自堕落な大衆にも支持されようと、「わかり易さ」と「日常性」を偏重し、大衆化してはいけない。
芸術、ならびに、芸術が持つ非日常的価値は、大衆的であるのはいいが、大衆化してはいけない。



赤塚不二夫120% (小学館文庫)
赤塚 不二夫
小学館
2011-04-06




赤塚不二夫1000ページ
赤塚 不二夫
扶桑社
1998-12-01




kimio_memo at 07:07│Comments(0) 書籍 

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
【BSTBS】「SONG TO SOUL 永遠の一曲」Boz Scaggs”We're All Alone”〔解説〕角松敏生さん【BSTBS】「グリーンの教え」佐々木忠さん(JUN代表取締役会長)