2011年08月25日
【将棋】「真剣師小池重明疾風三十一番勝負」団鬼六さん
P147
如才のなさ
小池(重明)は或る人には徹底して嫌われ、或る人には徹底して好かれるという特異な性格を持っていた。
小池の不可思議な魅力というものは、人間の純粋性と不純性を重ね合わせて持っていた事による。
あれ程、大胆に見えても小心な男はいなかった。
善意と悪意が共存していた。
勇気と臆病を同居させているようなところがあった。
小池は破綻と、挫折をくり返していたが、彼を蔑みながらも愛さずにおられぬ人が多かったのは、彼の好人物性にあるのではないかと思う。
男というものは、好人物を常に友人として持ちたがるものである。
(中略)
さっきまで前非を悔いて流していた涙がまるで嘘みたいで、反省しているのか、いないのか、訳がわからない。
小池にかつて迷惑をかけられた人々も、結局は小池に煙に巻かれた形になってしまうのだ。
とにかくこういう酒席などでは小池は一種の男芸者になりきり、一座を陽気にするコツをつかんでいた。
人々を面白がらせる座興的話術の才能を発揮するのだ。
それは彼の暗い生い立ちに起因しているようで、悲劇を喜劇に茶化す道化の役がうまいのである。
(中略)
これまで幾度となく小池に煮え湯を飲まされながら、性こりもなく小池を庇護したがる古沢(文雄)社長の気持ちは何だろうと、私には不思議に感じられる事がある。
古沢社長は、小池が異端のアマ強豪といわれる程の強烈な個性を持った将棋の天才である事を最も認識しているだろう一人であり、その異端の天才故に彼の持つ性格破綻ぶりもどこかで容認していたとしか思えない。
晩年に近い小池の破滅型人間性に私が次第に魅せられていったように、古沢社長は若年期からの小池の、もう救いようのない破滅性を愛さずにはいられない一人になっていたのかもしれない。
小池はしばらく小池社長のお抱え運転手をやっていた事もあった。
その頃の話を酒席で古沢社長に聞かされた事があった。
「取引先のお客からも小池は如才がないから好かれるんです。
それに小池は身体がでかいから、運転手兼用心棒みたいで心強いでしょうと、先方の客にいわれた事もあります。
知らない人から見ると小池は礼儀も心得ているし、話術も巧みだから頼もしい運転手に思われるんですが、僕から見るとろくでもない運転手でした。
(中略)
主人が商談中に白タクをやる運転手がこの世にいますかねえ。
僕はじっとしているのが嫌いなタチだからと吐(ぬ)かすのです。
呆れました」。
古沢社長は呆れた、驚いた、とかくり返していたが、そんな小池の野放図さをむしろ、楽しんでいるようなフシが感じられた。
小池重明さんが「或る人には徹底的に好かれた」のは、小池さんが「憎めない人」だったからではないか。
小池さんが「憎めない人」だったのは、将棋に関する異才と人間関係に関する如才無さを基盤に、団鬼六先生の仰る「好人物性」が評価されたからではないか。
小池さんの好人物性が評価されたのは、小池さんの破天荒かつ天真爛漫な生き様が阿呆らしくも格好良く感じられたからではないか。
人間の不純性を童子よろしく露にした挙句絶妙に茶化し、純粋性をプロ以上に将棋一本に結集、結実させた小池さんの生き様は、今なお、或る人の羨望と評価の対象になり得るのではないか。
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