【NHK】「細野晴臣 音楽の軌跡」細野晴臣さん【経営】「ユニクロ帝国の光と影」柳井正さん

2011年09月05日

【将棋】「将棋をやってる子供は、なぜ「伸びしろ」が大きいのか?」安次嶺隆幸さん

P17
この「お願いします」「負けました」「ありがとうございました」が3つの礼。

(中略)

将棋は、相手がいなくてはできません。
目の前に座っている人がいてくれるから対局が成立する。
だから、「お願いします」「ありがとうございました」と敬意を表して挨拶をするのです。

「負けました」の礼にしても、大きな意味があります。
将棋の一手を積み木にたとえると、対局するということは、自分が積み木を置いたら相手がその上に重ねて積み木を置くといった具合に、百何十もの積み木を注意深く積み上げていくようなもの。
そこには、自分だけでなく相手が熟考を重ねた時間や思いも積み重ねられている。
だから負けたら、「自分の考えが足りませんでした」「やっぱり自分が弱かったです」と潔く自分の負けを認め、相手に「負けました」と宣言しなければならないのです。

そして「感想戦」は敗者への慰めであり、「次はがんばれよ」という声援でもあります。
それを通じて、負けた者も次へ進む「勇気」と「負けから学ぶ姿勢」を育むことができるのです。

古来、日本には武道や茶道など「○○道」という、型から入って、そこに込められた「心」を体得していく文化がありました。
将棋における3つの礼は、まさにその「型」に通じます。

自己否定は成長の好機だが、概して見過ごされる。
現在の能力に加え、過去行なった思考や意思決定の駄目さ、不十分さを責任追及されるからだ。
成長は、現状の総括と清算無しにあり得ない。
私たちは、自己否定の勇気を不断に持ち続けなければいけない。


P66
じつは以前、羽生(善治)名人に「将棋に闘争心はいらないのですか?」と聞いたことがあるのです。
「当然いりますよね?勝負ですものね」と言ったら、軽い口調で「いらないんですよ」と。
私は思わず、「あの、ホントですか?」と確認してしまいましたが、「ええ、いりません。闘争心はかえって邪魔になることもあるのですよ」とおっしゃるのです。

(中略)

しかし考えてみれば、将棋は自分一人ではできません。
目の前に座っている相手がいてくれるから対局が成立する。
何度も繰り返しになりますが、将棋とは、対局者が二人して、自分の力を出し切って最善手を模索し合う競技です。
ですから自分が一手を指したら、次の一手は相手にゆだねるしかないのです。

これは日常生活における人間関係でも同じかもしれません。
たとえば仕事の場面で、営業マンが絶対この話をまとめてみせる、相手に「うん」と言わせてみせると、自分一人で息巻いてみたところで、相手が思いどおりの色よい返事をしてくれるとは限りません。
むしろ、強引に結果を求めるその姿勢に相手は辟易して、イヤな感情さえ覚えてしまうこともあります。

が、誠心誠意説明したあと、「では、あとのご判断はおまかせしますので、ゆっくりお考えください」と相手にゆだねてみると、相手も案外その気になってくれて、いい結果につながることがあるものです。

絶対勝とう、何としても商談をまとめよう、という気持ちが先行すると、そこのばかりこだわってしまって、広い視野で物事を見られなくなってしまいます。
すると相手が自分の思惑と違った反応をしてきたとき、対応できない。
失敗をカバーできないから、ダメージも大きくなる。
しかし、最善を尽くしてさまざまな手を考えたうえで、あとは相手にゆだねることができたなら、柔軟に対応することが可能です。
人間関係においては、そうした心の余裕が相手を受け入れる度量が必要なのです。

(中略)

「闘争心はいらない」とは、勝ちを意識しすぎたり、勝負に力んでしまったりすると、そのせいで肝心なことが見えなくなって自分の力を出せなくなることがある。
そのブレーキ役が闘争心ということだったのでしょう。

(中略)

相手が勝ち気いっぱいで臨んでくれば、相手の気持ちや指し手は読みやすい。
しかし、闘争心を捨てて何でもどうぞという態度で来られたら、棋士にとって、これほど恐ろしい相手はいないのではないでしょうか。

闘争すべきは、最善努力から逃げようとする自分であって、眼前の相手ではない。
眼前の相手は、最善努力、ひいては、成長、成功の好機、パートナーである。


P78
しかし、そうやってすごくたくさんの手を読んでも、その読みがすべて無駄になってしまうかもしれないのです。
考えてはみたけれど、その結果、やっぱりこの手はダメだということも当然あるわけです。
むしろ、ダメだという結論に達する手がほとんどです。
そうしたら、そこまで読んだものを捨てて、また一から考えることになるのです。

(中略)

「そこまではちょっと無理なのではないですか?」と、以前、羽生名人に何回か食い下がって聞いたことがあるのですが、「いいえ。その読みはけっして無駄にはなりません。形が変わるかもしれないけれど、必ずどこかで応用できます」という答えが返ってきました。

(中略)

羽生名人の著書に「変わりゆく現代将棋」という本があるのですが、そこにはまさしく無駄が書いてありました。

変わりゆく現代将棋 上
羽生 善治
毎日コミュニケーションズ
2010-04-23


「こうやると、こうなって、そのあとはこうなって、こういう局面になるから、この手はやっぱり少し疑問だ」などと、ご自身の読みの一部を披露なさっている。
私は読んだだけでなく、それを追って実際に駒を並べてみたので、「え?せっかく並べたのに、だったら、これじゃなくてもよかったんだ」とか、「じゃあこっちなんだ」と面食らうこともあるほど、複雑な読みが書いてある。

そこまでオープンにしてしまう姿勢に驚くと同時に、いつもこういう作業をなさっているのだと舌を巻いてしまいました。

さらに、そういうふうに書けるということは、さまざまな手の道筋をはっきりと覚えているということになります。
こういうときは、こうなって、ああなって、だから疑問な手だ、でもこういうときなら、もしかしたら使える手かもしれない、などとちゃんと整理されている。

ということは、読みの無駄は先の言葉どおり、やはりけっして無駄ではないのです。
そのときは一見無駄なように見えるかもしれないけれど、自分の中では絶対に無駄にはならない作業をしていることになるのです。

こういう作業をないがしろにしないのは、将棋が相手だけでなく自分との戦いでもあるからです。

自分との戦いという観点から考えてみると、しっかり読んで指した手は、たとえその対局に負けたとしても自分自身に納得がいく。
しかし、途中でいいかげんに指して負けたとしたら、たとえ勝っても、あとには自己喪失・自己嫌悪だけが残ってしまう。
棋士はこれをもっとも恐れているのです。

なぜなら、将棋はすべて自己責任。
結果はすべて自分で背負わなければならないからです。

自分自身を信じる気持ちがなければ、どうやって自分の手を指していくというのでしょうか。

現状の最適解が不変の最適解であり続けることは、あり得ない。
だが、現状の最適解を案出するのに要したプロセスは、実行の躊躇を無くし、未来の最適解を案出する先駆けになる。


P102
最善の手を考えることは、正しい道を探る作業でもあります。
それについても、自分は正しい道を選んだつもりだったけれど、もしかしたらそれは正しい道なのではなくて、自分勝手な道だったのかもしれない、と考えられるようになっていきます。

人生においてはもちろんのこと、将棋においても、正しい道を探すのには困難が伴います。
とちらに進んだらいいのか皆目わからない霧の中を歩むのは、けっして楽な作業ではありません。

そんな霧の中でむずかしい局面にぶつかったとき、「これが自分の個性だから」「こう指したいから」と安直に結論を出してしまえば、その場はしのげるかもしれません。
つらくめんどうくさい作業なんて、しなくてすんでしまうかもしれません。

(中略)

けれど、「自分はこうだ」「こうしたいんだ」という独りよがりは個性ではありません。
それは、他人の眼を意識しないでスプレーで落書きをするようなもの。
本当の個性は、そうした独りよがりのはるか向こうにあるものではないでしょうか。

将棋においても初めのうちは、子供たちは「ぼくはこういう手が好きだから」「こう指したいから」と指してしまうことがよくあります。
しかし、負けることによって、「こう指したい」というのは自分の好みで選んでいるだけだった、その局面ではよく考えて、こう指すべきだったのだ、ということが次第にわかってくるのです。

そうした積み重ねによって、「ちょっと待てよ。ここは一手辛抱してみようか。そういえばこの間、誰かがこういう手を指していたな。だったら、ここはこうしたほうがいいんじゃないか」と、心の中で葛藤することを覚えていくのです。
その葛藤が、自分の好みと正しい道の違いを気づかせてくれるのだと思います。

教育でもよく使われるが、昨今「個性」は、努力怠慢の免罪符と化している。
「個性」とは、神もしくは後世のみが判断し得る「もう一つの最適解」である。


P109
以前、羽生名人に「プロとアマチュアの将棋で一番の違いは何ですか?」とうかがったことがあります。
そうしたら、「なかなか寄せられない終盤戦をいかに耐えていくか。その我慢の力ですかね」とおっしゃっていました。

勝利を目前にして勝ちに向かうとき、あるいは負ける寸前だが可能性はまだ残されているとき、立場は違えどそうした踏ん張りどころこそ、もっとも自分が試されるとき。
一流のプロ棋士は、そこをぐっと耐えることができるということなのです。

成る程だが、可能性を信じ耐える力があるから、プロ(に)な(れる)のか。
それとも、可能性を信じ耐える理由を見つける力があるから、プロ(に)な(れる)のか。


P114
もちろん将棋の詰み勘のほうは、そんなにたやすく身につけることはできません。
しかし子供でも、一度勝てると自信がつく。
勝てると、それまで自分が努力をしてきたことを「そうだったんだ。これでよかったんだ」と思えるようになる。

言ってみれば、自転車に乗れるようになる感覚です。
一度自転車に乗れると、「あれ?乗れたぞ!」という感じで、どうして乗れたのかはよくわからないけれど、そのコツを体得できます。
そうしたら、次からは必ず乗れる。
それに似たことを勝つことで体験することができるのです。

そしてその自信が揺るぎないものになって、努力する道筋がはっきり見えてくるのです。
成功体験が次の勝ちにつながり、さらには詰み勘を養っていくことにもつながるわけです。

(中略)

こう考えてみると、”考え続ける筋肉”を鍛えるということは、すなわち”自信の筋肉”を鍛えることでもあるのです。

成功体験を得る(重ねる)ことは、”自信の筋肉”を鍛えることである。


P125
戦法にしても、棋士それぞれに得意とする戦法があります。
相手が得意な戦法においては相手が上、自分は弱いと認めることができれば、そこでは相手の言い分を聞いてみようという態度で臨めます。

そういうふうに気持ちを整理して、その分野の専門家の声に素直に耳を傾けてみると、「なるほど」と教えられることは多いものです。
たとえ負けたとしても、そこでつかんだものを次に生かせばいい。

その経験を参考にして、次の機会に自分で応用できれば、相手の学びから自分も多くを学びとることになります。

自分の弱いところを認めたことが、大きな視点に立ってみれば、自分の弱さを克服することにつながるわけです。

羽生名人は、しばしば相手の得意戦法に立ち向かっていきます。
何も戦法を相手に合わせる必要はないのです。
素人考えでは、相手がそれに長じているなら、それを避けて、違う戦法で戦えばいいように思います。
ところが、羽生名人はあえて同じ戦法に飛び込んでいくのです。

相手の得意戦法に立ち向かうのは、それでも戦えると考えているようにも見え、自分への過信の表れでは?ととらえる読者の方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、それはまったく逆です。
羽生名人は、相手が自分よりその戦法に秀でていると認めているからこそ、自分の弱さを認識しているからこそ、それに挑んでいるのです。

相手の学びを自分も学ぼうというその姿勢、その謙虚さーーひょっとすると、これが羽生名人の強さの秘密なのかもしれません。

将棋の世界では、どんなに強くても百パーセント完璧ではいられません。
自分は百パーセントではない、自分よりもっと上がある、まだまだ教えてもらうことがある。
そう思える謙虚さが、学び成長する原動力になるのです。

「藤井システム」の創造者である藤井猛九段は、「『藤井システム』を正確に指しこなせたのは、自分をおいて、羽生さんだけだ」と、雑誌のインタビューで仰っていた。
相手の強さと自分の弱さを共に認め、相手の学びを謙虚に学び抜けば、創造者と同等に、解(ソリューション)を会得できる可能性があるということか。


P144
羽生名人は「銀」使いの名手です。
それができるのは、日々研究を積み重ねている賜物。
私がそれを怖いほど感じたのは、羽生名人の駒を見たときでした。

じつは、私が将棋の駒を買おうと思っていたら、「手元にありますから送りますよ」と所有なさっていた竹風作の逸品をくださったのです。
届いた駒を見ると、それは羽生名人が日夜研究に使っていた駒でした。
それがなんと驚いたことに、銀だけ裏がすり減っていたのです。

パチっと盤面に打ちつけるときに、駒はこすれます。
しかし、硬い柘植でできている上等な駒だけに、並たいていのことではすり減るはずがありません。
研究のために盤面に駒を並べ、銀をどう使うか考えながらよほど繰り返し、繰り返し打ち付けたのでしょう。
使い込んで美しい飴色になっている駒は、ほかはみんなきちっと角張っているのに、銀だけがすり減って角が欠けたようになっていました。

名手と称される人は、必ず、並大抵で無いことを、並大抵にやっている。


P191
感想戦とは、対局を巻き戻して「これが悪手だ」というものを見つけ出す作業と言い換えてもいいでしょう。
そのためにプロ棋士は感想戦を何時間もかけてやるのです。
そして悪手を見つけたら、どうしてそんな手を指してしまったのか、そのときの自分の心理状態や相手への気持ちはもちろん、体調や食事、前日の過ごし方など何もかも全部さらけ出して敗因を考えるわけです。

悔しさや情けなさといった気持ちをぐっとたたんで、自分の弱さと向き合わなければならないのですから、それはつらい作業です。
しかし、だから悪手から学べる。
単に「あーあ、失敗しちゃった」というだけでは終わらない。
感想戦という儀式があるおかげで、一局を客観的に見直すことができ、敗北から学ぶことができるのです。

よくぞ先人はこうした儀式を作ってくれたと感心させられます。
たしかに弱さに向き合うのはつらいものです。
感想戦はその一番つらいことをしなさいと促す、一件酷なシステムです。
けれど、だからこそ、感想戦という儀式がありがたいのです。

つらいからこそ、儀式の形になっていなかったならば、勝者も敗者も一緒になって敗因を検討しようとしたら、そのつど対局者同士が相談して、「つらいだろうけど、一緒に悪手を検討してみようと」と決めなければなりません。
それはもっとつらい。
ところが、儀式で検討することが決まっていれば、すんなり儀式に移ればいいわけです。

儀式だからこそ、自分の弱さに素直に向き合えるということはあるのではないかと思うのです。
儀式にのっとったほうが、自分の弱さを認めたり、つらさを乗り越えたりすることができるという面もあるのではないでしょうか。

感想戦は「儀式」であり、「to do」だ。
将棋が持続的に発展しているのは、棋士の相対的な棋力が持続的に向上していることに他ならない。
そして、それは、感想戦という検証と総括のプロセスが「to do」化されていることが大きい。
将棋には、老舗企業と同様、持続的に発展する「仕組み」がある。







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