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2011年07月21日

【BSNHK】「極上美の響宴/小林秀雄 沈黙を強いる美」池田雅延さん

編集者として十年以上小林(秀雄)と身近に接してきた池田雅延さん。
小林(秀雄)から美の見方について直に教わりました。

「展覧会場へ行って、まず解説から見るでしょう。
それから絵を観るでしょう。
そして次へ行くでしょう。
ここで絵を観たと思っているわけですよ。
ところが、絵を観たことにはならないっていうのは、まず解説から読んだら、もう絵を観る目じゃなくなっちゃっているわけですよ。
つまり、頭の『解説を読んだ』という頭のフィルターをかけちゃっているわけですよ。
そのフィルターがかかった目で観たって、本人の目が観たわけじゃないわけで、解説者の頭がそれらしいものを、まあ一応認識させた、というのに過ぎないわけですよ。
だから、目というものは、一切の介在物無しに、自分の目で見るんだ。
事前の知識も要らない、と。
事前に本を読んでいくなんていらない、と。
いきなり観て、自分がハッとするか、ドキッとするか、嫌だなあと思うか、ムカッとするか、その自分に来るその価値、これが『絵を観た、観る』っていうことの最初のアクションなんだって」。

私たち現代人の多くは、美を美と感知する能力と習性を失っているのではないか。
だから、美に無頓着で、野原で綺麗な花を見つけても、それが菫だとわかると、忽ち視界から消去してしまうのではないか。

私たちは、今や、美を社会的踏絵と認知しているのではないか。
だから、美を感知して覚えた感動を言葉と論理で解釈したがり、絵の展覧会へ行くと、絵より先に解説を見てしまうのではないか。

邪推だが、小林さんの「美は、解釈ではなく、感知すべし」というご主張は、親友の中原中也さんの触発ではないか。
たしか、小林さんは、中原さんから「物を見たら、言葉にする前に、心で感じろ!」と事毎に説教されていたはずだ。
中原さんは夭折したが、彼の魂は小林さんに受け継がれ、今なおこうして生きている、ということか。


小林は、ルオーについて、結局、ごく短い文章を書いただけでした。
そして、亡くなるまで、一人書斎で、黙ってルオーの絵を見つめ続けました。
それは、また、人間愛を貫いた画家ルオーの魂と向き合うことでもありました。

「つまりね、(小林秀雄)先生のね、批評家としての一生のテーマは、『人生いかに生きるべきか』なんですよ。
『人生いかに生きるべきか』という終生の問いの中に、美との出会いと美との経験があるわけだから。
美というものを味わうに必要な視力も、聴力も、触覚も、味覚も、嗅覚もみんな授かっているんだから、それを100%フルに使いこなしてみて、出会える人生に出会って、そして、『自分はこういう風に生きたよ』というというところまで辿り着く努力を死ぬまで続けようじゃないかという、そういう位置づけなんですよ、先生にとっての美は」。

「後悔しない人生の必要条件は最善努力であり、最善努力の必要条件は全ての機会(チャンス)に全身全霊で臨むことで、美も例外ではない」、と解釈した。
感動した。

小林さんが、私と同様、「後悔しない人生の希求者」であったのを初めて知った。
小林さんを初めて身近に感じた。



★2011年7月11日放映分
http://www.nhk.or.jp/artbs/kyoen/content/index_07.html#page02



小林秀雄全作品〈21〉美を求める心
小林 秀雄
新潮社
2004-06-01


P243
美を求める心

近頃は、展覧会や音楽会が盛んに開かれて、絵を見たり、音楽を聴いたりする人々の数も急に殖えてきた様子です。
その為でしょうか、若い人達から、よく絵や音楽について意見を聞かれるようになりました。
近頃の絵や音楽は難しくてよく判らぬ、ああいうものが解るようになるには、どういう勉強をしたらいいか、どういう本を読んだらいいか、という質問が、大変多いのです。
私は美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聞いたりする事が第一だ、と何時でも答えています。

極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。
絵は、眼で見て楽しむものだ。
音楽は、耳で聞いて感動するものだ。
頭で解るとか解らないとか言うべきものではありますまい。
先ず、何を措いても、見ることです。
聴くことです。
そういうと、そんな事は解り切った話だ、と諸君は言うでしょう。
処が、私は、それはちっとも解り切った話ではない、諸君は、恐らく、その事を、よくよく考えてみたことはないだろうと言いたいのです。

昔の絵は、見ればよく解るが、近頃の絵は、例えば、ピカソの絵を見ても、何が何やらさっぱり解らない、と諸君は、やはり言いたいでしょう。
それなら私は、こう言います。
諸君が、昔ふうの絵を見て解るというのは、そういう絵を、諸君の眼が見慣れているということでしょう。
ピカソの絵が解らないというのは、それが見慣れぬ形をしているからでしょう。
見慣れて来れば、諸君は、もう解らないなどとは言わなくなるでしょう。
だから、眼を慣らすことが第一だというのです。
頭を働かすより、眼を働かすことが大事だと言うのです。

見るとか聴くとかいう事を、簡単に考えてはいけない。
ぼんやりしていても耳には音が聞こえて来るし、特に見ようとしなくても、眼の前にぼんやりあるものは眼に見える。
耳の遠い人もあり、近視の人もあるが、そういうのは病気で、健康な眼や耳を持ってさえいれば、見たり聞いたりすることは、誰にでも出来る易しい事だ。
頭で考える事は難しいかも知れないし、考えるには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。
そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。
見ることも聴くことも、考えることと同じように、難しい、努力を要する仕事なのです。

例えば、野球の選手の眼には、諸君より、遥かによく球が見えているでしょう。
或る人に聞いたが、川上選手は打撃の調子のいい時は、球が眼の前で止って見える、と人に語ったそうだ。
私は、誇張ではないと思う。
そんなふうに、球が見えて来るためには、眼を働かせる努力と練習とがどれほど必要であったかを考えてみるべきです。
画家でも音楽家でも同じ事で、彼等は、色を見、音を聴く訓練と努力の結果、普通の人には殆ど信じられないほどの、色の微妙な調子を見分け、細やかな音を聴き分けているに違いないのです。
優れた絵や音楽は、そういう眼や耳を持った人の、色や音の組み合わせなのですから、ただぼんやりとしていれば、絵は自ら眼に写って来る、音楽は耳に聞えて来るというようなことはあり得ないのです。

私達が、仏、私達の生活の中で、どんな具合に眼を働かせているかを考えてみるとよい。
特になんの目的もなく物の形だとか色合いだとか、その調和の美しさだとか、を見るという事、謂わば、ただ物を見るために物を見る、そういうふうに眼を動かすという事が、どんなに少ないかにすぐ気が附くでしょう。
例えば、時計を見るのは時間を知るためです。
だから時計を見ても針だけしか見ない。
林檎は食べるもので、椅子は腰掛けるものだ。
だから、林檎が、どんなに美しい色合いをしているか、つくづく眺めた事のある人は少ない。
毎日座っている椅子が、どんな形をしているか、はっきりと見定めている人など殆どないでしょう。

話は私事になるが、私は、ロンドンの段昼の店で、なんの特徴もないが、古風な、如何にも美しい形をしたライターを見附けて買って来た。
書斎の机の上に置いてあるから、今までの沢山の来客が、それで煙草の火をつけた訳だが、火をつける序でに、よく見て、これは美しいライターだと言ってくれた人は一人もない。
成る程、見る人はあるが、ちょっと見たかと思うと、直ぐ口をきく。
これは何処のライターだ、ダンヒルか、いくらだ、それでおしまいです。
黙って一分間も眺めた人はない。
詰らぬ話をするなどと言わないでください。
諸君は試みに黙ってライターの形を一分間眺めて見るといい。
一分間にどれ程沢山なものが眼に見えてくるかに驚くでしょう。
そしてライターの形だけを黙って眺める一分間がどれ程長いものかに驚くでしょう。
見ることは喋ることではない。
言葉は眼の邪魔になるものです。
例えば諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。
見ると、それは菫の花だとわかる。
何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。
諸君は、もう眼を閉じるのです。
それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。
菫の花だと解るという事は、花の姿や美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。
言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。
画家は、皆そういう風に花を見ているのです。
何年も何年も同じ花を見て描いているのです。
そうして出来上がった花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。
絵は、画家が、黙って見た美しい花の感じを現しているのです。
花の名前なぞを現しているのではありません。
何か妙なものは、何んだろうと思って、諸君は、注意して見ます。
その妙なものの名前が知りたくて見るのです。
何んだ、菫の花だったのかとわかれば、もう見ません。
これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。
画家が花を見るのは好奇心からではない。
花への愛情です。
愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見厭きないのです。
好奇心から、ピカソの展覧会なぞへ出かけて行っても何んにもなりません。

美しい自然を眺め、或は、美しい絵を眺めて感動した時、その感動はとても言葉で言い現せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。
諸君は、何とも言えず美しいと言うでしょう。
この何とも言えないものこそ、絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝え度いと願っているのだ。
音楽は、諸君の耳から這入って真直ぐに諸君の心に到り、これを波立たせるものだ。
美しいものは、諸君を黙らせます。
美には人を沈黙させる力があるのです。
これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。
絵や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味う事に他なりません。
ですから、絵や音楽について沢山の知識を持ち、様々な意見を吐ける人が、必ずしも絵や音楽が解った人とは限りません。
解るという事場にも、いろいろな意味がある。
人間は、いろいろな解り方をするものだからです。
絵や音楽が解ると言うのは、絵や音楽を感ずる事です。
愛する事です。
知識の浅い、少ししか言葉を持たぬ子供でも、何んでも直ぐ頭で解りたがる大人より、美しいものに関する経験は、よほど深いかも知れません。
実際、優れた芸術家は、大人になっても、子供の心を失っていないものです。

諸君は言うかもしれない。
成る程、絵や音楽の現す美しさは、言うに言われぬものかも知れない。
これを味うのには、言葉なぞ、かえって邪魔かも知れない。
しかし、それなら詩というものはどうなのか、詩は、言葉で出来ているのではないか、と。
だが、詩人とても同じ事なのです。
成る程、詩人は言葉で詩を作る。
しかし、言うに言われぬものを、どうしたら言葉によって現す事ができるかと、工夫に工夫を重ねて、これに成功した詩人を詩人と言うのです。

田児の浦ゆ打出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける

これは、山部赤人の有名な歌で、誰でも知っている。
歌の意味も、読んで字の通り、誰でもわかる。
現代使われていない言葉は、「田児の浦ゆ」の「ゆ」という言葉だけだ。
「ゆ」というのは、例えば東京から神戸へ、の「から」という現代の言葉に当ります。
もし諸君が、この歌を読んで、美しい歌だと思うなら、諸君に美しいと思わせるものは、この歌の文字通りの意味ではないでしょう。
やはり、富士を見た時の言うに言われぬ赤人の感動が、諸君の心を打つからではありませんか。
歌人は、言い現し難い感動を、絵かきが色を、音楽家が音を使うのと同じ意味合いで、言葉を使って現そうと工夫するのです。
成る程、詩人の使う言葉も、諸君が日常使っている言葉も同じ言葉だ。
言葉というものは、勝手に一人で発明できるものではない。
ただ、歌人は、そういう日常の言葉を、綿密に選択して、これを様々に組合わせて、はっきりした歌の姿を、詩の形を、作り上げるのです。すると、日常の言葉は、この姿、形のなかで、日常、まるで持たなかった力を得て来るのです。
赤人の歌が、見たところ、どんなに楽々と自然に、まるで、赤人の感動が、そのまま言葉となっているように思われようとも、実は、大変な苦心が払われているのです。
苦心など表に現さぬところが、大歌人の苦心なのです。

さて、前に、諸君が日常生活で、どんな風に、眼を働かせているかについて述べたが、此処でも、では、どんな風に言葉を使っているかを反省してみて下さい。
例えば、「煙草を下さい」と誰かに言って、煙草が手に入ったら、「煙草を下さい」という言葉は、もう用はない。
その言葉は捨てられて了います。
いや、「煙草を下さい」という言葉が、相手に通じたら、もう、その言葉には用はないでしょう。
日常生活では、言葉は用事が足りたら、みな消えてなくなる。
そういう風に使われていることに、諸君は気が附かれるでしょう。
言葉は、人間の行動と理解との為の道具なのです。

ところで、歌や詩は、諸君に、何かをしろと命じますか。
私の気持ちが理解できたかと言っていますか。
諸君は、歌に接して、何をするのでもない、何を理解するのでもない。
その美しさを感ずるだけです。
何の為に感ずるのか。
何の為でもない。
ただ美しいと感ずるのです。
歌や詩は、解って了えば、それでお了というものではないでしょう。
では、歌や詩は、わからぬものなのか。
そうです。
わからぬものなのです。
この事をよく考えてみて下さい。
ある言葉が、かくかくの意味であるとわかるには、Aという言葉を、Bという言葉に直して、Aという言葉の代わりにBという言葉を置き代えてみてもよい。
置き代えてみれば合点がゆくという事でしょう。
赤人の歌を、他の言葉に直して、歌に置き代えてみる事が出来ますか。
それは駄目です。
ですから、そいう意味では、歌はあ、まさにわからぬものなのです。
歌は、意味のわかる言葉ではない。
感じられる言葉の姿、形なのです。
言葉には、意味もあるが、姿、形というものもある、ということをよく心に留めてください。

言葉の姿と言っても、眼に見える活字の恰好ではない。
諸君の心に直かに映ずる姿です。
この歌の姿という事は、古くから日本の歌人が、歌には一番大切なものと考えて来たものです。
西洋では詩のフォームと言い、このフォームという言葉は、今日、形式と訳されて使われておりますが、フォームという西洋でも古い言葉は、日本にも古くからある姿という言葉で訳す方が、よほどいい訳です。
それはともかく、姿のいい人がある様に、姿のいい歌がある。
歌人の歌の言葉は、真白な雪の降った富士の山のような美しい姿をしているのです。
だから、赤人は、富士を見た時の感動を、言葉に現した、或は言葉にした、と言うよりも、そういう感動に、言葉によって、姿を与えたと言った方がいいのです。
感動というものは、読んで字の如く、感情が動いている状態です。
動いているが、やがて静まり、消えて了うものです。
そういう強いが不安定な感動を、言葉を使って整えて、安定した動かぬ姿にしたと言った方がいいのです。

私達の感動というものは、自ら外に現れるものだ。
顔の表情となって現れたり、叫びとなって現れたりもします。
そして、感動は消えて了うものです。
だが、どんなに美しいものを見た時の感動も、そういうふうに自然に外に現れるのでは、美しくはないでしょう。
そういう時の人の表情は、醜く見えるかも知れないし、又、滑稽に見えるかも知れない。
そういう時の叫び声にしても、決して美しいものではありますまい。

例えば諸君は悲しければ泣くでしょう。
でも、あんまりおかしい時でも涙が出るでしょう。
涙は歌ではないし、泣いていては歌は出来ない。
悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。
悲しいといってただ泣く人ではない。
自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。

詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。
一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えて了う、取りに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。
悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。
これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。
悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、ふだんの生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする、その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。
そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう、

「美を求める心」という大きな課題に対して、私は、小さな事ばかり、お話ししている様ですが、私は、美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりした美しさの経験が根本だ、と考えているからです。
美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。
美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。
絵だけが夢を見せるのではない。
音楽は音の姿を耳に伝えます。
文学の姿は、心が感じます。
だから、姿とは、そういう意味合いの言葉で、ただ普通に言う物の形とか、恰好とかいうことではない。
あの人は、姿のいい人だ、とか、様子のいい人だとか言いますが、それは、ただ、その人の姿勢が正しいとか、恰好のいい体附うぃしているとかいう意味ではないでしょう。
その人の優しい心や、人柄も含めて、姿がいいというのでしょう。
絵や音楽や詩の姿とは、そういう意味の姿です。
姿がそのまま、これを創り出した人の心を語っているのです。

そういう姿を感じる能力は誰にでも備わり、そういう姿を求める心は誰にでもあるのです。
ただ、この能力が、私たちにとって、どんなに貴重な能力であるか。
又、この能力は、養い育てようとしなければ衰弱して了うことを、知っている人は、少ないのです。
今日の様に、知識や学問が普及し、尊重される様になると、人々は、物を感じる能力の方を、知らず識らずのうちに、疎かにするようになるのです。
物の性質を知ろうとする様になるのです。
物の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊、雌蕊はどんな構造をしているか、色素は何々か、という様に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずる時には、私達は何時も花全体を一と目で感ずるのです。
だから感ずる事など易しい事だと思い込んで了うのです。

一輪の花の美しさをよくよく感ずるという事は難しい事だ。
仮にそれは易しい事だとしても、人間の美しさ、立派さを感ずる事は、易しい事ではありますまい。
又、知識がどんなにあっても、優しい感情を持っていない人は、立派な人間だとは言われまい。
そして、優しい感情を持つ人とは、物事をよく感ずる心を持っている人でありませんか。
神経質で、物事にすぐ感じても、いらいらしている人がある。
そんな人は、優しい心を持っていない場合が多いものです。
そんな人は、美しい物の姿を正しく感ずる心を持った人ではない。
ただ、びくびくしているだけの人なのです。
ですから、感ずるということも学ばなければならないものなのです。
そして、立派な芸術というものは、正しく、豊かに感ずる事を、人々に何時も教えているものなのです。


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