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【医学】「LIFESPAN(ライフスパン)」デビッド・A・シンクレアさん
P410
第8章 未来の世界はこうなる
一番重要なことーー長い人生がもたらす人間らしさ
1970年代の初め、2人の心理学者が「善きサマリア人のたとえ」を検証してみることにした。
ご存知の通り、これは聖著のなかでイエスが語るたとえ話である。追いはぎに襲われて傷を負わされた人が道で苦しんでいたとき、聖職者たちは見て見ぬふりをしたのに対し、異邦人であるサマリア人だけが助けてやったというものだ。日頃このたとえ話を胸に刻んでいる者なら、困っている人を見たときも通り過ぎずに親切にするに違いない。心理学者たちはそう考えた。そこで若い役者を1人雇い、プリンストン神学校グリーンホール別館の玄関脇にある小道に連れていった。そこで、体を折り曲げて咳き込ませ、苦しむ芝居をさせることにする。
心理学者たちはまた、別館でスピーチをしてもらうという名目で40人の神学生を募った。学生たちはまず、キャンパス内のとある建物に向かうよう告げられる。そこでアンケート調査に答えたあと、1人1人が次の3つのうち1つの指示を受ける。1つめは、まだ時間が十分にあるので慌てず別館に向かえばいいというもの。2つめは、今すぐ出ればちょうど間に合うというもの。そして3つめは、遅れそうなので急いだほうがいいというものだ。
「急ぐ度合いの大きい」グループでは、立ち止まって病人を助けたのが10%しかいなかった。改めていっておくが彼らは神学生である。それなのに困っている同胞を見捨てたのだ。1人などは、苦しむ病人の上をわざわざまたいだほどである。
一方、「急ぐ度合いの小さい」グループのほうは、60%あまりが足を止めて救いの手を差し伸べた。つまり、この実験で違いを生んだ要因は、個人の道徳心でもなければ宗教に関する学識でもない。急がなくてはいけないと感じているか否かだけだったのだ。
もちろん、この発見自体が目新しいわけではない。イエスが最初に「善きサマリア人」の話をしたのと同じ時代には、古代ローマの哲学者セネカが、どんなに忙しくても足を止めてバラの香りを嗅ぐ余裕をもてと自らの信奉者たちを諭していた。こう記している。「過去を忘れ、現在をおろそかにし、未来を恐れる者には、人生は短く、不安に満ちている」
人生の素晴らしさを味わえぬ者にとって、時間は「非常に安価なものとみなされている・・・それどころか何の価値もないとされている」。セネカはそうも嘆いている。「こうした人々は、時間がどれだけ貴重かわかっていないのだ」
健康寿命が延びたときに社会がどんな恩恵を受けるかを考えるとき、この側面が注目されることはほとんどないかもしれない。しかし、これこそが最も大きなメリットとなる可能性を秘めている。時間が刻々と過ぎていくのがそれほど怖くなくなれば、ことによると私たちは急ぐのをやめ、深呼吸をするようになるのではないか。私たちは目先のことに動じないサマリア人になれるのではないか。
ここでは「ことによると」と強調しておきたい。今述べたことは科学というより仮定であると、誰よりも自分がわかっているからだ。しかし、サンプル数の少ないこのプリンストン神学校の実験だけでなく、その前にもあとにも様々な研究がなされていて、どれも同じ結論に達している。つまり、時間があるとき、人間は格段に人間らしくなるということだ。ただ、こうした実験では、数分ないし数時間の余裕があった場合の人間のふるまいを調べているにすぎない。
では、数年の猶予があったらどうなるだろうか。数十年だったら?数百年だったら?
200年や300年余分にあったところで、誰一人行動を変えない可能性もある。所詮、宇宙という壮大な枠組みのなかでは300年など物の数ではない。私の最初の50年は瞬きするまに過ぎていった。もしかしたら、1000年といえどもたかだか瞬き20回分で、短いように感じられるかもしれない。
具体的な長さはどうあれ、そうしたプラスアルファの年月が実際にもたらされたとき、大事なのは私たちがそれをどう使いたいかである。危険をはらんだ道をたどって暗黒卿へと堕ちていき、結局は破滅を迎えたいのか。それとも一致団結して、どんなバラ色の夢をも凌駕する理想郷を築いていきたいのか。
今、どんな決断を下すかによって、私たちのつくり上げる未来がどちらになるかが決まる。この決断は重要だ。気候変動、経済に深刻な負荷をかける様々な問題、このさき予想される社会の激変。こうした要因によって世界が危機を迎えるのを回避するには、病気や、体の不自由を防ぐことこそが何にも増して大きな効果をもつ。失敗は許されない。
人類の歴史が始まって以来これほど重大な選択はないのだから。
「我々は時間がある時、人間らしくなる。困っている人に親切になり、同胞を見捨てなくなる。我々は寿命が延び、生き急がなくても良くなれば、格段に人間らしくなるのではないか」。
老化を病ととらえ、治療にチャレンジするシンクレア教授のこの考えは、初老の私からすると同意半分、懐疑半分である。
同意はさておき、なぜ懐疑か。
時間は資産と同様、ツールに過ぎないからである。
銀行残高の増加が経済活動の良化を約束しないように、可処分時間の増加も時間消費の良化を約束しないからである。
寿命の延長は我々を時間切迫から解放し得るが、真に人間らしく生きるにはそのココロが必要である。