2020年06月

2020年06月26日

【医療】「新・養生訓 健康本のテイスティング」岩田健太郎さん

P30
第1部 医療情報の目利きになる
1章:健康になりたい人とそれを騙す人
朽木誠一郎著『健康を食い物にするメディアたち ネット時代の医療情報との付き合い方』



(前略)

「煽り運転があるから、自転車がいけない」は間違い

岩田(健太郎)
今の岩永さんのお話、科学一辺倒の話だと、受け手には入っていかず、個人の主観がバイアスとしてどうしても介在してしまうというコメントを聞いて、(本書の)241頁にある宗教学者の島薗進さんのコメントを思い出しました。「EBM(エビデンスに基づいた医療)は大事ですが、EBM一辺倒では人間を理解することはできません」と。(著者の)朽木先生のおっしゃること、島薗先生のおっしゃること、先程もマルクス・ガブリエルの本(『なぜ世界は存在しないのか』)を読んでいて、まったく同じことを指摘する文章があったのですが、いろいろ間違っているんですね。EBMは人間を理解するために存在するわけではありません。これは、よく自然科学に対するアンチな人、まさにガブリエルですけれど、「自然科学だけですべてがわかるわけではない」と言うのです。

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)
マルクス・ガブリエル
講談社
2018-11-30


ですが、そもそも自然科学を真面目にやっている人で、「自然科学で何でも解決できる」と思っている人はいなくて、自然科学で扱える命題と扱えない命題があることをちゃんとわきまえているんです。例えば、ショパンのピアノ音楽がどれだけ優れたものかを定量化して分析する能力なんて、自然科学にはありません。ショパンの音楽を分析して「ドの音がいくつ、シの音がいくつ、と定量して、ショパンはすごいんだ」とか分析するのはナンセンスでして、自然科学の守備範囲ではないのです。あたかもEBMで人間が理解できるといった仮想敵をつくって、その敵に関して「EBMけしからん」みたいなファイトをしかけています。

岩永( 直子)
島薗先生は、EBMけしからんと言っていたのではありません。

岩田
でも、「EBMの限界である」ことをにおわせていますよ。EBMの守備範囲でないことに対して、EBMというコトバを被せてしまうのはそもそもフェアではない。

岩永
そうではなくて、医療現場ではEBMをもとに治療を提供していますが、EBMに基づいた治療の説明をして、納得しない患者さんに対しては冷淡な態度をとってしまう医者もいて、そうした前提を踏まえた発言です。

岩田
それはその医者の問題であって、EBMの問題ではない。

岩永
免疫療法や代替医療にひっかかってしまう人は、例えば、アトピーのステロイド忌避などもそうですが、EBMに基づく標準治療を提供している医者との齟齬もあって、そのフラストレーションからそちらに行ってしまうのではないかということは取材でもよく感じます。

岩田
それは、じつは大きな問題で、日本でEBMを推進している人たちはEBMにとらわれてしまっている人が多いからです。Evidence Based Medicienならぬ、Evidence Biased Medicien。本来EBMとはそういうものではなくて、「煽り運転があるから、自動車がいけない」という論理の飛躍と一緒で、「煽り運転は、煽り運転の問題」であって、「自動車の問題」ではないんです。EBMに同意しない患者さんを冷たくあしらうというのは、EBMを間違った使い方で運用しています。もちろん、EBM活用者でも、そうじゃない人の方が大多数だと想いますが、マジョリティというのは目立たないのです。これはSNSで過激なことを言う人のほうが目立つのと同じ理屈です。「標準治療に載ってない医療はダメなんだ」と煽る人がいたとしたら、その人物のことを、EBMを実践しているマジョリティの代表者だと決めつけるのはバイアスだし、それを根拠にして「EBMはダメで、人の気持ちもわからない」というのは間違いです。ちなみにEBMの定義をご存知ですか?

岩永
Evidence Based Medicienですから、エビデンス(科学的根拠)に基づく医療でしょうか。

岩田
それは単なる和訳です。「良心的かつ実直で、慎重な態度を用い、現段階で最良のエビデンスを用いて個々の患者のケアにおいて意思決定を行うこと。それは個々の臨床的な専門性と、系統だった検索で見つけた最良の入手可能な外的臨床エビデンス(the best available clinical evidence)の統合を意味している」と定義しています。best available、手に入るかぎり、もっともよいものを活用して、個々の臨床医の専門能力と組み合わせて意思決定をするものです。

岩永
勉強になります。ただ、本来の定義通りには流通していない印象ですね。

岩田
これは1990年代にゴードン・ガイアットとその師匠で「EBMの父」といわれるデイビッド・サケットらがつくった概念です。EBMに対する誤解は医療者側にも患者側にもたくさんあって、北米でもヨーロッパでも日本でも1990年代にできたEBMは当初大バッシングを受けるのです。ちょうど近藤誠先生が一番輝いていた頃です。近藤先生はEBMを活用してがんを治療すべきだと主張していたのですが、国立がんセンターの総長などからコテンパンに文句を言われたのです(『「がんと闘うな」論争集』)。患者を標準化して、患者の個別姓を無視して、同じ治療をするのはまったくもって医学的ではないし、医道的でもないと。この頃の近藤先生はじつに正論を述べていて、むしろオーソリティである国立がんセンターの先生とかのほうが言ってることはデタラメでした。



さて、定義にもあるように、EBMの本質は「個々の患者」、すなわち「目の前の患者」なんです。目の前の患者に一番いい治療をするにはどうしたらいいかと考えるとき、当然自分の経験だけでは十分ではないし、「俺の経験ではこの薬を出すのが一番いいと思うが、もしかしたらもっといい薬があるかもしれないし、逆に薬を出さないほうがベターな選択かもしれない」、それを吟味しようと思ったら文献を調べるしかありません。調べた結果、「俺は知らなかったけれど、もっといい論文があって、こっちの薬のほうがいい」という論文を読んでしまった以上、その患者にその薬を勧めないで、「いや、俺のいつも使っている薬を出す」というのは当然誠実ではありません。なので目の前の患者ありきのベターな医療がEBMなんです


ミスインフォメーションが是正されないと、コミュニケーションの前提すら成立しない

岩永
本来の意味からすると、患者の個別姓を無視しているという批判はあたりませんね。ただ、EBMでは足りないとして、患者の語りに基づいた医療、「Narrative-based Medicien」も提唱されていることは心に留めておきたいところです。

岩田
ナラティブについては、僕はいみじくも「ナラティブとエビデンスの間」という本を訳したので興味深いところです。よく、ナラティブとエビデンスは対立しない、ナラティブはエビデンスを補完する概念で、という説明がありますが、それもちょっと違うと僕は思います。ナラティブにしてもエビデンスにしても医療におけるファンクション(機能)です。あえて乱暴な比喩を使えば、車のハンドルとブレーキみたいなものです。ハンドルがブレーキを補完したり、その逆というのはないのですが、一つ間違いないのは、ハンドルやブレーキ、そのどちらがなくてもまともな運転は不可能だ、ということです。あるいは、ハンドルをブレーキのどっちが大事なのか、という議論は不毛だ、ということです。要するにナラティブもエビデンスもどちらも大事な医療の機能で、どっちが偉いとか大事ということはない。そう考えると、EBMとかNBMみたいに「based」という言葉を使うのがそもそも問題なのかもしれません。なにかに優先順位があるかのような錯覚を与えますから。

ナラティブとエビデンスの間 -括弧付きの、立ち現れる、条件次第の、文脈依存的な医療
岩田健太郎(翻訳)
メディカルサイエンスインターナショナル
2013-05-13


EBMにおいて、「この薬がいい」というのはあくまでも科学が言っていることであって、「死亡率が下がる」「痛みが改善される」「QOLがよくなる」などのアウトカムという指標にすぎないのです。でも世の中には「こんな高い薬に金をかけるぐらいなら寿命が短くなってもいい」という人もいます。なので、個人の価値観にEBMは立ち入ることはできない。そこはEBMの守備範囲ではありません。エビデンスは他人のデータに過ぎないので、個々の患者の価値観に入っていけるわけがありません。

岩永
島薗先生の一文も同じことを言っています。科学的根拠を調べ、この患者に最善と思われる方法を提示しても、「いや、このままタバコを吸って死にたい」という価値観があるかもしれないと。EBMの運用が理性的にやられていないのかもしれませんと。

岩田
そのとおりです。コミュニケーションについては、私も本に書きましたがリスク・コミュニケーションが必要で、EBMにできるのは選択肢の開示だけです。選択肢を最初から否定してしまうのは、EBM以前の医療、論文も読まずに「俺の経験値から正しい」というパターナリズムと大同小異です。
1990年代までの医療は、「がんは切るに決まっている」でしたが、近藤先生は「化学療法、抗がん剤のデータもあるから患者を十把ひとからげで扱うなんていけない」と主張して、当時ものすごく叩かれたわけです。あの頃の近藤先生はめちゃ正しかったんです。予後の生存率が改善するデータがあるのに見せもしないで、従来どおりの自分たちの恣意的医療を患者さんに提供するのは不誠実です。ですので、医療者の義務は、データはちゃんと出さなくてはならない、それから嘘を言ってもいけません。

(後略)

成る程、「EBM(Evidence Based Medicien)」はあくまで「目の前の患者ありきの『ベター』な医療」であり、「目の前の患者ありきの『ベスト』な医療」ではないのである。
医療に限らず、自分とは異なる価値、および、幸福、の観念、評価基準の持ち主に違いない目の前の顧客に対して提供可能なソリューションは、いかに合理性、ならびに、確率論的に高くとも「ベター」を超えない、「ベスト」足り得ない、のである。
「ベスト」は目の前の顧客の判断、ないし、結果論だから、である。
よしんば、目の前の顧客との共創だから、である。
提供者が独り「ベスト」と判断するのは、正に独断である。
自己満足であり、不遜である。
「ベスト」なソリューションは結果期待するものである。



新・養生訓 健康本のテイスティング
岩田 健太郎、岩永 直子
丸善出版
2019-10-29




kimio_memo at 07:03|PermalinkComments(0) 書籍 

2020年06月15日

「続、直近最高位の手のしびれ」20200615荒川サイクリングロード修行結果

走行時間:1時間57分
走行距離:49.83km
平均心拍数:123bpm
平均ケイデンス:85rpm
平均速度:25.4km/h
最高心拍数:147bpm
最高ケイデンス:139rpm(?)
最高速度:41.9km/h

中5日のインターバルを経ての修行である。

入梅し、インターバルが長かったが、ペダルは予想外に良く回せた。
ただ、アゲインストの往路、手のしびれが酷かった。
幸い、走行に支障をきたすレベルには達しなかったが、前回に続き直近最高位なのが心配である。
単にインターバルが長く、フィジカルが衰えただけなら良いのだが、次回も続かないか要注意である。

後遺症は翌日はなかったが、就寝中にはあった。
足首が数回、ツル一歩手前になった。
手のしびれと同様、単にインターバルが長く、フィジカルが衰えただけなら良いのだが、これまた次回も続かないか要注意である。

kimio_memo at 12:00|PermalinkComments(0) ロードバイク | [乱文御免]荒サイ修行

2020年06月09日

「直近最高位の手のしびれ」20200609荒川サイクリングロード修行結果

走行時間:2時間1分(※立ち寄り有り)
走行距離:50.01km
平均心拍数:120bpm
平均ケイデンス:83rpm
平均速度:24.6km/h
最高心拍数:146bpm
最高ケイデンス:131rpm(?)
最高速度:48.5km/h

中2日のインターバルを経ての修行である。

「ペダルを『回している』感」も足のペダルの収まりも悪くなかった。
しかし手のしびれは直最高位に酷かった。
主因は往路、相当区間でレベル4(※最高位はレベル5)の強アゲインスト(向かい風)に遭い、長時間ポジションが過剰前傾になったこと、加えて、全身が無駄に強張ったこと、と思われる。
強アゲインストは荒サイの常である。
身体に優しい(笑)持続的な抗い方を発案、体得する必要がある。

kimio_memo at 12:00|PermalinkComments(0) ロードバイク | [乱文御免]荒サイ修行

2020年06月06日

「お尻の違和感、今回もナシ」20200606荒川サイクリングロード修行結果

走行時間:1時間51分
走行距離:49.35km
平均心拍数:127bpm
平均ケイデンス:85rpm
平均速度:26.5km/h
最高心拍数:149bpm
最高ケイデンス:107rpm
最高速度:43.6km/h

中3日のインターバルを経ての修行である。

「ペダルを『回している』感」も足のペダルの収まりも悪くなかった。
手のしびれも無問題レベルだった。

後遺症は就寝時も翌日も特段なかった。
また、前々回初体験したお尻の違和感もなかった。
後遺症が(如実では)なかったのはハッピーだが、(実際は後遺症の一種だが)お尻の上部の違和感がなかったのは必ずしもハッピーではない。
前回も述べたように、「ちゃんとペダルを回すこと」が不完全だった、或いは、高確率で品質低下している、ということだからである。
プロ棋士は「不調も3年続けば実力」が定説である。
私は将棋も自転車も完全な非プロだが(笑)、次回「違和感ナシも3回続けば実力」とならないよう、最善努力のギアを上げる所存である。

kimio_memo at 12:00|PermalinkComments(0) ロードバイク | [乱文御免]荒サイ修行

2020年06月03日

【GF01】ワイズロードS氏にワイヤーの初期伸びを調整いただくの巻

N店長退職後)GF01の面倒を見てくださっているワイズロードS氏に、延び延びになっていたブレーキ&シフトワイヤーの初期伸びを調整いただいた。
ワイヤーを交換いただいたのは昨年の夏のことで、以来梅雨だ、台風だ、身内の不幸だ、挙句にコロナだと様々あり過ぎ(苦笑)、かれこれ3,000キロも走ってしまった。(汗)
初期伸びの調整時期は通常、交換後1,000キロ走行時であり、既にオーバー2,000キロという訳である。(大汗)





伸びはもはや初期では済まず、このまま延び延びにするとトラブルや事故の元である。
ついては、スケジュールが一コマ(?・笑)空き、これ幸いと(笑)S氏にお願いした次第である。

余談だが、S氏は相変わらず温厚かつ紳士だった。
「いやいや、今回はコロナもあり、仕方ないですよ」。
延び延びになった私の言い訳(笑)にS氏はこう応え、つゆも責めなかった。
S氏のような人間に、私も成りたい。(苦笑)

状態は思いのほか悪かった。
私は「中間ギア(4、5、6速あたり)の入りが悪い」くらいの認識しかなく、事前の電話予約の際もそれしかS氏に申告していなかったが、S氏は現車確認後、開口一番「ワイヤーの調整があちこちエラーで、そもそも(チェーンが)トップ(ギア)に入っていない」。
私は依然ロードバイク乗りとして三流である。
S氏は早速、ワイヤー交換時に発注した以下フレーム・アクセサリーパーツを活用し、各種調整くださった。
[1]BB CABLE GUIDE GF01/SLR02用 2,200円
[2]MECHANICAL KIT 2013 GF01 2,750円

ちなみに、中間ギアの入りの悪さは「(申告の際は)該当のギアは多用するギアでもあり、該当のスプロケット(※単体)の経年劣化を疑ったが、見た限りではまだ大丈夫。(ワイヤーの)調整で解消されなければ、要交換」。
交換を覚悟していた私は、S氏の診断に胸を撫で下ろした。



というのも、DURA-ACE(9100)への、コンポのフル換装を視野に入れているからである。
「なぜオマエのような弱虫チャリダーがDURA-ACEに?!」
こう憤慨(笑)する方が少なくないであろうから補足すると、DURA-ACEへの換装はS氏にチェーンリングを交換いただいた際、併せて以下の旨説教いただき、健康寿命的(笑)にソノ気になったのが始まりである。
「使用中のULTEGRA(6700)は全体的に経年劣化しており、近い将来、コンポのフル換装がトータルで有効になろう。換装するなら、DURA-ACEがオススメである。たしかにULTEGRAより高機能かつ高価だが、ULTEGRAの倍はもつし、また、それだけの価値が(堀のような非競技者にも評価できるレベルで)ある」。

なので、使用中のULTEGRAの部品交換は必要なら全く厭わないが、対象や組み合わせによっては、DURA-ACEの前倒し換装がトータルで有効な場合があり、今回はそれについて苦悩(笑)せずとも良く、胸を撫で下ろした、という訳である。
とはいえ、実際、信頼するS氏のこと、そんなことは十二分に心得ていてくださっているに違いなく、基本いつも大船に乗った気持ち(?・笑)でいるのだが。

それはそうと、やはり、相応の期間、ないし、距離を走ったら、自分で全てメンテできる力も癖も無い以上(苦笑)、信頼するS氏に診てもらうのが無難、かつ、賢明である。
というのも、先述のワイヤーとコンポの他にも、サドル下部のネジが基準値以下に緩んでいるとか、前輪が溝的には継続使用可だがゴム的には(干乾びていて)継続使用不可であるとか、後輪が前輪以上にセンターは減っている(波打っている)がゴム的には継続使用可であるとか、微妙ながらホイールがフレているとか、また、リムもいい感じで摩滅しているとか(→取扱商社に在庫確認くださった→在庫は僅かながら在ったが、コスパをかんがみるにホイールそのものを買い替えた方が良く、スルー)、未確認の問題を発症していたからである。
信頼できるプロフェッショナルは以心伝心である。

リフレッシュしたGF01での帰路は、余りの好調子に上機嫌だったが、各種問題を放置、および、気づきさえしなかった自分に辟易でもあった。
ロードバイク乗りとして、せめて二流にならねば。

kimio_memo at 15:00|PermalinkComments(0) ロードバイク | 購入/メンテナンス

2020年06月02日

「お尻の違和感、今回はナシ」20200602荒川サイクリングロード修行結果

走行時間:1時間53分
走行距離:49.43km
平均心拍数:124bpm
平均ケイデンス:85rpm
平均速度:26.1km/h
最高心拍数:145bpm
最高ケイデンス:110rpm
最高速度:41.8km/h

中2日のインターバルを経ての修行である。
五十肩はほぼ収束するも腰痛は収束せず、前回同様、気合による決行である。(笑)

「ペダルを『回している』感」も右足のペダルの収まりも悪くなかった。
手のしびれも無問題レベルだった
就寝時の足のツリもなければ、翌日の後遺症も、違和感を含め如実にはなかった。
ということで、前回初体験したお尻の違和感もなかった。
ということは「ちゃんとペダルを回すこと」が不完全だった、或いは、少なくとも前回より低品質だった、ということである。
次回は改めて「ちゃんとペダルを回すこと」に専心せねば、そして、翌日お尻に後遺症をもたらさねば(笑)、である。
しかし、後遺症を期待するとは、修行はマゾと紙一重である。(笑)

kimio_memo at 12:00|PermalinkComments(0) ロードバイク | [乱文御免]荒サイ修行

2020年06月01日

【邦画】「セーラー服と機関銃」(1981)

[ひと言感想]
争いは人を駄目にすれば、良くもする。
争いは酷だが、益でもある。
争いは人生のピンチだが、成長のチャンスでもある。


セーラー服と機関銃 角川映画 THE BEST [DVD]
出演:薬師丸ひろ子、風祭ゆき、渡瀬恒彦
監督:相米慎二 
KADOKAWA / 角川書店
2016-01-29




kimio_memo at 06:55|PermalinkComments(0) 映画