2020年01月
2020年01月31日
【経済】「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。」ヤニス・バルファキスさん
P231
エピローグ 進む方向を見つける「思考実験」
(前略)
HALPEVAMの欠陥ーーユートピアをつくるシステムがディストピアを生む
幸せ探しは、金鉱を掘り当てるのとは違う。金は、われわれが何者かということとは関係なく存在する。われわれが金を掘る過程で何者になるのかも関係ない。輝く物質が本物の金かどうかは、実験で証明できる。でも何が本当の幸せかは証明できない。
HALPEVAM(※ユーザーの望む最高の仮想現実人生を個別提供してくれる、天才科学者コスタスがつくったコンピュータ)が与えられるのは、われわれがいまの時点で望んでいるものだけだ。
しかし、本物の幸福を味わえる可能性のある人生とは、何者かになるプロセスだ。ギリシャ人はそれをエウダイモニアと呼ぶ。「花開く」という意味だ。エウダイモニアの過程で、人の性格と思考と好みと欲望はつねに進化していく。
私は十代の後半から二十代の前半にかけての自分の写真を見て、当時執着していたことや、好きだったものや考えていたことを思い出すと、恥ずかしくて穴があったら入りたくなる。当時の好みや欲をずっとかなえ続けてくれる世界に、自分は住みたいだろうか?
とんでもない。
人の人格や欲しいものはどうして変わるのだろう?簡単に言うと衝突があるからだ。自分の望みを一度に全部は叶えてくれない世界と衝突することで人格ができ、自分の中で葛藤を重ねることで「あれが欲しい。でもあれを欲しがるのは正しいことなのか?」と考える力が生まれる。われわれは制約を嫌うけれど、制約は自分の動機を自問させてくれ、それによってわれわれを解放してくれる。
つまるところ、満足と不満の両方がなければ、本物の幸福を得ることはできない。満足によって奴隷になるよりも、われわれには不満になる自由が必要なのだ。
世界と衝突し、葛藤を経験することで、人は成長する。HALPEVAMは人間に奉仕するために開発されたとしても、結局は人間をディストピアの中に閉じ込め、人の嗜好を固定してしまい、その中の人間は成長も発展も変身もできない。
経済について書いたこの本の中で、この話にどんな意味があるのだろう?
HALPEVAMの目的はつまり、市場社会が成し遂げようとしていることなのだ。それは、欲を満たすことだ。
だが世の中には不幸が充満しているところを見ると、市場社会はうまく機能していないようだ。何が言いたいかというと、いまの経済は、人間の欲する目標を手に入れるのに適していないどころか、そもそも手の届かない目標を設定したシステムなのだ。
自由とショッピングモールーーいったい何を求めればいいのか?
アメリカ人作家のヘンリー・ディヴィッド・ソローは、「幸福になるには、それを求めないことだ」と言った。幸福は美しい蝶のようなものだ。「追えば追うほど逃げていく。しかし別のことに気を取られていると、そっと肩に止まっている」
では、死ぬほど幸福を手に入れたいのに幸福を追い求めてはいけないとすると、何を求めればいいのだろう?
君には君の答えを見つけてほしいが、君が考えているあいだに、私の個人的な考えを少しここで語ろう。
私が絶対に嫌だし恐ろしいのは、気づかないうちに誰かにあやつられ、意のままに動かされてしまうことだ。たいていの人は私と同じように感じているはずだ。『マトリックス』や『Vフォー・ヴェンデッタ』のような映画がヒットするのはそのためだ。
どちらの映画も、われわれが必要とする自己決定や自立や自由意志の問題を訴えている。奴隷の中でも洗脳されて幸せを感じているのは、最悪の愚か者だ。彼らは足かせをありがたがり、服従の喜びを主人に感謝する。
市場社会は見事な機械や莫大な富をつくりだすと同時に、信じられないほどの貧困と山ほどの借金を生み出す。それだけではない。市場社会は人間の欲望を永遠に生み出し続ける。
その最たる例がショッピングモールだ。その構造、内装、音楽など、すべてが人の心を麻痺させて、最適なスピードで店を回らせ、自発性と創造性を腐らせ、われわれの中に欲望を芽生えさせ、必要のないものや買うつもりのなかったものを買わせてしまう。そう考えると、どうしても嫌悪を感じざるを得ない。
ほかにも、人を洗脳するものはある。たとえばマスコミだ。マスコミは、大勢の人の利益や地球の利益を犠牲にするような政治判断に大衆の合意を取りつける手段になってしまっている。
そしてもうひとつ、政治信条を人々に刷り込む強力な方法がある。それが経済学だ。
イデオロギーーー信じさせる者が支配する
「支配者たちはどうやって、自分たちのいいように余剰を手に入れながら、庶民に反乱をおこさせずに、権力を維持していたのだろう?」
私はこの本の第1章でそう聞いた。私の答えは「支配者だけが国を支配する権利を持っていると、庶民に固く信じさせればいい」だった。
古代メソポタミアでも、いまの時代でも同じことが言える。すべての支配者にはその支配を正当化するようなイデオロギーが必要になる。ひとつの筋書きをつくって基本的な倫理観を刷り込み、それに反対する人は罰せられると思わせるのだ。
宗教は数世紀にわたってそんな筋書きを語り、まことしやかな迷信で支配者の力を支え、少数支配を正当化してきた。そして支配者による暴力や略奪を、神が与える自然の秩序として許してきた。
市場社会が生まれると、宗教は一歩後ろに下がることになった。産業革命を可能にした科学の出現により、神の秩序を信じることはあくまでも信仰であって、それ以上のものではないことが明らかになった。
支配者には、自分たちの正当性を裏付けてくれる新しい筋書きが必要になった。そこで彼らは、物理学者やエンジニアを真似て数学的な方法を使い、理論や公式を駆使して、市場社会が究極の自然秩序だという筋書きをつくりだした。世界一有名な経済学者のアダム・スミスはそれを「神の見えざる手」と呼んだ。このイデオロギー、つまり新しい現代の宗教こそ経済学だ。
19世紀以来、経済学者は本を書き、新聞に論説を投稿し、いまではテレビやラジオやネットに出演し、市場社会のしもべのようにその福音を説いている。一般の人が経済学者の話を聞くと、こう思うに違いない。
「経済学は複雑で退屈すぎる。専門家にまかせておいたほうがいい」
だがじつのところ、本物の専門家など存在しないち、経済のような大切なことを経済学者にまかせておいてはいけないのだ。
この本で見てきたように、経済についての決定は、世の中の些細なことから重大なことまで、すべてに影響する。経済を学者にまかせるのは、中世の人が自分の命運を神学者や教会や異端審問官にまかせていたのと同じだ。つまり、最悪のやり方なのだ。
ヤニス・バルファキスさんの主張は尤もである。
そう、不満は短期的には自我との葛藤だが、中長期的には自我の再認識、そして、人的成長の好機である。
人生に制約、不満は付き物であり、また、あって然るべきである。
幸福の要件は満足だが、満足の要件は不満である。
不満の無い現在は、なにか物足りない、或いは、なぜか不機嫌な未来の温床である。