2019年04月
2019年04月03日
【医療/哲学】「〈死〉の臨床学」村上陽一郎さん
P138
第四章 死の援助
ナチズムにおける安楽死
確かにナチズムのなかで展開される人間抹殺の様態は、通常の神経が耐えられないような場面を生み出している。ユダヤ民族の抹殺計画はもとより、精神障碍者が子孫を残せないようにする強制断種法、あるいは重度の身体・精神障碍者の安楽死政策などなど、どれ一つをとっても、国家を代表する政策実行者が政策として立案し、実行したという一事は、人類史上の汚点とも見なされるべきものであろう。
しかし、ヒトラーと安楽死政策の結びつきは、少なくともその初めにおいて、決してモンスター性(常軌を逸した非人間性)を持っていたわけではない。むしろ、その出発点では、重度の障碍に苦しむ愛児を安楽死させたいと願う両親の、必死の嘆願の書簡を受け取ったヒトラーが、その両親の苦哀を慮って、言わば「慈悲」あるいは「愛」の動機から、安楽死の合法化に舵を切ったと言われている。
そうであるがゆえに、私たちの判断は揺れ動くのでもある。出発点はむしろ慈悲であり、愛であり、良き人間性の動機付けの下で行われることも、法的な整備が行われ、合法化の名の下で、社会のなかで、事が日常化したときに、時にそれは筆舌に尽くし難いほどの「非人間性」を導くことがある、という見事な先例を、ナチズムが作ったからである。その意味でも、ナチズムは、人類史上犯すべからざる罪を残したといえるだろう。
「法律に代表される社会的な規則、仕組みは、起案者個人の『愛』という『人間性』、そして、それを肯定、希求する『想念』によって創発されるものの、合理的に具現化、日常利用されるにつれ、真逆の『非人間性』を間々創造する」。
村上陽一郎さんの洞察は尤もだが、個人の肯定的な人間性や想いは、なぜシステム化され得ないのか。
近因は、プログラマーが凡そ起案者本人でなく、「伝言ゲーム」を免れないからだろう。
根因は、システムが「抽象化」ゆえ、こぼれ落ちてしまうからだろう。
近年、「丁寧な説明」との文言をよく見聞きする。
無論、それに越したことはないが、「丁寧」の要件は「抽象化」である。
複雑極まる現代社会を生き抜くには、システムを読み解く力、癖が必要である。