2018年04月
2018年04月27日
2018年04月24日
【洋画】「ニュースの天才/Shattered Glass」(2003)
[ひと言感想]
「ニュースの天才」、ならびに、「フェイク・ニュース」は永久に不滅である。
ニュースは商品だからである。
メディアは、ニュースを売るのが、即ち、ニュースという商品を我々に買って読んで(見て)もらうのが生業、かつ、肝だからである。
メディアは、数多の一般市民に買って読んでもらえなければ、生存不能だからである。
他方、我々も、基本「見たいモノを見たい」生き物だからである。
我々は、必ずしも「真実を見たい」訳ではないからである。
過半は、自分に不都合、ないし、理解困難なニュースなど端からアウトオブ眼中で、「ニュースの天才」がこしらえた「フェイク・ニュース」を歓迎するからである。
「魚心あれば水心」という訳である。
「ニュースの天才」、および、彼らを擁するメディアは不道徳だが、結局彼らの商品を買う我々も、彼らに負けず劣らず不道徳である。
「ニュースの天才」、ならびに、「フェイク・ニュース」は永久に不滅である。
ニュースは商品だからである。
メディアは、ニュースを売るのが、即ち、ニュースという商品を我々に買って読んで(見て)もらうのが生業、かつ、肝だからである。
メディアは、数多の一般市民に買って読んでもらえなければ、生存不能だからである。
他方、我々も、基本「見たいモノを見たい」生き物だからである。
我々は、必ずしも「真実を見たい」訳ではないからである。
過半は、自分に不都合、ないし、理解困難なニュースなど端からアウトオブ眼中で、「ニュースの天才」がこしらえた「フェイク・ニュース」を歓迎するからである。
「魚心あれば水心」という訳である。
「ニュースの天才」、および、彼らを擁するメディアは不道徳だが、結局彼らの商品を買う我々も、彼らに負けず劣らず不道徳である。
2018年04月23日
【邦画】「どん底」(1957)
[ひと言感想]
私が起業して悟ったことの一つは、人生に「浮き沈み」と「三歩進んで二歩下がる」は付き物、ということである。
昨日一日良い仕事ができたと思ったら、今日は朝からパソコンが急遽動かない(→復旧に長時間&リスケを強いられる)なんてことはザラで、とりわけ当初、半べそでつくづくこう思ったものである。
その折、努めて自戒するのは、「くさらないこと」、そして、「沈んだ(⇔浮かび上がった)今を当たり前、デフォルトにしない&思わないこと」である。
くさって自暴自棄になったところで、パソコンが復活しないのは勿論、何も好転しない。
仕事を強制終了させられ、望外の公休(?・笑)に甘んじ、挙句、この「どん底」状態に順応してしまえば、早晩廃人確定だからである。
遍路の嘉平を除き、登場人物は皆、長く何らかの意味で「どん底」状態にある、所謂「人間のクズ」だったが、それは彼らが皆、現状に順応し、口では色々のたまうも、基本変化を怖れ、安住していたからである。
我々が怖れるべきは、「どん底」の状態そのものではなく、そこから浮かび上がる、否、這い上がる気概の消失である。
私が起業して悟ったことの一つは、人生に「浮き沈み」と「三歩進んで二歩下がる」は付き物、ということである。
昨日一日良い仕事ができたと思ったら、今日は朝からパソコンが急遽動かない(→復旧に長時間&リスケを強いられる)なんてことはザラで、とりわけ当初、半べそでつくづくこう思ったものである。
その折、努めて自戒するのは、「くさらないこと」、そして、「沈んだ(⇔浮かび上がった)今を当たり前、デフォルトにしない&思わないこと」である。
くさって自暴自棄になったところで、パソコンが復活しないのは勿論、何も好転しない。
仕事を強制終了させられ、望外の公休(?・笑)に甘んじ、挙句、この「どん底」状態に順応してしまえば、早晩廃人確定だからである。
遍路の嘉平を除き、登場人物は皆、長く何らかの意味で「どん底」状態にある、所謂「人間のクズ」だったが、それは彼らが皆、現状に順応し、口では色々のたまうも、基本変化を怖れ、安住していたからである。
我々が怖れるべきは、「どん底」の状態そのものではなく、そこから浮かび上がる、否、這い上がる気概の消失である。
2018年04月20日
【マーケティング/人生】「影響力の武器 実践編」N.J.ゴールドスタインさん、S.J.マーティンさん、R.B.チャルディーニさん
P107
26 悪魔の代弁者の効用
四百年ものあいだ、ローマカトリック教会では、聖職者の候補を選ぶ際には「悪魔の代弁者(※)」を使っていました。候補者の生活と仕事に関するあらゆる問題点を調べあげ、教会に報告させたのです。資産を評価するときに細かく調べるのに似ています。悪魔の代弁者の役割は、候補者に不利な内容を洗いざらい明らかにすることでした。これは教会の指導部がさまざまな考えや見方、情報源から、より多くの判断材料を得たうえで意思決定を行えるようにするための制度でした。
(※)訳注
カトリック教会の列聖調査審問検事のこと。聖人になる候補者に対して意図的にあらゆる角度から批判を加え、候補者が真に聖人になるにふさわしいかどうか、その判断材料を出す役割を担う。「人にいちゃもんをつける人」という意味でも使われる。
実業界で働く人は「ビジネス」と「聖人」との間に共通点があるとは思わないかもしれませんが、悪魔の代弁者方式は経営者にも貴重な教えを授けてくれます。その教えとは、チーム全員の意見が最初から一致しているようなときは、問題を別の観点から見るように促すと、往々にしてよい結果が得られるということです。集団思考や集団極性化(グループ内の多数派意見が、議論を重ねるほど極端な方向へ進む減少)による壊滅的な影響が心配される場合は、これはさらに重要なポイントになってきます。
グループのなかに全員一致を乱す者が一人でもいた場合、そのことでチーム内の創造的、複合的な考え方が喚起されることは、社会心理学者の間では以前から知られていました。しかし反対者の性質については、最近までほとんど研究されてきませんでした。同じ考えの人ばかりのグループで問題解決能力を高めようとする場合、悪魔の代弁者、すなわち、わざと異論を唱える偽の反対者と、本気で反対している本物の反対者では、どちらが有効なのでしょうか。
社会心理学者のチャーラン・ネメスらによる研究の結果から、集団の創造的な問題解決の力を高めようとする場合、真の反対者に比べると、悪魔の代弁者はかなりその効果が劣ることが分かっています。本物の反対者の論拠や見解は一定の原則に基づいているため、大多数のメンバーはそれを妥当であると見なす傾向があり、それと比べると悪魔の代弁者の姿勢は、わざと反対しているようにしか見えないからだそうです。たいていの人は、本気で反対していると思われる相手に対しては、なぜそれほど自信をもって反対しているのかを理解しようとします。その過程で、問題への理解が深まり、より広い視野から検討を加えられるようになります。
では、悪魔の代弁者はもう時代遅れなのでしょうか。現に1980年台には、法王ヨハネパウロ二世は公式にカトリック教会におけるこの制度の運用を廃止しています。しかし実際には、悪魔の代弁者がいることで、大多数のメンバーは自分たちの考えに対する自信を失うどころか逆に深めることができることが証明されています。恐らく、あらゆる代替案を検討した〈そしてそのうえで却下した〉という確信がその理由だと思われます。それに、代替案が却下されたからといって、悪魔の代弁者が何の役にも立たないというわけではありません。大多数の人が心を開いて代替案の検討を行うかぎり、悪魔の代弁者は異なる考えや見方、情報に対する注意を喚起することができるのです。
これらのことから読み取れるリーダーにとっての最善の策とは、多数派の見解に対して同僚や部下が安心して反対意見を言えるような職場環境を作り、その状態を維持することです。異議が個人的なものではなく仕事上のものであるかぎり、複雑な問題に対する革新的な解決策の発見や、従業員の意欲の上昇などの効果が現れます。最終的には利益も増加するでしょう。ただし、決定による影響が長期的かつ広範囲におよぶ場合は、本音で反対する人も重要です。私たちが間違った方向に行きそうなときに、見識のある人が積極的にそれを知らせてくれれば、見せかけではない本物の議論を通じた深い理解が得られるようになります。そして、最善の決定を下して最大限効果的なメッセージを発信できるようになるのです。
政府が「働き方改革」を推進している。
対象の労働は金銭対価のそれであり、基本、民間のそれである。
それをオカミがどうこう言うのは、一事業家として閉口するばかりだが、結局、彼らの企みは「ザル法」的には達成しても、本来目的的には達成しないだろう。
なぜか。
近因は、彼らの政治生命基盤である「経済界」の支持が得づらいからだが、根因は、我々日本人の思考習性に「生産性」、「質(⇔量)」の概念が乏しいから、挙句、労働、および、経済活動の肝である「最善努力」を誤解しているから、である。
要するに、我々はDNA的に努力の「量」を向上させる意義と可能性は信じていても、「質」を向上させるそれらは信じていないのである。
日本人の考える「最善努力」とは、経験、ないし、前例のあるプロセスを「時間と体力の限り」ひたすらやること、なのである。
本来の、自分の頭で思考&意思決定した「最善のプロセス」を「必要最低限量」粛々とやること、ではないのである。
たとえば、ケンカの勝率を高める(笑)べく、腕立て伏せを毎日50回から100回に増やし、腕力を倍増する、といった具合である。
ケンカに勝つには本当に腕力をあげるのが早道なのか、はたまた、だとしても、腕力の増強に本当に腕立て伏せが有効なのか、また、だとしても本当に何回やるのが適切なのか、等々検証も再考もロクにせずに、である。
民間企業における会議の本来、および、一番の目的は、経営幹部がこの「最善努力」を見極め、意思決定することである。
それを部下に得心させ、「他の選択肢の消滅『空気』」を醸成する、もとい(苦笑)、コンセンサスを形成するのは、下位の目的である。
もし、これが真に一番のそれなら、それは「アリバイ会議」である(し、その場合、経営幹部は事前に「最善努力」を独力で思考&意思決定している必要があるし、その場合、高コストを投じて会議を開催する必要が真にあるか事前に熟考する必要がある)。
しかし、日本の企業の会議の過半は残念ながらこの「アリバイ会議」である。なぜか。
近因は、経営幹部、とりわけ経営者、が俎上の「最善努力」を選択&意思決定する能力、および、胆力に乏しいからだが、根因は、先述の通り、そもそも「最善努力」を誤解しているから、もっと言えば、「質」、「生産性」を疎んじ、「(最善のプロセスは)走りながら考えれば良い」と外資系企業の良いトコ取り、かつ、事前自己エクスキューズをしているから、である。
ちなみに、かつて外資系企業で働いた経験から言うと、たしかに、彼らは結構「走りながら考える」を信条とするが、彼らのうち本当に成功する一握りのそれは、あくまで「『実際に走ることで分かることも多く、ひと先ず現時点での最善のプロセスで死ぬ一歩手前まで走り、真のそれは』走りながら考えれば良い」である。
当たり前である。
最善のプロセスは基本、次善のプロセス、すなわち、当時の最善のプロセス、の更新の賜物であるのだから。
たしかに、日本の企業の過半は「悪魔の代弁者」の意義&効用に懐疑的だが、それは以上の理由に因るものである。
繰り返せば、そもそも経営者が「会議」の本来目的を誤解し、「悪魔の代弁者」ならではの複眼的選択肢の意義&可能性を信じていない、と。
そして、「最善努力」を誤解し、「最善のプロセス」の意義&可能性を信じていない、ということである。
「堀さん、オンナは(オトコとの相談話で)問題を解決したいのではなく、問題にうなづいて欲しいだけなんですよ」。
かつて私は親友にこう諭されたが(笑)、たしかに、日本の「悪魔の代弁者」は、凡そ経営者と女子に無用の長物認定され、でき得る「逸失利益」&「逸失幸福(?・笑)」の抑止に貢献できていない。
2018年04月19日
2018年04月18日
2018年04月17日
2018年04月16日
【邦画】「一番美しく」(1944)
[ひと言感想]
人生は運である。
いつ、誰から生まれ出るか、そして、誰と出会い、何を経験するか、結局、運だからである。
青春を軍事工場で過ごした渡辺は運が良いとも、また、経験の内容も良いとも言えないが、たしかに美しく生きていた。
恵まれた性根と躾のもと、否定的な経験をも肯定的に咀嚼、血肉化していたから、挙句、強く優しく成長していたから、である。
学び、未来への糧は、いかなる時節、境遇でも得られるのである。
我々が嘆くべきは、不運や否定的な経験に対してではなく、それらに対応できない自分に対してある。
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人生は運である。
いつ、誰から生まれ出るか、そして、誰と出会い、何を経験するか、結局、運だからである。
青春を軍事工場で過ごした渡辺は運が良いとも、また、経験の内容も良いとも言えないが、たしかに美しく生きていた。
恵まれた性根と躾のもと、否定的な経験をも肯定的に咀嚼、血肉化していたから、挙句、強く優しく成長していたから、である。
学び、未来への糧は、いかなる時節、境遇でも得られるのである。
我々が嘆くべきは、不運や否定的な経験に対してではなく、それらに対応できない自分に対してある。
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2018年04月13日
2018年04月12日
【邦画】「わが青春に悔なし」(1946)
[ひと言感想]
理論の裏付けのない「美しい」、「楽しい」、「アブクみたいな」ものに心惹かれるのは、非現実で苦を伴わないからである。
苦は幸福、成功の要件でないが、苦の無い営みは余力があるのと、挙句、後悔の種を残すのと、同義である。
苦の回避は本能だが、後悔の到来は確率論である。
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理論の裏付けのない「美しい」、「楽しい」、「アブクみたいな」ものに心惹かれるのは、非現実で苦を伴わないからである。
苦は幸福、成功の要件でないが、苦の無い営みは余力があるのと、挙句、後悔の種を残すのと、同義である。
苦の回避は本能だが、後悔の到来は確率論である。
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2018年04月11日
【洋画】「ターミナル/The Terminal」(2004)
[ひと言感想]
フランクはなぜ、ビクターの不法入国を見逃したのか。
直接は、根城のターミナル(空港)がビクター信者で溢れたからだろうが、根本は、ビクターの天然の利他主義に人として「参った」からだろう。
「無理が通れば道理が引っ込む」と言うが、無理筋による故意の利己主義は誰もが気づき、かつ、辟易する所である。
利己主義が幅を利かす時節ほど利他主義が、それも天然のそれが、珍重、支持されて然るべきである。
フランクはなぜ、ビクターの不法入国を見逃したのか。
直接は、根城のターミナル(空港)がビクター信者で溢れたからだろうが、根本は、ビクターの天然の利他主義に人として「参った」からだろう。
「無理が通れば道理が引っ込む」と言うが、無理筋による故意の利己主義は誰もが気づき、かつ、辟易する所である。
利己主義が幅を利かす時節ほど利他主義が、それも天然のそれが、珍重、支持されて然るべきである。
出演:トム・ハンクス、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、クマール・パラーナ、スタンリー・トゥッチ
監督:スティーブン・スピルバーグ
監督:スティーブン・スピルバーグ
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2014-05-14
2018年04月09日
【邦画】「醉いどれ天使」(1948)
[ひと言感想]
数少ない、母方の祖母にたしなめられたことの一つは、凡そ小学生時分、「太く短く生きる」との戯言に対してである。
この戯言をのたまった理由は記憶していないが、単に何かの受け売りで、明確な意思は無かったと思う。
なぜ祖母は、そんな戯言を、しかも、可愛い孫の(笑)のそれを、たしなめたのか。
見過ごせなかったのか。
今、当時の祖母の約一回り下になって推量するに、祖母にとって「太く短く生きる」のは、意思の如何を問わずあり得なかったのだろう。
母から生前よく聞かされたのは、祖母は農家の比較的良家に生まれたが、祖父に嫁いでからというもの、戦争もあり、家(族)を守るのに絶えず必死だった、ということである。
そのエピソードの最たるは、毎晩(真岡から)宇都宮までヤミ米をリヤカーで持って行っていたこと、ならびに、その折一度お巡りに見つかったものの、事情共々懇願し、見逃してもらったこと、である。
そんな「『明日を生きる』あり難さ」を実体験した祖母にとって、「太く短く生きる」という[人生選択]、即ち、[オプション]はあり得ず、孫の戯言でも許せなかったのだろう。
本題に入り、三船演じる街の「裏の」顔役、松永である。
なぜ松永は、当初、真田医師の養生のススメに耳を貸さなかったのか。
手遅れになるまで、改心できなかったのか。
「太く短く生きれば上等」と粋がってのことだが、ではなぜ粋がったのか。
粋がれたのか。
根本は、若かったからである
そして、終戦し、人生を粗末にする選択、即ち、「太く短く生きる」オプション、があり得たからである。
「人生を粗末にすべきでない」のは万人が認める真理である。
しかし、粗末にしている当人からすると、それがオプションであり得る限りは、いかに他の善人にたしなめられても、切迫を覚えず改心しない、或いは、引っ込みがつかず改心できない、のである。
人間が自由を欲求するのは、根源欲求が長寿と種の保存だからである。
長寿と種の保存を果たすには、自由にオプションを選択するのが有効だからである。
しかし、人間は、自由とオプションを手に入れた挙句、「太く短く生きる」と言い出す始末なのである。
人間の悲劇の元凶は、目的と手段を区別することの根源的な不得手さかもしれない。
数少ない、母方の祖母にたしなめられたことの一つは、凡そ小学生時分、「太く短く生きる」との戯言に対してである。
この戯言をのたまった理由は記憶していないが、単に何かの受け売りで、明確な意思は無かったと思う。
なぜ祖母は、そんな戯言を、しかも、可愛い孫の(笑)のそれを、たしなめたのか。
見過ごせなかったのか。
今、当時の祖母の約一回り下になって推量するに、祖母にとって「太く短く生きる」のは、意思の如何を問わずあり得なかったのだろう。
母から生前よく聞かされたのは、祖母は農家の比較的良家に生まれたが、祖父に嫁いでからというもの、戦争もあり、家(族)を守るのに絶えず必死だった、ということである。
そのエピソードの最たるは、毎晩(真岡から)宇都宮までヤミ米をリヤカーで持って行っていたこと、ならびに、その折一度お巡りに見つかったものの、事情共々懇願し、見逃してもらったこと、である。
そんな「『明日を生きる』あり難さ」を実体験した祖母にとって、「太く短く生きる」という[人生選択]、即ち、[オプション]はあり得ず、孫の戯言でも許せなかったのだろう。
本題に入り、三船演じる街の「裏の」顔役、松永である。
なぜ松永は、当初、真田医師の養生のススメに耳を貸さなかったのか。
手遅れになるまで、改心できなかったのか。
「太く短く生きれば上等」と粋がってのことだが、ではなぜ粋がったのか。
粋がれたのか。
根本は、若かったからである
そして、終戦し、人生を粗末にする選択、即ち、「太く短く生きる」オプション、があり得たからである。
「人生を粗末にすべきでない」のは万人が認める真理である。
しかし、粗末にしている当人からすると、それがオプションであり得る限りは、いかに他の善人にたしなめられても、切迫を覚えず改心しない、或いは、引っ込みがつかず改心できない、のである。
人間が自由を欲求するのは、根源欲求が長寿と種の保存だからである。
長寿と種の保存を果たすには、自由にオプションを選択するのが有効だからである。
しかし、人間は、自由とオプションを手に入れた挙句、「太く短く生きる」と言い出す始末なのである。
人間の悲劇の元凶は、目的と手段を区別することの根源的な不得手さかもしれない。
2018年04月06日
【人物評】「三文役者の死 正伝殿山泰司」新藤兼人さん
P91
11 ペエペ役者は忙しい
(前略)
乙羽信子が「原爆の子」に出演したいといってきた。「愛妻物語」で、乙羽君は映画への希望をつないだのである。宝塚で〈百万ドルのえくぼ〉と騒がれた娘役のスターを、松山英夫が引きぬいた。鳴物入りで宝塚から大映へ移ったものの、アイドルスターとして売り出そうとしたため、出る作品が悉く失敗、映画演技の本質にふれる機会がなく落ちこんでいた。そこへ「愛妻物語」だったのだ。共演者の宇野重吉と出会ったのも幸いして、彼女なりに活路を見出したのであった。
(中略)
広島でオールロケでやることにした。資金が乏しいのだから合宿である。(広島)市内に被爆した親戚が商人宿をささやかにやっていたのでここへ泊まりこんだ。
タイちゃん(=殿山泰司)の役は巡航船の船長である。乙羽信子の女教師が疎開先の能美島から教え子に会うために広島へやってくる。タイちゃんはファーストシーンとラストシーンに出る。女教師と二言三言交わすだけだが、映画の出発と終わりをしめくくる大事な役である。主役の乙羽君はドラマを引っ張ってきて終点に立ち、その結論を出すのだが、バイプレーヤーはその主役の立つ場所を安定さすのである。
これはむつかしい、演技が過剰ではいけないし、過少では支えることにならない。なにより必要なのは実在感である。タイちゃんにはそれがあった。演技らしい演技は何もやらない、自然のまま出てくるという演技。
しかしドラマというものは、クライマックスで盛り上げ、観る人を引きつけて陶酔を与えるのだから、役者の演技力がものをいうことになる。バイプレーヤーはバイプレーヤーなりにそこに参加しなければならない。タイちゃんのような、日常生活のなかからそのまま出てきたような演技はそこがむつかしい。「愛妻物語」のタイちゃんは、実際の人が出演しているように自然だったが、ラストシーンの主人公が死ぬ悲劇のクライマックスにも自然のままなのである。若妻の死を悼む雰囲気に積極的に乗ってこない。バイプレーヤーの節度として主役の邪魔をしない配慮と受けとれなくもないが、なにかものたりない。
ところが、「原爆の子」の船長のように、終始主役に客観的立場でいられるような役どころでは、タイちゃんの演技はリアルで抜群なのである。
バイプレーヤーの鉄則として、主役の邪魔をしてはならない。主役をたすけなければならない。ときには主役に対してセリフを喋らないで、喋った効果を出さなければ、脇役とはいえない。バイプレーヤーはドラマの通行人なのである。主役を上手に通してあげなければならない。犬や猫や鶏がすばらしい効果をあげる場合がある。それならばバイプレーヤーは犬や猫であればいいのか。
タイちゃんの先輩の滝沢修、宇野重吉、小沢栄太郎、東野英治郎といった人たちは、ときには主役に代わってドラマを盛りあげる。笠智衆、志村喬などはときには主役であったりする。しかしタイちゃんが主役を演じるとは想像できない。宇野重吉や小沢栄太郎のような、ドラマのなかに深くふみこんだ演技もできそうにない。タイちゃんがペエペエの役者だからできないのか。そうではない。タイちゃんの役は笠智衆にも滝沢修にもできないのだ。だいいちこの人がちが一言もセリフのないような役に出ることはない。
しいていうなら、タイちゃんの魅力はペエペエのよさである。ふらりと出てきて、ふらりとひっこむタイちゃんという役者。タイちゃんが欠けてはドラマが成立しないということはないが、タイちゃんが出ればドラマはふくらむ。そうなるとやっぱりタイちゃんは犬や猫と同じなのであろうか。ともかくわたしは生涯タイちゃんに拘りつづけることになる。
(中略)
「狼」は、乙羽信子、殿山泰司、高杉早苗、浜村純、菅井一郎が主役。郵便車を襲った保険外交員の事件にヒントを得てシナリオ化したもので、五人が最後につかんだのは保険外交員の仕事だったが、成績をあげることが出来なくて、絶望的に郵便車を襲撃する。いずれも生活に敗れた弱者。
生活能力のない弱者というのが、タイちゃんにうってつけである。外ではいつも人のあとからついて行く。家へ帰っては女房に頭があがらない。子どもたちからも馬鹿にされている。会社が潰れてながい失業ののち保険外交員となる。タイちゃんは実際にその人ではないかと思えるほどぴったりであった。
高杉早苗は役作りに腐心し、殿山さんはどうしてあんなにリアルなのかしら、と嘆いたものだ。実生活の住んでいる場所がちがうのだから仕方がない。
だが、ここでタイちゃんは、ラストで失速した。自然のままに終わって、クライマックスにのめりこんでいけない。演技者としての盛りあがりがないのだ。私は演出者としての能力の無さに臍を噛んだ。
なぜ、我々は映画やテレビでドラマを見るのか。
「人はパンのみに生きるにあらず」だからである。
過酷な現実を生き抜くには、ドラマという「ふくらみ」のある抽象的、かつ、希望的な現実を見ると、自身の客観(相対化)と楽観が促され、助かるからである。
「ふくらみ」のない剥き出しの現実は、切なくなるばかりだからである。
パンにはジャムやハムが要るように、ドラマにもバイプレイヤーが要るのである。
サンドイッチの付加価値はジャムやハムに潜在し、ドラマの付加価値、そして、肝はバイプレイヤーに潜在するのである。
人間は「ふくらみ」を求め、それぞれ創る生き物である。
2018年04月04日
【洋画】「ビューティフル・マインド/A Beautiful Mind」(2001)
[ひと言感想]
問題の正解は、一つに限らないのである。
多変数を旨とする現実は、尚の事なのである。
「不明かつ不治の病」との現実の難問に、ナッシュ教授が「共生」の解を導き、貫けたのは、離婚さえ厭わなかった夫人の献身と自身の確信の賜物である。
現実の難問の正解は「後押しされるもの」、そして、「信じ切るもの」なのである。
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問題の正解は、一つに限らないのである。
多変数を旨とする現実は、尚の事なのである。
「不明かつ不治の病」との現実の難問に、ナッシュ教授が「共生」の解を導き、貫けたのは、離婚さえ厭わなかった夫人の献身と自身の確信の賜物である。
現実の難問の正解は「後押しされるもの」、そして、「信じ切るもの」なのである。
出演:ラッセル・クロウ、ジェニファー・コネリー、クリストファー・プラマー、ポール・ベタニー、エド・ハリス
監督:ロン・ハワード
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
監督:ロン・ハワード
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2012-07-13
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