2017年05月
2017年05月31日
2017年05月29日
【洋画】「タクシードライバー/Taxi Driver」(1976)
[ひと言感想]
過日たまたま見たテレビ番組曰く、発達障害は「感覚の過敏さ」と相関する場合が少なくないという。
たとえば、聴覚が過敏だと、スーパーに居てもパチンコ店の如くノイジーだという。
そして、心身に甚大なストレスがかかり、「奇異な」、つまり「マジョリティと異なる」行動を起こし、挙句「変わっている人」と断じられる始末だという。
他方、なぜ、私やマジョリティはスーパーに居てノイジーに感じないのか。
「来店目的」かつ「今」的に不要な音を制限し、良くも悪くも耳に入れない、挙句入らないからだろう。
なぜ、不要な音を制限するのか。
直接は、聴覚が鈍感だからだろうが、根因は、新聞を読む際、理解困難な事件や問題を「見て見ぬふりをしている」、「黙殺している」のに通底するのだろう。
そう、さもなくば「身が持たない」からだろう。
外部情報を間引かず、「ダダ漏れ」ならぬ「ダダ入れ」してしまうと、「生き物として潰れかねない」からだろう。
よって、トラヴィス(’演:ロバート・デ・ニーロさん)が頭をモヒカンにし、所謂「世直し」を敢行したのは、ひと言で言えば、社会の不条理が許せなかったからだろうが、掘り下げて言えば、社会的不条理の外部情報を間引けなくなったからだろう。
人が「世直し」に駆られるのは、凡そ自分が尋常でないからだが、それは否定的な外部情報を制限し得ず、自分の許容量以上に入力した当然の報いかつ悲劇なのだろう。
それと、「自由」の代償、および、要件は「孤独」なのだろう。
孤独を謳歌する気概と能力を持たずに自由を謳歌するのは、自殺行為かつ傍迷惑に違いない。
過日たまたま見たテレビ番組曰く、発達障害は「感覚の過敏さ」と相関する場合が少なくないという。
たとえば、聴覚が過敏だと、スーパーに居てもパチンコ店の如くノイジーだという。
そして、心身に甚大なストレスがかかり、「奇異な」、つまり「マジョリティと異なる」行動を起こし、挙句「変わっている人」と断じられる始末だという。
他方、なぜ、私やマジョリティはスーパーに居てノイジーに感じないのか。
「来店目的」かつ「今」的に不要な音を制限し、良くも悪くも耳に入れない、挙句入らないからだろう。
なぜ、不要な音を制限するのか。
直接は、聴覚が鈍感だからだろうが、根因は、新聞を読む際、理解困難な事件や問題を「見て見ぬふりをしている」、「黙殺している」のに通底するのだろう。
そう、さもなくば「身が持たない」からだろう。
外部情報を間引かず、「ダダ漏れ」ならぬ「ダダ入れ」してしまうと、「生き物として潰れかねない」からだろう。
よって、トラヴィス(’演:ロバート・デ・ニーロさん)が頭をモヒカンにし、所謂「世直し」を敢行したのは、ひと言で言えば、社会の不条理が許せなかったからだろうが、掘り下げて言えば、社会的不条理の外部情報を間引けなくなったからだろう。
人が「世直し」に駆られるのは、凡そ自分が尋常でないからだが、それは否定的な外部情報を制限し得ず、自分の許容量以上に入力した当然の報いかつ悲劇なのだろう。
それと、「自由」の代償、および、要件は「孤独」なのだろう。
孤独を謳歌する気概と能力を持たずに自由を謳歌するのは、自殺行為かつ傍迷惑に違いない。
出演:ロバート・デ・ニーロ、シビル・シェパード、ジョディ・フォスター
監督:マーティン・スコセッシ
監督:マーティン・スコセッシ
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2014-12-19
2017年05月26日
2017年05月24日
【洋画】「ランボー 最後の戦場/Rambo」(2008)
[ひと言感想]
「恵まれた国の人が紛争国の人を支援をするのは、戦場の実際を知らない博愛の幻想であり、結局、自己満足である」。
私も戦場の実際は知らないが、ランボーのこの言を一つの真理と確信する。
我々恵まれた国の人間の博愛は、幻想の対象であると共に、意識の如何を問わず背負わされた十字架でもある。
我々がこうまでして自己満足を望むのは、結局、後ろめたいからではないか。
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「恵まれた国の人が紛争国の人を支援をするのは、戦場の実際を知らない博愛の幻想であり、結局、自己満足である」。
私も戦場の実際は知らないが、ランボーのこの言を一つの真理と確信する。
我々恵まれた国の人間の博愛は、幻想の対象であると共に、意識の如何を問わず背負わされた十字架でもある。
我々がこうまでして自己満足を望むのは、結局、後ろめたいからではないか。
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2017年05月23日
【邦画】「エヴェレスト 神々の山嶺」(2016)
[ひと言感想]
「もういいんだ」。
凍った羽生(演:阿部寛さん)を前に、深町(演:岡田准一さん)がこうマロリーの証言フィルムも、本分の撮影も投げ打ったのは、羽生の生き様の生き証人に成ること、ならびに、羽生の魂を回収しかつ遺志を継ぐこと、が本懐だったからだろう。
然るに、深町は死にたくなかったし、死ねなかった、死ぬ訳にはいかなかった、のだろう。
「取り憑かれ」て「遺志を継ぐ」というのは成る程である。
さしもの神々も、懸命に遺志を継ごうとする人にはつい微笑むのだろう。
本末転倒の余談だが、私は「取り憑かれたい」と心底欲する人に出会えたら、もういつ、いかに死んでも本望である。
「もういいんだ」。
凍った羽生(演:阿部寛さん)を前に、深町(演:岡田准一さん)がこうマロリーの証言フィルムも、本分の撮影も投げ打ったのは、羽生の生き様の生き証人に成ること、ならびに、羽生の魂を回収しかつ遺志を継ぐこと、が本懐だったからだろう。
然るに、深町は死にたくなかったし、死ねなかった、死ぬ訳にはいかなかった、のだろう。
「取り憑かれ」て「遺志を継ぐ」というのは成る程である。
さしもの神々も、懸命に遺志を継ごうとする人にはつい微笑むのだろう。
本末転倒の余談だが、私は「取り憑かれたい」と心底欲する人に出会えたら、もういつ、いかに死んでも本望である。
2017年05月22日
2017年05月19日
2017年05月18日
【洋画】「ヒッチコック/Hitchcock」(2012)
[ひと言感想]
初耳かつ考えさせられたことが二つある。
一つは、ヒッチコックが映画会社から予算を分捕れず、自宅を抵当に入れて「サイコ」を作ったこと。
もう一つは、そこまでして作った「サイコ」を、ヒッチコックが当初駄作呼ばわりし、失意したこと。
ジェームズ・キャメロンも自宅を抵当に入れて「タイタニック」を作ったと記憶している。
巨匠が名作に恵まれるのは、挙句、巨匠足り得るのは、人生を公私の別無く主体的かつ目的的に、そして、懸命かつ自分に冷徹に過ごすのが大きい。
初耳かつ考えさせられたことが二つある。
一つは、ヒッチコックが映画会社から予算を分捕れず、自宅を抵当に入れて「サイコ」を作ったこと。
もう一つは、そこまでして作った「サイコ」を、ヒッチコックが当初駄作呼ばわりし、失意したこと。
ジェームズ・キャメロンも自宅を抵当に入れて「タイタニック」を作ったと記憶している。
巨匠が名作に恵まれるのは、挙句、巨匠足り得るのは、人生を公私の別無く主体的かつ目的的に、そして、懸命かつ自分に冷徹に過ごすのが大きい。
2017年05月17日
【洋画】「サイコ/Psycho」(1960)
[ひと言感想]
我々が本作品に心を鷲掴みにされるのは、テーマが皆覚えのある「恐怖」、それも、「『見捨てられる』恐怖」、だからである。
主人公のノーマンとマリオンは罪を犯してしまうし、ノーマンに至っては重ねてしまうが、我々は彼らを憎み切れないばかりか、同情さえ覚えてしまう。
彼らを犯罪に駆り立てたのが、皆覚えのある、禁忌の最たるの「『見捨てられる』恐怖」だからである。
「『見捨てられる』恐怖」は、人間の本懐である生存と自己肯定を直截かつ比類なく脅かす。
我々が他者に共感するのは、また、行動を急き立てられるのは、機会や幸福より遥かに恐怖と脅威、そして不幸である。
我々が本作品に心を鷲掴みにされるのは、テーマが皆覚えのある「恐怖」、それも、「『見捨てられる』恐怖」、だからである。
主人公のノーマンとマリオンは罪を犯してしまうし、ノーマンに至っては重ねてしまうが、我々は彼らを憎み切れないばかりか、同情さえ覚えてしまう。
彼らを犯罪に駆り立てたのが、皆覚えのある、禁忌の最たるの「『見捨てられる』恐怖」だからである。
「『見捨てられる』恐怖」は、人間の本懐である生存と自己肯定を直截かつ比類なく脅かす。
我々が他者に共感するのは、また、行動を急き立てられるのは、機会や幸福より遥かに恐怖と脅威、そして不幸である。
2017年05月16日
【洋画】「スカイライン 征服/Skyline」(2010)
[ひと言感想]
成る程、人間が天災に弱いのは、事前のリスクマネジメントに精が出難いことに加え、袖振り合う物事の意味や自分との関係性を良くも悪くも皆読み解こうとしてしまうせいかもしれない。
今、「忖度」が何かと問題視されているが、人の気持ちに限らず何でも読み解き過ぎるのは両刃である。(笑)
また、男子が女子の懐妊を手放しで喜べないのは、エイリアンの好物(笑)である頭脳が良くも悪くも本能的、刹那的にではなく、理性的、中長期的に回ってしまうせいかもしれない。
男も女も、遺憾に思うべきは相手の人格ではなく、異なる頭脳である。
成る程、人間が天災に弱いのは、事前のリスクマネジメントに精が出難いことに加え、袖振り合う物事の意味や自分との関係性を良くも悪くも皆読み解こうとしてしまうせいかもしれない。
今、「忖度」が何かと問題視されているが、人の気持ちに限らず何でも読み解き過ぎるのは両刃である。(笑)
また、男子が女子の懐妊を手放しで喜べないのは、エイリアンの好物(笑)である頭脳が良くも悪くも本能的、刹那的にではなく、理性的、中長期的に回ってしまうせいかもしれない。
男も女も、遺憾に思うべきは相手の人格ではなく、異なる頭脳である。
2017年05月12日
【洋画】「老人と海/The Old Man and the Sea」(1958)
[ひと言感想]
サンチャゴの巨大カジキとの格闘は、傍目では「骨折り損のくたびれ儲け」だろう。
しかし、漁師として、人として海に、そして、自分に負けなかった経験を重ね、サンチャゴ本人としては有意かつ本望だろう。
「外的に身ぐるみ、命を奪われようと、内的に負けることはない」。
こう改めて自覚、確信できたのだから。
人生にただの「骨折り損」は無い。
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サンチャゴの巨大カジキとの格闘は、傍目では「骨折り損のくたびれ儲け」だろう。
しかし、漁師として、人として海に、そして、自分に負けなかった経験を重ね、サンチャゴ本人としては有意かつ本望だろう。
「外的に身ぐるみ、命を奪われようと、内的に負けることはない」。
こう改めて自覚、確信できたのだから。
人生にただの「骨折り損」は無い。
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2017年05月11日
【洋画】「華麗なるギャツビー/The Great Gatsby」(2013)
[ひと言感想]
改めて思ったことの一つは、やはりオトコはバカで、良くも悪くも純粋である。
だから、オトコは愛を人生の十分条件に「できる」し、良くも悪くも相手の気持ちを確かめず、一人突っ走って「してしまう」、ということ。
他方、オンナはやはりシタタカで、良くも悪くも現実的である。
だから、オンナは愛を人生の十分条件に「できない」(→一時のオプション、せいぜい必要条件にしかできない)し、良くも悪くも相手の気持ちを鑑みず、自分の本心にのみ忠実である、ということ。
そして、これは善悪ではなくDNAの問題である、ということ。(笑)
もう一つは、カップルに限らずパートナーは持続的に協同、共生してナンボである。
だから、パートナーの選択は「目先のニーズ」ではなく、ニーズの先にある「志」、および、その根底に在る「価値観」の合致性を最重視すべきである、ということ。
そうである。
ギャッツビーが赤貧から富豪に成り上がったのは、デイジーの愛を取り戻すために他ならず、その一途さと実行力は正に脱帽だが(笑)、彼が犯した唯一かつ最大の過ちがこれなのである。
近年、結婚という社会システムがオワコン視されているが、それはパートナーの選択が「目先のニーズ」の合致性に偏っている、当然のてん末なのである。
改めて思ったことの一つは、やはりオトコはバカで、良くも悪くも純粋である。
だから、オトコは愛を人生の十分条件に「できる」し、良くも悪くも相手の気持ちを確かめず、一人突っ走って「してしまう」、ということ。
他方、オンナはやはりシタタカで、良くも悪くも現実的である。
だから、オンナは愛を人生の十分条件に「できない」(→一時のオプション、せいぜい必要条件にしかできない)し、良くも悪くも相手の気持ちを鑑みず、自分の本心にのみ忠実である、ということ。
そして、これは善悪ではなくDNAの問題である、ということ。(笑)
もう一つは、カップルに限らずパートナーは持続的に協同、共生してナンボである。
だから、パートナーの選択は「目先のニーズ」ではなく、ニーズの先にある「志」、および、その根底に在る「価値観」の合致性を最重視すべきである、ということ。
そうである。
ギャッツビーが赤貧から富豪に成り上がったのは、デイジーの愛を取り戻すために他ならず、その一途さと実行力は正に脱帽だが(笑)、彼が犯した唯一かつ最大の過ちがこれなのである。
近年、結婚という社会システムがオワコン視されているが、それはパートナーの選択が「目先のニーズ」の合致性に偏っている、当然のてん末なのである。
出演:レオナルド・ディカプリオ、トビー・マグワイア、キャリー・マリガン、ジョエル・エドガートン
監督:バズ・ラーマン
監督:バズ・ラーマン
ワーナー・ホーム・ビデオ
2014-05-02
2017年05月10日
【洋画】「ディパーテッド/The Departed」(2006)
[ひと言感想]
ひと言で言えば、主人公の悲劇は出自に「不適切かつ過剰に」抗ったてん末である。
たしかに、出自の多くは不本意で、抗いたくなるのもの。
そして、それが良い結果、未来を生むことも少なくないが、やはり大事なのはやり方と程度である。
羽生善治もよく言うし、私自身歳を重ねてつくづく思うが、「無理は禁物」である。
無理は高確率で心身に倍返しされ、人生というマラソンだと「高くつく」のである。
ただ、ここで難しいのは、「では『無理』とは何か?」、「『無理』をどう見極めるか?」である。
主人公はこれを見誤った訳だが、我々も同じ轍を踏む確率が高い、というか、高確率で既に踏んでいる。
自己啓発の主眼は、「無理」を見誤らないため、また、「無理」から引き返すため、かもしれない。
ひと言で言えば、主人公の悲劇は出自に「不適切かつ過剰に」抗ったてん末である。
たしかに、出自の多くは不本意で、抗いたくなるのもの。
そして、それが良い結果、未来を生むことも少なくないが、やはり大事なのはやり方と程度である。
羽生善治もよく言うし、私自身歳を重ねてつくづく思うが、「無理は禁物」である。
無理は高確率で心身に倍返しされ、人生というマラソンだと「高くつく」のである。
ただ、ここで難しいのは、「では『無理』とは何か?」、「『無理』をどう見極めるか?」である。
主人公はこれを見誤った訳だが、我々も同じ轍を踏む確率が高い、というか、高確率で既に踏んでいる。
自己啓発の主眼は、「無理」を見誤らないため、また、「無理」から引き返すため、かもしれない。
2017年05月08日
【洋画】「仮面の男/The Man in the Iron Mask」(1998)
[ひと言感想]
本作品の妙は、やはり「仮面」の普遍性だろう。
時代が変わり、我々はフィリップのように鉄の、物理的な仮面を被されることはない。
しかし、真実を隠すべく心に仮面を被されること、本心を隠すべく心に仮面を被ることは、意識の如何はさておき依然あり、実際何らか被っている。
「昔から、こんな、こんな最期を望んでいた」。
ダルタニアンが最期こう遺したのは、やはり心の仮面から解放されたからだろう。
人生のゴールは、心の仮面からの解放かもしれない。
本作品の妙は、やはり「仮面」の普遍性だろう。
時代が変わり、我々はフィリップのように鉄の、物理的な仮面を被されることはない。
しかし、真実を隠すべく心に仮面を被されること、本心を隠すべく心に仮面を被ることは、意識の如何はさておき依然あり、実際何らか被っている。
「昔から、こんな、こんな最期を望んでいた」。
ダルタニアンが最期こう遺したのは、やはり心の仮面から解放されたからだろう。
人生のゴールは、心の仮面からの解放かもしれない。
出演:レオナルド・ディカプリオ、ジョン・マルコヴィッチ、ジェレミー・アイアンズ、ジェラール・ドパルデュー、ガブリエル・バーン
監督:ランダル・ウォレス
監督:ランダル・ウォレス
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2012-09-28
2017年05月01日
【洋画】「最強のふたり/Intouchables」(2011)
[ひと言感想]
「(障害者の自分に対するドリスの過剰、ないし、無用な)同情、容赦の『無さ』が良い」。
フィリップはこう反論し、ドリスの解雇話に耳を貸さなかった訳だが、これはフィリップが、今全世界でブレーク中の(苦笑)「偽善」に辟易し、絶望した、挙句、介護人の皮をかぶった偽善者を一週間毎に馘首にし、心を閉ざし尽くした、そんな時分ならではの思考だろう。
偽善を見抜けず、その偽りの心地良さに甘んじていた時分なら、フィリップは聞き入れたのではないか。
たしかに、偽善は必要悪だが、それは未知かつ非眼前の、個別に対応できない、個別に関心が持てない他者、および、社会に対してである。
それらができ、かつ、生涯付き合う家族や友人に対しては、ひと言野暮である。
彼らの不幸は「腫れ物」でないのだから。
偽善は、「取らぬ狸の皮算用」を下心とするリスクヘッジ、ならびに、自己防衛である
なぜドリスは、フィリップに偽善をはたらかなかったのか。
なぜ、フィリップの不幸に同情しなかったのか。
近因は、後天的に会得した不幸に対するデフォルト(当たり前/そんなものだ)感と耐性だろう。
根因は、眼前の他者を家族、友人同然に受容し、個別に対応できる、個別に関心が持てる能力と習性、否、その根底の「無邪気」という無知と天然、だろう。
ドリスがフィリップの足に熱湯をかけたのが虐待でなかったのは、無邪気のてん末だったから。
即ち、敬意に基づき、個別に関心を持ったてん末だったから、だろう。
他方、ドリスなき後フィリップが髭男爵になった(笑)のは、後釜の介護士の一挙手一投足が偽善かつ障害者対応の典型で、改めて心身を閉ざすほかなかったからだろう。
たしかに、「首を掻っ切る」可能性のある髭剃りは、虐待、最悪殺人になりかねず、偽善者にはまかせられない。
成る程、我々は未知かつ非眼前の他者の言動を安直に「虐待」呼ばわりするが、「セクハラ」共々不可能に違いない。
「(障害者の自分に対するドリスの過剰、ないし、無用な)同情、容赦の『無さ』が良い」。
フィリップはこう反論し、ドリスの解雇話に耳を貸さなかった訳だが、これはフィリップが、今全世界でブレーク中の(苦笑)「偽善」に辟易し、絶望した、挙句、介護人の皮をかぶった偽善者を一週間毎に馘首にし、心を閉ざし尽くした、そんな時分ならではの思考だろう。
偽善を見抜けず、その偽りの心地良さに甘んじていた時分なら、フィリップは聞き入れたのではないか。
たしかに、偽善は必要悪だが、それは未知かつ非眼前の、個別に対応できない、個別に関心が持てない他者、および、社会に対してである。
それらができ、かつ、生涯付き合う家族や友人に対しては、ひと言野暮である。
彼らの不幸は「腫れ物」でないのだから。
偽善は、「取らぬ狸の皮算用」を下心とするリスクヘッジ、ならびに、自己防衛である
なぜドリスは、フィリップに偽善をはたらかなかったのか。
なぜ、フィリップの不幸に同情しなかったのか。
近因は、後天的に会得した不幸に対するデフォルト(当たり前/そんなものだ)感と耐性だろう。
根因は、眼前の他者を家族、友人同然に受容し、個別に対応できる、個別に関心が持てる能力と習性、否、その根底の「無邪気」という無知と天然、だろう。
ドリスがフィリップの足に熱湯をかけたのが虐待でなかったのは、無邪気のてん末だったから。
即ち、敬意に基づき、個別に関心を持ったてん末だったから、だろう。
他方、ドリスなき後フィリップが髭男爵になった(笑)のは、後釜の介護士の一挙手一投足が偽善かつ障害者対応の典型で、改めて心身を閉ざすほかなかったからだろう。
たしかに、「首を掻っ切る」可能性のある髭剃りは、虐待、最悪殺人になりかねず、偽善者にはまかせられない。
成る程、我々は未知かつ非眼前の他者の言動を安直に「虐待」呼ばわりするが、「セクハラ」共々不可能に違いない。