2016年05月
2016年05月31日
2016年05月30日
【第74期名人戦/第四局】佐藤挑戦者、よく読み、悉く覚悟し、名人奪取に王手
[ひと言感想]
「局後の感想」を読んで一番に感じたのは、佐藤天彦挑戦者が本当に手をよく読み、羽生善治名人に実際に指されたら「嫌な手」を悉く覚悟して、強く勝負に出続けたこと。
勝負に覚悟は欠かせないが、やはり強者が相手のそれは、いかに直感や勝負術が高かろうと、充分な読みと想定が欠かせない。
充実の佐藤挑戦者のこと、名人位での「羽生超え」も充分あるかもしれない。
★2016年5月25、26日催行
http://mainichi.jp/feature/shougi/meijinsen/
http://mainichi.jp/meijinsen/%E7%AC%AC74%E6%9C%9F%E5%90%8D%E4%BA%BA%E6%88%A6%E4%B8%83%E7%95%AA%E5%8B%9D%E8%B2%A0%E7%AC%AC4%E5%B1%80/
http://www.asahi.com/articles/ASJ5V4QQPJ5VPTFC00T.html
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「局後の感想」を読んで一番に感じたのは、佐藤天彦挑戦者が本当に手をよく読み、羽生善治名人に実際に指されたら「嫌な手」を悉く覚悟して、強く勝負に出続けたこと。
勝負に覚悟は欠かせないが、やはり強者が相手のそれは、いかに直感や勝負術が高かろうと、充分な読みと想定が欠かせない。
充実の佐藤挑戦者のこと、名人位での「羽生超え」も充分あるかもしれない。
★2016年5月25、26日催行
http://mainichi.jp/feature/shougi/meijinsen/
http://mainichi.jp/meijinsen/%E7%AC%AC74%E6%9C%9F%E5%90%8D%E4%BA%BA%E6%88%A6%E4%B8%83%E7%95%AA%E5%8B%9D%E8%B2%A0%E7%AC%AC4%E5%B1%80/
http://www.asahi.com/articles/ASJ5V4QQPJ5VPTFC00T.html
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2016年05月24日
【デザイン/マーケティング】「だからデザイナーは炎上する」藤本貴之さん
第二章 インターネットがデザインを変えた
P59
デザインとアートの違いとは
デザインとアートを分かつ最大かつ唯一の条件、それは「客観性の有無」であるといわれている。アートは制作者の主観的な表現のみで作られることが許されたものであり、客観的な説明や合理性を必要としない。
(後略)
「建築」はデザインでなければならない
デザインとアートの関係を考えるうえで、わかりやすい事例として「建築」がある。住居などの建築物はあくまでデザインであってアートではない。言い換えれば、アートとしての住居は理論的には存在できない。
その理由は簡単だ。建築とは「住む」という具体的な目的を果たすために、必要十分な実用性を具備したうえで、立案や設計がなされなければならないからだ。
もし建築物がアートであれば、「2階に行けない2階建て」や「入口がない部屋」、あるいは「途中で切れている階段」などの表現も、アーティストの主観的表現の下に許される。そもそも「住むことができない家」というコンセプトだってありうる。しかしそのような、住居としての具体的な機能や目的を充足していない建築物はデザインではない。建築をモチーフとした「アート作品」だ。
客観性と実用性を具備していない建築、すなわちデザインではない建築は、社会的ニーズがないばかりか、合法的に建設することさえ許されない。もちろん、アート”風”建築は多数存在しているが、それらもアートな”装飾”を表面的に施しているだけに過ぎず、実質的にはアートではないはずだ。
ほかにも企画書の執筆や企画・立案・設計などは、デザインでなければならない事例だろう。合理性がない企画、目的不明のアイデア、根拠なき理論などによって作られた、それこそ「アートな企画書」は、具体的な機能や目的を有さず、何ら役割を果たせないのは明白だ。
それなのに、多くの分野でアートとデザインを混同し、勘違いして使ってしまっている場合に出くわすことは少なくない。しかも消費者はもとより、デザイナー自身も同様に勘違いしている。もちろん、学校などの教育現場でもその傾向は顕著だ。
そうなると現実として、「アートとデザインの勘違い」に気づくチャンスがない。誰からも指摘されることなく、違和感なく消費してもらえるのだから、当然だろう。この帰結として自身がデザイナーであることを、アーティストである、クリエイターであることと勘違いしてしまう。
本来デザイナーとは、目的と機能を果たすための事物を設計する技術者(エンジニア)である。それは必ずしも、アーティストやクリエイターを指すわけではないのだ。
第三章 「パクリ」の呪縛を乗り越える
P121
筆者のケースからパクリを考える
(前略)
125ページに掲載しているピアニスト、竹井詩保子氏によるリサイタルのポスター。このときのクライアントの要望は実にシンプル。それは「『ティファニーで朝食を』(1961年、ブレイク・エドワーズ監督)の映画ポスターでのオードリー・ヘップバーンにしてください」というものだった。
もちろん、映画ポスターから主演のオードリー・ヘップバーンを切り抜き、そこにピアニストの顔写真を埋め込む、といったことを期待しているわけではないし、デザイナーである筆者も、当然そのようなことはしない。
つまり、ここで筆者に期待されているデザインとは、パッと見て『ティファニーで朝食を』のポスターから受けるような印象の残るデザインにしてほしい、ということである。これはさらに言うと「イメージをパクってください」という依頼なのだ。
クライアントはデザインの専門家ではないことが多いため、こういった要望を告げられることは頻繁に発生する。チラシなどのデザインを打ち合わせる会議に「パクってほしいデザインサンプル」を持参するクライアントは、非常に多い。それは、美容院に希望する髪型としてヘアカタログの切り抜きを持っていくイメージと近いかもしれない。
(中略)
デザインでは、街中にあふれるビラやポスター、あるいはコンビニに並んだ雑誌まで、すべてが教科書であり参考素材になる。デザインは生き物であり、現在進行形で変化する。
雑多で膨大な参考素材の中から、目的や機能、あるいは意図や狙いに応じて選んだものをさまざまに組み合わせ、そして「模倣」や「盗用」と思われないよう、自分なりの技術や加工を施し、クライアントからも消費者からも満足されるコンテンツを作る。それが今のデザイナーに求められる現実である。
そういった意味で、「印象のパクリ」は盗作ではない。むしろリスペクトである。
既存のコンテンツを許可なくコピーしたり、そのまま利用したりすることは、もちろん犯罪的行為だ。しかし、ニュアンスや印象を「パクる」ことは、むしろ先行者への畏敬の念を表しており、問題もない。
デザイナーに限らず、作家・作り手なら誰にでも、憧れ、理想とするデザイナーや作家がいるもの。自分が創作を始めるきっかけとなった人やその作品に、作風が煮ることがあるのは当然だろう。先行者への憧れと尊厳は、次の世代の作家を生み、成長するための原動力にすらなる。それはいわば当然の類似だ。
しかし今回の騒動によって、当然の類似さえも否定的にとらえられるようになった危険性は少なくない。筆者としては、その点に大きな危惧を抱いているのも事実である。
繰り返しとなるが、トレースや模倣は技法であり、表現であり、そして模倣は尊敬を表すものでもある。手続き的な過失のあった場合や倫理的・道義的な逸脱をした場合に問題が起こるのであり、正しい手法、常識的な方法としてそれらを用いるのであれば、何ら問題はない。
(後略)
デザイナーへの「期待」
先の騒動では「パクリではない」と主張すればするほど相反して、炎上と粗探しが加速していったように見えた。
「第三者のものと思われるデザインをトレースし、そのまま使用するということ自体が、デザイナーとして決してあってはならない」「許諾の得られた第三者のデザインであったとしても、トレースして使用するということは、私のデザイナーとしてのポリシーに反する」といった、ごく当然にも感じるクリエイターとしての釈明。「たとえ合法でもパクリはしない」という自身のポリシーを表明することで、佐野(研二郎)氏は身の潔白を主張したのである。しかしこれこそが、結果として、自らをさらに追い詰めたことは先にも述べた。
デザインはアートではない。だから、完全なるオリジナリティを求められるようなことはまずない。
デザインにおけるクライアントの多くは、美術評論家でもなければ芸術学者でもない。担当者もほとんどが、企業の広報課などに勤務する一般のサラリーマンだ。そもそもはデザインや広告などは無縁、無関心であり、たまたま広告やデザイン物の進行管理を担当している人も少なくないだろう。
だからこそ彼らが求めるのは、「どこかで見たことがあるアレ」である。「これまでにまったく存在しない、オリジナルでクリエイティブなデザインをしてください」と言われることは多くない。というのも、そのようなオリジナリティや作家性が求められるのはあくまでもアートであって、その場合、依頼すべき相手は芸術家(アーティスト)になるからだ。
よって「どこかで見たことがあるアレ」のようなものを優れた技術で制作することが、デザイナーに求められる能力でもある。クライアントに喜ばれつつ、しかも、公表してもトラブルにはならないように作る技術が一定の評価を受けるのは事実である。結果としてそれが消費者に広く受け入れられれば、それは「良いデザイン」だ。
また言いかえれば、クライアントの要望をいかに受け入れ、取り入れるか、という柔軟性がこれからのデザイナーには要求される。デザイナーである以上、自分が「青」だと思っていても、クライアントに「赤」といわれれば、素直に「赤」にできる柔軟性だ。
もしそれがデザイン的な完成度を下げてしまう要望であれば、クライアントの要望をくじかない絶妙なさじ加減で、コミュニケーションを重ねて、限りなく「青っぽい赤」にじわじわ寄せていく。それをうまくこなすことこそ、デザイナー、その技術の真髄である。
自分のセンスに基いて、「この作品は『赤』ではなく『青」と譲らない人がいるならば、彼らはデザイナーではなく、やはり芸術家なのである。
「アーティスト(芸術家)と異なり、デザイナーは客観性(⇔主観性)を担保し、社会の、即ち、他者のニーズに合理的に応えるエンジニア(技術者)兼ソリューションプロバイダーであって然るべきであり、具体的には、彼らの依頼である『どこかで見たことがあるアレ』を、彼らの喜ぶカタチに制作、成果物化する必要がある」。
著者の藤本貴之さんの主張は尤もだが、これは、デザイナーに限らず、社会の構成員で、「どこかで見たことがあるアレ」としか言葉にできない非専門家かつ善意の第三者と協働、共生する我々全員に通じるだろう。
アカウンタビリティの担保は、他者の理解と支持を取り付ける有効な試みだが、結局、客観的な営為の本質は、自分の居場所を社会的に担保する試みなのだろう。
2016年05月23日
【洋画】「グリーン・ホーネット/The Green Hornet」(2011)
[ひと言感想]
人が覚える懐疑や違和感に大差は無い。
自分が「何か」に懐疑や違和感を覚えた時は、他者もその「何か」に懐疑や違和感を覚えている。
その「何か」が長く存続している時は、相応の事情や難事、即ち訳が背景に在る。
子が親の人生(哲学)に懐疑や違和感を覚え、反発するのはよくあることだが、後年訳に気づき、反発を共感に変えるのもよくあって然るべきことだ。
人生の成否は、凡そ懐疑や違和感の始末で決まるのかもしれない。
人が覚える懐疑や違和感に大差は無い。
自分が「何か」に懐疑や違和感を覚えた時は、他者もその「何か」に懐疑や違和感を覚えている。
その「何か」が長く存続している時は、相応の事情や難事、即ち訳が背景に在る。
子が親の人生(哲学)に懐疑や違和感を覚え、反発するのはよくあることだが、後年訳に気づき、反発を共感に変えるのもよくあって然るべきことだ。
人生の成否は、凡そ懐疑や違和感の始末で決まるのかもしれない。
出演:セス・ローゲン、ジェイ・チョウ、キャメロン・ディアス、クリストフ・ヴァルツ、デヴィッド・ハーバー
監督:ミシェル・ゴンドリー
監督:ミシェル・ゴンドリー
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2011-10-05
2016年05月20日
【経営】「インテル戦略転換/Only the Paranoid Survive」アンドリュー・S. グローブさん
P138
第六章「シグナル」か、「ノイズ」か
恐れ
難しい問題について建設的なディベートを行い、なんらかの結論を得るためには、結果を恐れずに自分の考えを自由に話せる環境が不可欠だ。
「品質管理の神様」といわれるW・エドワーズ・デミングは、企業内に存在する恐れを撲滅することを唱えた。しかし私は、この教義のもつ単純さに違和感を覚える。経営幹部の最も重要な役割は、社員が夢中になって市場で勝利するために貢献できるような環境を作ることだ。恐れという感情は、そのような情熱を生み出し、維持する上で、大変重要な役割を担っている。競争を恐れ、倒産を恐れ、誤りを恐れ、敗北を恐れること、これらはすべて強い動機になるのである。
では、どうすれば社員の心に敗北の恐怖感を培わせることができるのか。そもそも経営陣がその恐れを感じていなければ、それは無理な相談だろう。いつか、経営環境の何かが変わり、競争のルールも変わってしまうかもしれない、と経営陣が恐れていれば、社員もやがて共感するようになるものだ。そうすれば警戒心を持ち、たえずレーダーで探し続けるはずだ。その結果、誤った警報も数多く流れてくるかもしれない。戦略転換だと騒いでも、そうではないことが後で判明するようなケースも出てくるだろう。それでも、こうした警告に注意を払い、一つ一つ分析して、対策を執る方が、環境の重大な変化を見逃して、永遠に立ち直れないようなダメージを受けるよりはずっとましなのである。
働き詰めで疲れたときでも、電子メールをチェックし、問題がないかどうかを確かめずにいられないのは、私が恐れているからだ。顧客のクレーム、新製品が失敗する可能性、大事な社員が不満を抱いているという噂などを恐れているのである。毎晩、ライバルの新しい動きを報じる業界レポートに目を通し、不安を感じる記事は翌日フォローするために切り取っておくのも、私に恐れがあるからだ。「もうたくさんだ。天が落ちてくるわけじゃあるまいし」と叫んで、家に帰りたくなったときでも、カサンドラの話に耳を貸そうという気になるのは、私に恐れがあるからなのである。
簡単にいえば、恐怖は自画自賛の反対語である。成功の頂点に立っている人々はしばしば自画自賛という落とし穴に落ちる。特にこのことは、磨きに磨きをかけて、現在の環境では申し分のない技術を獲得しているような企業に多く見られる。このような企業は、環境が変わっても、なかなか適切に対応することができなかったりする。だから、敗北することの恐怖感を適度に持つことは、生き残りのための本能を磨くのに役立つといえるのかもしれない。
われわれインテルが、五章で述べたような1985年から1986年の大変な時期を経験することができたのは、ある意味で幸運だったと考えている。わが社の幹部は、負けた側の気持ちがどんなものかをまだ覚えている。そうした記憶が、衰退するときのいつ果てるともない不安感を呼び起こし、そこから脱出しようとする情熱を喚起するのに役立つのである。妙に聞こえるかもしれないが、あの1985年と1986年がまた起きるのではないかという恐怖感が、わが社の成功にとって大きな要因だったと私は確信している。
中間管理職にとっては、別の恐怖もある。悪い話を持ち込むと罰を受けるかもしれないとか、現場からの悪い報告を上司は聞きたがらないのでは、という恐れである。そういう恐れのために、自分が考えていることを伝えないようになると、その恐れは毒と化す。企業の成長にとって、これ以上に害になるものはあるまい。
あなたが経営陣の一人だとしたら、カサンドラの重要な役割を心にとめておくべきだ。彼らは、あなたの目を戦略転換点に向けさせてくれる。従って、たとえ状況がどうあれ、「メッセンジャーを撃ち殺す」ようなことはすべきではないし、他の幹部にもそうした行為をさせてはならないのだ。
この点はどれだけ強調してもしたりないほどだ。戦略に関する議論を妨げてしまう「罰への恐れ」は、何年もの間、一貫した姿勢を取り続けなければ取り除くことができない。ところが逆にそれを生むには、たった一度の出来事で十分なのだ。その出来事が、野火のごとく組織全体に広がり、そして全員が口を閉ざすことになる。
いったんそうした恐れが蔓延してしまうと、組織全体が麻痺状態に陥り、現場から悪い報告が入って来なくなる。以前、あるマーケットリサーチの専門家が私にこう嘆いた。彼女が勤める会社では、彼女と経営陣との間に何重もの層があり、せっかく事実に基づいた調査をしても経営陣まで届かないというのだ。「上の人間はこの報告を聞きたがらないと思う」というのが直属の上司たちの常套句で、そういった階層を通過するうちに、少しずつ悪いデータやポイントが削除されてしまうのだ。経営陣にとって、悪いニュースが耳に入る機会がないということだ。結果的にこの会社は、徐々に勢いをなくし、成功から一気に非常に厳しい時期を迎えたのである。外から見ると、経営陣には何が起こっているのか思い当たることさえないかのようだった。その会社は、悪い報告の扱い方を誤ったために衰退することになったと、私は確信している。
アジア太平洋地区担当の販売マネージャーや優秀な技術者が私のもとに来て、自分たちの見方を話し、警告したことを前に書いた。彼らは、二人とも長く在籍している社員で、自信もあり、インテルの社風にも馴染んでいた。また、結果を重視するタイプで、建設的に物事に直面していくことにも慣れていた。つまり、こういったことが、より良い結論、より良い解決を導くために役に立つことを知っていたのである。物事をどう動かせばよいか、あるいは動かさないほうがよいのかを知っていたのだ。これはどこにも書かれていないルールだ。二人とも、ためらう気持ちを抑え、リスクとも思える行動をとった。そのうちの一人は、自分が重大な問題だと考えている情報を伝えてきた。それは正しい警告だったかもしれないし、そんなことを言うのはばかげた行動だったかもしれないし、あるいは降りかかるかもしれない影響を恐れずに心の内を伝えてもいいと思って行動したのかもしれない。もう一人はRISCアーキテクチャーに関する自分の見解を説明した。腹の中では、「おい、グローブ。悩みを解決してやるから、ちょっとおれに説明させてみろよ」と思っていたのかもしれない。
会社を興してからというもの、インテルでは、知識の力を持つ者と、組織の力を持つ者の間にある壁を取り払おうと、全力で取り組んできた。自分の担当地域を知る販売担当者や、最新テクノロジーに没頭しているコンピューター設計者や技術者は知識の力を持ち、一方、資源を管理して配分し直したり、予算を組んだり、あるプロジェクトに人材を配置したり異動させたりする者は組織の力を持つ。経営戦略が変わっても、どちらか一方の重要性が増すということはない。よりよい戦略的結果を会社にもたらすために、双方ともベストを尽くさなければならないのだ。理想をいえば、双方が相手からもたらされるものを尊重し、相手の知識や地位にひるんだりしない状況が望ましいのである。
このような環境は、口で言うのは易しいが、創り出し、維持することは大変である。そのために、劇的な方法や象徴的な方法が何らかの意味を持つことはない。必要なことは、知識力を持つ者と組織の力を持つ者が、両者の利益の範囲で一番よい解決法を見出すために、協力的なやり取りを活発に行い、そういった社風を維持していくことなのだ。自分の仕事を追求するためにリスクを冒す者を評価することが必要なのだ。そして、その価値観が正式な経営プロセスの一環であることが必要なのだ。そして、最後の手段として、適応できない者と離れていくことが必要なのである。インテルが戦略転換点を生き延びることができたのは、わが社の社風を維持することができたからである、と私は考えているのである。
「無くて七癖」という言葉がある。
この言葉が示唆していることの一つは、「人は自分の癖に無自覚で、良し悪しは別として、一旦身につくと無意識に励行する」ということだ。
たとえば、親が子に、折に触れ「寝る前に歯を磨きなさい!」と口うるさく説教するのは、「クリーンな口腔で睡眠する(→虫歯のリスクを減らす)」ための良い「癖」をつけさせ、「寝る前に歯を磨くこと!」と書いた、即ち、ルールとして明文化した、張り紙を子どもの寝床の天井に貼らずとも、彼らが自然に歯を磨きに行くよう仕向けたいからだ。
持続的に成功している人に共通することの一つは、こうした良い「癖」、即ち、明文化されていない合理的かつ(確率論的に)有効な「思考&行動習性」が確立されていることだ。
たとえば、彼らは問題を自覚すると迅速に対処するが、それは、見て見ぬふりや責任転嫁が解決のコストを上昇させるのを理解している以上に、「問題は迅速に対処するものだ」との合理的かつ有効な思考&行動習性が確立されていることが大きい。
これは企業も同じだ。
持続的に成功している企業に共通することの一つは、良い「癖」、即ち、明文化されていない合理的かつ有効な価値観、及び、それに基づく「社風」が確立されているばかりか、業務プロセスに具現され、経営者を含む全社員が無意識に励行していることだ。
企業における問題の中の問題である「戦略転換点」を乗り越え、インテルを延命させた(→持続的な成功に導いた)要因を「『知識力者と組織力者の心理的かつ業務プロセス的融合』の社風とその維持」と断じたアンドリュー・S. グローブ元CEOの述懐を読み、改めて確信した。
やはり企業も人も、明文化されていない、傍からおいそれ窺い知れない「癖」が肝であり、正に「肝腎要」なのだ。
2016年05月18日
【洋画】「人生の特等席/Trouble with the Curve」(2012)
[ひと言感想]
たしかに我々は、相手が掛け替えのない人であればあるほど、大事にし過ぎたり、多くを求める(が余り距離を置く)嫌いがある。
親子で「人生の特等席」の齟齬が絶えないのは「親の心子知らず、子の心親知らず」のてん末だが、結局、親子という独特の関係性の密接性、及び、掛け替えの無さの必然なのだろう。
ともあれ、酒場であれ人生であれ、着座中の席が特等か三等かは、同席者の掛け替えの無さで決まる。
たしかに我々は、相手が掛け替えのない人であればあるほど、大事にし過ぎたり、多くを求める(が余り距離を置く)嫌いがある。
親子で「人生の特等席」の齟齬が絶えないのは「親の心子知らず、子の心親知らず」のてん末だが、結局、親子という独特の関係性の密接性、及び、掛け替えの無さの必然なのだろう。
ともあれ、酒場であれ人生であれ、着座中の席が特等か三等かは、同席者の掛け替えの無さで決まる。
出演:クリント・イーストウッド、エイミー・アダムス、ジャスティン・ティンバーレイク、ジョン・グッドマン
監督:ロバート・ロレンツ
監督:ロバート・ロレンツ
ワーナー・ホーム・ビデオ
2013-10-02
2016年05月17日
【第74期名人戦/第三局】佐藤挑戦者、長考を翻意した羽生名人に完勝、勝ち越し
[ひと言感想]
成長の好機の最たるは実戦だ。
羽生善治名人の特徴と強みの最たるは実戦、それも、タイトル戦という実戦の中の最高の実戦で、前人未到の高リスク手順(構想)を試行、自己検証することにある。
然るに、羽生名人は29手目、1時間17分の長考の末▲2四歩と指し、次に(31手目)▲3六飛と、後手の△7四歩を咎める比較的「穏やかな」手順を選んだが、本当は▲2三角、ないし、▲5六角と、「早々に決着をつける」「激しい」手順を選びたかったのではないか。
羽生名人に長考を翻意させた正体は勿論私には分からないが、佐藤天彦挑戦者はしかと洞察し、完勝を得たように思える。
「ありのままの自分で居ること」は昨今誤解、乱用甚だしいが、本当は「『ありたい』ないし『あり得る』自分への『今あるべき』自分に従順であること」であり、「『困難やリスクに躊躇する』自分を宥恕すること」では断じてない。
羽生名人が一勝二敗の劣勢を跳ね返すには、特徴かつ強みである、本当の「ありのままの自分」の復活が必要ではないか。
★2016年5月12、13日催行
http://mainichi.jp/feature/shougi/meijinsen/
http://mainichi.jp/meijinsen/%E7%AC%AC74%E6%9C%9F%E5%90%8D%E4%BA%BA%E6%88%A6%E4%B8%83%E7%95%AA%E5%8B%9D%E8%B2%A0%E7%AC%AC3%E5%B1%80/
http://www.asahi.com/articles/ASJ5F6Q4JJ5FUCLV00X.html
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成長の好機の最たるは実戦だ。
羽生善治名人の特徴と強みの最たるは実戦、それも、タイトル戦という実戦の中の最高の実戦で、前人未到の高リスク手順(構想)を試行、自己検証することにある。
然るに、羽生名人は29手目、1時間17分の長考の末▲2四歩と指し、次に(31手目)▲3六飛と、後手の△7四歩を咎める比較的「穏やかな」手順を選んだが、本当は▲2三角、ないし、▲5六角と、「早々に決着をつける」「激しい」手順を選びたかったのではないか。
羽生名人に長考を翻意させた正体は勿論私には分からないが、佐藤天彦挑戦者はしかと洞察し、完勝を得たように思える。
「ありのままの自分で居ること」は昨今誤解、乱用甚だしいが、本当は「『ありたい』ないし『あり得る』自分への『今あるべき』自分に従順であること」であり、「『困難やリスクに躊躇する』自分を宥恕すること」では断じてない。
羽生名人が一勝二敗の劣勢を跳ね返すには、特徴かつ強みである、本当の「ありのままの自分」の復活が必要ではないか。
★2016年5月12、13日催行
http://mainichi.jp/feature/shougi/meijinsen/
http://mainichi.jp/meijinsen/%E7%AC%AC74%E6%9C%9F%E5%90%8D%E4%BA%BA%E6%88%A6%E4%B8%83%E7%95%AA%E5%8B%9D%E8%B2%A0%E7%AC%AC3%E5%B1%80/
http://www.asahi.com/articles/ASJ5F6Q4JJ5FUCLV00X.html
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2016年05月13日
【将棋/人生】「闘う頭脳」羽生善治さん
P63
「羽生マジック」とは何か
【池谷(裕二)】
ところで、意識にのぼる記憶というのは実はごく僅かで、無意識に働いている記憶がいっぱいあるんです。羽生さんも、意識には上がってこない過去の膨大な経験やデータがパッと出てきて、自然と指しているところはあるかもしれません。
【羽生(善治)】
なるほど。確かに、何を元にして思いついたかわからない一手というのが稀にあります。
【池谷】
「羽生マジック」と呼ばれる奇手(終盤で形勢不利な時に相手の予想外の手を指して逆転に持ち込む一手)が有名ですね。
【羽生】
「マジック」と言われますが、自分では結構ロジカルに考えていて、奇抜なことをやっているつもりはないんです。ただ、自分で普通のことだと思っていても、他人がそうは思わないということもあるので、評価しづらいですが。私は「この手は絶対に負ける」とか、「逆転の可能性がない」という手を虱潰しにしていって、残った中で最もダメージが少ない手を選んでいるだけなんです。
【池谷】
消去法ですか。
【羽生】
ええ。以前、イベントで子供から「羽生マジックは一年に何回出るんですか」と質問されました。「マジックショーではないので興行とかでやっているわけじゃないんだよ」と説明して納得してもらいました(笑)。
注釈の通り、所謂「羽生マジック」は史上最強棋士の羽生善治さんが指した、予想外の逆転の「奇手」、「勝負手」だが、他のプロ棋士が指す所謂「奇手」、「勝負手」と本質的にどう違うのか。
「羽生マジックは消去法である」。
この池谷裕二教授の洞察は、[付き物の「反動」を最小化して全幅検索、捻出された勝負手]との理解に基づくもので、成る程であり、また、「勝負に『(一番)強い手』は要らない。『強い手』は反動、倍返しを食らう可能性が高く、却って負けてしまう」との、羽生さんの持論にも通じる。
勝負に勝つには実力を蓄え、強者に成る必要があるが、それには「忽ち勝ちに行く」直接手より、「負け難い」間接手を選択、選好する習性を養う必要があるのかもしれない。
2016年05月09日
【洋画】「コラテラル・ダメージ/Collateral Damage」(2002)
[ひと言感想]
ウルフは「テロリスト」と呼ばれ、ゴーディーは「悲劇のヒーロー」と称されたわけだが、彼らのやったこととその理由は本質的には変わらない。
ではなぜ、彼らの呼称は真逆なのか。
たしかに、ゴーディーが自分でも言うように、仇を首謀者に限定し、第三者を巻き込まなかったことは大きい。
しかし、一番は、ゴーディが結果的にではあれ、自分の大事を第三者に、それも、時の権力者に「自分事」視、「一大事」視させたこと、ないし、されたこと、だろう。
人生の成否を分けるのは、自己マーケティング力と時世か。
ウルフは「テロリスト」と呼ばれ、ゴーディーは「悲劇のヒーロー」と称されたわけだが、彼らのやったこととその理由は本質的には変わらない。
ではなぜ、彼らの呼称は真逆なのか。
たしかに、ゴーディーが自分でも言うように、仇を首謀者に限定し、第三者を巻き込まなかったことは大きい。
しかし、一番は、ゴーディが結果的にではあれ、自分の大事を第三者に、それも、時の権力者に「自分事」視、「一大事」視させたこと、ないし、されたこと、だろう。
人生の成否を分けるのは、自己マーケティング力と時世か。
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー、フランチェスカ・ネリ、クリフ・カーティス
監督:アンドリュー・デイビス
監督:アンドリュー・デイビス
ワーナー・ホーム・ビデオ
2011-06-15