2014年08月

2014年08月29日

【第55期王位戦第五局】羽生王位、木村挑戦者の「予定」の虎穴に堂々入り、三勝目を上げる

[ひと言感想]
木村一基挑戦者からすると56手目、△9六歩以下の進行は予定通りでありながら、6手後の△4五同角では何と、「(実際に)この局面まで進んでみると思っていたほど指しやすいとは感じなかった」とのこと
不肖私、「予定と実際」、並びに、「計画と現実」のかい離の絶対的存在を再認識すると共に、予定や計画の楽観の危うさを再認識しました。


★2014年8月27、28日催行
http://live.shogi.or.jp/oui/
http://kifulog.shogi.or.jp/oui/55_05/
http://live.shogi.or.jp/oui/kifu/55/oui201408270101.html

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2014年08月28日

【邦画】「男はつらいよ 第35作 寅次郎恋愛塾」(1985)

[ひと言感想]
寅次郎は民夫(演:平田満さん)の片思いをからかいましたが、そこに他意は無かったに違いありません。
しかし、さくらの言う通り、それは他意が無いからといって、褒められたものではありません
妹に指摘された過ちを認めその罪滅ぼしに恋愛コーチ(笑)を買って出た寅次郎の潔さ、気前の良さ、行動力に改めて感心脱帽しました。
フーテンであろうとなかろうと(笑)、過ちを過ちと認め、速攻で対処してこそ男です。

それと、若菜(演:樋口可南子さん)にとって、寅次郎の祖母ハマ(演:初井言榮さん)の回顧談は、何よりあり難かったことでしょう。
寅次郎の面白可笑しい回顧談は、最後の身内でありながら死に目に会えなかった若菜の無念を、心地良く晴らしてくれたに違いありません。
「神様のお導き」とは、「私に代わってその隣人を救いなさい!」との合図かもしれません。


男はつらいよ 寅次郎恋愛塾 HDリマスター版(第35作)
出演:渥美清、樋口可南子、初井言榮、松村達雄、平田満
監督:山田洋次 
2014-12-17


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2014年08月27日

【洋画】「レインマン/Rain Man」(1988)

[ひと言感想]
私は39才で両親を亡くしました。
そんな私が今つくづく思うことの一つは、兄が居て良かったということです。
たしかに、私はかつて兄に劣等感を覚え、時に疎遠な間柄にもなりました。
しかし、血を分けた肉親が絶えていないことがもたらす安堵は、何物にも代え難いものがあります。
旅の果て、チャーリー(演:トム・クルーズさん)が、心が完全には通わない、自閉症の兄レイモンド(演:ダスティン・ホフマンさん)と別れることを拒んだのも、また、レイモンドが病院に帰ることと共に、弟チャーリーと一緒に居ることを純粋に望んだのも、詰まる所はこの「何物にも代え難い安堵」を互いに求めてのことでしょう。
「今、存在してくれていること」。
「時に心が通うこと。また、その確かな実感があること」。
肉親に求めるべきは、これで十分です。


レインマン [Blu-ray]
出演:ダスティン・ホフマン、トム・クルーズ
監督:バリー・レヴィンソン
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2021-12-03




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2014年08月26日

【洋画】「エンド・オブ・デイズ/End of Days」(1999)

[ひと言感想]
たしかに、他人事を自分事にするには、はたまた、困難事に懸命に立ち向かうには、自責は格好の動機です。
ただ、それより、この映画を見て真っ先に思ったのは、ネタ本ならぬネタ映画と思しき「ターミネーター2」が久しぶりに見たくなったこと。(笑)
人が「見たいモノを見る」生き物だから、映画、娯楽が予定調和に成るのか、はたまた、娯楽が予定調和に固執するから、人が益々「見たいモノを見る」のか。
何事も、卵が先か鶏が先か分かり難いものです。


エンド・オブ・デイズ (字幕版)
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー、ロビン・タニー、ガブリエル・バーン
監督:ピーター・ハイアムズ 
2013-05-15



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2014年08月25日

【脳科学/人生訓】「努力不要論」中野信子さん

P95
なぜ欧米には努力中毒が少ないのか?

欧米では滅私奉公的な努力をせよという社会的な圧力が、あまりかからないように思います。ただ、圧力があったとしても、それをものともしないような、鈍感な人が多いのも事実です。こうした鈍感さ、敏感さの違いは、遺伝子の違いでもある程度説明がつけられます。

具体的には、セロトニントランスポーターの密度が違うのです。

セロトニントランスポーターとは、神経細胞がいったん放出した「幸せホルモン」などとも呼ばれるセロトニンを再取り込みするポンプのような役割をするタンパク質です。セロトニンをリサイクルするシステムの一部ですね。セロトニントランスポーターが多いと、どんどんリサイクルできるので、セロトニンを脳で効果的に使いまわすことができるのです。

遺伝子の違いによって、セロトニントランスポーターが多い人と、中くらいの人と、少ない人の3タイプに分けられます。つまり、たくさんのセロトニンが使える人と、中ぐらいの人と、あんまり使えないタイプの人です。

日本人はセロトニントランスポーターが少ないタイプのほうが圧倒的に多く、7割ぐらいがこのタイプです。欧米人を対象にした調査ですと、セロトニントランスポーターが少ない人は2割以下しかいません。

一方、セロトニントランスポーターが多い人の割合を見てみますと、日本人は2%ぐらいしかいないのに、欧米人は30%ぐらいいます。

では、どんな違いが表れてくるのか?

じつはセロトニントランスポーターが少ない人はセロトニンが少ないので不安になりやすいのです。

他人に「そんなのおかしいよ」とか、「あなたは努力が足りない」などと言われると、「そうかな、私が悪かったのかな」と不安になって、自分の主張を貫くことが難しくなり、流されてしまうことがしばしばです。一方で、損害を回避しようとする傾向も高いので、コミュニティの空気を敏感に察知したり、他人に合わせたりという行動はとても得意です。

空気を読む、ということには集団における多人数の協力を促すという意味で、一定の価値はあり、生存に有利に働いたという環境も確かにあったのです。

しかし、今は鎖国している時代でもありませんし、海で隔てられているとはいっても、簡単に海外に行ける時代、国外と国内は徐々にシームレスになってきています。つまり現状、日本人の慎重さや空気を読む力というのも、あまり生存に有利に働く要素ではなくなってきているということです。

また、セロトニンは戦う・喧嘩する・逃げるためのノルアドレナリンの分泌を抑える働きがあります。セロトニンが少ないとノルアドレナリンが出やすくなるわけです。

こうした脳内神経伝達物質の動態が基本にあって、慎重で人の言うことをよく聞き、空気を読むけれども、我慢して我慢してキレてしまう日本人の国民性ができあがるのです。


だから日本人は0から1をつくれない

アメリカ人とそれなりにやり取りをしたことのある日本人からは、「彼らは明るくていいやつなんだけど自分語りが多いしいつもポジティブすぎてちょっとウザいところもあるかな・・・」という感想をしばしば聞くことがあります。

「全然人の話を聞かねえな」とか、「あんなに説明したのに、何で自分のやりたいようにして返すんだろう?我が道を行きすぎている」とか、「自分語りしかしないんだったら最初から人に話を聞かなければいいのに・・・」というようなことも聞きます。日本の社会通念とはちょっと違う振る舞いをするので、面白いですね。

これも、セロトニントランスポーターが多いタイプがたくさんいる国なんだと考えると、彼らの行動に納得がいきます。

共感能力が欠如しているわけでもなく、とても陽気で楽しい人たち。だけれども、「自分の考えが間違っているかも」というフィードバックはあまりしないようです。

セロトニンがたくさん使えるので、さして不安になることはないし、ノルアドレナリンの量が少ないために、緊張してあがることもあまりない。将来的なリスクについてもやや過小評価気味に行動します。そして、失敗してもあまりへこたれません。

一言で言えば楽天的な人たちです。本人は人生が楽しいでしょうが、周りにもし心配性な人がいたら、その人はちょっと大変ですね。

彼らはリスクを恐れないので、0から1をつくるのがとても得意です。また、周りの人の批判が耳に入ってきても、悠々とスルーしてしまいますから、「こんな商品があったらヤバイよね?」という冗談みたいな発想で、イノベーションを起こすことが得意です。

もちろん、創意工夫や発想力という点では、日本人も引けを取るものではありません。イノベーションを起こすポテンシャルはあるのです。

しかし、なぜ日本でイノベーションが起こりにくいかというと、「そんなのつくっても売れないよ」と言われたときの心理的な反応が違うからなのです。

ネガティブな反応が起こると気持ちが落ち込んでやる気がなくなってしまう。「あなたの言っていることはおかしい。間違っている」と言われたときに、気になって足がすくんでしまい、次の行動を起こせなくなってしまったりする。だから0から1を生むというのは日本人はちょっと苦手なんです。

決してひらめきがないわけでも発想がないわけでもありません。ただ、周りの空気に敏感であるあまりに、素晴らしい発想が潰されてしまうのです。

一方で、日本人の得意なことは、1があったときにそれを100まで磨き上げることです。弱点を見つけて改良するといった場合の工夫は非常に得意です。

というか、セロトニントランスポーターの密度でいえば、日本人が世界で一番心配性で、今あるものの弱点を見つけることに長けている国民です。これほど工業製品の品質が高く、サービスが行き届いているのは、この性質のおかげだともいえるのです。こんな素晴らしい国は世界のどこにもありません。

ですので、もし自分は0から1をつくるのが苦手だなと思ったら、無理に「イノベーションしなければ」なんて考えて、新しいものをつくろうとしなくてもいいのです。何か今すでにある種を見つけて100まで育てる作業をすると、世界一の仕事につながりやすいでしょう。

それが欧米と日本の努力のあり方、戦略の違いです。適性にあった努力の仕方が必要です。

私は中野信子さんのお考えを、以下読み解いた。

「日本人は凡そ、報われようと報われまいと、目的や戦略が適切であろうなかろうと、努力が好きである。
否、努力が好きというより、不安と悲観が絶えないため、何かしら努力せずにはいられない、『努力中毒患者』である。
なぜか。
脳科学的には、セロトニントランスポーターが少なく、リスクに過敏だからである。
この点は、セロトニントランスポーターが多く、リスクに鈍感で、他者評価を真に受けず(寛容に受容でき)、自己肯定と楽観が絶えない欧米人と対照的であり、イノベーションの不得手さ、また、カイゼンの得手さにも通じる。
なぜか。
『0から1を創る」』イノベーションはリスクに過敏だと、発想しても具現を躊躇してしまうが、『1を限りなく100に近づけていく』カイゼンはリスクに過敏だからこそ、着目も進捗も躊躇なくできるからだ。
然るに、不向きなイノベーション事(ごと)ではなく、向いているカイゼン事に傾注し、報われ難い努力を最小化すること。
そして、『項羽と劉邦』の劉邦の様な人間に成り、デキる他者に慕われ、代わりに努力してもらうこと。
更に、努力というリソース消費を極力減らし、浮いたリソースを後悔の少ない人生に充てること。
これこそが、日本人のあるべき努力とその戦略(アプローチ)として最適である」。

項羽と劉邦全12巻箱入 (潮漫画文庫)
横山 光輝
潮出版社
2002-10-01

中野さんのお考えの内、前半の「セロトニントランスポーター」云々については大いに膝を打った。
「セロトニントランスポーター」は未知だったが、その体内物質の多寡とリスク感受性の強弱の相関関係、並びに、国民性におけるその効用と不効用については成る程と思ったし、大変合点がいった。
だが、後半の「日本人のあるべき努力とその戦略」については理解はできるし、ロジックも間違いではないと思うが、「イノベーション事が得意な人(=イノベーター)と相思相愛→コラボし、努力は得意なカイゼン事に専門特化→最小化すべし」との結論には賛成しかねる。

なぜか。
理由は二つある。
一つは、「イノベーター」と「カイゼン者」のコラボは、たしかに理屈ではアリなのだが、現実は非常に難しいからだ。
たとえば、日本の「企業内ベンチャー」は大抵失敗しているが、それは、「カイゼン者」である企業経営者と「イノベーター」であるベンチャー社長とでは、生き様や人生観が余りにかい離し、相思相愛の持続が困難なことが大きい。
そして、肝心のもう一つは、日本人はもはやカイゼンでは食えないからだ。

カイゼンで食うには、即ち、カイゼンをビジネスにするには、「薄利多売」という出口(イグジット)を押さえなければいけない。
然るに、カイゼンビジネスにはいくつか条件がある。
大量生産、大量販売(※フランチャイズもOK)が可能なこと。
コストが低いこと。
商品(カテゴリー)、並びに、マーケットが短命ではない(→寿命がソコソコある)こと、だ。

しかし、今、ガラケーからスマホへのシフトがとどまる所を知らないように、一つの商品、及び、そのマーケットの寿命は年々短命化を増している。
マーケットが右肩上がりのスマホにしても、競合がワールドワイドで熾烈を極めている。
既存商品をちょっとやそっとカイゼンしただけでは、このマーケットでの大量生産、大量販売は不可能だ。
しかも、日本の場合、人件費を主にコストが高くつく(→価格競争力が限られる)からして、尚更だ。
日本は、ソニーあたりが、iPhoneをカイゼンするのではなく、アップルに先んじて創らなければ(イノベートしなければ)いけなかった。

クレイトン・クリステンセン教授が名著「イノベーションのジレンマ」で明らかにしたことの一つは、「合理的な思考、並びに、経営が(破壊的)イノベーションを動機的に、ひいては、機会的かつ視界的に遠ざける」ということだ。
中野さんのお考えに基づけば、「機会的に遠ざける」のは、「リスクに過敏」であることの表れだろう。
だが、「視界的に遠ざける」のは、「自分の(限定的で貴重な)リソースが無駄に減りかねない」という意味で、「リスクに過敏」であることもさることながら、「ものぐさ」であることの表れとも言えるのではないか。
もしそうなら、「リスクに過敏」な私たち日本人が、不向きなイノベーション事に適切な努力を傾けるには、食虫植物が栄養不足に追い込まれ虫を捕食するよう突然変異したように、ものぐさを許す豊かさと決別し、自分を積極的に追い込むしかないのかもしれない。



努力不要論
中野信子
フォレスト出版
2014-11-01




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2014年08月22日

【第55期王位戦第四局】羽生王位、「新手」△6四歩で木村挑戦者を下す

[ひと言感想]
羽生善治王位の、勝利そのものもさることながら、50手目の「新手△6四歩に感心しました。
第一人者は、いかに忙殺されようと、イノベーションを絶やさない。
横綱相撲とは、不断のイノベーションに裏打ちされているに違いありません。


★2014年8月20、21日催行
http://live.shogi.or.jp/oui/
http://kifulog.shogi.or.jp/oui/55_04/
http://live.shogi.or.jp/oui/kifu/55/oui201408200101.html

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2014年08月21日

【邦画】「男はつらいよ 第34作 寅次郎真実一路」(1984)

[ひと言感想]
人は現実の受容が不可欠です。
しかし、逃避の選択肢が有って進んで受容するのと、無くて嫌々受容するのとでは、同じ受容するにしても雲泥の差があります。
寅次郎と袖振り合った人が皆元気になるのは、現実逃避を地で行く寅次郎(笑)に逃避の選択肢を気づかされ、現実を進んで受容し直せることが大きいのでしょう。
現実を進んで生きるには、選択肢を欠かしてはいけません。


男はつらいよ 寅次郎真実一路〈シリーズ第34作〉 4Kデジタル修復版 [Blu-ray]
出演:渥美清、大原麗子、米倉斉加年
監督:山田洋次
松竹
2019-12-25




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2014年08月20日

【野球】「プロ野球VSメジャーリーグ 戦いの作法」吉井理人さん

P104
犠牲的精神の考え方

無死二塁。

メジャーでも進塁打という精神はある。

さすがに三、四番打者にはないが、他の打者は早いカウントでは来た珠を思い切りスイングしてくるが、追い込まれると、逆方向に狙いを変えてくる。それでセカンドゴロを打って奏者を三塁に進めれば、ベンチでは「よくやった」と本塁打を打った時と変わらず、皆から称えられる。

このあたりの自己犠牲は日本と同じだ。

だが実際にメジャーでプレーしてみると、日本と違いを感じる。

日本の場合、最初に自己犠牲の精神があって、その考えの下でチームが一つになって野球をやっている。

だがアメリカは違う。

たまたまそういう場面に遭遇しカウントも追い込まれて、いわば仕方なしに自己犠牲になった時にみんなから誉められるのである。


その打者にしても、なにもセカンドゴロで打率を下げたいとは思っていない。本当はホームランを打って、自分が一番目立ちたいと思っている。だから最初から自己犠牲が求められる送りバントというのは選手もやりたがらないし監督も早いイニングからはサインを出さない。

そもそもメジャーリーグがバントをしないのはもともとビッグイニングを狙うためのラインナップになっているということもある。

日本の場合は一点ずつ取ろうと、二番にバントが巧い打者、つまり自己犠牲ができる選手を入れる。

メジャーの二番はチャンスメーカー。無死一、三塁の場面を作れる打者(あるいはデレク・ジーターやヤンキース時代のボビー・アブレイユ)のようにそこで点が取れてしまうような打者を二番に入れる。2013年でいうならマイク・プイグがそうだ。延長戦がエンドレスということも関係あるだろう。早いイニングに勝負を決め、後半戦に勝負を引きずりたくないと考える。


P208
アメリカを知るための野球映画

(前略)

アメリカにいると不思議なのだが、時として人種を揶揄するジョークが飛び交ったり、日本では眉をひそめる酷い言葉をロッカールームで平気で言ったりして、それが笑いの渦となる。

白人選手にもイタリア系、ユダヤ系、アイルランド系がいて、それぞれ差別的な呼び方をすることもある。黒人やラテン系選手にはもっと酷い。映画『42』でフィラデルフィアの監督が「ニガニガニガニガ・・・」と小学生のようにしつこいくらいジャッキー・ロビンソンを罵倒したシーンがあったが、さすがにあそこまで酷いのは僕は聞いたことはないが、それでもそう呼ぶ選手はいたし、黒人選手自身が「俺ら・・・は」と自分から呼ぶこともあった。自虐ではなく、あくまで普通の会話でのことである。

42~世界を変えた男~ [WB COLLECTION][AmazonDVDコレクション] [DVD]
出演:チャドウィック・ボーズマン、ハリソン・フォード
監督:ブライアン・ヘルゲランド 
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2018-02-17


世界中に差別を受けている人がいて、その撲滅のために一生懸命活動している人もいるので軽はずみなことは言ってはいけないし、あくまで言われた相手のことを考えなくてはいけない。それは僕も東洋人としてアメリカで生活し、嫌な思いをしたことがあるのでよく分かっている。

だけれどもこうも思うのである。

人種に違いがあるのはアメリカでは誰もが分かっている。

メジャーリーグでもそうだ。

その感覚には個人差があり、最初から受け入れられる選手とそうでない選手がいるのだが、それでも長いシーズンを一緒に生活し戦っていくうちに、自然と仲間意識が芽生えてきて、最後は同じ目的のために気持ちを一つにできる。

だからこそ優勝した時はみんなで抱き合って喜び、そしてシーズンを終えた後は別れを惜しむのだ。

最初から一つになれれば、それが一番いいのかもしれないが、実際問題として難しいし、上から押しつけられると選手は反発してしまう。

だから僕はチームワークというのは最初から主張すべきではないと思っている。

「和」が大事なのはスポーツをやっている者なら誰でも分かっている。

しかし団体スポーツであっても、プロフェッショナルは「個」で勝負している。優勝しても活躍できなければ給料は下がるし、クビになる。組織のためより、個人のためにプレーしないことには、生き残っていけない。

その強い自我が、いつしか、フォア・ザ・チーム、そして自己犠牲の精神へと変わる瞬間がある。

それをやり遂げたチームがシーズン最後にパワーを発揮して、ポストシーズンまで勝ち残り、世界一に向かって勝ち進むことができるのだーー。

僕はそれこそが野球という年間162試合(日本は144試合)にも及ぶ長丁場の戦いを強いられる競技には不可欠だと思っている。

最初からチームであることを強調するのが日本の組織論であるが、メジャーでは個人の上にチームがあるというのが基本的な考え方であり自然発生的に生じるチームの和を重視する。


僕はそのことをメジャーに行って学び、体験した。一度だけとはいえ、リーグ優勝決定戦まで進み、仲間たちと気持ちを一つにできた。

それは僕にとってかけがえのない経験である。

吉井理人さんのお話から、とりわけ以下(改めて)気づかされた。

[1]野球の「送りバント」の様な、団体戦における自己犠牲は本来、「所属チームの勝利/成功」を目的とするプロセス、及び、手段である。

[2]チームメンバー(個人)が優先すべきは、自己犠牲ではなく先ず本分である。打者は先ずヒットやホームランを狙い、積極的に出塁or一点でも多く得点する(→ビッグイニングに貢献し、観客を最大限喜ばせる)こと、そして、自分の打率と打点をあげること、に専心すべきである。だから、メジャーリーグの打者は、カウントで追い込まれて初めて送りバントを試みるし、監督も、早いイニングでは打者に送りバントを命じない

[3]自己犠牲は、本分を全うするのが困難、かつ、他に有効な手段が無いと自他共に合理的に判断できる場合にのみあり得る、最終手段である。だから、多様性と個人主義を基盤とするメジャーリーグでは、打者がカウントで追い込まれて送りバントを敢行すると、チームメンバーから称賛され、結果的にチームワークの構築、強化に貢献する。

[4]個人は人種が同じでも、主義主張や価値観は大なり小なり違う。所詮、チームは個人の集合体であり、同質性は限られる。チームワークと「和」は「先ずありき」ではない。自己犠牲はチームワークと「和」の前提ではない。自己犠牲の結果、或いは、積み重ねがチームワークと「和」である。

[5]最終手段でない自己犠牲は、本来の自己犠牲ではない。自ら行う場合は、自虐に見せかけたチームへの忠誠心のアピールであると共に、責任の放棄である。チームリーダーが求める場合は、チームプレイに見せかけた滅私奉公の強要であると共に、同質性と規律の維持であるこれらは日本ではよく散見され、「踏み絵」や「罰ゲーム」と見間違うほどである。

[6]同質性に依存し全体主義を所与の条件とする、「先ずありき」のチームワークと「和」は、非現実的かつ底が浅い。メンバーの納得性と主体性を引き出すのが困難で、成果も知れている。だから、同質性と全体主義を是とし、やたら送りバントをする日本の野球は、観客(エンタメ)満足度が低い。


なぜ、日本では野球に限らず、最終手段でない自己犠牲がよく散見され、チームワークと「和」が「先ずありき」なのか。
詰まる所、私たち日本人が最も馴染み、また、愛好するのは、目的達成の美酒より、そのあるべき思考態度である「道」の方だからではないか。
たとえば、私自身、「和をもって尊しとなす」との言葉は幼い時分に教わったが、その言葉の根拠、或いは、本意である「なぜ『和』を達成すると尊いのか?」は教わった覚えがない。
かつて日本の海軍が「神風特攻隊」を敢行したのも、また、今日本の企業の多くが死に体の既存事業に依然固執しているのも、「いかなる時でも自己犠牲を厭わず、ただ愚直に生きること」を人生道と心得、盲従する私たちには、自然なことなのかもしれない。







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2014年08月15日

【邦画】「男はつらいよ 第33作 夜霧にむせぶ寅次郎」(1984)

[ひと言感想]
世の中には、絶えず人の気を引いたり、誰かと一緒に居なければ気が済まない人が居ます。
これは良くも悪くも「癖」であり、治したければ、自分が蒔いた種を自分で摘み取ることです。
風子(演:中原理恵さん)がトニー(演:渡瀬恒彦さん)とケジメをつけることに拘泥したのはその為であり、寅次郎の親心は正に余計なお世話です。
「地獄への道は善意で舗装されている」のを、私たちは忘れてはいけません。


男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎〈シリーズ第33作〉 4Kデジタル修復版 [Blu-ray]
出演:渥美清、中原理恵、渡瀬恒彦
監督:山田洋次
松竹
2019-12-25


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2014年08月14日

【将棋】「オール・イン 実録・奨励会三段リーグ」天野貴元さん

P222
将棋と人生の類似性

奨励会時代、おそらく20歳を過ぎたころから、僕は週に1回くらい「プロ棋士になれない夢」を見た。

シチュエーションはいろいろあるのだが、多かったのは三段リーグの最終日。「これに勝てば自力で(プロの四段)昇段」という場面、必勝形を作りながら、まさかのトン死を食らうという、いま思い出しても胸が痛くなるような、シャレにならない夢だ。

しかし不思議なもので、奨励会を退会後はそうした夢を見ることはなくなった。夢と潜在意識の間にどういう関係があるのかは分からないが、強い強迫観念がなくなったことだけは確かだと思う。

いま思い出してみると、20歳を過ぎた頃から僕は大きな迷路に入り込んだ気がする。つまり「何のために」という意味が分からないと、物事に集中することができなくなってしまったのだ。

ちょうど同い年の友人たちが、大学を出て社会人になっていく時期を迎えていた。僕は「将棋が世の中で何の役に立つのか」という答えを求めて四苦八苦した。しかし、答えはとうとう見つけることができなかった。

(中略)

何のために将棋があるのか。それについて、僕は引き続き考える。つまり将棋の意味と魅力についてだ。

「勝つ」という責務に追われた奨励会時代、僕はそのことについて十分思いをめぐらせる余裕がなかった。いまであれば、もう少し多くのことに気付くことができそうな気がする。

「プロ棋士に成れなかったのは、そもそもなぜ将棋を指しているのか、将棋にどんな大義があるのか、途中で自分自身分からなくなり、将棋、及び、勝負に集中できなくなったからだ」。
16才にして三段まで到達するも、結局プロ棋士の四段に上がれなかった天野貴元さんのこの回顧は、考えさせられる所が多い。

とりわけ考えさせられるのは、「帰納的思考で推進した物事の挫折を演繹的思考で検証することの不毛さ」だ。

本書を読んだ限りでは、天野さんはプロ棋士に成ることを帰納的思考一本で推進し、特段ゴールセッティングしていない。
要するに、天野少年は、「好きで指している目の前の将棋をこのまま指し続けられたらいいな」との思いからプロ棋士に成ることを発想し、プロ棋士の養成所である奨励会に入会した訳だが、これは、かつてロック少年(死語?w)が、「好きで始めたエレキギターをこのまま弾き続けられたらいいな」との思いからプロのロックギタリストに成ることを発想し、「コンテスト荒らし」と化したのと基本的には変わらない。
本田圭佑選手が、小学生にして「世界的に通用するサッカー選手に成る!」と作文を介して自他に宣言し、好きで始めたサッカー人生を早い時分でゴールセッティングしたのと、思考態度が真逆だ。
予めゴールをセッティングし、そこから逆算して現在のto doを案出→実行した本田選手であれば、挫折、又は、挫折になりかねない進捗を検証する折、「そもそも世界的サッカー選手に成るのに、いかなる意義(大義)を想定していたか?」と振り返って自問自答するのは合理的であり、また、有意義でもある。
しかし、ロック少年や天野さんのように、予めゴールをセッティングしていなかった人が、物事に挫折し(かけてみ)て初めて、「そもそも自分が”その”物事のプロフェッショナルに成るのに、いかなる意義があったか?」と自問自答し出すのは不合理であり、挫折の袋小路化と自己逃避を助長するだけだ。

心理学者の高橋雅延さんのお考えによれば、人が記憶を忘却、変容させる根本理由は、人が物事(体験)の「意味付け」、「物語り」をしたがる生き物だからであり、然るに、他者に語る自分史は「物語」として合理的な(=ストーリーが合理的に繋がっている)のだという。
私たちがつい、帰納的思考の果ての挫折を「そもそも論」で検証するのは、挫折をも「物語」に、もっと言えば、「美談」にしたいからなのだろう。

記憶違いでなければ、羽生善治さんがプロ棋士を志したのは天野さんと同様、帰納的思考に因るものであり、帰納的な思考態度が誤りという訳ではない。
ただ、一つ確かなのは、帰納的な思考態度をしても、また、演繹的な思考態度をしても、私たちは挫折と無縁に成れない、ということだ。
人生の真の勝者は、挫折からの回復に長けた人、即ち、「挫折上手な人」に違いなく、私たちは先ず、挫折を不合理に検証する誘惑を断つ必要がある。







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2014年08月13日

【洋画】「メリンダとメリンダ/Melinda and Melinda」(2004)

[ひと言感想]
悲劇版と喜劇版を一人二役で演じたラダ・ミチェルさんの別人の人相に、人生を悲劇にするも喜劇にするも、「親からの貰い物」以上に「本人の意志」が決めるのだと、改めて気づかされました。
私たちは、顔の造作には責任を持つ必要がありませんが(笑)、人相には責任を持つ必要があります。


メリンダとメリンダ (字幕版)
出演:ラダ・ミチェル、クロエ・セヴィニー、ジョニー・リー・ミラー、ウィル・フェレル、アマンダ・ピート
監督:ウディ・アレン 
2013-05-15


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2014年08月12日

【心理学】「記憶力の正体:人はなぜ忘れるのか?」高橋雅延さん

P254
さまざまな語り口から見える記憶

それでは自分一人で記憶を書き換えることは不可能なのでしょうか。そんなことはありません。なぜなら、記憶を想起する(語る)のは私たち自身だからです、私たちの立ち位置(語り口)を変えれば、龍安寺の石庭の見え方が変わるように、その記憶の内容や感情も変わっていきます

ただ、実際には私たちの多くは、自分の過去を想起する際に、どうしても自分の慣れ親しんだ(いわば、クセになっている)立ち位置から過去を振り返りがちです。そのため、別の立ち位置から見えれば、異なる物語ができあがることに、なかなか思い至らないものなのです。このような自分特有の語り口をもつことは、いわば個性と呼べるものであって、それ自体は、けっして悪いことではありません。しかし、時として、自分の語り口のクセのために、必要以上に自分の記憶の物語(ストーリー)に悩まされることが起こります。

そうならないため、(嫌な記憶を中和化するため)に必要なことは、突き詰めれば語り口のレパートリーを多くもつことではないでしょうか。そもそもレパートリーが少なければ、自分の語り口のクセに気づくことすらないでしょう。先のナラディヴ・セラピーでは専門家である他者が自分の語り口のクセに気づかせてくれ、同時に、語り口のレパートリーを広げてくれました。

では、自分一人で語り口のレパートリーを増やすためには、いったいどうすればよいのでしょうか。おそらくもっとも有効なのは、他人の生き方、考え方について広く知ることだと思います。もちろん、生身の人間と濃密に接すること(熱愛や私淑など)がベストなのでしょうが、それ以外にも読書であれ、ネットであれ、映画であれ、演劇であれ、古今東西の人びとのさまざまな生き方、考え方を知ることができます。

こうして、たくさんの語り口のレパートリーを知った上で、さまざまな語り口で記憶をながめてみれば、必ず記憶は変わっていきます。

哲学者でありフランス文学者でもあり、パリに居を定め自我のあり方に葛藤し続けた森有正は、記憶について、きわめてユニークな主張をしています。まず、森は「体験」と「経験」ということばを区別します。たとえば、戦争に行った出来事を何度も何度もそのままの形で繰り返すのは、戦争経験ではなく、戦争体験だというのです。その人の経験全体が過去化してしまって、体験になっているというのです。つまり、森にとって、体験とは、いわば固定化してしまって、閉ざされた記憶ということになります。

一方、経験とは常に変容する可能性をそなえた、開かれた記憶といった意味合いをもつものです。つまり、「絶えず、そこに新しい出来事が起こり、それを絶えず虚心坦懐に認めて、自分の中にその成果が蓄積されていく。そこに『経験』というものがあるので、経験というのは、あくまでも未来へ向かって開かれる。すべてが未来、あるいは将来へ向かって開かれていく」というのです。



このように過去に閉ざされた記憶(体験)と、未来に開かれた記憶(経験)を区別した上で、体験を経験に変えていく努力の必要性を森は強く主張しています。さまざまな語り口で記憶をとらえるという作業は、体験を経験に買えることだと私は思います。これこそが私が第一章で強調した忘却力の本質です。その意味で、忘却とは「無にする」ことではなく「変化させる」ことであり、そこには常に私たちの積極的な関与が要求されるものなのです。

年齢と知識は凡そ比例関係にあるが、年齢と知恵は必ずしもそうではない。
なぜか。
私は専ら、「知識を知恵化する」習性と能力、即ち、「インプット(経験)を総括の上、抽象化、普遍化する」習性と能力の問題と考えてきたが、高橋雅延さんのお考えを伺い、「インプットを紐解く」語り口のレパートリーの問題も考えて然るべきだと感じた。
たしかに、現場で同様に働いても、現場一筋の人と、本社の「オカミ業務」(笑)など現場以外の仕事も経験している人とでは、問題の発見とその対処が大いに異なる。

知恵と比例関係にあるのは「出会い」、即ち、「異なる思考と価値観の理解経験」なのだろう。
私は、そのコストパフォーマンスの最たる読書に一層励みたい。







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2014年08月11日

【経営/人生訓】「成功体験はいらない」辻野晃一郎さん

P174
3.「演繹的」に考える

「日本をサッカー強国にする」と決意した瞬間、すべてが動き出した


(前略)

そんなサッカー後進国であった日本は、なぜこれほどまでに強くなれたのだろうか。

それは、「二十年後、三十年後に日本をサッカー強国にする」と、当時、誰かが決意したからにほかならない。

「演繹的に考える」とは将来のあるべき姿を思い描き、そこから逆算して、いますべきことを決めることだ、と(先に)述べた。

二十年前、Jリーグの初代チェアマンに就任した川淵三郎氏を中心とした人たちが、「日本をサッカー強国にする」と決意した。そして、その瞬間から、十年後、二十年後を見据えた取り組みをスタートさせた。

まず、Jリーグを組織化し、その下にも、ユースチームやジュニアユースチームをつくり、年少時から才能ある選手を発掘して育成するシステムを整えた。最近、海外で活躍する若い選手が増えたのは、こうした育成システムが機能して人材が育ったからこそだろう。

また、トルシエ氏やオシム氏、ザッケローニ氏といった豊富な指導経験をもつ監督を海外から招き、世界レベルの戦略や戦術をチームに根づかせると共に、国際試合の数を増やしていった。その結果、アジア予選すら勝ち抜けなかった日本代表は、ワールドカップ常勝国へと成長した。

地域密着型のJリーグは、あらゆる地域の人がサッカーに関心をもつ土台をつくりあげた。その結果、日本全国にJリーグ入りを目指すチームが続々と誕生し、サッカーの裾野は驚くほど広がった。

これらはすべて、川淵氏たちの演繹思考から始まっている。それがなければ、おそらく日本のサッカーの実力は二十年前とさして変わることはなかっただろう。

(以下省略)

帰納的では先を予測できない

ちなみに、「演繹的」の反対が「帰納的」である。ここでは、「演繹的」ということを、「遠くの到達点を見据え、そこからさかのぼっていまの行動を決めるスタイル」と定義し「帰納的」ということを、「目の前のことをこなしていき、その積み上げとしてある場所に到達するスタイル」と定義しておく。

帰納的なスタイルをどちらかといえば行き当たりばったり、その日暮らし的とすると、サッカー日本代表に名を連ねるようなメンバーのなかに、「気がついたらなんとなくサッカーがうまくなっていて、いつの間にか日本代表に選ばれていた」などという選手はおそらく誰もいないだろう。

ACミランに移籍した本田圭佑選手などは小学校の作文で将来は世界的な選手になると宣言していて話題になっていたが、遠くのゴールを具体的に見据えて、それに向けて顕在的、潜在的に努力し行動を続けることが大きなゴールを引き寄せる。

地道にコツコツとまじめに物事を積み上げていくタイプの日本人は、帰納的なスタイルのほうが得意で、演繹的なスタイルはあまり得意ではないのかもしれない。だが、これから世界で活躍するためには、演繹的なスタイルをもっと意識したほうがいいだろう。

辻野晃一郎さんのお考えは尤もだが、本当になぜ、日本人は演繹的な思考態度が不得手、或いは、習性として乏しいのか。

近因の一つは、日本の、現状の肯定と維持を是とする環境文化だろう。
演繹的な思考態度は、現状の否定と変革の発露だ。
土井雪広さんが指摘するように、日本は既存の理想を100点満点と決め付け、その踏襲を後進に強いる環境文化があるなど、現状の否定と変革に否定的で、いかにその必然性が公明になろうと、その具体や輩を棚上げ、ないし、ウヤムヤにし、社会的に抹殺してしまう嫌いがある。

ではなぜ、本田圭佑選手は小学校時分、世界的なサッカー選手に成る旨、演繹的な思考態度を露にできたのか。
本田少年を最も後押ししたのは、怒りと自信だろう。
「所詮、好きなだけではサッカー選手には成れないし、食えないので、ひとまず大学まで行っとけ」とのツマラナイ大人の説教や、「所詮、日本はサッカー後進国でしかない(→先進国/強国になど成れやしない)」、「当分、そんな日本から世界に通用する選手など出てきやしない」といった国内外の自虐的かつ屈辱的なコンセンサスに対する怒りと、「オレなら絶対変えられる!」との自信が、本田少年に鉛筆を強く走らせたのだろう。

本来、こうした「根拠の無い」自信と怒りは、イノベーターの格好の資質であり、かつ、特権だ。
特権を特権と理解せずとも、またあり難がらずとも物心共々ソコソコ生きられてしまう豊かさこそ、日本人が演繹的な思考態度と依然距離を置く元凶かもしれない。







kimio_memo at 07:20|PermalinkComments(0) 書籍 

2014年08月08日

【邦画】「男はつらいよ 第29作 寅次郎あじさいの恋」(1982)

[ひと言感想]
たしかに、男に不本意に袖にされた女が望むのは、まっとうなお説教や今後の人生指南より、悲しみを忘れさせてくれる慰撫であり、寅次郎の笑顔はそれに打ってつけです。
しかし、かつて博(演:前田吟さん)が言ったように、「人生で大事なのは(いかなる時でも)力強く生きること」であり、笑顔だけでは、その後の人生はおぼつきません。
人生に辛苦は付き物です。
笑顔は人生の必要条件ですが、十分条件ではありません。
寅次郎が笑顔に長けているのは、生来の資質に加え何より世事と無縁のフーテンでからであり、寅次郎もその自覚はあるに違いありません。

ようやく本題(?・笑)ですが、なぜ、寅次郎は自ら惚れたかがり(演:いしだあゆみさん)の据え膳を食わなかったのか。
それは、思いがけないうまい話(笑)に気後れしたことに加え、かがりの懸命さをもてあそぶには余りにヤクザや能無しで無さ過ぎたからではないでしょうか。
不肖私、「男がつらい」訳をまた一つ思い知りました。(笑)


男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋〈シリーズ第29作〉 4Kデジタル修復版 [Blu-ray]
出演:渥美清、いしだあゆみ、片岡仁左衛門(十三代目)
監督:山田洋次
松竹
2019-12-25


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kimio_memo at 06:38|PermalinkComments(0) 映画 | -男はつらいよ/寅さん

2014年08月07日

【第55期王位戦第三局】木村挑戦者、羽生王位の「怪しい」攻めを切らせ切れず、持将棋引き分けに

[ひと言感想]
木村一基挑戦者の極上の「攻め切らし」の受けは見事でしたが、「完全には切らせてなるか!」との、83手目、羽生善治王位の「怪しい」▲4四歩は絶品でした。
不肖私、攻めの肝が「手掛かりを絶やさないこと」であり、それには「相手にとって怪しく、嫌らしく迫ること」がとりわけ有効であるのを、改めて思い知りました。


★2014年8月5、6日催行
http://live.shogi.or.jp/oui/
http://kifulog.shogi.or.jp/oui/55_03/
http://live.shogi.or.jp/oui/kifu/55/oui201408050101.html

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kimio_memo at 07:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 将棋タイトル戦 | -王位戦

2014年08月06日

【邦画】「善魔」(1951)

[ひと言感想]
人生も色々あれば、恋愛も色々あります。
伊都子に対する中沼の恋愛は征服欲です。
三香子に対する三國の恋愛は自己満足です。
かくして恋愛が凡そ綺麗事で済まないように、世事も凡そ善悪入り乱れていて然るべきです。
人は、絶えず善悪の狭間で揺れ動く、一介の矛盾物に過ぎません。


善魔 [DVD]
出演:森雅之、淡島千景、桂木洋子、三國連太郎、笠智衆
監督:木下恵介 
松竹
2013-12-05


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kimio_memo at 06:05|PermalinkComments(0) 映画 

2014年08月05日

【洋画】「エリザベスタウン/Elizabethtown」(2005)

[ひと言感想]
人は、生きている限り穴に嵌まり、時に自分を葬り去りたいくらい参りますが、そもそも自分自身が穴だらけです。
いつの世も男子は、参っている自分に参ってくれる女子に専ら弱く(笑)、息を吹き返させられてばかりですが、やはり男女の本質は「穴の埋め合い」なのでしょう。
「何より先ず相手の穴埋めができること」。
伴侶の伴侶足る最低かつ最高の所以は、これに尽きるに違いありません。


エリザベスタウン スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
出演:オーランド・ブルーム、キルスティン・ダンスト
監督:キャメロン・クロウ 
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
2006-11-02


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kimio_memo at 07:01|PermalinkComments(0) 映画 

2014年08月04日

【洋画】「恋人たちの予感/When Harry Met Sally...」(1989)

[ひと言感想]
人は、セックスをしたから、相手に自分のことを色々話したくなるのか。
それとも、自分のことを色々話したいから、予めセックスをするのか。
はたまた、本当にお喋りしたい人と一日の最後にお喋りしたいからセックスをするのか。
正解は勿論不明ですが、一日の最後にお喋りしたい人が憎めない人なのは確かです。

※再見


恋人たちの予感 (字幕版)
出演:ビリー・クリスタル、メグ・ライアン
監督:ロブ・ライナー 
2015-10-11



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kimio_memo at 06:53|PermalinkComments(0) 映画 

2014年08月01日

【邦画】「男はつらいよ 第28作 寅次郎紙風船」(1981)

[ひと言感想]
恋のガソリンは早合点と妄想ですが(笑)、燃焼中、思いがけず相手に本気を問われ、怯み、正気に戻り、自ら鎮火させてしまう。
これは、寅次郎のような人情家の渡世人(笑)に限らず、誰しも覚えがあるものです。
たしかに、心にもないことと違って、心にもあること(笑)を心の準備なしに披露するのは容易でありませんが、やはり恋を成就させたくば、「道連れ上等!」の根拠無き自信と気概を露にしなければいけません。


男はつらいよ 寅次郎紙風船〈シリーズ第28作〉 4Kデジタル修復版 [Blu-ray]
出演:渥美清、音無美紀子、岸本加世子、地井武男、小沢昭一
監督:山田洋次
松竹
2019-12-25


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kimio_memo at 06:31|PermalinkComments(0) 映画 | -男はつらいよ/寅さん