2014年06月
2014年06月30日
【洋画】「ミクロの決死圏/Fantastic Voyage」(1966)
[ひと言感想]
本作品を見て、科学や医学を志した少年、若者はさぞ多いに違いありませんが、志した後に本作品を初めて見、それらの可能性と普遍性を再認識した学者もさぞ多いに違いありません。
正に「読んでから見るか、見てから読むか」、もとい、「見てから志すか、志してから見るか」。(笑)
時を超えて人を動かすコンテンツは、本当に素晴らしい。
本作品を見て、科学や医学を志した少年、若者はさぞ多いに違いありませんが、志した後に本作品を初めて見、それらの可能性と普遍性を再認識した学者もさぞ多いに違いありません。
正に「読んでから見るか、見てから読むか」、もとい、「見てから志すか、志してから見るか」。(笑)
時を超えて人を動かすコンテンツは、本当に素晴らしい。
2014年06月27日
【邦画】「男はつらいよ 第26作 寅次郎かもめ歌」(1980)
[ひと言感想]
寅次郎が旅からいつでも安心して帰れるよう、博とさくらが月賦で買った新居に部屋を設けていたことと、すみれ(演:伊藤蘭さん)が結婚を機に折角入学した夜学をやめないよう、林先生(演:松村達雄さん)がさくらに念押ししていたことに、とりわけ感慨を覚えました。
「情け」に加え「お節介」も、「人の為ならず」に違いありません。
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寅次郎が旅からいつでも安心して帰れるよう、博とさくらが月賦で買った新居に部屋を設けていたことと、すみれ(演:伊藤蘭さん)が結婚を機に折角入学した夜学をやめないよう、林先生(演:松村達雄さん)がさくらに念押ししていたことに、とりわけ感慨を覚えました。
「情け」に加え「お節介」も、「人の為ならず」に違いありません。
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2014年06月26日
【邦画】「切腹」(1962)
[ひと言感想]
半四郎は「言語道断」と、「切腹スルスル詐欺」(笑)を否定し、咎めを妥当と考えていたに違いありません。
では、なぜ、半四郎は、その主因として一目妥当な「武士の面目」を否定し、正に命懸けで勘解由に説いたのか。
主因は、知らず知らず「武士の面目」に呪縛されていた、或いは、執着していたが為、求女の様に帯刀の売却を発想できず、孫を見殺しにしてしまった自分の不明を恥じ入ったからに思えます。
たしかに、半四郎の考えは一理ありますが、勘解由には釈迦に説法だったように思えます。
なぜなら、勘解由は確信犯に窺えるからです。
勘解由は、武士の面目の「建前さ」、「お題目さ」、「浅はかさ」を承知し、その上で、責務である井伊家という組織の維持と興隆に都合良く利用したのではないでしょうか。
求女の竹光切腹を止めなかったのも、モラルハザードである切腹スルスル詐欺への「同じ武士としての道義的(筋的)不快感」以上に、「組織幹部としての管理、及び、社会的責任」が大きく働いてのことだったのではないでしょうか。
個人の正義が社会の正義を約束しないのと同様、個人の面目が組織、社会の面目を約束しないのも、残念ながら、人間社会のお約束事ではないでしょうか。
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半四郎は「言語道断」と、「切腹スルスル詐欺」(笑)を否定し、咎めを妥当と考えていたに違いありません。
では、なぜ、半四郎は、その主因として一目妥当な「武士の面目」を否定し、正に命懸けで勘解由に説いたのか。
主因は、知らず知らず「武士の面目」に呪縛されていた、或いは、執着していたが為、求女の様に帯刀の売却を発想できず、孫を見殺しにしてしまった自分の不明を恥じ入ったからに思えます。
たしかに、半四郎の考えは一理ありますが、勘解由には釈迦に説法だったように思えます。
なぜなら、勘解由は確信犯に窺えるからです。
勘解由は、武士の面目の「建前さ」、「お題目さ」、「浅はかさ」を承知し、その上で、責務である井伊家という組織の維持と興隆に都合良く利用したのではないでしょうか。
求女の竹光切腹を止めなかったのも、モラルハザードである切腹スルスル詐欺への「同じ武士としての道義的(筋的)不快感」以上に、「組織幹部としての管理、及び、社会的責任」が大きく働いてのことだったのではないでしょうか。
個人の正義が社会の正義を約束しないのと同様、個人の面目が組織、社会の面目を約束しないのも、残念ながら、人間社会のお約束事ではないでしょうか。
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2014年06月25日
【起業/経営/人物伝】「ツイッター創業物語 金と権力、友情、そして裏切り」ニック・ビルトンさん
P343
ジャック(・ドーシー/@jack)の陰謀だったと気づいて、あたりを見まわした(エバン・”)エブ(”・ウィリアムズ/@ev)は、二年前の家のリビングで歩きまわったときのことを思い出した。毛足の長いラグや硬木の床に足をこすりつけるようにして、フレッドやビジャンと、ジャックを解雇したあとのことを話し合った。
エブは、一所懸命働いたことに対する残念賞として、ジャックを活動しない会長に据えることに同意した。あたえる必要がなかった賞だった。法律的にも、企業の義務としても、必要ない。ただ道義上そうした。
その後、ジャックを取締役からはずそうと考えたことが、何度なくあった。ジャックは映画取材会見なみにマスコミを利用した。エブに追い出されたのだと、IT業界でいい触らした。ツイッターでの経歴を”発明者”と書き換えた。プロダクトについて、ふたりは根本的に意見が合わなかった。だが、かつての友人で、いまは第一の敵となったジャックを排除しようと思ったことが、何度かあったにもかかわらず、そのたびに紛争を避けようと判断した。そういう慈悲深い行為が、エブの命取りになった。
ジャックとエブは、会議室でしばし見つめ合った。その瞬間、いまのツイッターをつくった根源は、自分たちふたりだったのだと悟った。ふたりのまったく異なる世界観が、完璧な均衡をもたらしたのだ。自分について語りたいという強い気持ち(What are you doing ?)と、自分の周囲で起きていることについて人々に語りたいという強い気持ち(What’s happening ?)。
ふたつとも、いっぽうがなければ存在しなかった。その均衡あるいは拮抗が、ツイッターを創った。大物の企業家と10代の若者が使い、セレブと無名の人間が使い、政府高官と革命勢力が使う、ジャックとエブのように、根本的に異なる世界観を持つ人々が、たがいに話し合える場所、それがツイッターなのだ。
「競争の激化が増す一方の今、企業が生き残るには(破壊的)イノベーションが不可欠」と叫ばれるようになり久しいが、イノベーションを実現している企業はとりわけ日本では殆ど伝え聞こえない。
なぜか。
主因の一つによく「人材の多様性の無さ」が挙げられるが、それは、あながち間違いではないものの、ストライクではないだろう。
なぜなら、中途(キャリア)採用が一般化するなど、企業における人材の多様性そのものは向上しているに違いないからだ。
では、ストライクは何か。
著者のニック・ビルトンさんは、twitterを生んだ根源を、ジャックとエブという異なる生みの親の世界観の拮抗の苛烈さ、そして、その果ての妥協と(しての)均衡(→調和)の妙と説いている。
たしかに、イノベーションは人為の帰趨であるからして、その源泉は生みの親の世界観、即ち、独自の価値観と哲学であり、それが異次元のものと苛烈に拮抗し、研ぎ澄まされればされるほど、洗練されればされるほど、成果物である製品の価値は一層独特かつ豊穣に成る。
こう考えると、twitterが、facebookやgoogle+とは異なり、tsudaるやbotなどの多様な利用法とそれに因る多様な空気(⇔「ムラ」意識や同調圧力が充満した空気)を許容し、政治家からニート(笑)まで世界観の異なる多様なユーザーを魅了して止まないのも合点できる。
ストライクは、「『異なる世界観の拮抗の苛烈さ』の無さ」、もっと簡単に言えば、「『多様な人材の本音のぶつかり合い』の無さ」ではないか。
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2014年06月24日
【経営】「ネット・プロモーター経営」フレッド・ライクヘルドさん
P186
シュワブとは少し異なるが、アップル・リテールの企画や展開を担ってきた経営幹部のロン・ジョンソンもまた、同じように気がかりな課題に直面していた。2001年、アップルが第一号店を開いたとき、アップルはニッチのコンピュータ・メーカーだった。当時iPodはまだ開発中で、iPhoneやiPadの登場ははるか先の話だった。ジョンソンは、他のコンピュータ・メーカーが直営店での販売で惨敗していたことを知っていた。
そこで、彼は今までとはまったく異なる種類の体験ができる店舗を設計することにした。ジョンソンは、リテール部門のミッションは「顧客と従業員の生活を豊かにすること」だと宣言した。アップルストアはただ買うだけではなく人々が集まって学べる場にする、一回限りの購入で終わらない長続きする顧客リレーションシップづくりを目指していく、と。感動した顧客は、アップルストアでの素晴らしい体験を友人や同僚に話すだろう、そうジョンソンは信じていた。各アップルストアの周りには、アップル・ブランドを宣伝し、パソコンを使う友人や近所の人々をマック愛好者に変える伝道師として振る舞うアップルファンの顧客が溢れかえっているという構想を、彼は思い描いていたのである。
P216
NPS(Net Promoter Score/推奨者の正味比率)を測定する目的は、自社の行動が顧客サービスの価値観に沿っているかを確認することであると、(チャールズ・シュワブのCEOのウォルト・)ベッティンガーはいつもチームに話している。
アップル・リテールのミッションもまた、シュワブと同じように人々の生活を豊かにすることだ。そして、NPSの重要な役割は、各部門がどのくらい一貫してこのミッションを達成しているかを厳格に測定することにある。アップルでは、顧客がアップルストアでの体験に9点あるいは10点をつけるとき、店員が顧客の生活を豊かにし、同時に自分自身の生活も豊かにしたと見なされる。しかし顧客が0店~6点をつけたときは、何かが、あるいは誰かが、顧客の生活を損なったに違いないという見方をしている。
店舗、製品、チーム、従業員という単位でNPSの結果を日々追跡し管理することで、ロン・ジョンソンはパリやダラス、北京まで、あらゆるアップルストアがミッションに沿って行動するという規律を確立してきた。ミッションが実現されているか(推奨者)、それとも失敗しているか(批判者)をリアルタイムで知らせるスコアは、店長とチームメンバー間の日々の議論につながる。人々の生活を豊かにするというミッションは、このスコアによってより身近で具体的な課題になるのである。
P359
現在、シュワブでは顧客と直接接点のある従業員が、NPSに対して絶大な信頼感を持っています。支店のマネージャーやコールセンターのリーダーは、個々の顧客リレーションシップの評価と改善の両方に、NPSをツールとして用いています。ただ「あなたのパフォーマンスを測定するツール」というよりも、「NPSはあなたの成功を支援するためにつくられたツール」と説明することで、彼らの信頼を得てきました。
チャールズ・シュワブ、顧客ロイヤリティおよび顧客インサイト担当バイス・プレジデント
トロイ・スティーブンソン
顧客満足の意義が叫ばれるようになり久しいが、実際に果たしている企業は殆どお目にかかれない
なぜか。
そして、いかにしたら果たせるのか。
これらの答えのヒントは、上記の転載箇所に潜んでいる。
そう、顧客満足が果たせないのは、顧客が成功し、満足している状態を定性的に定義し、定量的に検証可能にしていないこと、そして、「顧客が成功、満足している状態を促し、果たすことこそ、自分たちの成功、満足への然るべきプロセスである」と社員が納得していないこと、合理的かつ感情的に動機づけられていないこと、が大きい。
たしかに、銀座のアップルストアはいつもお客さまとスタッフの笑顔で満ち溢れているが、それは、「『顧客が満足している状態』=『顧客の生活が期待通り豊かに成り、顧客がアップルブランドの伝道師と化している状態』」との定義が社内に浸透し、進捗が具体的かつリアルタイムにスタッフにフィードバックされる仕組みがあるから、そして、「顧客とスタッフの成功、満足を促し、果たすことこそ、自分の成功、満足、責務である」とリテール担当役員が確信しているから、に違いない。
2014年06月23日
【第85期棋聖戦/第二局】森内挑戦者、入玉突進を躊躇し、羽生棋聖に連敗を喫する
[ひと言感想]
棋譜解説によれば、108手目、森内俊之挑戦者が△4六同金に代えて△3七歩成と、信じた入玉の道を脇目も振らず突き進んでいたら、勝負は不明だった、とのこと。
やはり、勝負は、極限状況における着想の実行力、決断力で決まるということなのでしょうが、正直、それらの力が、森内挑戦者は羽生善治棋聖より劣っているとは思えません。
勝利の女神は現代女性を凌ぐ欲張りで(笑)、そのお眼鏡は、凡人には計り知れない広さと深さを要求するに違いありません。
★2014年6月21日催行
http://live.shogi.or.jp/kisei/
http://kifulog.shogi.or.jp/kisei/82_02/
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棋譜解説によれば、108手目、森内俊之挑戦者が△4六同金に代えて△3七歩成と、信じた入玉の道を脇目も振らず突き進んでいたら、勝負は不明だった、とのこと。
やはり、勝負は、極限状況における着想の実行力、決断力で決まるということなのでしょうが、正直、それらの力が、森内挑戦者は羽生善治棋聖より劣っているとは思えません。
勝利の女神は現代女性を凌ぐ欲張りで(笑)、そのお眼鏡は、凡人には計り知れない広さと深さを要求するに違いありません。
★2014年6月21日催行
http://live.shogi.or.jp/kisei/
http://kifulog.shogi.or.jp/kisei/82_02/
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2014年06月20日
2014年06月19日
2014年06月18日
【NHK教育】[SWITCHインタビュー達人達「上原ひろみ×石塚真一」]上原ひろみさん
【石塚真一さん】
(上原さんは学生時代)「人間ジュークボックス」っていうアダ名があった、っていう(真相のほどはいかに?)・・・
【上原ひろみさん】
昼休みとか、(学校の)ロビーにピアノがあったんで、そこでピアノを弾いていて、その時に流行っている曲とか、CMの曲とかを、みんなで集まって聴く中で、弾いたりとかはしていましたね。
中高と、音楽というものに自分ほど興味がある人っていうのは周りにそんなに居なかったんで[・・・]だから、例えば、自分が技術的に何か少しハイレベルなことができたりとか、(具体的には)このコードでこういうスケールが弾けるようになっただとかいうことは、(自分の演奏を聴いている同級生の)彼らには関係が無いこと(であるのが分かった)。
つまり、「音楽(の良し悪し)は(結局)何かを感じるか、感じないか(で決まる)」っていう、本当に残酷に近い判断基準がそこにあったので、お昼休みとか演奏してて、(演奏者の自分が目標にし、留意、追求したのは、聴衆の彼らに)「何か伝わるか、伝わらないか」、それだけだったんですね。
(聴衆の彼らが自分の演奏に求めているのは)「何か来た、何か心に来た」っていうことしかやっぱり無いんだなっていう。
そこっていうのは、自分のそれから続いていく音楽人生の中で、凄く大きな判断基準になっていますね。
「(聴衆に)伝わっているか、伝わっていないか」。
「(聴衆が)何か感じるか、感じないか」。
音楽のジャンルはそれだけなんだなっていう。
一般のリスナーにとって音楽を聴いて「何かを感じるか、感じないか」というは、”その”音楽に「感動できるか、できないか」ということだ。
上原ひろみさんが中高生時分に気づかれたように、音楽の根源価値は感動であり、その存在意義は「言葉にできずに感動できること」に違いない。
一目惚れに(説明できる)理由が無いように、根源価値や存在意義が「感動できるか、できないか」であるのは、音楽に限らず、全てのモノとサービス、そして、ヒトに当てはまるに違いない。
実際、音楽におけるスケール、コード進行、演奏技術といったものは、結局、方法論や技術だ。
コード進行の斬新さや速弾きに直接感動するのは、同じプレイヤー(業界人)とオタクリスナーだけだ。
対象顧客である一般のリスナーからすれば、いかに優れた方法論や技術、ないし、それらがもたらす機能的、合理的な効用(価値)も、「言葉にできない感動」には及ばないし、そもそも無関心、意味不明だ。
経営者足る者、真に売れるモノ、サービスを創造したいなら、それが対象顧客に与え得る感動の内容と質量を最重視すべきだ。
【上原さん】
自分が今どうしてこれ(=ピアノ)をやっているのかとか、勿論、自分自身、音楽が(異常を自覚するほど)好きだっていう、音楽に対する情熱だったり、ドライブもあるけれども、やっぱり、最初に出会ったピアノの先生が、まあ普通のクラッシックのピアノの先生でしたけど、色んな音楽を分け隔てなく聴く方だった[・・・]そういう先生に教えられてきたっていう出会いが、先ず凄く大きいし・・・
【石塚さん】
どんなレッスンをされてたんですか、実際?
【上原さん】
凄いテンションが高い先生で、多分、エネルギーレベルが物凄く高い方だと思うんですね。
(楽譜の音楽記号に)「カンタービレ」というという言葉が(あり、意味は)「歌うように(演奏する)」っていうことだけど、先生は(実際に)「歌ってる絵」を書くんですよ、楽譜に。
それは、やっぱり視覚的に分かったりとか、あとは(他にも)例えば、「フォルテシモ」っていうのは「凄く力強く(演奏する)」(という意味で)、「ピアニッシモ」っていうのは「凄く優しく、デリケートに(演奏する)」(という意味で、そういうのも色鉛筆で真っ赤にフォルテシモ(の記号)を塗ったり、水色でピアニッシモ(の記号)を塗ったりすることで[・・・]子供が音楽を感情で紡ぐということを凄くし易くしてくださったなっていう[・・・]「音楽は心から心に伝える」っていうことを、全身で教えてくださった先生なので、もう何かエモーショナルの塊みたいな方でしたから、そういう方とやっぱり幼少期に出会えたっていうのは、(自分の人生の好影響因子として)凄く大きいと思いますね。
「行動を促すのは理論ではなく感情であり、理論が果たすのは思想の刺激だけだ」。
あくまで想像だが、上原さんが最初に師事した疋田範子先生は、本事項の心得者だったに違いない。
「歌うように演奏する」というのは、プレイヤーにいかなる心情変化を要求することなのか。
そして、その果てのカンタービレの演奏は、リスナーにいかなる心情変化を、ひいては、「言葉にできない感動」を提供することなのか。
これらを視覚的かつ感情的に、子ども目線で平易に教示なさった疋田先生には、感心脱帽以外無い。
【ナレーション】
上原は17才の時、偶然、巨匠チック・コリアの前で演奏する機会を得る。
余りの才能に驚いたチックは、なんと、翌日の自分のコンサートで、上原を急遽舞台に上げた。
【上原さん】
本物っていうものを、あの年で間近に見る。
そして、自分の至らなさだとか、チックの引き出しの多さ、なんか、まるで巨大図書館の中を歩いているような、それぐらいの衝撃があって・・・
上原さんがチック・コリアさんの生プレイから窺ったのが「巨大図書館」というのは、言い得て妙だ。
しかし、そもそもなぜ、上原さんは、若干17才時分、チックの生プレイから「巨大図書館」を窺えたのか。
たしかに、直接の理由は、チックさんならではの才能とキャリアが織り成した、即興とは思えぬ正に「引き出しの多さ」だろう。
ただ、これまたあくまで想像だが、上原さん自身が当時既に、高次の音楽の知見に相当飢えておられたのではないか。
つまり、根本の理由は、その飢餓感ではないか。
なぜなら、図書館の蔵書に評価、感動できるのは、高次の知見に対する相当な飢餓感があってのことだからだ。
当時、上原さんは既に音楽に対し、周囲の理解を超える「異常な」情熱を自覚なさっていたというが、この飢餓感も負けず劣らず異常だったのではないか。
【石塚さん】
(「バックパッカーピアニスト」を自称し、年間150本ものライブをこなしているが、)毎年やってくる(ライブ)ツアーで念頭に置いているのは、「数をこなすこと」なのか、それとも・・・?
【上原さん】
やっぱり、一本一本の集中力と精度、そこにやっぱり、自分がどれだけの気持ちをもっていけて、どれだけの演奏ができるかってことが全てなので、私はやっぱり、"年間何本ある内の一本"ではなくて、毎日”This is my first and last"、(つまり)「毎日が初日で千秋楽」だっていう気持ちで臨みたいと思っているし、実際そうなんですよね。
同じ公演というのは二度と無いし、その同じお客さんに出会えることっていうのは二度と無くて。
一期一会なので。
【石塚さん】
一本一本に全開で行って、伝わって・・・
【上原さん】
そうですね。
【石塚さん】
「伝わる実感の差」って、あるんですか?
【上原さん】
やっぱり、自分がその日にどこまでの演奏ができるかって、やってみないと分からないんですよね。
表現の仕方が国とか町とか場所で違うので。
同じ町でも、こういうクラブ環境で聴くのと、コンサートホールで聴くのと、野外フェスで聴くのは全然違うので。
自分たちが本当に大興奮するっていう演奏があって、そこをいつも求めていて・・・
【石塚さん】
プレイヤーたちが?
【上原さん】
そうです。
演奏してて、「あっ、何、これ?」って思うような演奏を。
【石塚さん】
どういう風な感じになるんですか、それっていうのは?
【石塚さん】
分からないんですよね。
どういう風に、どういうタイミングで出てくるのか。
ただ、自分が弾いたことが無いフレーズがどんどん出てきたり、音に連れられていくように、何か「わあー!」と弾けたりとか。
何か、何だろう、作為的でない何か、「音が指を連れて行くような」くらい自然にフレーズが生み出される時があって、で、その自分が生み出したフレーズと、自分の一緒にやっているミュージシャンのフレーズがガチッと合ったり・・・
(中略)
【石塚さん】
(そういうのって)お客さんには分かんない?
【上原さん】
分かると思います。
ミュージシャンの興奮だったり、ミュージシャン自身が楽しんでいる様子っていうのは、絶対にリスナーには伝わるので。
で、そこでまた相乗効果で、もっと出たりすることもあるし。
でも、あれは、自分たちではコントロールできない何か、何か音楽の神様みたいなモノがあって、「今日は微笑んでくれた!」みたいな。
【石塚さん】
それは、「一度起こったヤツは、また次だ!」という(意気込みに繋がる感じですか)?
【上原さん】
そうですね。
「次はいつかなー?」っていう。
来週かもしれないし。
【石塚さん】
「しばらく起こんないなー」っていうこともあるんですか?
【上原さん】
ありますよー。
「打っても叩いても響かない!」みたいな時、ありますよ。
「一生懸命やってるのに!」っていう。
【石塚さん】
分かんないもんですね。
(外から)見ていると、全て、僕の中では、(ガチッと)合っているイメージなんですけど、上原さんの演奏を聴いてると。
【上原さん】
最低限の所はクリアしてるんですよ。
でも、私たち、いつもここからの伸びしろを求めているんですよ。
【石塚さん】
なるほど。
毎回?
【上原さん】
うん。
自分たちがまだ見たことが無い世界とか、聴いたことが無い音を求めていて、それが何か、「大放出!」みたいな日があるんです、時々。
「日々の眼前の一つ一つの仕事に、『毎日が初日で千秋楽』と覚悟し、一生懸命、正に「打って、叩いて」全開で臨んでも、対象顧客に与える感動のバラツキは、完全には埋まらない」。
この結果と現実は、当の上原さんには忸怩の極みに違いないが、「結果と現実はアンコントローラブル(uncontrollable)だが、『伸びしろ』はコントローラブルであり、『伸びしろ』にはシビアであり続けている」との達観、自負で相殺、帳消しなのだろう。
不肖私、上原さんにはプレイ以外からも感動を授かった。
そうなのだ。
かつて中内功さんは「売上は全てを癒す」と仰ったが、「成長は全てを瘉す」のだ。
絶えずシビアであるべきは、眼前の結果や現実より遥かに、個々の仕事の最低品質と、自分の伸びしろに対してなのだ。
★2014年5月17日放送分
http://www4.nhk.or.jp/switch-int/x/2014-05-17/31/4877/
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2014年06月17日
【邦画】「ゴジラ」(1954)
[ひと言感想]
「問題や痛みを根本的に解決、治癒するのではなく、目先の表層的な解決、慰撫で満足する」。
「『禍根の(社会)残存リスク』より『(自己)利益の獲得機会』を重視、優先する」。
「自己利益に不都合な真実を隠匿する」。
「身勝手を承知で、自己責任を他者へ転嫁する」。
これらを如実に表現している点で、本作は普遍性が高く、不朽の名作に違いありません。
不肖私、これまで「ゴジラ対ヘドラ」や「ゴジラ対メカゴジラ」など、専らVSモノばかり見、本第一作を長らく見ずに生きてきた不明に恥じ入るばかりです。
一つ感心したのは、テレビの実況スタッフが命を懸けてゴジラの動きを実況したことと、世紀の新発明を果たした芹澤博士がその成果物もろともゴジラを道連れにしたこと。
私たちも彼らの如く、終生本分に忠実で、潔癖に従順でありたいものです。
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「問題や痛みを根本的に解決、治癒するのではなく、目先の表層的な解決、慰撫で満足する」。
「『禍根の(社会)残存リスク』より『(自己)利益の獲得機会』を重視、優先する」。
「自己利益に不都合な真実を隠匿する」。
「身勝手を承知で、自己責任を他者へ転嫁する」。
これらを如実に表現している点で、本作は普遍性が高く、不朽の名作に違いありません。
不肖私、これまで「ゴジラ対ヘドラ」や「ゴジラ対メカゴジラ」など、専らVSモノばかり見、本第一作を長らく見ずに生きてきた不明に恥じ入るばかりです。
一つ感心したのは、テレビの実況スタッフが命を懸けてゴジラの動きを実況したことと、世紀の新発明を果たした芹澤博士がその成果物もろともゴジラを道連れにしたこと。
私たちも彼らの如く、終生本分に忠実で、潔癖に従順でありたいものです。
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2014年06月13日
【邦画】「男はつらいよ 第23作 翔んでる寅次郎」(1979)
[ひと言感想]
たしかに、玉の輿に乗って幸福を実感する人も居れば、最愛の伴侶の夢への止まり木に成って幸福を実感する人も居り、幸福の実感はそう変わらずとも、幸福のカタチは十人十色です。
しかし、十人十色で違うからこそ、他者(ひと)の幸福のカタチを受容し、他者の幸福を自分に先んじて切望することは、極めて困難かつ尊く、そして、幸福の実感の近道足り得るのでしょう。
不肖私、「情けは人の為ならず」なのがまた少し分かりました。
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たしかに、玉の輿に乗って幸福を実感する人も居れば、最愛の伴侶の夢への止まり木に成って幸福を実感する人も居り、幸福の実感はそう変わらずとも、幸福のカタチは十人十色です。
しかし、十人十色で違うからこそ、他者(ひと)の幸福のカタチを受容し、他者の幸福を自分に先んじて切望することは、極めて困難かつ尊く、そして、幸福の実感の近道足り得るのでしょう。
不肖私、「情けは人の為ならず」なのがまた少し分かりました。
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2014年06月12日
【人生】「午後の遺言状/乙羽さんのことなど」新藤兼人さん
P4
ーー(「午後の遺言状」は)どういう順番で撮影していったのですか。
頭からほとんど順序に撮っていきましたね。しかし、乙羽(信子)さんと杉村(春子)さんの共演になっているところは早く済ましたいと思ったんですよ。それは乙羽さんの手術を終ったときに主治医に言われたんです。もう一年か一年半だというふうに。
(中略)
乙羽さんは知らないんですよ、河野さんという主治医も話してないし、ぼくらも言ってない。まあ、「病は気から」ということもありますから、仕事をすれば一年が一年半になったり、一年半が二年になったりするかもわからない。主治医もそういう例もたくさんあるというんです。
しかし冒険だったですよね。乙羽さんと杉村さんが主役ですから、初めっからしまいまで出ずっぱりでしょう。途中でたおれたりすると、それでおしまいですね。この病の場合またよくなるということはあまり期待できませんからね。制作費も二億円超えますから、冒険だとは思ったんですけれど、しかしぼくはどうしてもやりたかったわけね。乙羽さんが近代映画協会で40年もいろいろ仕事やってくれたことに対するお返しとしてもやりたいと思ったし、もし途中で倒れてしまっても、仕事をやって倒れたほうが気もちがいいんじゃないかなと思ったんです。
P16
ぼくは手術の前に、NHKで『正岡子規の病床六尺』という子規のお母さんを乙羽さんでやるようにホン書いたんです。そうしたら乙羽さんが手術をすることになったから、乙羽さんの出演はやめになったんです。そのときも手術を一ヶ月延ばして、それをやってからにしたらどうかと医者に提案したんです。怒られましたね。「何を言っているんですか」と言われて。
だけど、仕事をやらなきゃ役者というのは何でもない石ころみたいなもんなんですよ。仕事をやらない役者なんて存在しないも同じなんだから、役者をやってこその人生ですよね。やるべきだという考え方がぼくにはあるんですよ。
ーー仕事をしない役者はだめだというのは、この映画のテーマでもあるわけですね。
そうですね。仕事をしなくて生きとったってしょうがないじゃないですか、と思うんです。
ーーそのあたりが老人映画としてはめずらしい。
老人になったからといって植物になるわけではないでしょう。ぼくは人間が植物扱いされるということに対する反感があるんですよ。年をとれば、気力が衰えてきたり、知能が衰えてきたり、体力が衰えてきたりするけれど、神の摂理で、人間には衰えたら衰えたなりにあるバランスが出てくるのではないかと思うんです。つまり才能というか、人間の出し得るチカラというか。だから、老人でも仕事ができると思っているんですよ。かえっていいバランスが起きてくるのではないか。そうすると、80や85になったって、仕事をすれば、それはそれとしてのおもしろい才能が発揮されるのではないかと思う。仕事師としてですね。
ぼくは映画監督という特殊な仕事だけれども、ほかの商売でもサラリーマンでもそこは同じだと思います。生きるということのなかでは、自分が最後をきわめるということでないと、意味がないのではないかと思っているんです。そういうものがテーマですね。それを老人のテーマにしようと思った。それは生きてきた値打ちを大事にするというようなことなのかな。突然80になって老人になったのではなくて、60、70、80というふうな、生きてきた延長でしょう。延長なら、その延長のなかでたくわえてきて消耗したものもあるけれど、逆に生きてきて蓄積されたものが出るかもわからない。消耗したからうまく残ったというものがあるでしょう。
それは強弁といわれるかもわからないけれど、そうしないと、人間というのは生きとっても意味がないということになりますからね。年とったら植物的に扱ってもらういうことになりますと、人間の末路として非常に悲しいよね。そうじゃないというようなことをいいたいわけです。
たとえば杉村さんも立ったり座ったりということが若いときみたいにいかないふうになっていますよ。パッと立ったりパッと座ったりはできない。そうすると今度はゆっくり立つ、ゆっくり座るというのを、老人になったから衰えてそういうふうにということではなくて、彼女がまたそれを演技のなかに取り入れているわけ。そういう演技にしている。そうすると、それは老人になれたから出てきた演技ということもいえるんです。つまりゆっくり座る演技ですね。人間が座るということを表現したいわけですから、ゆっくりしながら座るという意味を表現する。若いときにパッと座るのもそれは座るという意味だけれども、どっちにしても座るということを表現したいのだから、杉村さんがゆっくり座った、ああ、うまくやってるな、そういうわけかと思って、ぼくは見ている。つまり老人になったから若いようには座れなくなりましたという演技じゃないわけよ。現実に負けているから、それじゃ役者じゃない。老人になったから、より美しく座ることのある発見があったということにならないとね。そうしないと、人間の才能というのは若けりゃいいのではないかということになってしまいます。若いときにはそれ自体考えないで動いていたら、若さというのが出るのかもしれない。老人になったら、自分のこれまでやってきたことをみな失ってしまって、さらに失いきれないで残っているものというのは値打ちがあるものだし、大事にしなければいけないのではないか。
そういうふうに無理にでも思わないと、老人になったら、みんな死ななきゃならないかということになるからね。ぼくも老人監督になってしまったから、結局ぼくの思いもこの映画には入っているわけですよ。
P21
つまり肉体的には老人になりますけど、気持ちがほんとの老人になりたくないというような感じはあるんですね。だけど、老人になるわけだから、記憶力が減退したり、固有名詞が出てこなかったり、朝早く目がさめたり、そういうことはいっぱいありますから、しょうがないんですけれど。そういう現実が自分に迫ってくるのだけれど、逆に精神がほこりまみれになるというかな、それをそうありたくないと思ったりするんですよね。
北斎が若いときに飛びはねていたところへ返りたいと思ったりするのは、生きたいという欲望というのは常に、精神は肉体に逆行して生きているということなんですかね。逆行したいと思う執念ということなんじゃないか。それは生きることだということになるのかな・・・。とにかく自分なりに生きなきゃいけないんじゃないですか。
年初、元上司からもらった年賀に、「我々老人には『きょういく』と『きょうよう』が大事だ」と書かれていた。
首を傾げながら読み進めて行くと、「きょういく」と「きょうよう」のもう一つの意味が解説されていた。
私は、破顔するも、寂しさと遺憾を覚えた。
なぜなら、今の自分があるのは彼のお陰だからだ。
他者から人生の師と称えられる人間でも、仕事と儲けの分け前に甘んじているサラリーマン、即ち、「期限付き受動的仕事人」に留まれば、ある時を境にそれらを一方的に断たれ、その後「きょういく」や「きょうよう」に一喜一憂する一老人に成らざるを得ない。
この現実は、弟子の私には余りに冷酷だが、同志であるばかりか夫人でもあった乙羽信子さんを、「役者は仕事(演技)をしてこそ役者であり、さもなくば、そこいらに在る何でもない石ころと同じ」、「仕事をせずに生きていても仕方が無い」と、医師から余命宣告されてもなお役者として使い続けた新藤兼人監督から言わせれば、彼は「何でもない石ころ」や「生きていても仕方が無く」、自然かつ当然なのだろう。
過日、ラジオをつけると、どなたかが「現在施行されている老人福祉は、次世代への経済的虐待だ」と唱えていた。
たしかに、現在の老人福祉は、「生きていても仕方がない」老人の余生への未練につけこんだ政治家の保身の策であり、かつ、次世代の人たちのリソースをリターンの見込み無く収奪することを旨としているからして、「次世代への経済的虐待」とは言い得て妙だ。
しかし、もし、対象の老人の過半が、新藤監督のような強靭な哲学と自助のもと、「無期限の能動的仕事人」として終生現役を志向し、かつ、後世への啓発や触発を絶やさなくなれば、現在の老人福祉は「次世代への社会的授業料」と解釈できよう。
老人であれ若者であれ、「生きている」ということは、社会に「生かされている」ということだ。
本書の裏表紙には、「人は生きているかぎり、生きぬきたい」と書かれていた。
私たちは、生かされている以上、生きているかぎりは、独自の意志と生き甲斐を持ち、かつ、社会に好影響を与えて生き抜かなければいけない。
私たちは、生きているかぎり、石ころに成ってはいけない。
2014年06月11日
【司法】「私は負けない/第三章『一人の無辜を罰するなかれ』」周防正行さん
P177
今は、訴えた人も訴えられた人も不毛な戦いをせざるを得ない。物的な証拠や確かな第三者の目撃がない場合、裁判が難しくなるのは当たり前なのです。だからこそ「疑わしきは罰せず」という原則が重要なのです。
「疑わしきは罰せず」と一般的に言われている言葉は、「疑わしいだけの人を罰してはならない」という意味です。でも、実際の裁判を見ていると、「この人は疑わしいから捕まえておきましょう」という感じになってしまっています。無罪になるには、被告人側が有罪立証に合理的な疑いを差し挟むことができればよいはずなのに、現実には、ほかに真犯人がいることが分かったり、弁護側が無実の証明を果たさないと、無罪にならない。それが痴漢事件だけでなく、日本の刑事裁判を見ていて、私が感じたことです。
(中略)
専門家だけでなく、一般市民の感覚も問われています。
何かの犯罪を犯したとの疑いで誰かが逮捕されたとき、「もし釈放して、新たな犯罪を起こされたら困る」という発想は一般市民にもあるような気がするのです。犯罪を犯した人への処罰感情もどんどん高まっています。でも、もし、その人がやっていなかったら、どうするのでしょう。
裁判は万能ではなく、やった人を100パーセント有罪にして、やっていない人は100パーセント無罪にする、という完璧さは期待できない。だから、「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜を罰するなかれ」という考えが出てくるのです。
ところが、そうすると、逃した10人の真犯人はどうするんだ、ということになる。この時、ヨーロッパの人なら「それは神が裁く」と答えるようですが、日本ではどうでしょうか。10人を逃したことを納得できない気持ちが強すぎると、10人の無実の人を罰してもしょうがない、という社会になりかねません。しかし、真犯人をたとえ逃してしまっても、無実の人を罰するよりは、余程いいのです。なぜなら、冤罪は、無実の人を罰する上に、真犯人を逃すという二重の過ちを犯すことになるのですから。
裁判で、真犯人が明らかになるとは限らない。裁判は、事件の全真相を解明する場でもない。テレビや映画、小説のミステリーや裁判ものの多くは、最後に必ず犯人は誰、と分かる。だから、僕の映画『それでもボクはやってない』を見て、「それで、真犯人は誰だったの?」と聞いてくる人もいるんです。
でも、実際の事件では、誰が犯人なのか分からないというところから捜査を始めなければならないし、必ず真犯人が特定できるわけでもない。裁判で審理をつくして被告人の有罪、無罪を判断したところで、本当にその判断が正しかったかどうかは被告人しか分からないし(もちろん被告人だって分からないケースもある)、ましてや犯人の動機や手順といった事細かな「真相」まで、ミステリー小説のようには明らかにならないのです。裁判官は全能の神ではないのに、過剰な期待をかけすぎている。そもそも裁判は、過去に起きた事件について、その場にいなかった人たちがほとんどの中、痕跡だけを集めて、ああだった、こうだったと言い合っているわけです。それなのに、裁判では真相が明らかになると、僕らは過大な期待をしすぎている。
裁判は、真相究明の場ではなく、被告人が本当にその罪を犯したと、合理的な疑いを差し挟む余地がないほどの立証を検察官ができたのか、もし犯人だとすればその責任はどれくらいかを見極める場所です。なのにマスメディアも、「真相解明」を言い過ぎです。
私は裁判員として裁判に参加した経験もあり、周防正行監督の本意見には強く同意、共感する。
そうなのだ。
実際の裁判は、ドラマや映画で描かれているそれとは全然異なり、思っている以上に真相解明を果たせないし、果たさないのだ。
私たち一般市民は、裁判官に水戸黄門や遠山の金さんを求め過ぎている。
なぜ、私たちは、裁判官に水戸黄門や遠山の金さんを求め過ぎるのか。
はたまた、なぜ、そこまでして、一人でも多くの真犯人、罪人を世に出し、懲らしめたいのか。
私は、主因として四つの理由を着想した。
一つ目は、「火の無い所に煙が立たない」との考えを拡大解釈する嫌いがあるから、だ。
私たち日本人は、「そういうことなら、こちらも出る所に出るぞ!」と言って、「問題が大ごとになるのは回避して当然だ」との共通認識と習性を幼い頃から植えつけられており、問題が大ごとになるのを回避せず、煙を立ててしまった人に大なり小なり非を(→潔白の不完全さを)窺う嫌いがある。
然るに、裁判に訴えられた人につい、「裁判沙汰という大ごとに至ったのには、その人に何らか非があるからであり、裁判官足る者、その非を明らかにし、かつ、咎めるべきだ」と、考えが及んでしまうのではないか。
二つ目は、自己肯定への正しい努力を怠り、他者を貶めることに注力する嫌いがあるから、だ。
そもそも、自己肯定は「自分事(⇔他人事)」の極みだ。
人は、自分を肯定せずには生きられず、どうにかして自分の考え、行い、存在が社会的に有意だと思おうとするが、その為に、それらをブラッシュアップするのではなく、それらが低位な人を見つけ、「比べれば自分はマシor捨てたものではない」と安直に自覚したがる嫌いがある。
然るに、裁判沙汰になる人はその時点で社会的に有意ではなく、裁判官足る者、「罪人」として公的に認定すべきであり、またそうすれば、自分は少しでも救われる、と考えが及んでしまうのではないか。
三つ目は、自己肯定ができない余り、他者を否定する嫌いがあるから、だ。
勿論、これは二つ目の事項に起因するが、人は自己肯定ができないと、もっと簡単に言えば、自分に自信が持てないと、不確実な他者を怪訝視、或いは、危険視し、所属する社会、コミュニティからの排除を求める嫌いがある。
然るに、裁判沙汰になるような人は不確実性が高く、裁判官足る者、彼(彼女)を留置場に隔離し、社会に危害が及ぼされるのを事前に回避すべきだ、と考えが及んでしまうのではないか。
四つ目は、不明極まりない世の中ゆえ、裁判に正解を求める嫌いがあるから、だ。
私たち日本人は、正解を「自ら創る」のではなく、親、教師、上司などの上位者や権威者から「与えられる」ものとして幼い頃から躾けられており、正解が与えられない状態が精神的に耐えられない。
然るに、権威者の最たるである裁判官足る者、必ず真相を明らかにし、誰かしらを真犯人に仕立てて然るべきであり、またさもなくば、収まりが付かない、と考えが及んでしまうのではないか。
こうして見ると、たしかに、司法は、法的には社会の他の全てから独立しているが、社会に存在する以上、私たち国民の習性や多数意見、或いは、時代の流れや空気といったモノから完全には逃れられず、相応に従う必要があるのではないか。
なぜなら、そう考えると、真犯人の類ではないが、ライブドア事件やブルドックソース事件の判決はある意味「国益の担保」と解釈でき、合点がいくからだ。
しばしば、政治は「民度を超えない」、映画や広告は「時代を写す鏡」と言われるが、冤罪を絶やさない司法も同様ではないか。
2014年06月10日
【野球】「野球の本当のこと、ぜんぶ話そう!」工藤公康さん
P15
野球におけるメカニックとは何か?
メカニックをひと言で表現すれば、「人間が体を動かすための法則(あるいは装置)」となるでしょうか。さらに簡潔に説明するとなれば、機械式時計の構造を想像していただけると分かりやすいかと思います。
ムーブメントと呼ばれる時計を動かす装置には、小さなものから大きなものまで様々なネジが組み込まれています。それら一つひとつが円滑に回らなければ秒針が狂います。秒針が狂えば分針も狂う。分針が狂えば時針も狂う。つまり、その時計は正確に時を刻むことはなくなってしまいます。
野球選手(人間)も同じように、様々な骨や筋肉、関節が動いて、様々な動作をします。それら身体のパーツの一つひとつのつながりをメカニックと呼びます。小さなメカニックが組み合わさって、全体の大きなメカニックになり、身体が一連の動作をするわけです。
そして、その一つの小さなメカニックに狂いが生じてしまえば、歯車のひとつが回らなくなって時計が狂ってしまうように、最終的には故障に結びつき、思うようにボールを投げられなくなり、バットを振ることだってできなくなります。
P43
「コントロールが悪いから」とフォームを改造してはいけない
プロ野球の世界にも制球力に悩んでいる投手は数多くいます。そのため、フォームをそれまでのオーバースローからサイドスローに変更するケースも珍しくありません。しかし実際は、コントロールが悪いのは、投球をする際の動きが正確にできていないからなのです。現時点での体の使い方、メカニックがその投手に合っていないのであればフォームを変えるのは構いません。しかし、「コントロールが悪いから」という理由だけでフォームを変えても、はっきり申し上げて意味がありません。
野球界には、なぜか「サイドスローにするとコントロールが良くなる」という認識が少なからずまとわりついています。
確かに成功した投手はいます。その代表格は、巨人の投手コーチを務めていた齋藤雅樹君です。彼は、入団1年目にオーバースローからサイドスローに転向し、2度の20勝を含め通算180勝を記録しました。ですが、齋藤君以外にすぐに思い浮かぶ選手はいますか?野球に詳しい専門家以外、そうそう名前は出てこないでしょう。投球フォームを極端に変えて成功する例は、100人や1000人にひとりくらい。それだけの冒険なのです。
サイドスローに転向したい、という気持ちは分かります。事実、横投げというのは最も楽に投げられるフォームですから、選手はすぐに順応できたような錯覚に陥ってしまうのです。でも実際は、腕の位置が横になるとどうしても体との距離が離れてしまうのでボールが抜けてしまったり、コントロールがさらに悪くなったりという現象を招いてしまう恐れがある。極端に言ってしまえば、ダーツをサイドスローで投げているのと同じ。それで的の中心を狙える人などいません。
(中略)
正直、プロも含め野球界全体でも、「オーバースローでダメなら」といった消去法の捉え方でサイドスローへの転向を促している風潮がありますが、それだけはしないほうがいい。制球力がない理由は他にもたくさんあるはず。まずは、そこを冷静に見極めてからでも、投球フォームの変更は遅くありません。
P45
周りがダメといっても本人にはベストなメカニックもある
メカニックとは100人いれば100通りある、ということはこの章で様々な観点から説明してきました。繰り返すようですが、「上半身のメカニックが良くなったから制球力が高まった、ストレートが速くなった」ということは一概には言い切れません。逆に言えば、下半身の体の使い方が悪くてもリリースポイントが安定している場合もありますし、筋出力が高いから速いボールを投げられることもあります。
(中略)
繰り返すようですが、メカニックには人それぞれの答えがあります。
自動車でいえば、車体が軽い(体が小さい)のに大きなエンジン(筋肉)をつけても出せるスピード(球速)には限界がある。そこには車体の重さ(身長や体重)がなければならない。ならば、サスペンション(関節やインナーマッスル)を強化すればいいのか?メカニックというのは、体の様々な部分の動作が組み合わさって成り立つもの。だからといって、それが100点満点の答えなのかといったら本人にも分からない。それだけメカニックは解明できない部分がたくさんある。だからこそ理解するのは難しいですが、それを懸命に学び、実践していく。そうすれば、いつか必ず、自分にとっての答えを導き出せるはずです。
P109
全てにおいて「正しいフォーム」というのは存在しない
プロ野球選手とはどういうものか?それは、「自分が何をしなければならないのか」、「どうありたいのか」ということを知り、そのために厳しい練習に耐えなければならない存在です。
それと同時に、自分の特性というものをいち早く理解し、形にしていかなければならないのです。
投球フォームでいえば、自分にとって理想の可動域や体の使い方を固めることができたからそれでいいのか?といったら一概にそうとは言い切れません。そこから、他人が認めてくれるようにパフォーマンスが求められるわけです。
(中略)
はっきり言って、「ここが良ければメカニックがいい」という判断基準はありませんし、「10年かけて作っていけば完成する」というものでもない。僕自身、プロ1年目のときはメカニックのことを全く分かりませんでしたし、30、40歳になっても、「完璧だ。もう修正するところはない」と感じたことすらありません。
それは、人間の体は変わるからです。
スポーツの世界は、職人の世界にたとえられるように20代は隅々にまで目を配れたが技術と知識が足りなかった。40代になったらそれらは身についたが、今度は体力が落ち、視力も低下していったことで細部にまで目を配るとものすごく疲労がたまるようになった。そこでまた自分を見つめ直し、効果的にかつ正確に仕事をするために思案する。物事に、完璧な答えはないと思います。
私は経営コンサルタントという仕事柄、経営者に他社の成功事例、所謂「ベストプラクティス」を訊かれる(求められる)ことが多いが、ある時から即応するのをやめた。
主因は二つある。
一つは「最適解と即断、誤解させる怖れがあるから」で、もう一つは「思考停止(を助長)させる怖れがあるから」だ。
たしかに、私の例示するベストプラクティスがその会社のベストプラクティスに成る可能性はゼロではなく、経営者の求めに即応しない経営コンサルタントの私は「経営コンサルタント失格」と言えなくもない。
しかし、ビジネスは情報、知識だけで勝てるほど、簡単ではない。
仮に、その会社が今同じ問題(=経営課題)に対峙しているとしても、その会社の外部環境と内部環境がベストプラクティスの会社のそれと同じであるはずはなく、他社のベストプラクティスがそのまま自社のベストプラクティスになることは基本あり得ない。
これは、ビジネスではないが、流行りのあるダイエット法がメタボのあらゆる老若男女を救わないことと同じだ。(笑)
また、厄介なことに、経営コンサルタントにかくなる単純な問い(求め)を躊躇しない経営者の多くは、自社の現状を構造的かつ正確に把握していないばかりか、そもそも自分の頭でモノを考える習性が乏しく、私の即応が彼らのドンブリ経営と思考停止を助長する可能性が高い。
経営コンサルタントの私の本分は、彼らに既存のベストプラクティスを情報(知識)提供することではなく、彼らに自社のベストプラクティスを作る知恵を伝授することだ。
「ベストプラクティスは、探すモノ、訊くモノ、知るモノ、見つけるモノ、真似するモノではなく、変わりゆく己の資質と構造(→工藤さん曰く 『メカニック』)を原理原則と照らし合わせて把握、解明しながら、試行錯誤を絶やさず作り込むモノである」。
私は、著者の工藤公康さんが29年もの間現役であり続けられた理由を改めて思い知ると共に、こう達観した。
やはり、「創造と継続は本質的には変わらない」し、「バッティングは動く」のだ。
2014年06月09日
【経営/人物伝】「ジェフ・ベゾス 果てなき野望」ジェフ・ベゾスさん(Amazon.com創業者/CEO)
P50
モノを売って儲けているんじゃない
(中略)
6月に入るとレビュー機能が登場する。カファンが週末2日間で完成させたものだ。ペゾスは、ユーザーが書いた書評が他サイトより多くなれば他のオンライン書店に流れる顧客が減り、アマゾン・ドット・コムのプラスになると考えていた。ただ、ユーザーがなんでも好きに書けるようにすると問題が起きる可能性もあり、その点についてはみんなで検討を重ねた。最終的には、検閲後に公開するのではなく、ひどいレビューがないかチェックする形とした。
(中略)
当然のことながら、否定的なレビューが書かれることもある。のちにペゾスは、講演で、君の仕事は本を売ることであって本にけちを付けることではないと怒りの手紙を出版社の役員からもらったときのことを取りあげこう語った。
「我々はまったく違う見方をしていました。その手紙を読んだ瞬間、『我々はモノを売って儲けているんじゃない。買い物についてお客が判断するとき、その判断を助けることで儲けているんだ』と思いました」
「『商品を売って』儲けるのではなく、『後悔しない最善の買い物になるか、お客が納得して最終判断できる手助けをして』儲ける」。
これはアマゾンに限らず、全ての小売業者、販売業者の本質、かつ、根源価値であって然るべきだ。
お客さまは詰まる所、モノが欲しいのではなく、モノを買って勝ち得る肯定的な心情変化が欲しいのだ。
モノの売り手は、その心情変化に責任を持つのが本分であり、それに見合った報酬をお客さまから利益として授受すべきなのだ。
P234
ピザ2枚チームで対処せよ
1990年代末の管理職研修で、中間管理職のチームが経営陣に対し、大組織につきものの問題についてプレゼンテーションをしたことがある。さまざまな部門の調整が難しいという問題をなんとかしたいと考えた彼らは、部門間の対話を推進する仕組みをいろいろと提案して胸を張った。ジェフ・ペゾスが口を開く。顔は真っ赤で青筋が立っていた。
「言いたいことはわかるが、それは大まちがいだ。コミュニケーションは機能不全の印なんだ。緊密で有機的につながる仕事ができていないから、関係者のコミュニケーションが必要になる。部門間のコミュニケーションを増やす方法ではなく、減らす方法を探すべきだ」
(中略)
この会議でも、また、その後の各種講演でも、ペゾスは、分散・分権と自律的な意思決定を中心にアマゾンを経営するのだと力説する。
「ヒエラルキー型の組織では、変化に対応しきれません。いまもときどき、ほかの人になにかをしてもらおうとするのですが、それがうまく行くようなら、望んだような会社になっていないのかもしれません」
ちょっとわかりにくいかもしれないが、ペゾスが言いたいのは、「関係者の調整は時間の無駄である。問題解決に一番適しているのは問題に直面している人々だ」ということである。
(中略)
ペゾスらスタートアップ創業者は、テクノロジー界の先達から教訓を学んだ。マイクロソフトは中間管理職が何層も重なる上意下達の経営スタイルを採用した結果、意思決定は遅くなり、イノベーションは生まれにくくなってしまった。ワシントン湖対岸にいるソフトウェア界の巨人がそういう状況だというのは、アマゾン経営陣にとって、なにを避けるべきかを示すネオンサインがあるようなものだった。
コストを削減するため、中間管理職を増やせなかったという面もある。2000年に株式市場が暴落したあと、アマゾンはレイオフを2回行った。だが、ペゾスは採用をやめたくなかった。もっと上手に採用したいと考えたのだ。だから、採用条件をわかりやすい言葉で表現した。会社の実績を直接的に高める人でなければならない、と。欲しいのはエンジニアや開発者、場合によってはバイヤーなど実働部隊となる人で管理者はいらないというわけだ。
「マイクロソフトのようにプログラムマネジャーばかりの組織にはなりたくない、チームそれぞれに起業家精神を持ってほしいと思ったのです」
こう指摘するシニアバイスプレジデントのニール・ローズマンは、次のような表現も使う。
「自律的な実働部隊はいいが、実働部隊を管理するものはいらない」
「そもそも部門間コミュニケーションは部門間の機能不全の表れであり、増やすことより先ず減らすことを考えるのが筋」とのジェフ・ペゾスさんの考えは成る程であり、示唆に富む。
たしかに、実際(良くできた)工場はラインが有機的に機能しており、担当者間の個別のコミュニケーションを必要としない。
部門間(=オンビジネスでの他者間)のコミュニケーションを増やすなら、その前に先ず、互いが本当に有機的に連携しているか否かを、更には、そもそも互いの職掌と本分、及び、その分担が本当に明確かつ合理的か否かを検証、対処するのが筋だ。
この「部門間のコミュニケーションの(量的、及び、質的)増加」は、経営及び業績のカイゼン施策としてよく採用、実施されるが、周知の通り、明確な成果をもたらすのは稀だ。
なぜか。
それは、ジェフさんが指摘、提唱する「筋」を無視しているからだ。
問題には悉く「筋」があり、それを無視し、表層的に対処するだけでは、根本的かつ持続的には解決し得ないのだ。
ジェフさんのこの指摘、提唱は、物事を合理的かつ構造的に思考する習性、能力の賜物だが、その他にも、物事を歴史的かつ抽象的に思考する習性、能力の賜物でもある。
たとえば、アマゾンがクラウドサービスの先駆けとしてAWS(Amazon Web Services)をリリースした際、ジェフさんが担当責任者の主張、進言を無視し、価格を原価割れの業界ダントツ最低価格に設定したのは、創業来努めてきた自社のコスト構造の低さを頼りに、アップル(のスティーブ・ジョブズさん)がiPhone(=スマートフォン)を高利益商品としてリリースしたが為にレッドオーシャンを招いた二の轍を回避してのことだったと言う。
ジェフさんが兼ね備えているこうした習性、能力には、感心脱帽するほか無い。
だが、ジェフさんに対して私が一番感心脱帽するのは、また、とりわけ日本の企業経営者がまねぶべきは、グーグルやかつてのマイクロソフトにも通じる、徹底した独断的会社経営、即ち、独裁だ。
なぜか。
「ワークライフバランス」などとのたまってハードワークに二の足を踏む人材をシャットアウトしたり、「win-win」などとのたまって取引企業とのタフな交渉を躊躇する人材をこれまたシャットアウトするなど、「顧客第一主義」という自社のビジョンを達成するためには手段を選ばない、傲慢、顰蹙上等なジェフさんの独裁が、ITバブルとその崩壊、並びに、リーマンショックによる世界的不況を経ての、アマゾンのかれこれ20年に渡る持続的な成長、成功を最も支えてきたに違いないからだ。
企業に限らず、集団が成長、成功を果たすには、「達成すべき価値(基準)と目標が特定されたら、リーダーがその為にやるべきことをとっとと決め、全員で四の五の言わずとっととやる」のが最も肝心かつ有効なのだ。
2014年06月06日
【邦画】「男はつらいよ 第31作 旅と女と寅次郎」(1983)
[ひと言感想]
人にはそれぞれ「訳」があり、然るに、道連れがあり難いのでしょう。
寅次郎が美女の気を引けるのは、生粋のフーテンで、「旅は道連れ世は情け」を野暮無く地で行けるからなのでしょう。
フーテンであれ何であれ、人はみな訳と特技の持ち主です。
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人にはそれぞれ「訳」があり、然るに、道連れがあり難いのでしょう。
寅次郎が美女の気を引けるのは、生粋のフーテンで、「旅は道連れ世は情け」を野暮無く地で行けるからなのでしょう。
フーテンであれ何であれ、人はみな訳と特技の持ち主です。
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2014年06月05日
【BSNHK】〔スポーツドキュメンタリー“宿命のライバル対決”「柔道 日本 対 フランス」〕ジャン=フランソワ・ソブレさん
【ナレーション】
その頃、若きダビド・ドゥイエ(五輪2大会金・世界選手権4回優勝)が、フランス柔道界で頭角を現し始めます。
【ダビド・ドゥイエさん】
昔は、稽古合宿に参加して、日本チームとみっちり稽古しても、フランス人は日本人を投げられませんでした。
しかし、私の時代になると互角になり、それはジュニアの選手でも同じでした。
むしろ、ジュニアの力関係で言うと、大げさではなく、今はフランスの方が優位かもしれません。
【ジャン=フランソワ・ソブレさん/フランス国立科学研究センター調査部長】
今に日本の若者は、苦しさに耐えるのではなく、楽しく過ごしたいようです。
日本では、バブル経済以降、快楽主義的な考えが広まり、武道は古いと見なされました。
近い将来、日本文化の中で武道の占める割合は減り、存続の危機に晒されるのではないかと心配になります。
学校では、子どもたちが武道を「古臭い」と嫌がるので、教えることを止めてしまったところもあるそうです。
私は柔道に関しては門外漢だが、こういう話を聞いてしまうとやはり、「教育には嫌悪と強制が欠かせない」と再認識してしまう。
私自身、今日の自分があるのは母親の教育のお陰だが、勿論、とりわけ幼稚園児や小学生の時分はその殆どを嫌悪したものだ。
ピアノをつっかえつっかえ繰り返し練習するより、剣道で人間サンドバックと正座に堪えるより、国語ドリルで毎日読解力を鍛錬されるより、友だちとマンガやテレビに興じる方が余程楽しいに決まっているし、そもそもピアノや剣道や読解力の存在が完全に意味不明だ。
しかし、当時母は、私の嫌悪と、その推進者である自身への「とばっちり」嫌悪の二つの嫌悪を承知、覚悟した上で、これらを私に強制した。
亡き母の性根と肝の強さ、正しさには、感謝と感心以外無い。
そもそも教育とは、対象者に未知の知見を伝授することだ。
「人間は未知の物事を畏怖、嫌悪する」からして、そのプロセスは勿論、プロセスの推進者も嫌悪されて当然だ。
対象者に良かれと思って実施する行為が嫌悪されるばかりか、却って自身も嫌悪されかねない。
これが教育の宿命であり、また、本質だ。
教育は嫌悪と強制が付き物だ。
なぜ、教育は堕落したのか。
主因の一つは、教育の立場に居る者が覚悟を欠き、嫌悪を嫌悪するからではないか。
たしかに、ジジババが孫の嫌悪に手放しで同情したり、マスメディアが生徒の嫌悪を尤もだと騒ぎ立てるのが元凶だが、彼らの本質は無責任だ。
責任の有る人間が責任の無い人間に屈服し、本分を放棄するのは、責任の放棄だ。
責任の放棄を放棄できない人間は、そもそも責任を担うべきでない。
★2012年1月11日放映分
http://www.55fujix.com/blog/2012/02/post-336.html
続きを読む
2014年06月04日
【人生】「自殺」末井昭さん
P263
特に、自殺まで考えている人は書くことがいっぱいあるはずです。自殺することを決意するまでの経過や、考えている自殺の方法や、死ぬことの恐怖や、自分の頭の中にあるものをすべてさらけ出してみることです。自殺となるとただごとではありませんから、きっとみんな注目すると思います。
どんなにつらい状況でも、それを笑えるようになれば、生きていくのがうんと楽になります。
不思議なもので、自分を肯定できると、相手のことも肯定できるようになります。
自己嫌悪から抜け出してからは、美子ちゃんと喧嘩することも少なくなってきました。そして嘘もつかなくなりました。嘘は自分に都合が悪いことを隠すことで、自分が孤立することです。嘘をつかなくなると、晴れ晴れした気持ちになります。
P307
最初に聞いたのは、一番頭に残っていたイエスと性欲のことです。千石(剛賢)さんは、原罪の話は僕らには難しいと思ったのか、イエスに性欲がなかったことを、別の角度から話してくれました。
何かに熱中している場合は性欲は起きない。たとえば野球がクライマックスになっているとき、満塁でこの一球が勝負みたいなときに、キャッチャーがきれいな女の人で股広げていたとしても、そのときピッチャーに性欲は起きないと。まあ、確かにそうです。
精神状態があるところまで高揚したら性欲は起きない、つまり、あのイエスは四六時中おそろしい精神の高揚状態にあった、と千石さんは言うのです。その話を聞いて、十字架に掛かっているの弱々しいイエスのイメージが崩れたのでした。
P316
「愛」という言葉は世の中に氾濫していますが、愛とはなんなのかということは、実は僕もよくわかっていませんでした。「俺がこれだけおまえを愛しているんだから、おまえも俺のことを愛してくれよ」というのは、愛の商取引のようなものです。見返りを求めない、無償の愛というものが本当の愛だと思うのですが、多少のことはできても、「金魚のウンコ」と言われたぐらいで、相手を憎む気持ちに変わったりします。ましてや、相手のために命を投げ出すことなど絶対にできません。しかし聖書には、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15-13)と書かれています。
これを千石さんに解説してもらうと、「友」というのは、単に友達ということではなく、相手の中に自分自身が見え初めている他者のことだ、と言います。自分と他人を(区別ではなく)差別していると、愛というものは生まれない。自分が自分のままで相手を愛そうとしても、すべて偽善になってしまう。だから、他者の中に表れた希薄な自分をもっとはっきりさせるために、生まれつきの自分を二義にしていく、つまり自分を捨てて、他者のことを真剣に考える。そうすることによって、生まれつきの自分は死んで、罪からも解放される、と言うのです。
僕は美子ちゃんを愛していると思っていたのですが、「金魚のウンコ」と言われて、自分のプライドが傷ついてカチンとくるようでは、本当に愛しているとは言えません。僕を愛してくれる美子ちゃんを愛していただけだと思います。それは単なるエゴイズムです。聖書にある「自分を愛するようにあなたの隣の人を愛せよ」(マタイ22-39)というイエスの言葉は、相手を自分と同じように思うことです。
たとえば、大嫌いな人がいたとします。絶対付き合いたくない、自分とは別の人種だと思っていても、実は自分の中の嫌なところをその人に投影しているだけかもしれません。「相手の中に自分自身を見る」ということは、誰もが気づかないうちにしていることではないかと思います。
僕は一時期、「あんなバカと付き合えるか」と思っていたりしていたのですが、そういう傲慢な自意識のせいで孤立して、人はみな孤独なんだと思っていました。しかし、自分がバカだと思うようになってからは、好きになる人がたくさんできて楽しくなりました。
人はそんなに大差ないのに、自分だけは特別だと思うことが、生きづらさを招きます。そう思うことが正しいことだと思い込まされているので、自分の力を信じて、頑張って頑張って頑張り抜いてヘトヘトになっている人も多いと思います。そういう人は孤独です。本当に愛せる人がいないと干からびてしまいます。
相手の中に自分自身を見ることができれば、その人を本当に愛することができます。そして、孤独ではなくなり、ウキウキした気持ちになり、周りにもいい影響を与えます。
愛する人がいればそれで充分です。そのことに真剣になれば、あとのことはいい加減でもいいのではないかと思っています。
末井昭さんが千石剛賢さんから教示されたイエスの教えは、真否は不明だが、主旨に少なからず合点がいった。
たしかに、人は、自分を肯定せずには、即ち、自分の考え、行い、存在が社会的に有意だと思わずには、生きられない。
そして、人は、それらが有意だと自覚、納得するために、凡そ二つのアプローチを取る。
一つは、それらがもたらす成果物や社会的価値を創造、増殖させることであり、もう一つは、自分よりそれらが有意でない(と思われる)人を見つけ、「自分の方がマシだ」とか「自分はまだ捨てたものではない」と自己満足に耽ることだ。
例えるなら、前者は孫正義さんで、後者は合コンに幼なじみやクラスのブスを誘う女子だ。(笑)
誰もが、本当は前者に成りたい。
しかし、当然それは容易でないし、また、努力をすれば必ず成れるものでもない。
よって、多くの人は安直に、或いは、妥協して後者の道を選び、後者に成ってしまうのだが、人生の悲劇はここから始まる。
なぜなら、それは邪道だからだ。
自分より有意でない人が居て初めて自分が有意に成れる、自分を肯定できる、というのは、自分の有意さが「条件付き」の不完全なものと承知せざるを得ない、自分を心底には肯定できない、のと同義だ。
千石さんの教えは、思考習性を再構築しさえすれば誰でも取れる有効なアプローチがあと一つ在ることを示してよう。
先ず自分を、それも、バカな自分を肯定し、そして、そんな自分に通底する「友」を見つけるのだ、と。
誤解を怖れずに言えば、このアプローチの本質はノーガード戦法だろう。(笑)
知れている自分の有意さをかなぐり捨て、「われ以外みな師」状態に成れば、見過ごしていた他者の有意さに敏感に成れるのは勿論、扱き下ろしていた他者の駄目さ、愚かさ、弱さに自分を見、同じ穴のムジナの友として「愛」を持って寛容に成れよう。
人生の悲劇を回避するには、「肉を切って骨を断つ」ノーガード戦法こそ正道であり、結局、遠いようで近いのだろう。
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2014年06月03日
【第85期棋聖戦/第一局】羽生棋聖、難局の緒戦を森内挑戦者の疑問手で間一髪制する
[ひと言感想]
本局は終盤まで形勢不明でしたが、86手目の羽生善治棋聖の「踏み込んだ」△8八角に対する、森内俊之挑戦者が△7六金や△5九玉より優ると考えた△8六金が、結果的に羽生棋聖に勝利をもたらしたようです。
好手の好手は悪手なのかもしれません。
★2014年6月2日催行
http://live.shogi.or.jp/kisei/
http://kifulog.shogi.or.jp/kisei/85_01/
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本局は終盤まで形勢不明でしたが、86手目の羽生善治棋聖の「踏み込んだ」△8八角に対する、森内俊之挑戦者が△7六金や△5九玉より優ると考えた△8六金が、結果的に羽生棋聖に勝利をもたらしたようです。
好手の好手は悪手なのかもしれません。
★2014年6月2日催行
http://live.shogi.or.jp/kisei/
http://kifulog.shogi.or.jp/kisei/85_01/
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2014年06月02日
【営業】「営業は断られた時から始まる」E・G・レターマンさん
P139
10 惰性を克服しなさい
営業の敵は、競争ではなく惰性である。
見込客を顧客に変えるのはセールスマンの仕事であるが、その中でもっとも重要な仕事は、まず「動作」が存在しないところに「動作」を促し、その促された動作がよい方向に向いた時に、力を与えることであると、私はいいたい。
(中略)
静止中の物体が動きだすには、エネルギーが必要である、と科学は教えている。ある一定の進路を進行中の物体が、その進路を変えるにも、またエネルギーを必要とする。言葉を換えていうと、静止中の物体は、そのまま静止を続けようとする傾向があり、また一定の方向に向かって進行中の物体は、そのまま進行を続けようとする傾向がある。この傾向を惰性という。
また活動力のないものに活動力を与えるには、比較的大きな力が必要であることをわれわれは知っている。この自明の単純な原理を、セールスマンと顧客との日常関係にどのように応用したらよいか考えてみよう。
営業の仕事でもっともおろそかにできない敵は、競争ではなく惰性である。競争は大切である。なんといっても、営業戦線上、身近にいる敵は惰性である。この敵は二つに区分できる。すなわちセールスマン自身が惰性のとりこになっているか、あるいは顧客がますます惰性のとりこになっていくのに、セールスマンが手をこまねていて傍観しているかのいずれかである。
(中略)
名選手ハンク・グリーンバーグが放った一言
(中略)
営業の面談中に、話が行き詰まって、一見どうにもならない羽目に陥る場合がある。よく検討してみると、事実、その困難は表面だけにすぎないのだが、話がいったん停頓すると、話を戻して軌道に乗せるのがむずかしくなる。とかく、こうした状態は、成約が間近に迫っている際に起こりやすい。
(中略)
いまさら、野球選手としてハンクの技量をうんぬんする必要はなかったが、年俸の点で、ハンクとしては希望を述べ、承諾を得るために交渉しなければならなかったわけである。だが、この点で双方の話に食い違いが起こり、交渉は一時暗礁に乗り上げた形となった。
(中略)
この時交渉を有利に転換させようと思った(デトロイト・タイガースの社長のウォルター・O)ブリッグスは、何気ないふうを装って、ハンクの年齢をたずねた。すると、ハンクは「26です」と答えた。
「26歳だって?」ブリッグスは、あたかも自分の耳を疑ったかのような振りをして、「ほう、ずいぶんお若いじゃありませんか。私があなたの歳には、週給20ドルしかもらっていませんでしたよ・・・」といった。
すると、ハンクはすかさず、「そうでしょう。でも、ブリッグスさん、私はあなたの歳になった時、週給20ドルもらえたら幸福だといわねばなりません。ですから、現在私にふさわしい収入が欲しいのです」といった。
このハンクの言葉の中には、ユーモアというよりも、むしろ識見とでもいうべきものが含まれている。一つのきっかけを、彼は巧みに利用した。そして、先方の話をかわして、たちまち自分にとって有利な情勢をつくったのである。しかし、それよりもさらに重要なのは、この言葉によって、彼は商談の惰性に終止符を打ったことである。ブリッグスとの話は行き詰まっていた。だが、交渉を進行させる糸口を切り開いたのである。小さな爆発ーー心機一転させる言葉の爆弾ーーが長引いた交渉を打ちきるうえにぜひ必要だった。二人のあいだの交渉も、当事者双方ともに惰性にかかっていたからである。
私は二つの考えを持って仕事をしている。この考え方は、一見矛盾したようにみられやすい。すなわち、その一つは、人間がなにかある行動をとるには、そうさせる他からの援助を必要とするということである。もう一つは、人間はだれでも、元来、率先してやったのだと思いたがることである。この二つの要素は、なにかを売り込む場合でも存在する。したがって、これに処していくには、積極性に富み、明敏な人物を必要とするわけである。
たしかに、一旦腰を下ろすと改めて立つのが非常に億劫になるように、人は惰性の虜に成り易い。
E・G・レターマンさんは、「営業マン足る者、賢明な他者として、お客に適切なインセンティブを与え、惰性から解放し、購入に関する動作を援助して然るべきであるが、あくまで援助に留め、意思決定の功についてはお客に花を持たせなければいけない」と考え、日々の営業に励まれていたようだが、とりわけ後者のお考えは尤もだ。
営業は、お客さまを合理的に屈服させる試み、営みではなく、知見、先見の明、主体性の「捨てたものでは無さ」をお客さまに再発見、再認識していただく試み、営みなのだ。
P182
商談とは、堅い理詰めの話と、セールスマンに対する信用、セールスマンが代表する会社、商品、商標に対する信頼の念などがいっしょに組み合わされ、築きあげられて促進されるものである。理路整然とした説明を行い、セールスマンの立場を高めて、商談が運ぶのである。
しかし、理論だけでは十分とはいえない。感情は行動を促すが、理論はただ思想を刺激するだけだという考えをもって、私は常に行動してきた。財布の底をはたかせるには、感情に訴えることが必要である。なにか新しいものを所有する楽しさ、喜びは、惜しいと思う気持ちーーたとえ気前のよい人、金使いの荒い人でも、いざ小切手にサインする時か、苦労して貯めた現金や財産を手放す時に心に浮かぶ「惜しい」と思う感情より大きくなければならない。
要するに、相手の胸と心に強く訴えることである。これが長年営業の道を歩んできた私の体験から生まれたモットーの一つである。また、話はできるかぎり、愛する女性、可愛い子供の幸福と結びつけて、買い手の心に強く訴えねばならない。
「行動を促すのは理論ではなく感情であり、理論が果たすのは思想の刺激だけ」とのお考えも尤もだ。
たしかに、社長が話の上手い講師を研修会に呼び、良くできた話を何遍、何話社員に聞かせようと、それだけでは彼らの仕事ぶり、思考態度は変わらず、社内改革は見込めないが、その折、社長が現状に対する危機感を自分の言葉で切々と彼らに説き、かつ、社内改革への不追従を然るべき業績評価システムで合理的に咎める旨宣言すれば、彼らの仕事ぶり、思考態度は変わる可能性が高い。
この考えは正に普遍だ。
実際、将棋には「負けて強くなる」という言葉もあり、「負け」という合理的な結果(←将棋は完全情報ゲームであり、結果の帰趨は常に合理的)より遥かに、「負かされた・・・」という否定的な感情が精進を促し、棋力を向上させる。
本年の小学生将棋名人戦では、準決勝で惜敗した岡本詢也君が山田朋生アナから感想を訊かれ、言葉を発せず泣いていた。
岡本君にとって当時の涙と無念は、船江恒平五段の講評より遥かに精進の原動力に成るに違いない。
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