2013年07月
2013年07月19日
2013年07月17日
【F1】「F1全戦取材」尾張正博さん
P177
(ベルギー)グランプリ期間中、そこは仮設スタンドがあり、そのスタンドとフェンスとのあいだにカメラマンたちの撮影用のエリアが設けられている。2012年のベルギーGPで私は決勝レースのスタートをその1コーナーのアウト側から取材することにした。小林可夢偉がフロントローからスタートするからである。ところが、スタート直後にロマン・グロージャンがルイス・ハミルトンと接触。コントロールを失った2台は絡み合うようにして1コーナーへなだれ込み、セルジオ・ペレス、フェルナンド・アロンソ、小林可夢偉のマシンと次々に衝突していった。
このクラッシュを1コーナーで見ていた私にとって、もっとも印象に残っているのはハミルトンが事故の直後にとった行動だった。ランオフエリアに止まったハミルトンはコクピットを降りると、右手の人差し指を自分のヘルメットの横にあて、「お前、頭がイカレているんじゃないのか?!」とでも言うような感じで、グロージャンのほうへ歩き出したのである。
もちろん、事故の発端はグロージャンの幅寄せである。しかも、グロージャンのスタート直後のクラッシュはそれが初めてではないから、ハミルトンが「またか!」とキレる気持ちもわかる。しかし、もっとも怒りたいはずのフェルナンド・アロンソがゆっくりとコクピットを降りたのとはあまりにも対照的で、少し違和感を覚えた。そして、あの日のことを思い出した。それは1998年のミハエル・シューマッハがとった行動である。ウェットレースでトップを走行していたシューマッハは、周回遅れのデビッド・クルサードに追突し、フロントサスペンションを失ってピットインしたもののリタイア。ガレージにマシンを止めたシューマッハは、コクピットを降りると鬼のような形相でクルサードがいるピットガレージへ歩いていき、「おまえ、オレを殺す気か!」と叫んだという。
ハミルトンにしても、あの時点でグロージャンに何が起きていたのか完全に把握していないはず。なぜなら、ハミルトンにとってグロージャンのさらに左側は死角になっていて、グロージャンもだれかに幅寄せされていたのかもしれないからである(事実は、そうではないが)。にもかかわらず、ハミルトンは犯人はグロージャン1人だと決めつけた、怒りというのは、自分に非がないという過信によって生まれる。あるいは自分には非がないということを第三者に知らしめるための行為だとも言われる。
過日、女優の真木よう子さんが出演したトーク番組(「ぼくらの時代」)を見た。
真木さんは、幼くして演技に目覚め、理解ある母堂のもと中学卒業と同時に役者になった、という。
しかし、当初は、オーディションに落ちてばかりで、その度「(自分が選ばれ、)自分が(その役を)演じた方が絶対良かったはずだ」と思った、という。
そして、真木さんの当時のその思いを、同席の大森立嗣さんが以下の旨「根拠の無い自信」と評したのだが、これが成る程だった。
「最初は誰しも実績という根拠が無いからして、そういう『根拠の無い自信』は当然。
モノになる人は皆最初、『根拠の無い自信』を持っているし、また、持っていて然るべき」。
厳密に言えば、大森さんが言う「根拠の無い自信」というのはあり得ない。
なぜなら、「自信」とは、読んで字の如く、「自分を信じる」ということであり、それには根拠が要るからだ。
大森さんの言う「根拠の無い自信」とは、正確に言えば、「実績の無い自信」だ。
しかし、大森さんが仰るように、いかに後年モノになろうと、いかなる人も最初は無実績だ。
では、真木さんを含め、後年モノになった人々は、最初の無実績な時分、何を根拠に自信を持つのか。
最たるの一つは「対象事項に対する本気さ」ではないか。
そして、誰しも、技術の何たるかやその高低を正確に理解するには相応の時間が要るが、人が自分を本当に愛しているか否かを正確に理解するのに時間が要らない様に(笑)、人の「対象事項に対する本気さ」を正確に理解するには時間は要らない。
当時の真木さんは、演技力の何たるかやその高低は正確には理解していなかったが、オーディションで合格した人の「演技/配役に対する本気さ」は自分より劣っていると正確に理解できたのではないか。
また、だからこそ、先述の思いを、否、「悔しさ」と「怒り」を抱いたのではないか。
もっと言えば、自信の根拠は、詰る所、この「対象事項に対する本気さ」に収斂されるのではないか。
なぜなら、三割打者がノーアウト二塁でヒットを打つとは限らない様に、実績を獲得して「有根拠」になっても、それはあくまで過去のことであり、これからの実績を約束しないからだ。
「他の誰よりも、対象事項に本気であること」。
つまり、逆説的な話になるが、この「『根拠の無い自信』の根拠」こそが、「『自信』の根拠の根幹」になるのではないか。
また、だからこそ、誰しも、この「対象事項に対する本気さ」を不合理に咎められると、この上ない「悔しさ」と「怒り」を抱くのではないか。
よって、筆者の尾張さんの「怒り」論は尤もだ。
本書が露わにしたF1ドライバーの、「勝利」と「自分のドライビング」への純粋過ぎる執念を鑑みるに、彼らが自己正当化と過信の奴隷に成るのは自然だ。
「怒り」を忘れた人間は、「本気」を失った人間だ。
2013年07月13日
2013年07月10日
2013年07月06日
【邦画】「黒い十人の女」(1961)
〔ひと言感想〕
「誰にでも優しいってことは、誰にも優しくないってことよ」。
要するに、「誠実と不実」も「律儀と軽薄」も紙一重、ということでしょうか。
ともあれ、「善意の不実」は、機能が選好される現代社会において、タチが悪いばかりか、命取りになりかねず、要注意です。
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「誰にでも優しいってことは、誰にも優しくないってことよ」。
要するに、「誠実と不実」も「律儀と軽薄」も紙一重、ということでしょうか。
ともあれ、「善意の不実」は、機能が選好される現代社会において、タチが悪いばかりか、命取りになりかねず、要注意です。
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2013年07月05日
2013年07月03日
【邦画】「喜劇 女は度胸」(1969)
〔ひと言感想〕
とりわけ、「つね」こと清川虹子さんの名演に感動しました。
たしかに、女の方が、男より何倍も度胸があり、賢いのです。
また、だからこそ、男が悉く女々しい(→女性は「女々しい」とは言われない)ながらも、社会は成り立っているのです。
普段押し黙っている女性ほど、有り難いものはありません。
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とりわけ、「つね」こと清川虹子さんの名演に感動しました。
たしかに、女の方が、男より何倍も度胸があり、賢いのです。
また、だからこそ、男が悉く女々しい(→女性は「女々しい」とは言われない)ながらも、社会は成り立っているのです。
普段押し黙っている女性ほど、有り難いものはありません。
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