2013年06月
2013年06月27日
【ノンフィクション】「キャパの十字架」沢木耕太郎さん
P296
やがて、あの「崩れ落ちる兵士」の写真は、〈ライフ〉に再掲載されることで世界的に有名になっていく。
このときのクレジットは「ロバート・キャパ」である。
キャパは、「崩れ落ちる兵士」の反響の大きさの前に、口をつぐむようになる。別にそれは演習中の出来事で、ただ兵士が足を滑らせたところを撮っただけのものだったなどと、訂正する必要はないだろう、と。ましてや、撮ったのは自分ではなく、(恋人の)ゲルダだったなどということは。
撮ったときが二十二歳、〈ライフ〉に載ったときでさえまだ二十三歳だったのだ。名声を欲している無名のカメラマンにとって、事実を明らかにすることは何の益もないことだった。
もちろん、それは単に自分の名声のためだけのことではなかっただろう。
その写真は、スペインで戦いが続いているあいだは共和国のためのプロパガンダとして、戦いが終わってからは存在しなくなった共和国への哀惜の念をもたらすものとして機能するようになる。わざわざそれを無にするようなことを公にする必要はないはずだ。キャパがそう考えたとしても不思議ではない。
(中略)
いずれにしても、キャパはこの「崩れ落ちる兵士」の一枚で、無名のアンドレ・フリードマンから、世界的に有名なロバート・キャパになることができた。アメリカの週刊誌〈タイム〉は「世界の偉大な写真家のひとり」と書き、イギリスの代表的な写真週刊誌〈ピクチャー・ポスト〉は「世界で最高の戦争写真家」と呼ぶようになる。「崩れ落ちる兵士」の写真は、アンドレ・フリードマンからロバート・キャパになるための必須の一枚だったと言える。
しかし、彼はまた、それによって大きな十字架を背負うことになったのではないかと思われる。その出発の時点からフォト・ジャーナリズムの伝説の中に生きることになったキャパは、心中ひそかに、少なくともこの「崩れ落ちる兵士」に匹敵するものを一度は撮らなくてはならないと考えるようになったに違いないからだ。
あるいは、それ以降の何年かは、その伝説に実体が追いつくために必要な年月であったかもしれない、と私は思う。
(中略)
このキャパの二十代は、カメラマンとして目覚しい成長を遂げた八年間だと言える。
スペイン戦争においても、すでに何枚もの傑作を撮っている。バルセロナの難民移送センターで、荷物に体を預け、遠い目をしている少女。国際旅団の解散式で、固く唇を結んだまま、前方を見つめている義勇兵の男。さらに、日中戦争下の中国に赴き、漢口で撮った「うずくまる中国人女性」の一枚は、全生涯を通じての傑作と言ってよい作品である。
「アンドレ・フリードマンは、傑作「崩れ落ちる兵士」を世に出し、一躍写真家として名声を得た。
しかし、作品が作品だけに贋作やまぐれの疑念が絶えず、彼はそれを晴らす『十字架』を背負った。
だが、その十字架は、彼にとって全くの艱難辛苦ではなかった。
その十字架は、彼に不断の最善努力と高次追求を強いたが、その過程で新たな傑作を恵んだのだ」。
なぜ、アンドレ・フリードマンさんは名写真家ロバート・キャパとして今日まで称されるのか。
沢木耕太郎さんは、このように主因を「十字架」と考えた。
たしかに、写真に限らず、傑作の恵みは凡そ高次追求の過程に在る。
フリードマンさんが件の十字架を背負い、絶えず高次追求せざるを得ない状況に追い込まれたのは、新たな傑作を創るには、また、人間としての本懐を遂げるには、却って好都合であったに違いない。
生きることは、恥をかき、他者に迷惑をかけることだ。
人間誰しも、相応の年月生きていれば、他者にかけた迷惑の内、取り返しがつかないそれが確実に在る。
ちなみに、私の場合、その一つは「親不孝」であり、8年前から行なっている、「catalyst(キャタリスト)」として個人と社会の満足の最大化を支援する事業は、この十字架への贖罪が少なくない。
本事業が傑作を創っているか否か、はたまた、この十字架を背に私が本懐を遂げているか否かはさておき(笑)、この十字架は明らかに、私の人生の「推進のエンジン」と「挫折の妨げ」になっている。
望むと望まざると背負った十字架は、ただひざまずくのではなく、人生に好都合に働かせて然るべきだ。
2013年06月25日
2013年06月22日
2013年06月17日
【BSTBS】「グリーンの教え」脇阪寿一さん
【石川次郎さん】
やっぱり、そんなにやっぱり勝負事が好きなんですか。
【脇阪寿一さん】
好きかもしれないですね。
「勝負事をしながら相手を見る」のが好きかもしれませんね。
【石川さん】
成る程。
勝負を通じて、ね。
【脇阪さん】
はい。
「勝った、負けた」には、時の運であるとか、色んな要素があるんですけど、「勝つ可能性を上げる努力」であるとか、「負ける可能性を下げる準備」をどれだけ彼らが、僕ができているかっていう所でお互いのレベルを見合いている所があって、それはもう間違いなく、僕の一般の、普通の生活の時にも役立ちますし、何よりもレースの苦しい時であるとか、そういう時の所謂メンタルトレーニングになるのがゴルフなんですね。
勝負事が過酷なのは周知だが、それはなぜか。
一つは、公平と無縁で、容赦無いからだ。
そもそも人間の資質が十人十色であるからして、同条件での勝負事はあり得ず、その進捗は正に容赦無い。
とは言え、勝負事から逃げ過ぎると、自分の本領を発揮できなくなるばかりか、折角の人生を棒に振る怖れがある。
なぜなら、私たち人間が、勝負事以上に自我(存在意義)とその成長を実感できる機会は、そう無いからだ。
将棋の島朗九段によれば、佐藤康光九段は「将棋に負けることが、誰に言われるよりも何より自分が叱られている気がする」(※「島研ノート/心の鍛え方」P61)と仰っている。
私たちは、然るべき勝負事には真摯に向き合うべきだ。
では、私たちは、然るべき勝負事といかに向き合うべきか。
よく史上最強棋士の羽生善治さんは「プロセスを楽しむこと」を挙げられるが、脇阪寿一さんが仰った「勝利に対する相手と自分の最善努力と気概を品定めすること」はその有意な派生であることに加え、なぜプロフェッショナルにはライバルだけでなく戦友も必ず居るのかを説明しており、大いに頷ける。
プロフェッショナルは、勝負事と折り合いをつける達人に違いない。
★2013年6月16日放送分
http://www.bs-tbs.co.jp/green/bn165.html
2013年06月14日
2013年06月10日
【洋画】「クラッシュ/Crash」(2005)
〔ひと言感想〕
アメリカに限らず、現代社会は不毛なクラッシュが絶えず、「勝者無き消耗戦」真っ盛りです。
主因は私たちの、過剰な自己愛と自尊心に基づく嫉妬、ひがみ、被害妄想であり、「思いのすれ違い(←ボタンの掛け違え)の悲劇」と言えそうです。
私たちはもっと、隣人を信じ、愛する必要があります。
アメリカに限らず、現代社会は不毛なクラッシュが絶えず、「勝者無き消耗戦」真っ盛りです。
主因は私たちの、過剰な自己愛と自尊心に基づく嫉妬、ひがみ、被害妄想であり、「思いのすれ違い(←ボタンの掛け違え)の悲劇」と言えそうです。
私たちはもっと、隣人を信じ、愛する必要があります。
2013年06月08日
【自戦記】「奨励会熱戦将棋/三段リーグ[第1譜▲渡辺愛生三段△竹内雄悟三段]霧の中の頂上」竹内雄悟さん
25歳。三段リーグ。
そこには、頂上の見えない霧がかかった壁があった。
登っても登っても、何度も出発点に落とされる。
上を見てもゴールは見えない。
戦場に突如放り込まれ、自分の体で学べと言われているような、感覚さえ覚えた。
さまざまな人間の弱さを知り、自分と真っ直ぐ向き合い、現実をしっかり見つめることの大切さを学んだ。
奨励会は将棋棋士(プロ)の養成機関であり、その最終関門が三段リーグだ。
三段リーグは、四段昇段人数が僅少な上、在籍期間が年齢で限られるため、凄絶な星の潰し合いが常態化し、しばしば「地獄」と表される。
在籍者からすると、一局一局が、地獄から這い出る蜘蛛の糸に違いない。
竹内雄悟新四段のこの述懐は、三段リーグ在籍時の地獄の辛苦が克明に表されている。
私は、この述懐を読み感動したが、同時に、なぜ棋士が、もとい、プロフェッショナルが逆境に、否、自分自身に負けないのか、改めて分かった気がした。
真の強さは、「ゴール」、否、「光」の見えない切迫地獄を耐え抜いた褒賞なのだ。
晴れて棋士になった竹内新四段の活躍を期待したい。
★2013年6月6日付毎日新聞夕刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/
2013年06月07日
【NHK】「あさイチ」有働由美子さん、トム・クルーズさん、オルガ・キュリレンコさん
【有働由美子さん(アナウンサー)】
今回の映画(「オブリビオン」)でジャックを見ていると、愛が「感情」なのか「記憶」なのかどっちなんだろうって考えさせられたんですけど、40才で独身の女性(=自分)から見ると、愛は「記憶」ですね。
過去の色んな記憶を比べて、「やっぱりアッチの方が良かったなあ」と思ったりするんですけど、どっちなんですかねえ?
【トム・クルーズさん】
愛は現実のはず。
だから、記憶だとは限らない。
人それぞれが選択すること。
【オルガ・キュリレンコさん】
私は記憶があるから愛が成り立つと思う。
「愛は『感情』と『記憶』のどちらか?」。
有働由美子アナのこの問いは興味深い。
不肖私は、有働アナの「記憶」との答えに同意し、トム・クルーズさんの「現実」との答えにも同意したが、オルガ・キュリレンコさんの「『記憶』が成立要件」との答えには共感した。
たしかに、愛は、現在形ないし現在進行形であって然るべきだが、その文法および文脈は、誇るべき過去とその記憶があって初めて成立する。
愛は、人間が自らの存在意義を確認する最たるだが、その性質上、不断の揺らぎを免れない。
記憶とは、存在意義の不断かつ終生の脅威に抗う、人間独自の安全装置かもしれない。
★2013年6月7日放送分
http://www1.nhk.or.jp/asaichi/2013/06/07/02.html
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2013年06月06日
【洋画】「マイ・ブルーベリー・ナイツ/My Blueberry Nights」(2007)
〔ひと言感想〕
主演の歌手のノラ・ジョーンズさんは、予想外に好演でした。
ともあれ、恋愛も真理も「食べ頃」があり、すぐに突き詰めず、一旦寝かせた方が実りが多そうです。
果実は、自助と熟成の恵みです。
続きを読む
主演の歌手のノラ・ジョーンズさんは、予想外に好演でした。
ともあれ、恋愛も真理も「食べ頃」があり、すぐに突き詰めず、一旦寝かせた方が実りが多そうです。
果実は、自助と熟成の恵みです。
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2013年06月05日
【経営】「会社をつぶせ」リサ・ボデルさん
P141
私は次の質問がとても気に入っている。「結局のところ、われわれは何のビジネスをしているのだろうか」。面白いことにたいていの人はそう問いかけた人物のことを、ただおそろしく愚鈍な人間だとしか思わない。自分が自動車業界にいることはわかりきったことじゃないか、と。だが、問題はそこなのだ。わかりきった答えをするということは、おそらくものごとに対して十分な疑問を抱いていない証拠である。10年以上前、スターバックスがまさにこの質問を自らに問いかけたとき、その答えはこれまでの観念を覆すものだった。「私たちはコーヒービジネスを展開しているのではありません。コーヒーを提供するピープルビジネスを展開しているのです」
賢い企業はいつも視点を変えて、自分たちが提供している価値を見直そうとしている。医療関連企業がその焦点を病気の治療から、健康と予防の提供へとシフトさせたのもこのためだ。同じように自動車メーカーも今や自分たちは交通手段を提供するビジネスではなく、人の移動手段を提供するビジネスであると言っている。このように、あたりまえだと思っていたことに疑問を投げかけるだけで、変革は生まれるのである。いつも好奇心にあふれた人々と一緒に仕事をするのが楽しいのはそのためだ。好奇心が新しい何かを生み出し、すでにあるものをさらによいものに変えていくからだ。
いかなるビジネスも、相手は「人」だ。
ビジネスとは、「人」に満足を与え、その引き換えに金銭を得るプロセスだ。
然るに、ビジネスは全て「ピープルビジネス」であり、成る程、スターバックスの10年前の自答は、「コーヒー」の文言を変えれば、いかなる業種、ビジネスにも通用するに違いない。
しかし、だからと言って、たとえば任天堂が単純に、自社の事業ドメインを変革すべく、「私たちは玩具を提供するピープルビジネスを展開しているのです」と自社のミッションを再定義した所で、それは言葉遊びを超えず、無意味などころか逆効果だ。
勿論、任天堂の様な、地に足のついた経営が執行されている企業に限って、そんな愚行はあり得ないが、かくなる単純な言葉遊びや模倣に励み、それをよしとする企業、ないし、経営者は少なくない
地に足がついた企業が持続的であるのは言うまでも無いが、では、持続的な企業とは具体的にはどの様な企業か。
それは、経営者と社員が一丸となって、自社の事業ドメインを絶えず顧客(ニーズ)や外部環境の変化に変化させている企業であり、遡れば、自社の原点とその応用を絶えず相手(「人」/顧客)目線で思考している企業だ。
企業の寿命は、経営者と社員の思考習性と結託で決まる。
2013年06月03日
【邦画】「アウトレイジ ビヨンド/OUTRAGE BEYOND」(2012)
〔ひと言感想〕
加藤こと三浦友和さんの仰る様に、私たちが本シリーズを面白く感じるのは、今頼れる本当の大人が稀有で、北野武監督こと大友にその希望を見出す為かもです。
大人の条件は、躊躇の無い自説と心意気です。
続きを読む
加藤こと三浦友和さんの仰る様に、私たちが本シリーズを面白く感じるのは、今頼れる本当の大人が稀有で、北野武監督こと大友にその希望を見出す為かもです。
大人の条件は、躊躇の無い自説と心意気です。
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