2013年01月
2013年01月24日
【NHK教育】「スコラ坂本龍一音楽の学校/映画音楽(1)」坂本龍一さん、岸野雄一さん
【坂本龍一さん】
基本的に映像と音っていうのは異なるものなので、何でも合うんですね。
で、何かしら付けると、そこに意味が生じてくるっていうか・・・
【岸野雄一さん】
その関係を解こうとするんですね。
【坂本さん】
僕らが勝手にね、見る側が意味を解こうとするので、意味が生じてきちゃいますね。
それが面白い。
同じ映像でも(付けられる音が違うと)とても違って見える。
羽生善治さんを見ていつも感じることの一つは、「頭が本当に良い人は、見ている所が違う」ということだ。
羽生マジックの正体は、極限下での強靭な複眼だ。
なぜ、頭の良い人は、見ている所が凡人と違うのか。
坂本龍一さんと岸野雄一さんの対談から着想したのは、「自他の関係性、意味合いを感受する幅が違うから」だ。
例えば、朝一番、曇り空を見て、帰路の降雨を懸念するだけで終わる人と、更に、家族の不幸を直感し、安否の連絡を早々に入れる人との違いは、空と自分の関係性、意味合いを読み解き、自分事(⇔他人事)にする幅の広さにある、ということだ。
頭の悪い人が凡そ自分勝手なのは、自他の関係性、意味合いを読み解き、自分事にする幅が狭いせいかもしれない。
〔2013年3月4日追記〕
私たち人間が、映像を見て、付けられた音から何らかの意味を読み解くのは、また、付けられた音によって異なる意味を読み解くのは、私たちが絶えず自分宛に「物語り」をしていることに通じる、もって生まれた習性、本能なのかもしれない。
「真珠の耳飾りの少女」の作者トレイシー・シュヴァリエさんは、TEDのプレゼン(「絵画に見つける物語」)で以下仰っている。
美術館で絵を見ながら15分から20分ほど歩き回っていると、もう絵には集中できなくて、眠気覚ましのコーヒーしか頭に無い〔・・・〕どれも展示する価値があるとして、飾られている絵なのですが、私には大抵よくわからないのです〔・・・〕もう少し気楽に行くべきです。例えば、レストランでメニューにあるもの全部頼みますか?いえ、選びます〔・・・〕選ぶのが当然のことです。じゃあ、美術館では選り好みせずに全ての絵に興味を持てと?私は反発し、二つのことをします〔・・・〕で、二つ目は、その絵を見ながらお話を作ること。なぜ、お話を?物語を作るのは人間の本能(DNA)だと思います。私たちは常に何か語っていて、それは混沌とした世の中を整理し、少しでも理解するためだと思うんです。
★2013年1月11日放送分
http://www.nhk.or.jp/schola/
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2013年01月18日
【BS日本テレビ】「おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR,NO LIFE!」三本和彦さん
(自分にとって車とは)足です、足の継ぎ足し。
「そこまでは自分の足だけじゃ無理だよ。で、車でどこまで行ける?あそこまで行ける。だったら、そこから自分の足にしよう」、と。
ですから、足の継ぎ足しみたいなもんでしょうね。
最後の最後まで自分の足だと思っていると、こういうの付けたお巡りさんが来て、「ここ、停めちゃ駄目」って言われて、こんなこと書かれると16,000円取られちゃいますからね(笑)。
たしかに、車は、あくまで自分の足の「継ぎ足し」だ。
決して自分の足ではない。
自分の足と誤解してしまうから、駐車違反ばかりか、交通事故にも遭い易くなる。
要するに、自分自身の肉体と能力と、その「継ぎ足し」とその能力の混同は過信を、ひいては、オーバーリスクと悲劇を招く、ということだ。
例えば、ホワイトカラーの生産性の低さが問われて久しいが、一因は本事項ではないか。
コンピューターは、あくまで自分の頭脳の「継ぎ足し」だ。
決して自分の頭脳でなければ、そのパフォーマンスは自分の実力でもない。
★2013年1月16日放送分
http://www.bs4.jp/aisya_henreki/onair/46/index.html
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2013年01月17日
【観戦記】「第71期名人戦A級順位戦〔第30局の6▲谷川浩司九段△佐藤康光王将〕谷川、大きな2勝目」関浩さん
後手(佐藤王将)陣の最弱点に手がついた。
図で△9五同歩は▲9ニ歩△同香▲9三歩△同香▲7七桂でシビレる。
△9四銀は▲8六桂。
△7四銀も▲9四歩△同香▲8六桂だ。
もはや先手(谷川九段)の攻めは、筋に入ったといっていい。
淡白な棋士ならば、さっさと投げても不思議でない形勢だが、この期に及んでも、盤上に全力を注ぐ佐藤の姿に変わりはない。
ふがいない自分をしごいているようでもあり 、無心で滝に打たれる求道者のようでもある。
(中略)
佐藤にも反撃の機会は巡ってきたが、それを逃して谷川の独壇場になった。
佐藤は意表の▲2三歩成(第4譜)に感心しすぎたのではないか。
過ぎた感心が後悔を生み、あたら反撃の好機を見逃したように思われる。
佐藤康光王将は、過日の第62期王将戦第一局でも、劣勢に心折れず、最後まで可能性を追求なさった。
そして、実際、逆転の可能性はあった。
佐藤さんが「無心で滝に打たれる求道者」に窺えるのは、尤もだ。
求道とは真理の不断の追及だが、それは、眼前の可能性を見捨てずして初めて可能に違いない。
★2013年1月17日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/feature/shougi/
【BS11】「本格報道INsideOUT/中曽根康弘元首相が語る2013日本国家の設計図」中曽根康弘さん
【松田喬和(毎日新聞論説委員)さん】
結局、野田政権は、政権を担当した経験が無いことによってですね、やっぱりそういう(=政治家レベルでない重層的な関係性を外国と構築する)知恵っていうのが無かったみたいに思うんですよ。
【中曽根康弘さん】
まあ、志が無い、と。
それから、人材を見ていない、と。
やっぱり、総理になったら、与野党の人材を見渡して、或いは、学者の世界を見渡して、「イザとなったら、この人を使おう」と、そういう腹の中で決めていくのが、まあ総理の心構えですよ。
だけど、そういうのが見えませんね。
【松田さん】
志っていうのは、何ですか?
【中曽根さん】
(田中角栄前総理の懐刀と言われた)後藤田(正晴)さんを(官房長官に)使うっていうのは、かなり神経を使ったことなんですよ。
内務省では私より先輩ですしね、内務省では威張っていた人ですからね(笑)。
それを、今度は自分の部下の様にして使うわけですから、後藤田さんには失礼かもしれませんがね。
しかし、「国家のためには働いてくれ」と、そういう意味で敢えて使ったわけです。
しかし、ご本人も偉いもんでね、一所懸命やってくれましたね。
【松田さん】
そうですね。
後藤田さんもですね、世間的に向かうとですね「中曽根総理」と言うし、我々番記者については「中曽根さん」と言ってたりしましたね。
しかし、世間向けには必ず「(中曽根)総理」として立てるということは、忘れなかったですね。
【中曽根さん】
そうです。
後藤田さんという人柄を見ておって、そして、まあ「この人ならやれる」と。「俺の言うことも聞いてくれる」と、そういう自信を持ってやったことですからね。
やっぱり、総理になったら、「人材をよく見てる」というのが、一番大きな仕事ですね。
(中略)
やっぱり、総理の力によるんですよね。
ですから、先輩であろうが、偉い人であろうが、自分が総理になった以上は、国家の為に使うと、また、使わしてもらうと、本人はそのつもりで総理に仕えると、そういう人間でなければ、選びませんね。
だから、偉い人であっても、先輩であっても、イザという時にはそうなってくれる人だという人材だと見込まなきゃできないし、そういう人間でなければ選べない。
やっぱり、「人間を見抜く」というのが、総理の一番の仕事ですね。
成る程、たしかに総理大臣は、日本株式会社の社長であり、「日本はいかにあるべきか」という志を持つことが欠かせない。
しかし、トップマネジメントの社長が一人で頑張っても、できることは知れている。
よって、総理大臣は、志の達成へ向け、「誰をいかに使うべきか」絶えず考えることも欠かせず、そして、それには、社員である国民を人材として広くあまねく注視する必要があるのだ。
私は、マネージャーが「人を使って仕事を為す人」であるのを、改めて思い知った。
【松田さん】
サミットなんか行って、キリスト教文明下の首脳たちと会っている時には、伝えられるもんですか。
【中曽根さん】
伝えられますね。
特に発言の内容を、単に外務省や役人の作った言葉じゃなくて、自分の言葉で話しをすると。
それから、コーヒータイムがあって、立ち話をする時、その時にやはり哲学が出てくるわけですよ。
だから、その深さというもので、相手が先ずこっちを見ているわけだ。
こっちも、向こうの相手の大きさを見ているわけだ。
だから、コーヒーブレイクというのは、非常に大事な時間でもある。
【松田さん】
でも、それを持たない人にとっては、怖い時間ですよね。
【中曽根さん】
怖い時間です。
【松田さん】
だって、シナリオが無いわけですからね。
【中曽根さん】
そうです、そうです。
私は、自動車メーカーで系列販売会社の経営指導をする業務に就いて早々、先輩からこう忠告された。
「酒には気をつけろ」。
要するに、会食は業務上不可避だが、酔って醜態を晒したり、余計なことを言い易く、要注意だ、ということだ。
これは全くその通りで、取引先である販社の人は、とりわけ信頼関係を構築するまで、酒を飲んでも酔わず(←酔わない飲み方しかしない)、私の実力と人間性を冷静に値踏みしていた。
しかし、逆に冷静に値踏みされている分、自分に確固たる哲学と物分りある情意があれば、相手を短時間で引き込むことができた。
だから、私にとって会食は、要注意の場であると共に、貴重な説得の場だった。
中曽根さんにとってサミットでのコーヒーブレイクが非常に大事な時間だったのも、本質的には同様に違いない。
例えば、「社会は自由であるべきだ」という志が「人間は自由に生きるべし」という哲学に基づいている様に、「志がある」ということは「哲学がある」ということだ。
中曽根さんは、首相を目指していた当時、首相になったらやりたいことを大学ノートに書き留めていたという。
深遠なる志と哲学の持ち主の中曽根さんにとってシナリオの無いコーヒーブレイクは、お手の物であると共に、貴重な折衝の場だったに違いない。
★2013年1月1日放送分
http://www.bs11.jp/news/59/#pastlineup
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2013年01月12日
【BSNHK】「ロイヤルスキャンダル第一回/姉と妹」エリザベス女王
ウェインザー城を去る時、マーガレットの心は決まっていました。
決断を下したマーガレットは、世界へ向けて声明を発表しました。
(※テレビニュース)
マーガレット王女の声明は以下の通りです。
「私はタウンゼント大佐とは結婚しないと決断しました。
”結婚は不変”との教会の教えに従い、連邦への私の義務を優先したく、独りで考えてこの結論に達しました。
その間、大佐に支えられ、励まされました」。
(中略)
(エリザベスが)女王になって三年。
公私共に女王を悩ませた危機は過ぎ去りました。
女王は家族に、恋よりも義務を優先させ、命令するのではなく祝福を与えないという巧妙なやり方で権力を行使したのです。
こうして女王は、いかに人を従わせるかを身に付け、その後も影響力を保っていくことになります。
マーガレットはロンドンの社交界に身を投じ、姉に逆らうことは二度とありませんでした。
人は自分の決断が他者に、それもとりわけ家族に支持されることを望む生き物であり、それが結婚ならば尚更だ。
よって、マーガレット王女の「結婚」という決断に、エリザベス女王が「不祝福」という不支持を表明したのは、撤回を命じるより遥かに抑止効果があったに違いない。
リーダー足る者、どうすれば人が動くか否か、精通している。
★2013年1月8日放送分
http://www9.nhk.or.jp/kaigai/queen/index.html
2013年01月09日
【毎日】「ストーリー/ユニクロ率いる柳井社長」柳井正さん
自らも同じ道をたどった元社長の玉塚(元一)氏はこう話す。
「(05年に)僕が辞めた後、大量に(社員が)辞めました。普通のサラリーマン的な人間にはついていけないもん。でも、彼はすごく純粋だし、その瞬間のベストの解を出そうとする。それが実は正しい」。
柳井氏が当時持ち込んだ変化が急成長につながった、と評価する。
生き残る、いや成長するために変わり続ける、ということなのか。
柳井氏は明快だった。
「変わらなくても生き残れると思っているのが間違いだ」
人材の新陳代謝が伴う経営姿勢は苛烈に見える。
だが、単なる「厳しさ」とは異なる。
たとえばこうも話した。
「個人が責任をとらない社会はよくない。部下が失敗した時、上司が出てきて『私の責任です』(とかばうの)ではなく、失敗した本人に『お前が悪いんだ』と言うべきだ。それで初めて、指導なんです。こう悪かったから今度はこうします、と言わせなきゃいけない」。
追い込むことが目的ではない。
「失敗しても、傷が浅いうちにやめれば、次にまたチャンスがくるんですよ」
柳井自身、失敗を重ねてきた。
02年に野菜の直売店やネット販売に進出し、わずか2年でただんたこともある。
商社から転職3年目の柚木治氏(47)がアイデアを出し、柳井氏が取締役会の反対を押し切って始まった新規事業だった。
結局、26億円の赤字だけが残った。
「顔を上げて生きていく自信がなくなった」という柚木氏が辞職を申し出ると、柳井氏は「なに言ってるんですか、金、返してください」と止めた。
柚木氏は「(失敗して)勉強したんだから、それを会社で生かせ、という意味だと感じた」と振り返る。
この後、FRはユニクロなど本業の衣料品事業に集中していく。
「必要な失敗だった」と柳井氏は語る。
いま、柚木氏はユニクロの姉妹ブランド、ジーユーの社長だ。
もとよりファーストリテイリングの柳井正社長の言動は共感に富むが、本記事でのそれ(※赤フォント箇所)はとりわけ共感できる。
私が柳井社長でも、同様の言動をしたに違いない。
なぜか。
さもなくば、同じ失敗をする確率が下がらないばかりか、組織のリソースがもたないからだ。
失敗は無くならないが、同じ失敗をしてはいけない。
組織の失敗には必ず原因があり、それは全関係者の個人に帰着する。
経営者には経営者なりの過失が、上司には上司なりの過失が、担当者には担当者なりの過失が、必ずあるのだ。
いかなる組織も、リソースは有限だ。
組織に所属する個人が、自分の役割と責任における自分の過失とその原因、ひいては、自分の至らなさ、を思い知り、解決可能な行動計画に即着手して改めなければ、失敗に要したコストがリターンを生まない本当のコストに堕し、その「失敗コスト」倒れで組織そのものが倒れてしまう。
ちなみに、私がかくもコストにシビアになったのは、社会人三年目の春のことだ。
当時私は、自動車メーカーに在籍し、系列販売会社の経営指導をする任務に就いたばかりだった。
私は本当に未熟で、自分の仕事に疑問ばかり抱いていた。
ある日、私は上司にそれを吐露した。
すると、彼はこう言った。
自分が本当に良いと思うことを、販社に言い(=提案し)、一緒にやりなさい。
それが、本当にその販社にとって有意義で、良いことなら、いかにお前が無愛想で、社長らと喧嘩しても、販社は、本当に困った時、お前宛に電話をかけてくる。
大丈夫、お前の担当はまだラクな方だ。(笑)
異業種(※資本関係の無い企業)の販社には、「来ないでくれ」と言ってくる販社があり、実際、同期が言われた。
「どうせ、あなたがウチに来ても、車がもっと売れるようになるわけでも、もっと儲かるようになるわけでもない。
でも、あなたがウチに来れば、来た手前、相手をしなければいけない。
テマヒマがかかり、迷惑なだけだ。
とはいえ、あなたもサラリーマンだから、ウチに来ないわけにも行かないだろう。
だから、ウチにはちゃんと来たことにしてあげる(=そう上司に報告してあげる)から、来ないでくれ。
来ないことがやましいなら、来たら使ったはずの出張旅費をSP費用(販売奨励金)としてくれ(=提供してくれ)」、と。
私は、前段の話には大いに励まされたが、後段の話に深く考えさせられた。
しかし、胸中で反芻すればするほど、尤もだと思った。
そうなのだ、ビジネスは命懸けなのだ、と。
企業のリソースは有限で、コストはリターンが見込めるモノにのみ投じるべきなのだ、と。
見込めないモノには、びた一文たりとも投じてはいけないのだ、と。
一旦投じたコストは、何としてでもリターンさせ、最悪プラマイゼロで回収しなければいけないのだ、と。
しかし、柳井社長がかくなる一見苛烈で、人でなしな言動を選好、励行するのは、コストにシビアなことに加え、組織のリーダーである自分に敢えて背水の陣を強いることが本意に思えてならない。
組織の崩壊の元凶が内部(⇔外部)要因であり、その多くが「リーダーの不在」と「変化の未遂」に起因するのは、歴史が示している通りだ。
部下、社員の「逃げ」、「退路」を断つことで、上司、経営者、リーダーである自分の「逃げ」、「退路」も根こそぎ断つ。
そして、四面楚歌の極限の緊張のもと、咎めるべき自分を正確に咎め、否定すべき自分を真摯に否定し、組織のリーダーとしての成長と存在を、ひいては、組織の変化を絶やさない。
これこそが、柳井社長の本意に思えてならない。
★2013年1月6日付毎日新聞朝刊四面から転載
https://twitter.com/mainichi_tap_i/status/287736482951729153
https://twitter.com/mainichi_tap_i/status/288966573568450561
https://twitter.com/kimiohori/status/289142424083771392
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