2012年11月
2012年11月29日
【NHK】[ETV特集「原田正純 水俣 未来への遺産」]原田正純さん
「医学は中立でなきゃいかん」というんですね、(そう)いう規範があるんですね。
で、「お前は、ちょっと患者側過ぎる」というね、批判が(自分に対してあるんですね)。
しかし、私はね、それは非常に有り難い批判だと思っています。
だってね、医学っていうのは、そもそも何の為にあるんですか。
お互いに、おんなじ力関係だったら、中立っていうのもあり得るかもしれない。
だけどね、圧倒的にね、力の強い側とね、力の弱い側があった時にね、「(医学は)中立(でなきゃいかん)」っていうことはね、実はね、強い側に協力していることになるんですよね、そうでしょ。
だからね、力関係がおんじななら、「(医学は)中立(でなきゃいかん)」というのもあり得るかもしれない、理論的には。
だけど、圧倒的に力関係がね、だって、患者とね、例えば、国とかね、資本とかいうのは、圧倒的に力があるじゃないですか。
その時にね、「(医学は)中立(でなきゃいかん)」って言って何もしないことがね、どうして中立ですか。
本当の中立っていうのは、そういう弱い立場の方に立つことじゃないですか。
だいたい、我々の仕事として医療をすれば、それは「患者の立場」だし、それを阻害しようとする権力があれば、当然その権力と対立することになるのであって、理屈でね、「(医学は)中立(でなきゃいかん)」だとか、「どっちの立場(に立っているのか?立つべきだ!)」ということではないんじゃないか、と僕は思っているんですね。
私は、原田正純医師のお考えを以下理解した。
〔1〕医療は、そもそも患者の為に存在する。
〔2〕ゆえに、医療従事者(提供者)である医師は、依頼人である患者の利益を最優先して然るべきだ。
〔3〕ゆえに、医師の立ち位置は、患者側に寄っていて、社会的には非中立的であって然るべきだ。
〔4〕また、一市民、一個人の力は、国や企業の前では知れている。
〔5〕ゆえに、患者は、病の前では肉体的弱者であるが、国や企業の前では社会的弱者だ。
〔6〕ゆえに、医師の立ち位置は、患者の病の原因が国や企業の場合、とりわけ患者側に寄っていて、社会的に非中立的であって然るべきであり、かつ、社会的に丁度いい。
いきなり余談だが、以上から、原田医師の持論を以下推量した。
〔A〕社会は平等であって然るべきだ。
〔B〕しかし、実際の社会は、力関係がいびつで不平等だ。
〔C〕ゆえに、いびつな力関係は是正されて然るべきだ。
〔D〕ゆえに、(対象弱者以上の)強者は弱者を助けて然るべきだ。
私は、幼い時分、親や年長者から「弱きを助ける」よう説かれるも、その理屈は説かれなかった(と記憶している)。
なので、「社会の不平等を正す意味において、弱者を助けるのは強者の務めである」との原田医師の持論と理屈に感動した。
しかし、私は違和感も感じた。
なぜなら、この理屈は〔A〕が前提条件だからだ。
本当に「社会は平等であって然るべき」なのか。
私は、「社会は不平等であって然るべき」と考える。
なぜなら、社会は平等に成り得ないからだ。
人間は、生まれ出でる所も、ひいては、持てる能力も同一に成り得ない。
そんな種種雑多な人間で構成される社会は不平等であって当然、自然であり、平等なら不自然ではないか。
とはいえ、この違和感は私の持論に由来するものであり、正否の類ではない。
よって、この違和感はあくまで私の勝手に過ぎず、原田医師と決着を付けるべきものではない。
話を本題に戻すと、私は、原田医師が、この「正否の類でない」話を「正否の類」の話にしてしまわれた点で残念に感じた。
原田医師のお考えの内、〔1〕から〔3〕は「事実」で、展開が合理的だが、〔4〕から〔6〕は〔A〕を前提条件とする原田医師の「思想」で、展開が非合理的(主観的)だ。
原田医師は水俣病患者の為に国や企業と終生戦われたわけだが、合理、非合理入り混じったこの主張では、彼らに完全勝利できなくても当然、自然だ。
なぜか。
「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」。
これは二宮金次郎の名言だが、国や企業といった社会集団の本質は経済であり、いずれも経済無しには存在、存続し得ないことを良く言い表している。
経済は原因と結果の、即ち、「合理の」世界だ。
そんな「合理」の世界の住人に合理、非合理入り混じった主張をした所で、寝言と思われ、聞く耳をろくに持たれなくても当然、自然だ。
国や企業を相手どった市民運動が少なからず挫折しているのも、主張が合理、非合理入り混じっていることが大きいのではないか。
「再稼動は反対だが、電気料金の値上げも、また、賃下げも反対」では、市民運動というより、低次のクレーマー集会と見下されても当然、自然だ。
★2012年11月11日放送分
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/1104.html
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2012年11月28日
【NHK】「大滝秀治さんを偲んで/オールドフレンド(ゲスト解説)」西田敏行さん、奈良岡朋子さん
【西田敏行さん】
(大滝秀治さんは)台詞をですね、本当に、しっかりと咀嚼して、言葉にお出しになるので〔・・・〕本当に聞き手として(心の中に)入ってくるんですよね。
だから、それに対するリアクションも、段々段々自分の中では予測できないような高揚感が生まれてきて、大滝さんと一緒に芝居をさせていただくと、なんかこっちも良くなるっていうか、大滝さんの相手をさせてもらった役者さんもぐーんと良くなるっていうか〔・・・〕よくわかるでしょ、台詞が。
(心に)届くでしょ。
やっぱり、人間と話しているっていう音で聞こえてきますよね。
【奈良岡朋子さん】
役者って、台詞のやり取りっていうのは、キャッチボールじゃないですか。
いい球放られれば、受け取る方も受け取り易い。
だから、どんな球が来ても、またそれを上手く受けとめなきゃならないっていう、そういうキャッチボールの面白さ、楽しさっていうようなことは、二人でもって、「楽しいなあ!」って言って、やってましたけどね。
【桜井洋子アナ】
そういう意味では、大滝さんが拘って、とにかく大事にしていたモノっていうのでしょうかしらね、舞台の上で、それは何だと思われますか?
【奈良岡さん】
いつもひたむきでしたね。
で、嘘をつかない、自分で役に対して嘘をつかない。
だから、どれを見ても、丸ごと大滝秀治がそこに存在している。
だけど、それは、役名が違うだけで、大滝自身の嘘偽りの演じる技なんていうモノは感じさせない。
説得力、自分が舞台に居るだけで存在感、そういうモノをお客さまに感じて欲しいっていうのは、まあ役者誰でもそうですけどね、みんなそうですけどね。
(中略)
(※奈良岡さん以下劇団員さんの寄せ書きに対する、大滝さんの返信)
「暑中御見舞有難う
猛暑の中、舞台御苦労様です。
僕は舞台をおりた事、恥ずかしく口惜しい。
一日も早く元気になりたい。
有難うございました。
順天堂病院
八月三日
大滝秀治」
(中略)
【桜井アナ】
今、改めて声をかけるとしたら・・・
【奈良岡さん】
まあ、私も年ですからね。
で、いつも舞台で、私は旅が多いですから、いつかまたどっかで会えるっていう気持ちですね。
今言える言葉っていうのは、「また会いましょう、その内」っていう感じですね。
なんか、旅に、ちょっと遠い旅に行ってると思えば、会えなくてもね。
まあ、「目から去れば、心から去る」って言うけど、心からは去らない人だから。
そういう友だちが持てて、同志が出会うことができてよかったっていう風に思っています。
過日、妻が「要約力」という本を読んでいたので、内容を要約してもらった。(笑)
「たしかに、予備校が出している小論文の書き方を学ぶなどすれば、要約力は向上できなくもない。
しかし、それで向上する要約力は小手先を超えず、そのアウトプットは浅薄で使えない。
それより、問題意識を不断に持って公私に励む。
そして、新たな問題に出遭ったら、必ず自問自答する。
かくして自分の内面を絶えず高めることこそ、要約力の向上の王道である」。
以上が、妻の要約の要約だが(笑)、異論はない。
たしかに、要約はアウトプットの手段に過ぎず、アウトプットが浅薄で使えなければ意味が無い。
「濃密で使える」アウトプットには「濃密で使える」要約が不可欠であり、それにはインプットを適切に遂行すること、即ち、対象の事物を主体的かつ十二分に咀嚼し、しかと自分の身にすること、が不可欠だ。
演技は俳優にとってアウトプットだが、大滝秀治さんの名演が事前の周到な台詞の咀嚼に依拠していた旨の西田敏行さんのお話は、成る程かつ尤もに感じた。
また、「演技は役者間の『キャッチボール』であり、『いい球を放られれば、受け取る方も受け取り易い』」との奈良岡朋子さんのお話も、成る程かつ尤もに感じた。
本事項は、役者に限らず、あらゆるビジネスマンにも通じよう。
兎に角先ず、自分が、先述の周到な準備を絶やさず、「いい球」を放ろうと試みることが、自分は勿論、相手共々最善かつ最高なのだ。
「相手から『いい球』が返ってこない」。
「相手といい『キャッチボール』ができない」。
「昨今いい『キャッチボール』をめっきり見かけない」。
この旨嘆くビジネスマンは少なくないが、それは天に向かって唾を吐く様なものだ。
それと、奈良岡さんのお話では、終始、大滝さんのことを「大滝」と、敬称を略し、凛と呼称なさっていたことに感動した。
その呼称は、奈良岡さんと大滝さんが互いに同志と、否、戦友と自覚なさっていた証左に他ならない。
無二の戦友に敬称は不要であり、そもそも無粋だ。
敬称不要の戦友を持てた大滝さんは、奈良岡さんと劇団員に宛てた最後の手紙から些少の悔いは窺えるが、大きな悔い無く「ちょっと遠い旅」に行かれたのではないか。
★2012年10月28日放送分
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2012/121028.html
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2012年11月26日
【BSTBS】「みんな子どもだった/11月ゲスト原田美枝子さん第1話」原田美枝子さん
私が思うのは、赤ちゃんって、最初に生まれた時に普通にクールに見ると、お猿さんみたいな顔しているんですけど、赤くて(笑)。
だけど、自分にとっては、なんかもう、後光が差しているみたいに見えるんですよ。
なんかもう、そこで魔法がかかる感じ。
で、なんか、「ああ、私の子が一番可愛い!」みたいに思うんですよね。
だから、そういう「私を愛して光線」みたいなのを赤ちゃんが発する気がするんですよ。
で、「あ、これ大事にしなきゃ!」って思うんだと思うんですね。
その、なんか魔法みたいなのに上手くかからないと、やっぱり、捨てちゃったりとか、殺しちゃったりとかするのかなぁと思うんですよね。
親バカの一番最初の始まりだけど、それが無いと、やっぱり、24時間365日、何十年と育てられないなぁと思うんですよね。
亡き母は、産後直後の私の顔を見て、最初に「この子は将来必ず(良いことであれ、悪いことであれ)何かやる子だ!」と思った、ひたすら直感した、という。
当時母は環境、事情に恵まれておらず、この直感は、原田美枝子さんと同様、育児の困難への励みになったに違いない。
こうした直感は、一体何起因するのか。
男であり、また、子どもの居ない私には、到底理解できない。
ただ、こうした直感を抱ける人は、比較的幸福になっているのではないか。
幸福力は「励みを見つけるチカラ」に帰結するが、その有無や高低はこうした直感が抱けるか否かで分かるのではないか。
例えば、作家の城山三郎さんは、「そうか、もう君はいないのか」によると、奥さまに最初に出遭った時、天使が舞い降りたように直感なさったという。
勿論、城山さんの直感は、母や原田さんのそれと状況や対象が違う。
しかし、やがて訪れる困難を前に、それを忘却するに足る大きな励み、希望が無条件にあずかれる点で、いずれも通底しているように感じる。
幸福力の過半は、やはり天賦の才なのか。
今回、改めて最初から(「北の国から」を)全部繋げて見ていったら、なんか、本当に、何て言うかなぁ、ドキュメンタリーを見ているようなね、その家族が本当に居て、その町の、村の人が本当に居て、それを続けて見ているような気がして。
最近特に感じてたんですけど、ドラマとか芝居の、面白い芝居っていうのはドキュメンタリーだなって思うんですよ。
その時にその俳優が今ナマで感じているっていうことが映って初めて、ドラマとして面白いのかなぁっていうのがよくわかってきて。
だから、できるとかではないんですけど。
だから、本当にその場で俳優がイキイキと生きてなかったら、ドラマにはならないですよね。
ドラマに限らず、私たち人間が創った成果物はみなドキュメンタリーだ。
また、更に言えば、ドキュメンタリーであって然るべきだ。
例えば、三島由紀夫さんの作品が時代を超えて数多の読者の心を動かすのは、執筆時の自我が確然と投影されたドキュメンタリーだからだ。
ドキュメンタリーでない成果物は、成果物のための成果物に過ぎず、商業的には勿論、社会的にも価値が無い。
成果物の創り手は、自我の形成と変容に絶えず励む必要がある。
★2012年11月4日放送分
http://w3.bs-tbs.co.jp/minnakodomo/archive/201211.html
2012年11月23日
2012年11月05日
【フジ】「新・週刊テレビ批評/Critique TALK:テレビを知るベストセラー作家のテレビ批評」百田尚樹さん
【西山喜久恵アナ】
百田さんからご覧になって、今のテレビ番組はどう映りますか?
【百田尚樹さん】
そうですね、たまにゴールデン番組を見ていると、非常に幼稚やな、と思いますね。
【西山アナ】
幼稚・・・
【百田さん】
私も56(才)ですけど、「大人が見れない番組が多いな」、と思いますね。
あと、私も、実際自分自身にも言うことなんですけども、僕ら番組を作る時によく、編成なり、営業なり、制作なり、色んな人で「どういう番組を作っていこうか?」と言うんですけど、結構ね、ターゲットを絞るんですね。
「これはF1層に受ける番組を作ろう」とか、「これはシュールに受ける番組を作ろう」とかね、そうやって、番組を絞るんですけど、それが却ってテレビの世界を狭めていると思うんですよね。
テレビというのはね、私は、「家族で見れる」、「お年寄りも、若者も、女性も、男性も一緒に楽しめる」と。
これが僕は、テレビの理想やと思っているんですけど。
【奥寺健アナ】
じゃあ、(今は)逆方向に行っている感じですか?
【百田さん】
そうですね。
今は、メールはある、インターネットはある、家族が(全員)居ってもね、それぞれ家族がバラバラ、自分一人の世界で楽しめる、ということになっていますよね。
折角家族で居っても、それぞれゴハンを食べたら、みな(自分の)部屋にバラバラに散ってしまって。
で、一家が、というか、一つの家族が、みんな自分だけの個人の楽しみで散ってしまっている。
で、テレビもそれと同じことをしたらアカンと思うんですよ。
テレビも、「これ、子ども向け」、「これ、オッチャン向け、「これは、若い女性向け」と、テレビさえも、インターネットとかメールの世界と同じようにバラバラになってしまっている感じがするんでね。
僕は、むしろ、こういう時代だからこそ、テレビによって家族を一つに引き寄せる、これ今、テレビの力があるんじゃないか、と僕は思っているんです。
テレビの将来はそこにあるんじゃないかな、と僕は勝手に思っているんですけど。
(中略)
【百田さん】
ただね、私がよくテレビ出て思うのはね、例えばね、父親と娘が一緒に見れない番組が結構多いです。
若い娘さんに言うたら、「これ、お父さんと一緒に見てたら、恥ずかしくてタマラン」とかね、その逆とかね。
本当に面白いモノはね、一人で見たくないんですよ。
映画でも、一緒に見たいんですよ。
だから、そういうモノをね、テレビは目指すべきやないかな、と思うんですよ。
自分の番組で言うのもアレなんですけど、「探偵!ナイトスクープ」というのは、いつも僕ら考えているのは、「子どもから年寄りまで家族で見れる」ということを常に考えています。
ですから、家族で見れないモノはやらないんです。
だから、エロはやらない。
それから、人を傷つけるものはやらない。
で、ある世代をバカにするモノはやらない。
【西山アナ】
今のバラエティが、そちらへ行こうという傾向が強いように・・・
【百田さん】
そうですね。
今のバラエティは「企画が無い」っていう形もありますね。
ブッキングありき、というか、タレントありき、というかね。
「このタレントは視聴率が取れる!」と、テレビ局が勝手に思い込んで、「そのタレントを色々合わせて、後はもうお題を与えて喋らせたらナンカなるやろ」っていう、そういう番組が結構ありますね。
でもね、これはね、幻想やと思うんですよ。
本当は、「企画ありき」なんですよ。
ですからね、最近私思ったのは、島田紳助さんが引退されても、「行列のできる法律相談所」は視聴率落ちなかったですよね、殆ど。
それから、例えば、朝日放送で言うと、児玉清さんが亡くなられましたけれど、「アタック25」っていうのは、児玉清さんの大看板番組だったんですけれども、視聴率が落ちなかった。
というのはね、私は逆に「これは、企画が強かったんだ!」と思ってね、すごい嬉しかったですけれどね。
【奥寺アナ】
なかなかそこに制作の側が自信を持てずにいる、っていう感じなんですかね。
【百田さん】
そうですね。
やっぱり、それだけタレントの力が大きい。
実際タレントの力は大きいんですけど、ちょっと過大評価している感じもしますね。
やっぱり、もう一度原点に帰って「テレビは企画である!」と。
で、実際企画が強いモノが視聴率を取ると、僕らも嬉しいですしね。
(中略)
【奥寺アナ】
その一方で、やっぱり若い人を意識したモノ(番組)も、依然として多いわけですよね。
【百田さん】
そうですね。
これは営業の絡みもあるんでね。
営業っていうのは、どうしても、スポンサーは若い人にモノ勝ってもらいたいって言うんでね、やっぱり年老いた方っていうのは、あんまりおお金を使わない、買い物をしない、っていうことがありますんでね。
じゃあ、実際買い物を沢山してくれる若い世代に向けて番組を作ろうという、まあヤヤコシイですけどね、本当に。
だから、内容よりも、いかにモノを買ってもらおうかという、そういう所で作っているケースもあります。
【稲増龍夫さん】
私は自論として、テレビって根本的にバラエティが一番テレビだと思うんですよね。
報道っていうのは、結局、新聞とかあるんだし、ドラマっていうのは舞台とか映画っていうのもあって、バラエティ、つまり、色んなモノがごっちゃに入ってきて、情報もごっちゃに入ってきて、面白可笑しく用意する、と。
これは正にテレビだな、っていう気がするんですけど、そのバラエティはこれからどういう風になっていったらいいと思いますか?
【百田さん】
そうですね。
繰り返しになりますけれど、やっぱりいかに制作者側が面白い企画を出すか、ですね。
あくまで、視聴率を取れるタレントを何人か集めて、そのブッキングと組み合わせにおいて、後はもう楽屋トークみたいに、「自由に、あなたたちで面白い話をしてください。僕ら、それを見て笑いますから」。
これでは、制作者側の意識が低いですよね。
【奥寺アナ】
うーん。
今、例えば、(画面に)スーパーをどんどん出したり、それからVTRを見せている時に、ワイプですかね、(出演者の)顔を出したり、手法的に物凄く凝ってますよね。
【百田さん】
そうですね。
テレビを「チラっ、チラっ」と見ても分かるようになってますよね。
みんなやかましくなっても字幕が出る、とかね。
笑い声を勝手に出す、とかね。
制作者側が「ここ、笑う所ですから!」って視聴者に言うてますよね。
これは、言うてるっていうか、強制している感じもするんですけど。
「笑うくらい自分で笑うわい」と、僕ら思いますけどね。(笑)
【稲増さん】
バラエティでよくある「雛壇形式」って最近よく流行って、(それと対照的に、百田さんが手がけている)「探偵!ナイトスクープ」は必ずピンで、一人がレポーターをして、って一人で(画面に)立たせますけども、あの「雛壇形式」って、ある考えだと凄く楽ですよね。
誰かに(話を)振っていけばいい、っていう意味ではね。
【百田さん】
そうですね。
東京のバラエティなんかやると、一時間番組をニ時間位(フィルムを)回して、その面白い部分だけをつまんでやる、と。
それはダメですよね。
僕ら「探偵!ナイトスクープ」の場合は、殆どその尺で撮るんです。
【奥寺アナ】
そうなんですか!
【百田さん】
はい。
一分か二分のオーバーだけです。
それやないとね、タレントの緊張感も無いです。
【西山アナ】
お客さん、たしか入れてやるんですよね?
【百田さん】
やります。
だから、客の前でナマで勝負してます。
【奥寺アナ】
ホント勝負ですね。
【百田さん】
はい、勝負です。
ディレクターも勝負です。
自分の撮ったVTRが、実際に客の前でやってウケるかウケないっていうのは。
そうするとね、ディレクターの腕も上がります。
【奥寺アナ】
そこがポイントかもしれませんね。
私は、不朽の名テレビ番組の最たるを、「ウルトラ」シリーズ、それもとりわけ「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」と考えている。(笑)
なぜなら、「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」は、娯楽哲学番組のホームラン王(笑)だからだ。
これほど、何時見ても、また、何回見ても、子どもは子どもなりに、大人は大人なりに楽しめるばかりか、深く考えさせられる、それも、人間や人生の本質や真理について深く考えさせられる番組を、私は他に知らない。
「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」は、制作者(商品の作り手)が視聴者(商品の受け手)を完全には選別でき得ない、また、すべきでない、マスメディアかつ大衆消費財としてのテレビの、正にお手本コンテンツ(商品)だ。
この証拠を厳選提示するなら(笑)、「ウルトラマン」ならジャミラが出て来る回(第23話「故郷は地球」)、そして、「ウルトラセブン」ならメトロン星人が出て来る回(第8話「狙われた街」)だ。
前者を見て、子どもは、ウルトラマンのレア必殺技(笑)であるウルトラ水流に見入りつつ、正体が自分と同じ人間のジャミラがなぜ葬られなければいけなかったのか考え、更に大人は、怪獣ジャミラの誕生に社会の矛盾を再考しよう。
また、後者を見て、子どもは、ウルトラセブンの二大必殺技であるアイスラッガーとエメリウム光線を堪能しつつ、地球侵略を狙うメトロン星人がなぜ物理的にではなく、精神的に攻撃してきたのか考え、更に大人は、社会が個人間の相互信頼で、ひいては、個人の信頼行動と被信頼行動で成立しているのを再考しよう。
「テレビ番組は、家族にみな楽しまれて然るべきで、対象視聴者を狭く絞り込んで作られるべきではない」。
百田尚樹さんのお考えはいずれも尤もで、幾度と無く共感、感心したが、かくも「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」を絶賛する私(笑)は、とりわけ本事項に膝を打った。
昨今、オンナコドモの受け、それも、短絡的かつ刹那的な受けばかり狙った浅薄なテレビ番組が、彼らに受けなくなってきているばかりか、彼らの「テレビ離れ」を助長しているのは、当然かつ自然だ。
私は、本事項を、テレビ番組に限らず、大衆消費財の大半に通じるものと確信する。
例えば、「国民車」を起源とするフォルクスワーゲンの車はいずれも、大衆車として優れている一方、スポーツカーとしても優れており、また、運転の初心者を安楽させる一方、熟達者をも飽かさない。
世に言う「イイモノ」とは、狭い対象者に、ましてやオンナコドモになどつゆも媚びない、しかと本質的に企画された大衆消費財に違いない。
イイモノは、使い手も、時代も選ばない。
★2012年10月27日放送分
http://blog.fujitv.co.jp/newhihyo/E20121027005.html
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2012年11月03日
2012年11月01日
【事件】「毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記」北原みのりさん
P180
父が妻のために建てたバリアフリーの家に行った。
今は誰も住んでおらず、「売家」の看板が建てられていた。
看板に記されていた番号に電話をした。
不動産屋にこの家がいくらなのか、可能ならば見たい、と伝えるつもりだった。
電話には女性が出た。
家のことを尋ねると、
「交渉などは、別の事務所に任せていますので、詳しいことは今申し上げる番号にお願いします。
ありがとうございます~」
と、感じのいい声で応対してくれた。
どこかで聞いたことがある声だと思った。
電話を切って、気がついた。
(木嶋)佳苗の母だ。
テレビでインターフォン越しに話す母の声を知っていた。
まさか、と思い、一瞬立ちすくんだ。
(木嶋佳苗被告の故郷である)この町(※別海町)に不動産屋がないわけじゃない。
それなのにこの女性は、敢えて不動産屋には頼らず、全て自分で差配しようとしているのだ。
マスコミからは毎日のように電話がかかってきているはずだ。
それでも電話に出て、突然玄関のチャイムを押すマスコミにも、嫌な声を出さずに丁寧に「何もお伝えできません」と断り続けているのだ。
強い。
本当に強い。
人の目を気にしていたら、生きていけない。
だけど、人の目を気にしない女には、人は冷たい。
そのことを分かっていてもなお、生き方を変えられない母と、佳苗の顔が重なった。
「人の目を気にしない女には、人は冷たい」のは、成る程だ。
電車の中で化粧をする女性が周囲に白眼視されるのは、そういうことなのだろう。
ただ、人が白眼視するのは、人の目を気にしない男性にも言えるのではないか。
だから、夜の東海道線の普通席で堂々酒盛りをしているオヤジたち(笑)も、同じく周囲に白眼視されるのではないか。
だとしたら、なぜ、私たちは、男女の別なく、人の目を気にしない人、即ち、我が道を行く人、自己利益を譲らない人、周囲の空気を読まない人、大多数に無条件に与しない人、を白眼視するのか。
主因の一つは「自己肯定が危うくなるから」で、もう一つは「彼らと一線を引きたいから」ではないか。
自分とは異なる、彼らの非大多数的な思考、行動習性を、そして、彼らの存在を是認してしまうと、既に確立した自分の大多数的な習性が、ひいては、自分の存在が浮かばれなくなりかねず、また、実際自分の身も、彼らの非大多数的な行動に脅かされかねない。
そこで、彼らを白眼視し、彼らの習性と存在の不是認を自他双方に態度表明する、ということではないか。
とはいえ、だとしたら、私たちは、自己中心思考や身勝手さにおいて彼らと大差無い。
私たちが彼らを白眼視する真因は、彼らが人の目から自分を解放し得たことへの嫉妬ではないか。