2012年10月
2012年10月31日
【人生】「私がアイドルだった頃」高橋みなみさん、板野友美さん、新田恵理さん、もちづきる美さん、長谷川晶一さん
P15
2010(平成22)年10月ーー。
目の前では「国民的アイドルグループ」の主要メンバー2人が、にこやかな笑顔をたたえたままでインタビューに答えている。
AKB48ーー。
05年秋にお披露目されたこのユニットは、「会いに行けるアイドル」をコンセプトに掲げ、秋元康のプロデュースによって一大ムーブメントを巻き起こしていた。僕の目の前にいたのは、初期メンバーである高橋みなみと板野友美だった。
(中略)
インタビューを続けながら、僕は感心していた。ひとつ質問を投げかけると、その後は2人でどんどん話題を転がして、話を膨らませていってくれる。
何度も何度も似たような質問をされて、内心では辟易しているのかもしれない。休日もなく、睡眠時間も満足にとれず、心身ともに疲労困憊なのかもしれない。
けれども、そんな表情は微塵も見せずに、つねに笑顔を忘れることなく、2人はインタビュアーが欲する言葉を次々と吐き出してくれていた。
「やっぱり、旬のアイドルならではの輝きと勢いがあるな・・・」
インタビューの最中、僕はそんなことを感じていたーー。
インタビューに与えられた時間は短かったけれど、誌面に掲載する文字量もそんなには多くなかった。高橋、板野、それぞれの言葉には無駄がなく、すべてが「使えるフレーズ」ばかりだった。誌面にするには十分な材料がすぐに集まった。
P227
アイドル時代の狂騒の日々を振り返ってもらった新田(恵理)に改めて、「アイドルとは何か?」と質問を投げかける。少しの間考えこんで、彼女は口を開いた。
「・・・アイドルとは、《時代の産物》じゃないかな?時代のニーズにあった人がトップをとっていくものだと思うから・・・」
たしかに、「旬」のアイドルには独自の輝きや勢いがあるが、これはアイドルに限らない。
「旬」の人、組織、モノは、悉く既存の価値や権威に異議を申し立てた勝者であり、独自の輝きや勢いに満ち溢れている。
「旬」の人、組織、モノが「旬」足り得るのは、対象者の現在ニーズが手に取れるばかりか、その果ての期待共々肯定的に、そして、強靭に裏切れるからだ。
しかし、だからこそ、「旬」の人、組織、モノははかなく、持続的でない。
「気まぐれな」対象者、否、人を持続的に惹き付けるには、既出の自分の価値や権威にも異議を申し立てる不断の試みが、ひいては、それに相応しい実力と気概の会得が、欠かせないのではないか。
P333
最期に、もちづき(る美)にどうしても伝えたいことがあった。
ーーどんなにつらい体験をしていても、どんなに過酷な境遇を話していても、最初から最期まで、もちづきさんには悲壮感も、翳のようなものも、何もありませんでした。とっても波乱万丈なのに、本人はその自覚がまるでないようですが、いったい・・・。
そこまで言うと、笑顔のもちづきが会話を引き取った。
「はい。だって、どうしようもないことだから。でも、さらに深く話したら、もっともっと波乱万丈だと思いますよ(笑)。下手な暴露本よりたぶん、私のほうが壮絶じゃないのかな?でも私、いつも思うんです。”何でみんなそんなことに食いつくんだろう?”って。だって、何も楽しくないでしょ。”不幸自慢して何になるの?”って私、いつも思うんです」
そこには、喜びも悲しみも、感動も痛みも経験してきた女性ならではの笑顔があった。
幸せも、不幸も、決めるのは自分の心ーー。
これこそ、彼女の考える「幸福論」なのだろう。もちづきはなおも笑っているーー。
もちづきる美さんの幸福論から、二つのことを気づかされた。
一つは、不幸な体験に「食いつく」のは、他者の前に、先ず自分である、ということ。
そして、もう一つは、不幸な体験に自分が食いついた後、自慢する、他者に食いつかせる、のは、それ以外楽しいと思えることが見当たらないから、ということだ。
要するに、「悲劇のヒロイン」の自認は自己責任なのだ。
「不幸自慢」は、歪んだ、そして、不毛な自己責任の表象だ。
P369
13名の「元アイドル」たちに、僕は尋ね続けた。
ーー生まれ変わってもアイドルになりたいですか、と。
そのニュアンスは人それぞれではあったけれど、全員が「もう一度やってみたい」と答えた。そして、こんな質問もした。
ーー娘が生まれたらアイドルにしたいですか、と。
すると、これも答えはみな一致していた。
「いえ、絶対にやらせません」
自分では「生まれ変わってももう一度アイドルになりたい」という想いを抱きつつ、その一方では「娘には絶対にやらせない」と語る。当人たちは、そこに矛盾を感じてはいなかった。
なぜなら、アイドルとは劇薬であり、一度服用してしまうと抜け出せない桃源郷、いや無間地獄に陥ってしまうことを本人たちは自覚しているからだ。そして、その副作用も大きいのだということを、身をもって経験しているからだ。一度浴びてしまったスポットライトは、筆舌に尽くしがたいほどの悦楽をもたらす反面、多くのものを失わせもした。
みずからが「偶像中毒(アイドルジャンキー)」であることを自覚している彼女たちは、いくら甘美で魅惑的な世界であっても、わざわざ愛する子どもをその世界に入れたいとは想わない。
アイドルとはかくも魅惑的で、危険な世界なのだ。
それが、彼女たちの言葉を聞いていて、僕がいつも感じていたことだった。
元アイドルが悉く「偶像中毒(アイドルジャンキー)」であり、かつ、その自覚を肯定的に有するのは、尤もだ。
なぜなら、著者の長谷川晶一さんも指摘されているように、彼女たちは、アイドルになった者だけが授かれる比類無い、正に禁断の悦楽を経験しているに違いないからだ。
アイドルとは異なるものの、かつて松任谷由実さんが全盛期の大型ライブの最中、万単位の観衆を眼前に収め、自分があたかも神になった気がした旨何かで仰っていたが、これらは通底していよう。
ただ、彼女たちがその自覚を肯定的に有するのは、実の所、否定的に有することに危惧があるからではないか。
彼女たちは、その自覚を否定的に有したが最後、自分自身と自分の人生を「捨てたモノではない」と思えなくなると、深層心理で危惧しているのではないか。
この推量が正しい場合、彼女たちのこの危惧はわからなくもない。
「馬鹿は死んでも治らない」という言葉があるが、人間は本当に強情だ。
良くも悪くも、また、年をとればとるほど、自分の習性を否定せず、変えない。
これは、詰る所、自我と人生の崩壊を回避するためだ。
しかし、彼女たちの危惧は思い過ごしだ。
そもそも私たちはみな、何らかを麻薬にし、望むと望まざると終生中毒患者で居続ける。
そして、数多の他者からどう見られようと、どう思われようと、自分だけは、自分自身と自分の人生を「捨てたモノではない」と思いたがるものだからだ。
彼女たちにとっては「アイドル」が麻薬だったが、現在宇宙開発に夢中なイーロン・マスクCEOにとっては「ベンチャー(起業)」が麻薬に違いない。
独自の禁断の麻薬にありつけた人生は、自分自身共々最高だ。
2012年10月30日
【将棋】「先ちゃんの浮いたり沈んだり/芸の極み、引退棋士の指し回しと勝たねばならない現役棋士の激闘」先崎学さん
P89
将棋連盟では、月に数回、男性棋士と女流棋士によるぶつかり稽古のような研究会を行なっている。
男の棋士は若手からベテランまで多くが参加して、なかなかに楽しい会である。
存外男女で指すことはすくない世界なので、女流棋士はもちろん、男性棋士にとっても貴重な場である。
(中略)
私の隣で指していたのは引退されて久しい桜井昇八段。
この日は先ごろ引退された石田和雄九段もいて賑やかであった。
さて、桜井八段、平手の将棋を指すのは何年ぶりかなあなどとボヤキながら若手の女の子を相手に指しているのだが、これが見ていて惚れ惚れするくらい急所に手が行くのである。
腕に年は取らせないというか、若手には悪いが芸が違うという感じなのだ。
しかし、問題は終盤である。
若手は当然ながら粘りまくるわけで、手を焼いているうちに桜井さん投了。
「いやあ、驚いた。アンタ、強い!」
私は「先生こそ強いでしょ、天才ですね」とおだてた。
「はっはっは、なかなかやるだろう。でも粘られて駄目だね。まいった」。
先輩の明るく元気な姿を見るのは嬉しいことである。
石田九段も次から次へと吹っとばしていた。
トップを張った棋士の指は常によいところに伸びるのだ。
要は根気がなくなって勝てなくなり引退しただけなのである。
勝っても負けてもいい将棋を指すのと、勝たなければいけない将棋を指すのでは当り前だがまったく心持が違う。
左様、勝負はプレッシャーとの闘いである。
さて、ここからはその、プレッシャーと闘う現役のはなし。
女流王将戦で里美香奈女流王将に中村真梨花女流二段が挑戦し、三番勝負が行なわれた。
一局目は中村さんが勝ち、王手をかけた。
中村さんは攻めが非常に強い将棋で、研究熱心なことでは女流でも一、二を争う。
控室の常連でもある。
実力はあれど、今までタイトルを奪ったことがなく、ここはビッグ・チャンスなのだ。
(中略)
二局目、聞き手の甲斐智恵美さんが「真梨花ちゃん、相当プレッシャーがかかっているみたい」という。
中村さんは惜しい将棋を負け、続いて行なわれた三局目も完敗し、逆転でシリーズを落とした。
終局後、「失礼します」と足早に消える中村さんにかけることばもでない。
日ごろは可愛らしい里美さんがこの時だけは憎らしく見えた。
現役である以上、憎らしいほどにならなければいけないというのは真理である。
たしかに、将棋に限らず、人は、年を取ると、勝負事、競争事に淡白になる嫌いがある。
そして、その元凶は、先崎学八段のお説の通り、最終局面まで根気が持たないことにある。
では、なぜ、人は、年を取ると、勝負事、競争事の最終局面まで根気が持たないのか。
主因は、やはり「体力の減退」だろう。
根気の原点能力である集中力は体力そのものでもあり、その減退は集中力を、ひいては、根気を、大きく滅ぼすに違いない。
しかし、真因は、先崎八段がこの度女流王将位を逆転防衛した、格下(失礼)かつ対戦確率の低い里美香奈女流棋士にさえ憎らしさを自覚なさった挿話から考察するに、「憎悪力の減退」ではないか。
勝負事、競争事の本質は「やるか、やられるか」であり、勝利するには、自分以外の相手を敵として敬愛する一方、敵として憎悪する必要がある。
ただ、憎悪力も年を取ると減退する嫌いがあり、然るに、熟年者は凡そ若者とは違って非攻撃的で、キレイゴトを選好する。
憎悪力は根気の要素能力であり、その減退は、体力の減退と同様、根気を大きく滅ぼすのではないか。
この考察が相応に正しければ、人は、キレイゴトばかり言い始めたら、勝負師、競争人として終わりに違いない。
2012年10月29日
【政治】「米の新アジア戦略 アーミテージ&ナイ白熱討論」リチャード・アーミテージさん(元米国務副長官)
【春原剛さん(日本経済新聞社編集委員)】
(※聴衆に向かって)次の質問です。
「尖閣諸島に有事が起きた時、アメリカは日本を守ってくれると思うか?」
(中略)
【リチャード・アーミテージさん】
質問の仕方が良くない(=不適切)だ。
この表現では、日本に主体性が無い。
「アメリカは日本を守ってくれると思うか」ではなく、「アメリカは日本を守ると思うか」と質問すべきだ。
※上記内容はいずれも意訳(私の理解)
アーミテージさんの主張は尤もだが、日本人のこの「他力本願」思考は外交に限らない。
「部下は、目標を達成してくれるだろうか?」、「会社は、定年まで自分を雇用してくれるだろうか?」、「夫(or妻)は、終生自分を愛してくれるだろうか?」、「子どもは、死ぬまで面倒を見てくれるだろうか?」等々、枚挙に暇が無い。
私たちは、隙あらば、確実かつ可能な自力を棚に置き、不確実な他力に人生を委ねている。
たしかに、最強棋士の羽生善治さんの思考は「他力本願」だが、これは、「自力本願」を極めた果てのそれだ。
不確実な成果に憂慮し、自助の労を惜しんだ挙句、安直に依存するそれとは、訳も次元も全然違う。
私たち凡人は、終生叶わずとも、先ずは「自力本願」の極みを目指すべきだ。
※2012年10月27日大隈記念講堂で催行
http://www.nikkei-events.jp/hakunetsu/
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2012年10月27日
【村興し】「ローマ法王に米を食べさせた男」高野誠鮮さん
P220
窒素、リン酸、カリウムなどが入った化学肥料は使わない。
さらに農薬や除草剤も使わずに自然の力で健康安全な作物を育てるーー。
平成22年の2月、(石川県)羽昨市に呼んだ木村秋則さんの自然栽培についての講演会は大盛況でした。
(中略)
けれど木村さんとお話しするうちに、そういった考えはなくなりました。
UFOや宇宙の話はおもしろいのだけど、もっと大事なことがあります。
今の日本の食糧事情のほうがはるかに問題なんですよ。
だって歳入49兆円の国が、28兆円も医療費を払っている、こんな先進国ないですよ。
ふつうの家庭に置き換えてみると、年収480万円の家が、280万円も医療費を支払っていることにあんる。
そんな家があったらおかしいと思いません?
よくないものを食べているからだと思いませんか?
農薬、化学肥料、除草剤、いちばん使っているのは中国じゃないですよ、アメリカでもない、日本ですよ。
こんな小さな島国で異常ですよ。
日本の農業は何かがおかしいんです。
農薬まみれ、化学肥料まみれの農作物ばかり食べていると、何かとんでもないことが起きるおそれがある・・・。
こうなるとじっとしていられません。
その年の10月、木村さんの畑がある弘前まで車で乗りつけました。
「先生、先生の話は感動的でした。でも僕は先生の話を聞いて感動する人を増やしたいわけではないんです。先生と同じことができる農家を100人も200人も作りたいんです」
それを聞いていた木村さんは、黙ったままでした。
「つまり、小さな木村秋則という農家を何百人も増やしたいんですよ。それを増やしていかないとまったく意味がないと思っているんですよ。日本を救うために、先生、一緒にやっていただけませんか!」
しばらくしてから木村さんは、こう言ってくれました。
「やろう。塾開こう。他のスケジュールを全部つぶしても羽昨へ行く」
木村さんがリンゴで証明してくれた、農薬も肥料も除草剤も使わない、自然にも体にもやさしい農作物。
この農法を木村さんと同じように実践できる人間がたくさんいないと日本の農業は救えない。
木村さんだけが作ってもあまり意味がないんです。
何十人、何百人、何万人の農家が、同じものを作れないとダメなんです。
だから、私は木村さんに、先生と同じ農法で同じ奇跡のリンゴを作ったり、米や野菜を作ったりする農家を増やしたいんですと懇願したわけです。
ただ、感動ばかりしていたのではダメ。
実行しないと意味がないんですよ。
「三流は、人の話を聞かない。
二流は、人の話を聞く。
一流は、人の話を聞いて実行する。
超一流は、人の話を聞いて工夫する」。
羽生善治さんのこの名言にならえば、著者の高野誠鮮さんは超一流に違いない。
人間の品格は、問題意識と解決欲求の不断の高さで決まる。
たしかに、感動は問題解決の実行と工夫の好機だが、問題意識と解決欲求が不断に低ければ、刹那の娯楽を超えない。
感動を活かすも殺すも、先ずは不断の自分次第だ。
2012年10月26日
2012年10月25日
2012年10月24日
【講演】「イノベーションのジレンマとは何か?」玉田俊平太さん(関西学院大学専門職大学院経営戦略研究科教授)
【私/堀】
企業が「イノベーションのジレンマ」を回避するには、何が一番大事、有効と考えるか。
【玉井さん】
(「イノベーションのジレンマ」の筆者のクレイトン・)クリステンセンは、組織を小さくすることを提唱している。
たとえば、大企業なら、子会社を作る。
【私】
それは、その方がオペレーション的にも、権限的にも小回りが利き、トライアンドエラーや意思決定がし易くなる、迅速になる、からか。
【玉井さん】
そうだ。
そして、破壊的イノベーションを希求するなら、その組織は、失敗しても親会社や本体(主要事業)に致命傷を与えない、少ないヒト、モノ、カネで構成するといい。
組織は、大きくなればなるほど、「慣性」が大きくなる。
だから、大企業は、たとえマーケットや顧客ニーズの変容が正確に把握できても、すぐには旧来商品の高質化(持続的イノベーション)を止められない。
「イノベーションのジレンマ」は、大企業が合理的な経営を行なったてん末だ。
【私】
小さくなった組織が「イノベーションのジレンマ」に陥らないようにするには、何が一番大事、有効と考えるか。
【玉井さん】
経営者が、破壊的イノベーション足らん商品に早期黒字化を強く求める、現場にプレッシャーを与える、ことだ。
【私】
それは、例えば、電機業界だとパナソニックのように(笑)、いずれの業界にも「真似」や「後発」が得意で資本力に富むリーダー企業が存在し、そうした企業に真似される、追いつかれる、潰される前に一日も早く、商品としてモノにさせる、「先行逃げ切り」を目指す、ということか。
【玉井さん】
そうだ。
【私】
では、企業が、他企業の破壊的イノベーションに備える(=他企業に破壊的イノベーションを先行実現されても、マーケットで生き残れるようにする)には、何が一番大事、有効と考えるか。
【玉井さん】
クリステンセンは、下級カテゴリーの商品開発を止めないことを提唱している。
いかに商品の高質化を不断に追求し、上級カテゴリーを志向しようとも、下級カテゴリーの商品開発を疎かにしない、下級カテゴリー商品を持ち続ける、ということだ。
だから、インテルは、クリステンセンのコンサルティングに従い、Celeron(セレロン)をリリースし続けている。
【私】
それは、自動車だと、スズキは絶対に軽自動車の製造から撤退すべきでない、ということと同義か。
軽自動車は、製造上上級車種とは異次元の高いノウハウが必要で、競合企業に真似され難く、他企業が破壊的イノベーションを果たしても、マーケットの残存確率が高いから。
【玉井さん】
そうだ。
トヨタがダイハツを傘下に収め、軽自動車のカテゴリーもグループとしてラインナップに含めたのは、この点を睨んでいると言える。
※上記内容は質疑応答の意訳(私の理解)
「イノベーションのジレンマ」を思う時、想起するのは「自己目的化の愚」だ。
私はかつて自動車メーカーに在籍したが、日本の自動車メーカーはいずれも「自己目的化の愚」をおかし、「高性能の新型車を作ること」、即ち、本項で言えば「持続的イノベーション」を果たすことそのものが事業の目的になってしまっていると、当時も今も感じている。
自動車に限らず、メーカーが、不断の性能向上とモデルチェンジに明け暮れているのは、詰る所、「お客が欲しいのは、ドリルではなく穴だ」と思い知っていないからだ。
顧客が、高性能の新モデルだけをひっきりなしに売り込まれた挙句、”その”マーケットから次々離脱し、自分の求める「穴」が授かれるマーケットへ移ろうのは、自然かつ当然だ。
現在の縮小した国内自動車マーケットは、「自己目的化の愚」のてん末に相応しい。
「他企業の破壊的イノベーションに備えるには、下級カテゴリーの商品開発を止めないこと」。
玉田俊平太教授の回答の内、本事項はとりわけ考えさせられた。
たしかに、下級カテゴリーは、”その”商品の原点価値を最も費用対効果良く達成して然るべき商品であり、破壊的イノベーションにも被弾し難い。
要するに、企業が生き残るには、いかに規模が大きくなろうと、否、規模が大きくなればなるほど、絶えず”Back to the Basic(原点回帰)”すべきなのだろう。
経営者は、自社商品の下級カテゴリーが無闇に身の丈を超えないよう、そして、社員が原点を忘れないよう、絶えず注意しなければいけない。
★2012年10月20日東京工業大学大学院キャンパス・イノベーションセンターにて催行
http://www.motjapan.org/sympo/index.html
http://www.motjapan.org/sympo/no8/MOTbrochure1001.pdf
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2012年10月20日
【邦画】「監督・ばんざい!」(2007)
2012年10月17日
【観戦記】「第71期名人戦A級順位戦〔第15局の6▲郷田真隆棋王△深浦康市九段〕郷田、初白星」加藤昌彦さん
勝った郷田(真隆棋王)は2連敗から初日が出た。
1勝2敗である。
自陣に銀を手放して、一度は負けたと思った勝負だけに、勝ち切れたのは大きい。
(中略)
感想戦は、序盤からたっぷり2時間ほど行われた。
さらに深浦(康市九段)が帰った後、郷田は、控室の検討に加わっていた金井恒太五段と、別室で再び検討を始めた。
どこまで進んでも、難解な変化が山ほどあった。
帰るときには朝になっていた。
たとえば、世の営業マンの中で、受注を獲得した日の夜、祝杯をあげるより先に、受注プロセスの検証に勤しむ営業マンがどれだけ居るだろう。
「勝って兜の緒を締めよ」という言葉があるが、それを高次かつ地で行ける所に、不肖の私は棋士に敬愛と憧憬を禁じ得ない。
眼前の成果に一喜一憂せず、課題と真理のみ追及できる人に、私も成りたい。
★2012年10月17日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/feature/shougi/
2012年10月16日
【医療】「病院で死ぬということ」山崎章郎さん
P119
いよいよ呼吸が停止し、心臓が停止しそうになったとき、ずっとそのときを待っていた医師たちは”さあ出番だぞ”といった緊張した面持ちで、手早く一人は人口呼吸を開始し、一人は看護婦に口早に強心剤の注射を用意するよう指示し、胸壁から直接心臓内に強心剤を注入するや、即座にベッド上に飛び上がり、患者にまたがると、その全身の力を込めて心臓マッサージを開始した。その表情は真剣で、髪を振り乱しながら心臓マッサージを行なっている姿は近寄りがたく、鬼気迫るものさえ感じた。途中交代しながら約一時間近く行なわれた蘇生術は、しかし当然のことながら、力を発揮することはできなかった。
そのあと、部屋の外で待機していた家族を病室へ呼び入れ、苦渋に満ちた表情で彼らに臨終を告げる主治医の姿に、僕は医療の限界と、その限界に挑む医者の苦悩を診るようでつらくもあったが、感動も覚えたのであった。そして一日も早く蘇生術をわが物とし、だれかの死に直面してもうろたえることなく、医者としての義務と責任が果たせるようになりたいものだと強く思った。
(中略)
臨終の場面は、まさに戦場であった。そしてその戦いは、決して勝利することのない戦いだった。戦いに敗れたあと、僕は先輩たちと同じように、いつも苦渋の中で患者の家族に敗北の宣言をしてきたのだ。「僕たちは精いっぱい頑張ってみました。でも残念ながら、勝つことはできませんでした」と。そしてたいていの家族は、「ここまで頑張ってもらったのですから、悔いはありません。お世話になりました」と言うのだ。
患者が病院の裏口から帰ったあと、僕はそのつど、これで一つの仕事を終えたのだという気持ちにはなれたが、いつもなんとも言えぬ、むなしい思いにとらわれていた。一所懸命頑張ってみたはずなのに、少しも心が充足しなかった。いつも何かやり残したような気持ちを引きずっていた。
(中略)
僕が初めて見た蘇生術に感動してしまったのは、僕が蘇生術を施す側の人間で、そのうえ未熟だったために、先輩医師たちの行動に圧倒されてしまったためなのだ。さらに先輩医師たちが、その蘇生術を自分たちが行なうべき当然の行為として、なんの疑いも持たず真剣にとり組んでいたために、その真剣さに心打たれてしまったためでもあった。
だが、この死との闘いである蘇生術の中で、本来闘うべき主人公はだれだったのだろうか。それはもちろん、いままさに死に瀕している患者のはずだ。ところが蘇生術の最中、一所懸命頑張って死と闘っているのは医者と看護婦だけで、臨終間近の当の患者は、すでに闘いのときを終え、ようやくたどり着いた、深い安らぎの世界に入ろうとしているところなのだ。
だから明らかに死の見えた患者への蘇生術は、患者が安らぎの世界に入ることを、強引に妨げているだけでしかない。医療側がかってに患者の身体を死との戦いの戦場として使い、そして敗走する。逃げる者たちはたいして傷つかず、戦場だけが荒廃するようなものなのだ。
それら蘇生術のほとんどが医療側の一方的な意志であり、行為にすぎなかったし、いま思えばそれらはただ医療側の自己満足にすぎなかったのだ。太刀打ちできなかった病気に対する最後の抵抗を示すことで、患者へではなく、家族へのせめてもの誠意を見せようとする見せかけの行為だったのだ。そして実際は家族の意見など聞くこともなく、一方的に行なっている蘇生術であるから、家族の思いすら踏みにじっていることが多かったのだ。
主役は死んでいく患者で、それを見守るのは家族や親しい者たちであるべきだったのに、医療者は、患者とその家族にとって最も厳粛で最も人間的であるべき最後の別れの場に、ようやく出番が回ってきて張り切っている三文役者のようにわが物顔で登場し、最もたいせつであるべき時間の大半を、しかもある意味では残虐な行為でしかない蘇生術を行なうことで奪っていたのだ。
汗がしたたり落ちるほどに頑張り、疲労困憊するほどに頑張った行為のあとに感じていたむなしさは、負け戦を戦ったあとの空しさだったのではなく、一方的に自己の意志を押し通しつづけ、結局、自己満足でしかなかった行為のためだったのだ。
患者の治療費を払うのは家族ゆえ、終末医療の直接顧客は家族である。
山崎章郎医師のこのお考えは尤もであり、医療という商品(サービス)に限らず、現存の多くの商品に通底する。
咀嚼すれば、以下になる。
〔1〕商品の開発者は、顧客の欲求(ニーズ)、満足、自尊心より、自分のそれらを優先する嫌いがある。
〔2〕商品の開発者&供給者(売り手)は、商品の利用者(需要者)の満足より、商品の購入者(買い手)のそれを優先する嫌いがある。
だから、大半の自動車ディーラーの営業マンは、お客さまに最適なクルマではなく、自分や会社が売りたいクルマをお客さまに一所懸命売りつけるし、昨今のテレビドラマは、広告主からクレームを食らわないよう、極めて予定調和的に、無難に作られる。
そして、お客さまは益々自動車を買い控えるようになり、視聴者は益々テレビを見なくなる。
P179
彼女が真実を知ってからは、子供たちと彼女の間にはうそがなくなったので、子供たちはもはや彼女の言動におどおどしたり、あわてる必要がなくなった。この最終的局面で子供たちは彼女の罹病後、初めて本音で彼女と接することができるようになったのだ。子供たちは間もなく母親を失う悲しみを痛いほど感じてはいたが、彼女の平穏な精神状態を見て、彼ら自身の心も安定したものとなった。
したがって、帰院してからの彼女と家族と医療者の三者の関係は、パニック時の関係からは信じられないほどおだやかなものとなった。そして、だれもが彼女の気持ちにだけ従って動き、彼女の意思の尊重に最重点をおくことができた。しかし、彼女自身は僕たちの申し出にもかかわらず、あまり何かを望むということもなく、静かな闘病となった。
帰院後九日目、彼女の静かな反応はさらに弱くなり、十日目の深夜、家族の見守る中、彼女は六十年の生涯を閉じたのであった。その死は幾つかのチューブ類に囲まれてはいたが、静かなものであった。
彼女の六十年の生涯の大半は決して幸せなものとは言えなかった。だが、その最後の十日間の間に彼女は絶望的な不幸のさなかにあったとしても、みずから納得して生きようとするとき、そしてそれを支えようとする者たちがいるときに、人は悲痛な叫びの中でではなく、ごく自然な流れの中で、ほほえみながらその最期を迎えることが可能であることを、僕たちに示してくれたのであった。
結局、絶望は期待成果(進捗)の不獲得、見込不能を自覚したてん末だが、プロセス(期待成果の創出に良いと思ってやっていること)と成果の乖離が不合理であればあるほど、そして、納得が行かなければ行かないほど、大きく、耐え難い、ということだろう。
人生で大事なのは、絶望し、不幸な臨終を迎えないことだ。
なぜなら、それで人生は本当にお仕舞いだからだ。
大きく、耐え難い絶望を免れるべく、とにかく私たちは納得が行く人生を選好しなければいけない。
P210
いま、この五日間の外泊と、前回の五日間の外泊のことを考えている。こんなに充実した時間は、いままでなかったような気がする。これから先もずっといっしょにいられると思っていたから、お前たちといっしょにいる時間のたいせつさに気がつかなかったんだ。病気になって、しかもお前たちといっしょにいる時間がもうあまりないかもしれないときになって、お前たちといっしょに過ごすことのたいせつさや楽しさを知らなければならないとは、とても悔しくて残念なことだ。
しかし、この二回の外泊の十日間は、お父さんにとっては実に充実した日々だったよ。前の外泊のときもそうだったが、こんどの外泊でもお父さんにはうれしいことがいっぱいあった。中でもそのうちの二つはお前たちの父親であることが実感できて、とてもうれしかった。
まず一つは、三日間の外泊の予定で帰ってきたのに、お前たちには内緒で二日間延長した昨日のことだ。お前やお姉ちゃんが学校から帰って来たときに、いないはずのお父さんの顔を見るなり、「まだいてくれたの」と言って喜んでくれた、お前たちのあの笑顔を見ることができたこと、あの笑顔は最高だったよ。あの笑顔が見られただけでも外泊期間を延ばしてよかったと思えたほどだ。心からの笑顔というものが、どれだけ人を勇気づけるか知っていてほしい。うん、これはお父さんが実感して言うのだからまちがいない。
(中略)
いま、お前たちの寝顔をのぞいてしまった。お前たちの寝顔を見るのも、これが最後かもしれないと思うと、どうしても見ておきたくなったのだ。つい、のぞき見してしまったことは許してくれ。それにしても皆、いい顔をして眠っていた。お前たちの寝顔を見ていると、お父さんがどれだけお前たちを愛していたかがよくわかる。そして死ぬかもしれないことが、少しも怖くない理由がいまよくわかった。お父さんがお前たちのことを命も惜しくないほど愛していて、そしてお前たちも同じぐらいお父さんのことを愛してくれているのを感じるからだ。
そうなのだ。死を乗り越えることができるのは勇気でもあきらめでもない、愛なのだ。愛していること、愛されていることを感じ合えたときに、すべての恐怖は消え去っていくのだ。やがて、いつかきっとお前にもわかる日がくるだろう。
本文は、末期ガンを患われた若き父親の子どもへ向けた遺書の一部だが、感動と思考に富んでいる。
人が異性を、子どもを、家族を欲求するのは、詰る所「来たるべき死への備え」であり、もっと言えば「愛し愛される人に看取られる可能性の担保」なのかもしれない。
P220
僕が、なぜ末期ガン患者に病名や病状を伝えることにこだわるのかと言えば、それは基本的には患者自身の情報であり、その情報は患者の人生を大きく左右するものだからである。それは確かに患者にとってはつらい情報であることにまちがいはない。しかし、不治の疾患であるのだからとか、どうせだめなのだからとか、かわいそうだからなどという理由のもとに、医療者や家族の判断だけで、患者に真実を伝えないということは結局、相手を信頼していないことであり、同時にだれもが正しい情報のもとに、みずからの決定で自己の人生を生きることができる自己決定権という大切な人権を侵害し、場合によっては、一方的に、その人の人生の可能性を奪うことになりかねないのだということを知る必要がある。
だれも他の人の人生にとってかわることはできないのだ。それはたとえ、家族であったとしてもだ。しかし、そのつらい人生を共に担う手助けはできるはずだ。もちろん、実際の臨床の場では家族と共に考えながらとり組むべきことであり、家族の合意のもとに進めるべきことであるが、病名や病状を伝える努力を最初から放棄することは、患者の人生を侮辱することにもつながりかねず、当然まちがっていると言える。
山崎医師のこのお考えも、尤もかつ完全同意だ。
そして、なぜ私たちが、情報を、それも、正しい情報を他者にインターセプトとされることに耐え難い嫌悪や辟易を感じるか、初めてわかった気がした。
そうなのだ。
人生は選択肢の決断であり、判断力、気概、信念、諦観、そして、情報が欠かない。
情報の人為的欠如は、肉体の前に精神の、自我と自尊の崩壊を予感せしめるのだ。
2012年10月13日
2012年10月12日
【マラソン】「高橋尚子 金メダルへの絆」小出義雄さん
P95
失敗してわかった練習方法
世界選手権に出すことは半分諦めていたが、(97年)5月の大阪国際グランプリも選考レースの一つだったから、最後のチャンスに、その5000メートルに出してみることにした。
私は結婚式があって大阪には行けなかったが、深山文夫コーチに指示をして、レース当日の朝に5000メートルを全力で走らせてみた。その結果、レースでは15分23秒64で5位になった。日本選手では4番目だったが、4位に入った千葉真子選手が1万メートルの代表になったため、3番手の選手として代表に滑り込んだ。
大阪国際マラソンの失敗のあと、高橋(尚子)に関して私は諦める一歩手前までいっていた。だが、そこから、彼女についてのコンディショニングの方法を大会のたびに試みてみた。大阪国際グランプリ当日の朝にやってみたのも、そんなテストの一つだった。
私の場合、高校生を20数年間指導していたが、入学してきた生徒をほんとうにわかるまでには1年半くらいかかっていた。その子が練習の成果を出せるコンディショニングや調整方法がわかるまでにはそれくらいの時間がかかる。2年生の秋ごろから、この子はこういう方法でやれば走れるかなと。だから1年生のころにはなかなか強くならないものだ。
高橋の場合も私が見始めて1年半くらいまでは、こうすれば疲労は回復するとか、高地練習をすればこうなってくるというのがわからなかった。それがわかるようになったのは、大阪で失敗してからだった。その後もいろいろ試してみるうちに、それまでやっていた有森(裕子)や鈴木(博美)のコンディショニングとはまったく違うということがわかってきたのだ。
そのようなことを選手に試してみることは、ほんとうに勇気がいる。自分の調整方法が一番正しいと思って、高橋はもう駄目だと判断すれば、そこで終わっていただろう。
怪我をしたことを割り引いても、最初のうちは走ってくれなかった。それも、いま考えれば練習の仕方が悪かったためで、私の責任だ。いまでも時々、「これをやらせたら疲れちゃうだろうな」と思うこともあるが、そこを割り切って「高橋はこうでなくてはならない」と、自分に言い聞かせながら練習メニューを組んでいる。
普通の選手なら、試合の何日か前までハードなトレーニングをやらせて、それから疲労を取って試合にぶつけるようにする。
それが高橋の場合は、普通のやり方では駄目なのだ。
鈴木と有森でもそれぞれ違いはあるが、高橋のやり方を試してみたら、鈴木はとてもじゃないだろうし、有森でも真似できないだろう。普通の選手にそんなことをしたら全部潰れてしまうほどだ。
P127
どんな練習にも音をあげない高橋のスタミナ
(98年3月の)名古屋(国際女子マラソン)でゴールした直後 に高橋は、「監督、まだ走れますよ」と平気な顔をして私に話しかけてきた。「なんだよおまえ、アベベ・ビギラのようなことを言うじゃないか」と返したが、 高橋にそれほどスタミナがあるとは、私の予想以上で驚くしかなかった。
それからは、それまでにこなしていた練習に、輪をかけるようにもっ と違うやり方を試してみると、さらにいいタイムで走ってしまう。練習というのはさまざまな方法があるものだと改めて思い直し、試しに高橋本人がびっくりするほど走らせてみると、それでもやってしまう。そうしてさらに強くなってしまうのだ。
佐倉でのことだ。30キロのタイムトライアルをやら せてみた。すると、アップダウンのあるコースにもかかわらず、すごいペースで走っている。「おいおい、これじゃ世界記録で走ってしまうよ」とコーチと顔を 見合わせた。走っている高橋に「キューちゃん、ほんとうにおまえ大丈夫か」と聞くと、本人は「はい、大丈夫です」と、走りながらニコニコして答えてくる。
しかし、あまりに速いから、「もう今日はいいや、ここでやめよう」と、途中でやめさせた。すると「まだ走れますよ」と、これまたケロッとして言うのだ。
それから練習方法をどんどん変えてみた。メキメキと強くなってきたので、練習もますますできるようになった。練習というのは、監督が自分のイメージだけに固執してしまっては駄目なものだと思う。
小出義雄監督が、過去の輝かしいキャリアと実績をもってしても、高橋尚子選手にとっての最適なトレーニングメニューを案出するのに一年半もの時間を要されたこと、そして、高橋選手を諦める一歩手前まで行かれたこと、に考えさせられた。
そして、以下の二事項を感じた。
一つは、過去のキャリアや実績は必ずしも現在や未来に有効でない、ということだ。
これまで小出監督は、鈴木博美選手や有森裕子選手を筆頭に、女子マラソンのトップレベルの選手を多々輩出なさったが、そんな比類無いキャリアや実績も、高橋選手の育成にすぐさま応用できるものではなかった。
過去に培った優れた方法論、成功イメージの内、現在や未来の問題にそのまま即継続利用できるものは本当に限られる。
もう一つは、成功の継続には本分と責任の不断の自覚が欠かせない、ということだ。
小出監督が高橋選手の育成を試行錯誤できたのは、詰る所、高橋選手を諦め切れなかったこと、深く愛していたことに加え、自分の本分と責任を「選手毎に最適な指導を施し、彼女たちのあらゆる成果に責任を負うこと」と絶えず自覚なさっていたからに違いない。
指導者は、キャリアや実績を重ねるほど、過去に培った方法論や成功イメージに執着し、諦めがよくなる。
即ち、試行錯誤を恐れる、億劫がる、端折る、そして、収められたはずの成功を逃す嫌いがあるが、それは、自分の本分と責任を誤解している、見失っているからだ。
P133
両親の前から泣きながら逃げ出した高橋
アジア大会に向けての練習は順調だった。あまりにも速いペースで走るので、「落とせ、落とせ、落とせ」と必死に抑えなければならないくらいだった。
しかし別の、ある不安があった。珍しく高橋が浮かれてきたような感じがしたのだ。このままではまずいは、そう思った私は、どこかでカミナリを落とすチャンスをうかがっていた。
アジア大会のレースの丁度1週間前に全日本実業団女子駅伝があった。例年なら12月の第2週に行なわれるのだが、アジア大会と重なってしまうため11月29日に早められていたのだ。高橋は最長区間の11.5キロを走る予定だったが、アジア大会に出られることが嬉しくてしかたないようすで、そのうえ練習も思うとおりにできたので自信満々だったのだと思う。そんな慢心がちょっとした言動に出ていたのだ。
そんな気持ちをどこかで一度締めておかなくてはならない。アジア大会までは日があるので、まだ間に合うと考えた。
駅伝の3日前にちょうどご両親が駅伝の激励にホテルまでみえていた。その機会をとらえて、高橋のささいな言葉に反応し、「ナニ!」と、こっぴどく怒ってみせたのだ。
「お前みたいな選手はそこらにいっぱいいるんだ。いまだって数人いるんだ。ふざけんじゃねぇよ、この野郎」
お父さんとお母さんがいる前でわざとやった。それが一番きくと思ったからだ。
高橋はいても立ってもいられなくて、「ウワーッ」と泣きながら自分の部屋に逃げてしまった。お母さんが追いかけていって、30分くらいしたら戻ってきた。そして、
「監督さん、うちの子は監督さんのことを好きです。だから大丈夫です」
とおっしゃる。しかし、私は今度お母さんに向かって、
「そんなことは聞いていない。好きとか嫌いとかの問題じゃない」
と、失礼を顧みず怒り始めた。
そこまでしたのは、このままでいったら、駅伝も駄目、アジア大会も駄目になってしまう、冷静に私の言うことを聞くようにしておかなければ、勝てなくなってしまうと思ったからだ。
言葉の端ばしに少しでも生意気な雰囲気が出てきたら危険信号だ。たまにポロッ、ポロッと出てくることがある。
合宿先のボルダーにテレビの取材が来ていて、練習で走っているときに、ピタッと横につけられた。高橋は私に、「監督やめさせてください。あの車、じゃまです」と言うから、「なんだ、その口のきき方は」と、大きな声を出したこともあった。
こんなことが私はものすごく許せない。せっかく遠くから取材に来てくれたのだ。感謝の気持ちがなければ、世界では勝てない。偉大な選手がニコッと笑って迎えてくれるように、大物になれば大物の風格を見せてほしいのだ。
「おまえがどんなに強くなっても、世界一になっても、生意気な態度をとったら見放すぞ」
と常づね言っている。私は生意気になった若者が一番嫌いだ。後輩をいじめたり、威張ったりするヤツだ。
「キューちゃん、マラソンの3分や5分なんてそんなに価値はないんだ。たしかにどこの大会で一番になったということは価値がある。でもマラソンで数分速いということは、調整や条件によって変わるものだからちっとも偉くない。それよりおまえさんたちが、40歳、50歳になって、若いころにかけっこをやっててよかったなと思う、そういう喜びのほうが大事なんだよ」
このような話を聞いてしまうと、やはり、指導者が一番に希求すべきは被指導者の中長期的な幸福であり、そして、一番に指導すべきは躾だ、と改めて思わざるを得ない。
また、躾の要所は、慢心を生意気ではなく、感謝や寛容に昇華させることだ、とも。
被指導者は、指導者に躾けられ、人格が向上するから、眼前の苦労を甘受し、技術の一層の高次化を果たし得るのだ。
P148
どんな強い外国人選手にも恐怖を感じてはいけない
私が言っていることは、誰もが簡単にできることではない。だが、その言葉を素直に聞いて信じてしまうというのは、高橋がまだマラソンというものを知らないからだ。
ノルウェーのイングリッド・クリスチャンセンが、女子マラソンが始まったばかりのころの85年に、2時間21分6秒という世界最高記録をつくった。それから15年近くその記録が破られなかったのは、選手たちがマラソンを知ってしまったからだと思う。
その意味では、クリスチャンセンがあの記録を出したときには、マラソンを知らなかったから出せたといえるだろう。マラソンというものがどんなものか知ってしまったら、怖くて速いペースでは飛び出せなくなるのだ。
それに日本人は、外国人選手が出ると、怖くて前に出られなくなる。ポルトガルのモタさんと走るレースなどは、彼女の前にはおっかなくて出られなかった。しかし、そうではないんだという先鞭をつけたのが、アジア大会での高橋の走りだったと思う。
高橋はそんなことにとらわれない、いい感覚をもっている。日本の女子マラソンも強くなったが、高橋がアジア大会でやったような突破口が大事なのだ。誰かがそれをやらなくてはならない。
だから私はよくみんなに言う。一つの仕事をする場合、こうしなくちゃいけない、ああしなくちゃいけない、などとやっていたら、ダメだと。生意気なようだが、私はいつも言う。「マラソンなんて5000メートルを8本やるつもりでいけばいい」と。
そういう感覚が必要なのだ。走れなくても元々だと思い、どこまでもつかやってみればいい。年がら年中そんなことをやっているわけにはいかないが、そういうことも大切だということはわかっていてほしい。
だがそれをやってみるためには、自分の限界がどこにあるかを知っておかなければならない。それを知る練習をやっておく必要がある。普段やっていないことがレースでできるわけがないからだ。
要するに、「無知の知」ということだ。
「こんなもの」と固定概念を持つことは、対象とする物事の発展、及び、自らのブレークスルーの大きな妨げになる。
「こんなもの」と思ってしまったら、対象とする物事は「こんなもの」を超え得ない。
では、私たちはいかにすれば、固定概念から解放されるのか。
一番は、高橋選手が「とにかく走ることが好きだから走る」ように、物事そのものを好きになることや、好きでたまらない物事をやることではないか。
たしか、40才を過ぎてもなお現役最強棋士と称えられる羽生善治さんは、将棋を始めた理由として、「勝つと楽しいが、それ以前に何回やっても『コツ』がよくわからなかった(→将棋の何たるかに強く魅かれた)からだ」との旨仰っていた。
小出監督の話では、高橋選手はとにかく走ることそのものが大好きかつ本望で、オリンピックでメダルを取ることはその次だった。
そして、有森選手はメダルを取るために「致し方無く」トレーニングを甘受したが、高橋選手はトレーニングそのものを満喫した、と言う。
物事をいつまでも、いかなる時でも好きで居続けるのは決して容易ではないが、「こんなもの」と思う物事に二度と無い時間と体力を投じることほど、人生の徒労は他に無いに違いない。
2012年10月08日
2012年10月07日
【BSTBS】「SONG TO SOUL 永遠の一曲」Jump”Van Halen”
【ナレーション】
(ロスアンゼルス北東の町)パサデナでバンド活動をしていヴァン・ヘイレン兄弟。
そこに、他のバンドでベースを弾いていたマイケル・アンソニー、そして、PAシステムを借りることで親しくなったデイヴィッド・リー・ロスが加入したのだ。
パサデナで人気が出た彼らは、ロスアンゼルスの音楽の中心でもあったハリウッドへ本格的に進出。
(ウィスキー・ア・ゴーゴーなどの)名門ライブハウスなどで演奏するようになった。
【アレックス・ヴァン・ヘイレンさん】
俺たちは、何年も、毎晩五時間、クラブであらゆる曲をライブ演奏してきた。
色んな曲が俺たちの中に染み込み、好みにも影響を与えた。
【デイヴィッド・リー・ロスさん】
クラブで毎晩演奏していたあの数年間が、俺たちの音楽人生のベースになっているのかもしれない。
色んな曲を演ったよなぁ。
クール&ギャングのナンバーから「スモーク・オン・ザ・ウォーター」まで、何でも演奏した。
レッド・ツェッペリンからオハイヨ・プレイヤーズまでカヴァーしたあの時代が、俺たちにとって「大学」時代だった。
【ナレーション】
1977年の秋、ウェストハリウッドにあったクラブ、スターウッドでライブを行なっていた彼らに大きなチャンスが訪れた。
伝説的なプロデューサー、デッド・テンプルマンが、レコード会社の社長と共に演奏を観に来たのだ。
【デッド・テンプルマンさん】
ヴァン・ヘイレンが演奏していた。
5人くらいしか観客がいないのに、コロシアムで演奏しているような迫力だった。
すごいエネルギーでデイブは飛び跳ね、そして、エディの演奏は僕を虜にした。
まるで、女性に恋でもしたような感覚だった。
人生で最高のミュージシャンに出会った衝撃的な瞬間だった。
僕はモー(※ワーナー・ブラザース社長)に、すぐ彼らと契約すべきだと言った。
彼のようなギタリストは見たことがなかった。
ハンマリング・オンなどの技を演ってた。
それまで、ハンマリング・オンという技を直接見たことはなかった。
だから、エディの演奏に釘付けになった。
その上、ポップで今までに無い音楽だった。
技術的にもそうだし、彼のサウンド全てに新鮮な響きがあった。
(中略)
【デッド・テンプルマンさん】
ヴァン・ヘイレンと契約をしたのは、エディの才能があったからだ。
他の人はあまり目に入らなかった。
プロデュースする時、僕は自分を「光を当てる人物」と考える。
その人をよく見せようとするのだ。
エディのプレイを世の人に見せたい。
理由はそれだけだった。
しかし、彼らを知るうちに、まとまりのあるグループだと分かった。
彼らには熱意もあった。
契約の切っ掛けはエディだったが、次第にバンドとして完成されていると分かった。
【ナレーション】
テッドたちが演奏を観に来たその日に、彼らはワーナー・ブラザースと契約。
チャンスを掴んだヴァン・ヘイレンは、すぐにデモを制作。
続いて、アルバムのレコーディングに入った。
レコーディングはサンセットサウンドスタジオで行なわれた。
デッド・テンプルマンによるプロデュース、そして、ドン・ランディのエンジニアリングにより順調に進み、1978年にファーストアルバム(「炎の導火線/Van Halen」)をリリース。
いきなり150万枚を売る大ヒットとなった。
【デイヴィッド・リー・ロスさん】
俺たちは、最初からハイブリッド・サウンドのバンドだった。
それまでカヴァーしてきたいろんな曲の影響の結果だ。
簡単にジャンル分けされるバンドのサウンドは平面的だ。
常に同じリズムで、出だしを聴けば終わりが想像できるから、一発屋で終わってしまう。
人間だって、「善人」「悪人」とは簡単に分けられないだろ?
ヒットラーだって小犬を飼っていたんだぜ!
人間は矛盾する要素を持っているし、ヴァン・ヘイレンには最初からそれがあった。
(中略)
【デッド・テンプルマンさん】
商業的な成功は全く考えていなかった。
僕は、エディの才能とバンドを愛していただけだ。
AMラジオのトップ40と呼ばれる土壌に、彼らは合わないと思っていた。
「ユー・リアリー・ガット・ミー」はラジオで聴くのにいい曲だったが、ちょっと危険な感じがしたので、ヒットしたのには驚きだった。
彼らは、自分たちの価値をそこで証明したのさ。
(中略)
【エドワード・ヴァン・ヘイレンさん】
セカンドアルバム(「伝説の爆撃機/Van Halen2」)の批評には頭を抱えたよ。
「デビューアルバム(「炎の導火線/Van Halen」)とは全く違う」と怒っているんだ。
同じサウンドだったら、きっと「デビューアルバムと全く同じだ」と書かれただろう。
そんなことだから、昔のサウンドを焼き直し続けるしかなくなるんだ。
しかし、俺たちは、常に新しいことに挑戦し続けた。
自分の中から出てくるメロディで意図的に作り上げた曲は無い。
サウンド路線を意図的に変えたわけでも、コピーしたわけでもない。
【デイヴィッド・リー・ロスさん】
俺はワンパターン男だけど!
【アレックス・ヴァン・ヘイレンさん】
「脅威の」ね!(大爆笑)
【デイヴィッド・リー・ロスさん】
ワンパターンだけど芸域は広い。
どんな曲も同じに聴こえる。
【エドワード・ヴァン・ヘイレンさん】
だから、ヴァン・ヘイレンの曲は全てヴァン・ヘイレンだって分かるのさ!
(中略)
【エドワード・ヴァン・ヘイレンさん】
「ジャンプ/Jump」のあの(キーボードの)オープニング・リフがどこからきたのかなんて分からない。
あの頃はキーボードをよく弾いていて、幼い頃からピアノを叩き込まれていたお陰で、どこかからキーボードのリフが俺を通して「出てきた」だけだ。
その源は?
経験の積み重ねさ!
イジメや失恋、マズいホットドッグ等の色んな経験が、俺という「フィルター」を通して出てきたんだ。
人間は様々な経験を溜め込む「スポンジ」みたいなもので、それを絞ると、あの時は「ジャンプ」のメロディが生まれた。
【アレックス・ヴァン・ヘイレンさん】
アルバムに入っている「ジャンプ」は、俺の記憶は頼りにならないが、一発目か二回目の演奏だ。
それなのにエディは、100回以上演奏を繰り返した。
一発で完璧に出来たことを証明する為に、無駄なことを繰り返した。
このことからも、創造の過程はどんなものかが分かる。
無意識で作ったものに、後から意味付けをしようとするんだ。
全ての曲が神秘的に生まれるわけじゃない。
【デイヴィッド・リー・ロスさん】
多くの者が、一発で決められたことに「罪悪感」を持ち、イジり過ぎて自滅する。
【アレックス・ヴァン・ヘイレンさん】
ご明察!
正にその通りだ。
(中略)
【デイヴィッド・リー・ロスさん】
「ジャンプ」の歌詞には、俺を最も輝かせ、同時に苦痛を与えた「言葉」が入っている。
Might as well jump !(とりあえず飛んでみるか!)
週末になると「とりあえず」、ジャンプ抜きで「とりあえずって、色んな無茶をしてきた。
結婚を繰り返し、子どもが生まれ・・・
【アレックス・ヴァン・ヘイレンさん】
俺の人生そのものだ!(大爆笑)
【デイヴィッド・リー・ロスさん】
状況で色々変わるけれど、前に進むという意志表示は変わらない。
何日も思い悩まず、チェスみたいに何手も先を読まず、とにかく前進を続ける。
そんな時に使うのが「とりあえず」だ。
「とりあえず」大きな挑戦して大失敗に終わることもあるが、人生を精一杯生きたという記憶は残る。
(中略)
【デイヴィッド・リー・ロスさん】
ヴァン・ヘイレンは雑多な要素の「寄せ集め」である点では、米国空軍並みだ。
聞いたこともない要素も混ざった「寄せ集め」さ!
でも、俺たちは「流行」に全く関係ないところで活動をしてきた。
【アレックス・ヴァン・ヘイレンさん】
一つの形に固執しなかったことで、常に新しいことに挑戦できた。
今でも曲作りでは全員が衝突するが、それが健全なんだ。
全員が同じ考えなら、仲間でやる必要がない。
【エドワード・ヴァン・ヘイレンさん】
同じ意見なら、バンドをやる必要はない!
成功者は、悉く哲学者だ。
彼らは、絶えず徹底的に世を問い、自らを問う。
そして、ある時、その途中成果が予想外に権威や大衆から肯定評価される。
成功とは、果てしない哲学の道に潜む奇跡だ。
ヴァン・ヘイレンは紛れも無く音楽の成功者だが、メンバーはやはり哲学者に違いない。
ボーカルのデイヴィッド・リー・ロスさん、ドラムのアレックス・ヴァン・ヘイレンさん、ギターのエドワード・ヴァン・ヘイレンさんのお三方の発言は甚だ含蓄に富み、彼らが哲学の道の熱心な往来者であり続けてきたことを十二分に証明する。
不肖の私は、彼らをもっと感覚的な人間だと思っていたが、誤解だった。
彼らの発言の内、とりわけ含蓄を感じたのは、以下の二つだ。
一つは、デイヴィッド・リー・ロスさんの「ヴァン・ヘイレンは、多様なルーツからハイブリッドサウンドを志向したが為に、一発屋で終わらずに済んだ」という発言だ。
たしかに、優れた映画も、ストーリーがシンプルな一方、解釈は多様にでき、観る者に長く深い感動と思考の余韻を与える。
人間は、生まれつき矛盾の生き物だ。
音楽であれ、映画であれ、人に感動を与えるべきモノは、そんな人間の本性を損ねてはいけないに違いない。
もう一つは、エドワード・ヴァン・ヘイレンさんの「大ヒット曲『ジャンプ』のオープニング・リフの源泉は、過去の人生経験、それも、肯定、否定入り混じった全人生経験だ」という発言だ。
たしかに、山本恭司さんも「いいギターを弾くには、『いい生き方』をすべし」と仰っており、決断が創造した経験は、肯定、否定の別なく、説得力に富む自己表現に成り得る。
自己表現の源泉は自分以外有り得ない。
決断を躊躇すべき人生が有り得ないように、無駄な、創造を端折るべき経験も有り得ないに違いない。
★2012年8月7日放送分
http://w3.bs-tbs.co.jp/songtosoul/onair/onair_66.html
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2012年10月05日
【NHK】「水玉の女王 草間彌生の全力疾走」草間彌生さん
あのねえ、水玉はただの水玉じゃなくって、「平和のシンボルの水玉」だって売り込んでるの、私は。
だから、あれだけの人が来るわけよ。
絵描きとして展覧(会)をしたって誰も来ないよ、きっと。
夏目漱石や、それから色んな、宮沢賢治だとか、みんな、精神の売り込みやってるのよ、結局。
だから、みんな、いつまで経っても、ベストセラーでやってるでしょ、結構。
そういうふうにもって行かなかったら、芸術家としてやっていくのは難しいと思うよ。
「人間は二種類ある。
地獄を見れる人間と見れない人間だ。
地獄を見れない人間は、そもそも論外だ。
しかし、必ずしも地獄を見れればいいわけではない。
なぜなら、地獄を見れば、それで人間はおしまいだからだ」。
私は、番組を見て、若い時分に読んだこの旨の中原中也さんの伝記の一節を思い出すと共に、草間彌生さんが現実に精神を病んでおられることに合点した。
そう。
草間さんは地獄をご覧になったに違いない。
草間さんは番組の中で「自殺」や「死」という言葉を多用なさっていたが、それは、地獄に片足を突っ込んでしまっている自分が、かつて夏目漱石や宮沢賢治がしたように、一つの作品に自分の掛け替えの無い精神を切り売りして、命からがら現世に踏みとどまっている、生きながらえている自覚を絶えずお持ちだからに違いない。
そして、そんな草間さんだからこそ、自分の絵が、夏目漱石や宮沢賢治の作品と同様、未来永劫ベストセラー化する、永遠の名作として語り継がれるのを確信なさるに違いない。
名作は、地獄を見れた人間の精神、否、苦悩の分身であり、また、決断の賜物だ。
地獄を見れないばかりか、芸術に疎い私たち凡人にさえ感動をふるまうのは、彼らの断腸の決断が確然と窺えるからではないか。
★2012年9月28日放送分
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0928/
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