2012年08月
2012年08月29日
【経営】「僕がアップルで学んだこと」松井博さん
P84
過剰品質を求めない
前の項でも軽く触れましたが、開発を進めていくうえで非常に大切なこと、それは過剰品質を求めないことです。
「PCWorld」誌が2011年12月に読者6万3000人を対象に行なったアンケート(※評価項目は「初期不良」、「重大な問題」、「障害による部品交換」、「動作しない」、「全般的な信頼性」)によると、アップルのノート型パソコンの信頼性は最も高いとされています(「必ずしもすべての不具合は直さないアップルだが、それでもユーザーの信頼性に対する満足度は高い」)。
この調査によると1~3位はアップル、サムスン、東芝となっており、10位以内に入った日本のメーカーは東芝のみで、ソニーは14位となっています。
ほかの日本メーカーはそもそも米国内での売り上げが低すぎて、このような調査に取り上げてもらえないといった、別の面でずっと深刻な問題があります。
私はこれを、過剰品質を求める日本のメーカーの体質による弊害ではないかと考えています。
私自身の日本のメーカーにおける体験でも、デザインによる差別化などにはほとんど工夫が見られず、細かい不具合をひたすら直すために非常に長時間の残業をしていた覚えがあります。
日本のメーカーは「訴求力はないが不具合だけは少ない製品」をたくさん作っている印象です、
木を見るのはなく森を見て、過剰品質ではなく価格相応の品質を求め、それまでそこに使ってきた人的リソースを効率よく活用することで、さらに優れた製品を創り出すことができるのではないでしょうか?
なぜ、日本製のパソコンはアメリカで信頼されないのか。
著者の松井博さんがお考えになった「『製品の訴求力』が、ひいては、『製品の満足度』が低いから」というのは尤もだが、本事項は多々考えさせられる。
たしかに、フェラーリや金食い虫のイイ女(笑)が絶えず引く手数多であるように、「製品の訴求力」が高ければ、即ち、「”その”製品が高次かつ唯一無二の付加価値」を有していれば、製品の実用品質が多少劣っても、”その”製品は満足度が高く、トータルとして信頼されるのだろう。
しかし、それには前提条件がある。
「ユーザーが付加価値を積極的に肯定評価すること、できること」だ。
フェラーリも、ユーザーが、独自のデザインやエンジンフィーリングを積極的に肯定評価せず、実用上の不具合ばかり積極的に否定評価してしまえば、満足度は高くなり得ないし、トータルとして信頼され得ない。
「訴求力はないが不具合だけは少ない」のは、パソコンに限らず、日本の製品の多くに当てはまる。
なぜか。
日本のユーザーは、「付加価値を積極的に肯定評価できないから」、そして、「本来価値の不備を過剰なまでに否定評価するから」、もっと言えば、「対象の良い所を積極的に見ようとせず、悪い所にばかり目が行くから」、ではないか。
この仮説が相応に正しければ、私たち日本のユーザーは、自分たちの思考&行動習性が、世界的にはマイナリティであるのを強く認識する必要がある。
2012年08月28日
【将棋】「将棋名人血風録 奇人・変人・超人」加藤一二三さん
P135
負けてもチャンスはある
最後は飛車を振った中原(誠)さんが勝って名人となったわけだが、中原さんのこの名人戦における勝因にして、その後防衛を続けられた最大の要因は、いつも居飛車で大山(康晴)さんに勝っていたにもかかわらず、この名人戦では振り飛車に作戦を切り替え、それで二局勝ったところにあると私は思っている。
大山さんに対してだけでなく、それまでの公式戦で中原さんが振り飛車を指したのはほとんど記憶にない。つまり、経験が不足しているにもかかわらず、名人戦という、このうえない大勝負の場で、しかも二勝三敗と瀬戸際に追い込まれてからの二局で突如作戦を変えてきたのである。
大胆というしかない。では中原さんはどうしてそんな発想に出たのだろうかーー。
想像するに、中原さんには、いい意味での気楽さがあったのではないか。私が名人戦で大山さんに挑戦したとき、「負けてもすぐにチャンスがやってくる」と思ったと以前述べたけれど、中原さんも同じような気持ちだったと私は想像する。
「大山さんとは、こういうひのき舞台でこれから何度も戦うだろう。かりに負けても、チャンスは絶対にやってくる」
そういう気持ちがあったと思うのだ。当時二十歳だった私が抱いたのはたんなる予感にすぎなかったけれど、中原さんの場合は強い確信をもっていたはずである。そのぶん、大胆な手を打つだけのゆとりが生まれたのではないかと思うのだ。
この、気持ちのゆとりというものは、対局において非常に大事なことである。もちろん、「絶対に勝たなければいけない」という気持ちは持っていなければならない。が、同様に負ける可能性もゼロではないのだから、どこかで「負けてもいい」と思うこともまた、必要なのである。
「たとえ失敗しても、また立ち直って挑戦すればいい」
そのように思えれば、気持ちがフッと楽になる。
だからその意味で、もし大山さんに気持ちのゆとりがあれば、先ほどの5七金を5八金といっぺん引くことができたろうし、そうすれば勝つチャンスがあったと私は思うのである。
「気持ちにゆとりを持つ」。
本事項の意義はよく説かれるが、その方法は殆ど説かれない。
加藤一二三さんが本文で説いてくださり、私は初めて正確に理解した気がする。
加藤さんの説は、大いに納得できる。
たしかに、気持ちにゆとりを持つには、失敗への諦観とリベンジへの期待だけでなく、予め成功への義務感を積極的に自覚することが不可欠に違いない。
成功への義務感を欠いて、失敗への諦観とリベンジへの期待のみ積極的に自覚すれば、気持ちが持つのは「ゆとり」ではなく「甘さ」に違いない。
しかし、加藤さんの説は、言うほど容易でない。
義務感の自覚と諦観のそれは、トレードオフの関係にあるからだ。
加藤さんが本書の副題の「奇人・変人」としばしば称されるのは、トレードオフの不感症への褒め言葉に違いない。
続きを読む
2012年08月25日
2012年08月23日
【販売】「あなたから買えてよかった!」齋藤泉さん
P99
お客さまの不満というのは、だれかに話を聞いてほしい、自分がどれだけ不服を感じているかわかってほしい、どれだけひどい目にあったのかを理解してほしい・・・こういう気持ちでいらっしゃることも多いのです。
そして、振り上げたこぶしをどこで収めるか、怒っているほうもその落としどころを探りながら、という場合もあります。
お客さまに接する者が心掛けるべきは、いかに容易にお客さまがこぶしを下ろせるようにリードしていけるかでしょう。
それも接客の最前線にいる私たちが担っている1つの役割ではないかと思います。
何かのメディアで、ワタミの渡邉美樹会長が「近年、クレームの質が変容してきた」との旨仰っていた記憶があるが、齋藤泉さんが前段で仰っているのはその正体に違いない。
そう、近年のクレームの本質は、販売側の不手際への落胆ではなく、不手際により事前期待が不本意に裏切られたことへの落胆なのだ。
よって、今、販売側がクレームで何よりリカバリーしなければいけないのは、自分たちの不手際そのもの以上に、お客さまの事前期待であり、それには何より、齋藤さんが仰っているように、お客さまの事前期待とそれが不本意に裏切られたてん末を理解するプロセスが重要なのだ。
そして、今、販売側がクレームで果たすべきは、齋藤さんが仰っているように、お客さまをメンタル共々リードし、振り上げたこぶしを本意で下ろしていただくことなのだ。
クレームの本質が実利ではなくメンタルである以上、お客さまも、振り上げたこぶしは所謂合理的な対処だけでは引っ込みがつかないに違いない。
P121
自分の仕事の範囲、自分の業務の内容、そういったものに必要以上にとらわれてしまうと、それがお客さまにとってよい方向に向かわなかったり、結果的にお客さまのニーズに反してしまったりということだってあるように思います。
お客さまにとって何がよりよい行動かーーそれをサービスの原点と考えるなら、業務の範囲やマニュアルにこだわるよりも、ほかの人に協力を求めることも含めて選択肢を広げられるように、多くの選択肢の中からよりベターなものを選べるように、考え方の幅を広く持つ必要があります。
「良いサービス」とは、お客さまのニーズを大局的かつ全体最適的に叶える、唯一無二の解決行動に違いない。
馬鹿には果たし得ぬ所作だ。
P140
1ヶ月前に入った新人が、今日も新幹線の中に立っています。
頭がパンクしそうになりながら、コーヒーをこぼさないように心掛けながら、一生懸命やっています。
そんな新人が仕事に慣れたとき、自分の(店と言うべき車内販売の)ワゴンに対する思い入れを抱くことができなければ、サービスの質にも影響があるのではないかと思うのです。
サービスが一流といわれている会社は、末端の社員一人ひとりにまで、会社のDNAが染み込んでいるというだけでなく、一人ひとりが自分の頭で考え、自分で判断を下して最良のサービスを模索しているという姿があると思います。
そこに人は感動し、「またあそこに行きたい」「またあのお店で買いたい」と思うのではないでしょうか。
やはり、サービスも、その他の物事と同様、感動の本質は、成果物(結果)ではなくプロセスなのだ。
お客さまが感動するのは、一個人の自分への深遠な洞察に加え、”その”成果物を最善と判断し、最高品質での創造、提供を断行した、サービスマンの矜持と実行力に違いない。
P190
私は車内販売員ですが、けっして商品を買ってくださる方だけがお客さまと思っているわけではありません。
ご乗車になるすべてのお客さまが私のお客さまです。
すべてのお客さまが、何事もなく気持ちよく過ごせる空間を作りたいと思っています。
すべてのお客さまが、「今日、新幹線に乗ってよかったな」「気分がいいな」と少しでも思ってくださるような時間にしたいと思っています。
(中略)
「新幹線に乗ってよかったね」
「新幹線に乗るって楽しいね」
一人でも多くのお客さまにそう思っていただきたい、今日もそんな思いです。
何か難しいことをやるわけではありません。
ほんの些細なことであったり、ちょっと声をかけることだったり、必要なものを必要な分、提供したり、少し荷物を差し上げたり、それだけでいいのです。
ほんの少し心掛けることです。
ほんの少し相手からヒントをいただこうと努めることです。
そして、ほんの少し勇気を持って行動することが何よりも大切です。
近年、自動車マーケットのシュリンクがいよいよ甚だしい。
しかし、もしメーカーとディーラーの従事者の多くが、齋藤さんのように、「当社の自動車に乗ってよかったね」や「当社の自動車に乗るって楽しいね」ではなく、「自動車に乗ってよかったね」や「自動車に乗るって楽しいね」とマーケット全体に不断に思いを寄せていたら、状況は違っていたのではないか。
ゼロサムゲーム的セールス・マーケティングは、選択肢(代替物)溢れる現代には不似合いだ。
セールスマン、マーケッターは、対象のマーケット、商品カテゴリーそのものを遍く不断に愛好し、その拡大と隆盛の欠片のみ有り難い成果として享受すべきなのだ。
P194
人生は有限です。
1日の時間は限られています。
私たちは、その多くを仕事に費やしています。
それは紛れもなく、私の時間です。
他人の時間でもなく、会社の時間でもなく、私が生きる時間です。
その私の時間を大切に使いたい、私の人生を充実して過ごしたい、とだれもが思うでしょう。
私のとっては、仕事の時間も私の時間です。
だから、精いっぱい楽しみたいし、心から笑って過ごしたい、そう願っています。
そして、新幹線の車内を、お客さまと「よかったね」と喜び合える場所にできれば、これほど幸せなことはありません。
かくして、齋藤さんは、自ら正社員の道を閉ざされているのではないか。
即ち、心身を会社に完全依存することで、仕事がお仕着せの、創意工夫とかけ離れたルーチンに堕してしまい、「良いサービス」を果たそうと、”その”お客さまとの一期一会に感謝と喜びを見い出すことができなくなる、と憂慮なさっているのではないか。
もし、この邪推が的外れでないなら、齋藤さんを雇用する日本レストランエンタプライズは、齋藤さん個人に加え、社内外に対し甚大な機会損失が有るに違いない。
2012年08月01日
【野球】「落合博満の超野球学〈1〉」落合博満さん
P26
スランプから早く脱出する方法
スランプには、精神面によるものと技術的な問題がきっかけになったものがある。まず、精神的スランプの根本的な原因になるのは、体力の衰えによるパフォーマンス力の低下だろう。
(中略)
疲労はスポーツ選手にとって避けられないものだが、高い成績を残せる選手はできる限り疲れをためない方法を知っている。私が気を配っていたのは、よく食べること、よく眠ることである。極めて基本的なことなのだが、意外におろそかにされているものだ。
(中略)
また、睡眠についても、現役時代の私は1日10時間は眠っていた。長時間の睡眠をとるためには体力が必要だ。お年寄りが早起きなのは、長く眠る体力がないためである。つまり、よく眠れているかどうかはコンディションのバロメーターにもなる。
(中略)
そして、最後に考えておきたいのは、自分自身でスランプから抜け出す方法である。とくにレギュラーを任されている選手なら、多少状態が悪くても試合に出なければならない。ならば、投手と勝負しながら自分の状態を見極める術を身に付けたい。そのために必要な存在が、対戦相手の主力投手である。
プロであれば、先発ローテーションを守って投げてくるエース級の投手がベストだが、社会人や大学生でも大切な試合になればなるほど、先発してくる投手は限られるだろう。対戦した経験が多いほど、彼らの利用価値は高くなる。
主戦投手には安定感も制球力もあり、打者と同様に自分のスタイルを持っている。さらに、勝負の仕上げには決まってウイニングショットを投げ込んでくる。そういう投手を打ち崩していくためには、フォームやボールの軌道を一枚の景色として記憶しておくことが大切だ。そして、たとえば「山田久志さんのシンカーはこうやって打つ」というように、自分なりの対処法を備えて勝負しているはずだ。だから、自分が調子を崩している時には、そういう投手に対して打席に立ち、ボールの見え方、そのボールに対する自分の打ち方をチェックする。そこでふだんと違う点が見つかれば、その部分を次の打席で修正するのだ。こうして自分のイメージどおりのバッティングができれば、スランプの蟻地獄からは抜け出せる。
自分の状態がよくない時に、相手チームがエースを先発させてくると憂鬱になる選手は多いだろう。ところが、それがスランプ脱出への最大のチャンスになることを覚えていてほしい。
誤解を恐れずに言えば、「仕事は、お金を払ってでも、デキる人としなければいけない」。
主因は二つある。
一つは、ダメな人と仕事をすると、人的成長が見込めない(→時間と体力をお金と交換することにのみ帰結する可能性が高い)からだ。
もう一つは、ダメな思考&行動習性は、伝染(うつる)可能性が高いからだ。
とりわけ資本主義社会において、デキる人とダメな人の能力的、及び、経済的格差が時間と共に拡大するのは、社内外問わず、デキる人はデキる人との仕事に益々恵まれ、ダメな人はダメな人との仕事を益々強いられるからだ。
だから、落合博満さんが仰った以下の旨のスランプ脱出法は、尤もであり、強く共感する。
やはり、有望新人の輩出が絶えない将棋界で、依然「羽生世代」がダントツに強いのは、互いに強固な好敵手関係を構築しているのが、主因の最たるではないか。
「好打者(足らん打者)は、好投手と好敵手関係を構築すべきだ。
そして、独自のバッティング哲学を具現化したベストプラクティスを、好投手毎に創出すべきだ。
然るに、ベストプラクティスの更新が、ひいては、バッティング哲学の更新が容易になるのは勿論、ベストプラクティスとのかい離でスランプの原因特定も容易になる(→スランプの早期脱出も容易になる)」。
P66
イチロー打法をまねしてはいけない
王貞治さんの一本足打法、イチローの振り子打法、私でいえば神主打法と、実績を残した打者の中には、特徴あるフォームだった選手がいる。それを「あの人だからできた」とか「あの人は大天才だから」と評する人もいるが、私はまったく別の考え方だ。王さんはタイミングのとり方に苦しんだ末に右足を上げたわけだし、イチローは細い体でボールを強く叩くために右足を振った。私だって、どうしても右ヒジが体の後ろに入りすぎるという悪癖を矯正するために、両腕を体の前に出すようにしたのだ。天才ではないから、自分のフォームを徹底的に考えた。そして、ほかの誰よりも多くバットを振ることで、考え出したフォームを体に覚えさせてきたのだ。歴史に残る打法は、天才芸術家の名作ではなく、すべて苦闘の産物なのである。
「必要は発明の母」だ。
不意に自分の思考ないし現状が否定され、このままだと座して死ぬ可能性が有るからして、発明は有り得るのだ。
さもなくば有り得ないし、もし有り得ても、その実力と成果は知れている。
王貞治さんの一本足打法、イチローさんの振り子打法、落合さんの神主打法は、いずれも引退を賭した苦闘の産物に違いない。
P112
理想的なスイングを追い求めよう
以上が、バッティングにおける理想的な体の使い方である。上半身と下半身には反対の動きをさせ、ボールはグリップでつかまえるという意識はとくに大切だ。しかし、私はこの動きを常にできていたかと問われれば、「練習の時は、ほぼできていた。しかし、ゲームの時はできなかったことの方が多い」と答える。実戦は結果がすべてである。打たせまいとして投げてくる相手投手のボールをヒットやホームランにするためには、理想的なスイングうんぬんなどとはいっていられない。間合いや緩急などで、フォームを崩されることもあるからだ。
練習を重ねていい形を作る。それを試合で崩される。そして、またいい形に作り直す。バッティングとは、この流れの繰り返しであり、その中では基本をしっかりと体にしみ込ませておくことが絶対条件である。決して理想的な形にならなくても、ひたすら理想を追い求め、ゲームではどんな形であれ結果を残す。いい打者になるためには、このことを忘れないでほしい。
ビジネスマンにとって、「理想」と「現実」は終生の課題だ。
いかに思考、練習(自己鍛錬)し、「理想」を高め、「理想」に近接しても、「現実」の成果は約束されない。
また、「現実」さえ良ければと、思考、練習を怠り、「理想」の向上、近接を等閑にすれば、成果が持続的に創出され難くなることに加え、「現実」に自らを置くモチベーションが絶えかねない。
デキるビジネスマンとは、「理想」と「現実」に不断の折り合いがつけられる人のことだ。