2012年01月
2012年01月30日
2012年01月25日
【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第32局の2▲高橋道雄九段△渡辺明竜王〕小さな工夫」上地隆蔵さん
以前、高橋と食事をしているとき、ひょんなことから国民的アイドルグループ「AKB48」の話題になった。
意外なことに、高橋はメンバー全員の名前がスラスラ言えるほど詳しく、「彼女たちの一生懸命頑張る姿に応援したくなる」という。
筆者は有名な数人の顔が分かる程度。
高橋は「いけませんねえ、50代の私でも知っているんですから」と冗談交じりに不満を口にした。
なお高橋は昨年のAKB総選挙に参加したとのこと。
「誰に投票したんですか?」と尋ねると、「たぶん言っても分からないだろうから、言わない(笑い)」。
初級者の筆者は、AKB有段者の高橋に相手にしてもらえなかった。
よく、「働くことは傍(はた)を楽にすることだ」と言われるが、その通りに違いない。
AKB48のメンバーも、そして、最年長A級棋士の高橋道雄九段も、一生懸命頑張って働き、互いを、また、私たちを楽にしてくれているに違いない。
高橋九段は、かつて私に、大一番で勝利する普遍の真理を授けてくださった。
高橋九段は、現在一勝六敗と、A級陥落の危機に直面なさっている。
私は、高橋九段が残る大一番を殊に一生懸命頑張って指し、勝利なさるよう祈念して止まない。
★2012年1月25日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/
2012年01月23日
【落語】「あなたも落語家になれる―現代落語論其2」立川談志さん
P338
最後にひと言。
落語とは、”人間の業の肯定”といってきたが、それは”業”を克服するという人間の心掛けがあってはじめて成り立つものである。
本来それが人間の生き方の基本であったのだが、この頃では生き方への努力、つまり、”業”の克服への努力が少なくなってきた現在、科学文明の進歩は、人間になるべく辛いことをさせないように、便利により多くより速くにと進んできた。
科学文明が進めば進むほど、”業”を克服する必要もなくなり、従って”業”の肯定も、受けなくなる危険も出てきた。
それなら、いっそのこと、もっと凄い怠惰でも演ってみるか。
『あくび指南』のように、また『ひねり屋』のように・・・爛熱の極致を演るか。
歩いている男、何かにつまずいて転んだ。
起き上がって歩くと、また転んだ。
「さっき起きなきゃァよかった!」
という小噺があるが、いまでは、転んでもそのまま起きない子どもが増えていると聞く。
そうなると、いったいどうなっちゃうんだろう。
「何で起きるんだい?馬鹿みたい!」
となるのか。
立川談志さんの27年前(1985年)のこの予言は、正に的中した。
昨今、私たちの多くは、日常で普通に”業”を肯定するようになった。
落語に限らず、映画、音楽、文学といった伝統的な娯楽がこぞって衰退しているのは、「普遍の真理の語り部」が絶滅に瀕していることに加え、本件に拠り「事実は小説より奇なり」が珍しくなくなったからだ。
娯楽の本質は「非日常」だが、非日常で故意に”業”を肯定する必要は、即ち、公でも私でもない第三の場所で不出来な自分を絶望から救う必要は、もはや無いに等しい。
私たちの多くは、科学文明の効用ばかり享受し、自らの成長を怠った。
また、自戒も怠り、科学文明の中毒患者と化した。
談志さんは、以下仰ったが、昨年の臨終の折、本件をどう総括なさったのだろう。
そして、私たちは、私は、本件にいかに抗うべきなのだろう。
P340
貧乏人がなくなっても、人間の協力が理解できなくなっても、様式がわからなくなっても、最後まで抵抗して、現代とフィットさせてやる。
日本人ならどっかに落語とフィットする部分がある筈だ。
それを頼りに現代に通ずる良い作品を残しておいてやろう。
そのために、現代にまだまだ挑戦したいと思う。
しぶとく、生きたいと思う。
落語家の生きざまを見せてやろうではないか。
そして、最後の名人となって、私たちといっしょに生きてきた老いたる芸人やファンの支えとなって、昔のことをグラフティとしても語ってやろうではないか。
伝統を生かし、現代に生きている”語り部”になってやる。
2012年01月19日
【セミナー】「自由でクリエイティブなメディアづくり」古川享さん
私は、今は慶應大学で教鞭を取っているが、かつては企業に帰属し、激しい競争の世界に身を置いていた。
「シェアを取る」、「競争に勝つ」という名目のもと、個人や地球を傷つけているのではないか、絶えずハラハラしていた。
今、痛感しているのは、私たちは「協働」と「共生」を大事にすべきだ、ということだ。
今日は有料のセミナーだが、私は、基本的に、スピーチをする際、講師料を貰わない。
自分が今日あるのは、若い時分、大学も卒業していない一個人の自分に、大きな企業がチャンスを提供してくれた、コミットしてくれたからだ。
私の今の願いは、次に離陸していく人のジャンプの踏み台になりたい、グローバルな社会で通用する若者を育てたい、ということだ。
「協働」と「共生」の概念は、否定する人は殆ど居ないが、実践する人も殆ど居ない。
しかし、古川享さんは、こうして実践なさっている。
一体何が、前者と古川さんの間を分かつのか。
一番大きいのは、不毛な競争の勝利経験ではないか。
古川さんが約20年心身を捧げたマイクロソフトは、時に「悪の帝国」と揶揄された。
誤解を怖れずに言えば、現在の企業間競争の多くは、創造した価値の高低や優劣以外を競い、全体(社会)最適的ではなく部分(個別プレイヤー)最適的で、不毛だ。
それは、勝利の経験を重ねても免れず、却って自覚する。
この自覚が、自分と異なる価値観や思考を有する他者と、高く、優れた価値を創造すべく共に働くこと、掛け替えのない人生を共に生きることを、強く後押しするのではないか。
「未来は予測するものではなく、自らの手で創るもの」というアラン・ケイの言葉がある。
未来を予測すると必ず外れるが、それは、外野席に座り、そこから未来を見ているからだ。
御意だ。
希求する未来には、「観る阿呆」ではなく、「踊る阿呆」にならなければいけない。
デジタル社会が創出する未来は、デバイスやアプリ(=function/機能)から、サービスやユーザー体験へ完全に移行した。
自分を賢いと勘違いしている人が、ユーザーが使いもしないモノを作り、マーケティングと称して「どうだ!」と押し付ける。
これは「マーケティングのからくり」であり、もう通用しない。
「誰が、何をする中で、どう役に立つんですか?」ということをどれだけ具体的にイメージできるか、が勝負だ。
ノキアは、スマホはダメだが、ガラケーは世界的にシェアが高い(=45%)。
これは、機能追加が主眼のリサーチラボ(技術研究所)を廃止し、リビングラボを新設したからだ。
ユーザーに、「普段どうやってケータイを使ってますか?」、「今ケータイを使っていて、何か困っていないですか?」と問い、ユーザーの声、考えを広く吸い上げ、それを基盤にモノ作りが行なった成果だ。
これも御意で、あらゆる分野、業界に当てはまると確信するが、改善の兆しは極めて薄い。
なぜか。
過日、私は、パソコンモニターの出張修理を依頼し、担当者のTさんがしてくださった即対応と身の上話に感動した。
それは、Tさんが、あるお客さまの御宅へ出張修理に伺った時のこと。
”その”お客さまは足が悪く、家の中を移動するのも大儀でいらした。
用件が済み、Tさんは御宅を発とうとすると、”その”お客さまからリクエストを授かった。
「もし、ついでに可能なら、生活ゴミをゴミ収集所へ出して欲しい」ということだった。
「たしかに、ゴミを出しに行くのはついでにできる(=追加コストが特段かからない)し、それで”その”お客さまが少しでも助かるなら・・・」。
Tさんはこう考え、”その”お客さまのリクエストを快諾した。
”その”お客さまは大そう感激し、後日、Tさんの会社へ礼状をお送りくださった。
そして、Tさんは社内で褒賞された。
私がこの話に感動したのは、Tさんが、製品の修理(=特定機能の原状回復)を通じ、”その”お客さまに強く関心を寄せ、”その”お客さまの人生の問題の解決に最善を尽くしたからだ。
Tさんのお客さまに対するこの視座と姿勢は、アフターサービスだけでなく、商品開発やマーケティングのプロセスにおいても通底して然るべきではないか。
つまり、多くの企業が、依然、サービスやユーザー体験ではなく、機能(function)ばかりを創造し、あの手この手でお客さまに売りつけているのは、対象とするお客さまに対し、「人として関心を寄せていない」、「人生の問題の解決を志向していない」から、ではないか。
世の中には、「(特定の)情報が欲しい!」っていう人が居る。
メディアの本質は、そうした人に該当情報を届けることだ。
これまで、メディアは二種類しかなかった。
手紙や電話と言ったパーソナルメディアとマスメディアだ。
しかし、技術が発展し、経験やお金を主とするメディアへの参入障壁が下がり、それらの中間に属する三番目のメディアが実現可能になった。
その最大の実現因子は何か。
情熱だ。
情熱とは、「ビジョンを推進する感情的なエネルギー」のことだ。
MBAホルダーは物事を定量的、定性的に評価、思考するのは得意だが、さすがに情熱を計るモノサシは持っていない。
スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツは、共に比類無き情熱家であり、短気だ。
一緒に仕事をすると大変だ。
果たして、あれほど激しく、口汚く部下を、周囲を罵る必要はあったのか。
あれほど出し抜けに首を突っ込み、計画されていたスケジュールを遅延させ、予算を大きくオーバーさせる必要はあったのか。
あれほど人の心を傷つけ、チームを疲弊させる必要があったのか。
ゲイツと一緒に仕事をしていた時のこと。
ある時、ホテルの部屋を複数借りて、パーティをした。
ホテルには、裏手にスタッフ向け通用路がある。
私は、それを使ってゲイツと会場を移動したのだが、ある所で少し間違ってしまい、5メートルほど引き返した。
すると、ゲイツは、「古川、なんでオレにこんな無駄なことをさせるんだ!」とキレてしまった。
私が、「今ここでこんなことをしていることの方がもっと無駄だ」と返したが、却って火に油を注いでしまった。(笑)
また、ある時、私は、ゲイツから「週末彼女と京都へ旅行するので、新幹線のチケットを用意して欲しい」とリクエストされた。
私は、そのリクエストに応じ、東京駅でチケットを手渡し、「(チケットの代金は)こっちが払っておくから」と言った。
すると、ゲイツは、「こっちが払うとはどういうことか?」とキレてしまった。
そして、「(マイクロソフト)日本法人は、社員のプライベートな旅行の費用を出すことや空出張が罷り通るのか?」と、大勢の人の前で、延々私をなじった。
私は、手が付けられなくなり、「わかった、俺が(個人的に)払っておくから」と言い、どうにか収めた。
ちなみに、立て替えたチケット代は、まだ払ってもらっていない。(笑)
「自分の美学に踏み込んでくる相手には、容赦無くアイスピックで向かってくる。
自分の頭の中で描いていたストーリーが破綻すると、何処であれキレる」。
これがジョブズとゲイツの共通点だが、私たちは学ぶことがある。
それは、「自分の感覚に、細部にまで拘り抜く」ということだ。
何かを実現しようとする時、自分自身への納得は緩くてはいけない。
魂は細部にこそ宿るからして、細部に気を抜いてはいけない。
一昨年、私は、坂本龍一さんの北米公演をustreamで中継した時、二つの決心(必達事項)があった。
一つは、視聴者に「なんで、こんな良い音がタダで聞けちゃうの!」って思ってもらうこと。
もう一つは、完全に黒子に徹する(=会場のお客さまとスタッフの双方に絶対に迷惑をかけない)ことだ。
だから、自分が納得行かなかったら、ケーブル一本でも買いに行った。
この時の神経の張り方は、自分の貴重な資産になった。
「アメリカンドリームって、自分を信じることに努力することなんだと思う」。
スタンフォード大学の卒業生のジョニー・マドリッドさんが仰ったこの言葉が、正に得心できる内容だ。
そして、スティーブ・ジョブズさんとビル・ゲイツさんがアメリカンドリーマー足り得たこと、古川さんがビル・ゲイツさんに加え、坂本龍一さんや向谷実さんなど一流音楽家から敬愛されることも。
そうなのだ。
夢、即ち、自分のビジョンを達成するには、急襲する自信喪失や自己否定に抗うべく、情熱と言う名の自分を強力に後押しする感情的エネルギー、精神的エンジンが必要であり、それは、自分の思考、美学、価値観、納得に対する、他者には理解でき得ないレベルでの信頼と執着に依存する。
”あれほど”乃至”そこまで”自分を信じ、やり切ることが、夢、ビジョンを叶える必要条件であり、それこそが、自分の(⇔他人に強いられた)人生を全うすることに違いない。
先述の三番目のメディアでとりわけ大事なのは、「ラブ度」だ。
お金儲けでもなく、視聴率でもなく、ユーザー数でもない。
「ユーザーにどれだけラブを届けられたか」だ。
例えば、エバーノート(evernote)は、有償ユーザーは5%だ。
しかし、彼らに有償サービスを利用している理由(お金を払っている理由)をアンケートで訊くと、「このサービスを愛しているから」や「このサービスが長く続いて欲しいから」が上位を占める。
是非、この5%のユーザーがサービスを支え得る「ラブ度」、並びに、「フリーミアム」の概念を学んで欲しい。
そして、「ラブ度」を勝ち得るべく(=愛されるべく)、「自分が残りの人生で何を達成するのか」自分のビジョンステートメントを作り、印刷して机の奥に入れ、時折見直して進捗を確認して欲しい。
ちなみに、これは、私がアスキーで働いていた25才の時に作ったビジョンステートメントで、私はこれに則って今日まで30年生きてきた。
古川さんは、「ラブ度」の高い会社として、エバーノートのほか、ザッポス(Zappos)とジェットブルー(JetBlue)を例示なさったが、いずれも外国の企業であることに考えさせられた。
たしかに、お客さまから「Wow !」の言葉を授かり、合理的な利害関係を超え、感情的な絆でお客さまと繋がる、お客さまに好かれる、お客さまに愛される、のを一義とするビジネスの概念は、日本の大企業は勿論、中小企業でも殆ど見かけない。
私は、この一番の理由を、会社、仕事、自分自身に対する社員のラブ度の低さと考えてきたが、古川さんのお話と25才の時に作られたビジョンステートメントを賜り、確信した。
自分の会社のラブ度を高めるには、即ち、自分の会社がお客さまに感情的に好かれる、愛されるには、まず、自分が自分の人格と可能性を盲目的に好きになる、愛することが欠かせないに違いない。
そして、私たちが自分へのラブ度を高めることは、自分にとっても、会社にとっても、日本にとってもチャンスに違いない。
★2012年1月13日東京ミッドタウン・デザインハブにて催行
※1:上記内容は意訳
※2:主催はThink the Earth
http://www.thinktheearth.net/jp/info/2011/12/seminar20120113.html
https://twitter.com/kimiohori/status/157959236402429952
https://twitter.com/kimiohori/status/159768246776643585
続きを読む
2012年01月18日
【NHK】「ラストマネー -愛の値段-/最終回」奥居幸治(演:山崎樹範さん)
【一ノ瀬由佳理(生命保険金査定員/田畑智子さん)】
こちらに捺印をお願いします。
(※机越しに、奥居へ書類を差し出す)
【奥居幸治(生命保険加入者・佐々倉亜希子の情夫/山崎樹範さん】
(※黙って差し出された書類を受け取り、捺印しようとする)
【大野圭吾(生命保険金査定員/中丸雄一さん】
あの、(元情婦であり保険金詐欺容疑者の亜希子のことでこれまで)色々失礼なこと言って、申し訳ありませんでした。
(※頭を下げる)
【奥居】
こちらこそ、ご迷惑をおかけしました。
(※返礼後、書類に捺印し、一ノ瀬へ手渡す)
【一ノ瀬】
(※手渡された書類を受け取る)
ありがとうございました。
【奥居】
あの・・・あの・・・、僕がこんなことを言うのもナンですけど 、(亜希子に生命保険をかけさせられた人は)みんな、亜希子さんに騙されていること、本当は知ってたんじゃないでしょうか。
騙された人たちは、それでも彼女たちにすがっていたんです。
それでもきっと、幸せだったんです。
僕がそうだったように。
【一ノ瀬】
(※返答せず、立ち上がって書類を奥居に差し出す)
これで、(生命保険の)受取人が(亜希子から)娘さんに変更されました。
【奥居】
(※書類を受け取り、立ち上がる)
ありがとうございました。
(※一ノ瀬と大野に頭を深く下げる)
【大野】
(※立ち上がって、深く返礼する)
「みんな、亜希子さんに騙されていること、本当は知ってたんじゃないでしょうか」。
情婦の佐々倉亜希子(演:高島礼子さん)に生命保険をかけさせられた奥居幸治(演:山崎樹範さん)が言ったこの言葉に、深く考えさせられた。
なぜ、「みんな」は、亜希子の欺瞞を承知し、本意で死んだのか。
誤解を怖れずに言えば、「幸福に死ねる」と思ったからだ。
人生に絶望した「みんな」にとって、亜希子の愛は希望だった。
「みんな」に限らず、私たちは、不都合な真実ではなく、好都合の虚偽を選好している。
また、「幸福な生き方/生き様」より、「幸福な死に方/死に様」を少なからず希求している。
絶えず心の何処かで、自分の存在、自分の人生に関する揺るぎない肯定を欲求し、「終わり良ければ全て良し」と思考しているからだ。
「みんな」が、不都合かつ絶望の生ではなく、好都合かつ希望の死を選択したのは、一つの「幸福な死に方/死に様」だったに違いない。
私たちは、好都合かつ希望の為なら、喜んで大枚をはたき、自ら生を閉じる。
★2011年10月25日放送分
http://www.nhk.or.jp/drama10/money/html_lm_story07.html
続きを読む
2012年01月17日
【BSNHK】「スティーブ・ジョブズの子どもたち」ジョニー・マドリッドさん(スタンフォード大学卒業生)
アメリカンドリームって、自分を信じることに努力することなんだと思う。
たしかに、アメリカンドリームに限らず、夢を叶えるには、夢を見た自分を、夢を叶えるまで信じ続けることが欠かせない。
そして、それは「有意識の能動」、即ち、「努力」に違いない。
「努力」を伴わない夢は、夢ではなく、幻、楽観、希望的観測と言うのが正しいのかもしれない。
★2012年1月7日放送分
http://www.nhk.or.jp/documentary/
続きを読む
2012年01月10日
【BSNHK】「巨匠たちの“青の時代”」パブロ・ピカソさん
【ナレーション】
(1900年、)18才になったピカソは、バルセロナの下町に店を構えるクワトレ・ガッツに頻繁に足を向けていました。
若者たちが集う居酒屋です。
バルセロナを中心とするカタルーニャ地方では、モデルニズムという芸術潮流が花開き、全盛の時代を迎えていました。
クワトレ・ガッツでも、ニーチェやアナーキズムに傾倒し、前衛運動にどっぷりと浸かる若き芸術家たちの熱気が充満していたのです。
熱い議論を戦わせる男たちの中にカザヘマスは居ました。
画家を目指し、文筆家としても活動していました。
「論じ合う仲間の向こうに、僕の気になる男がいる。
大きく見開いた目が印象的なその男は、ひっきりなしにペンを走らせている。
ときに仲間たちを、ときに窓から見える人々のさまを、黙々とデッサンし続けているのだ。
その男こそが、ピカソであった」。(カザヘマスさん)
生真面目にデッサンを繰り返すピカソに声をかけたのは、カザヘマスでした。
二人はすぐに打ち解けました。
美術学校に通っていたピカソは、自分を取り巻く環境に息苦しさを感じ、そこから逃れるように、この店に入り浸るようになっていたのです。
この頃、ピカソは、友人にこのような手紙を書き送っています。
「絵画ならベラスケス、彫刻ならミケランジェロ。
こんな調子で相変わらずだ。
問題なのは、一人が成功を収めたら、それに従わなくてはいけないという点だ。
決められた学派に従うのは反対だし、それはマンネリズムしかもたらさない」。
「概して、新しい価値は旧来の権威を否定することから生まれるが、それは、権威の評価を否定することではなく、権威への盲従を否定すること、拒絶することである」。
ピカソさんの友人への手紙の一節から、本事項を改めて理解、認識した。
権威への盲従に自己喪失感、理不尽さ、不毛さ、嫌悪の類を直感しない人は、新しい価値を創造し得ないに違いない。
★2011年12月19日放映分
http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=11w16800120111219
続きを読む
2012年01月06日
【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第28局の5▲久保利明王将△郷田真隆九段〕久保、勝勢を築く」加藤昌彦さん
変化が一直線になり、控室ではすぐに結論が出された。
中盤戦では変化が多く、答えが出ないが、終盤戦の大詰めは一直線の変化ならすぐに答えが出るのだ。
もちろん、控室のたくさんの棋士が検討しているからであるが・・・。
実戦を戦っている両者は最後まで気が抜けない。
将棋は逆転のゲームである。
そこが面白いのだ。
だから、勝勢になった側はより慎重になる。
形勢が不利な側は開き直るから、怖い気持ちがなくなる。
そこでドラマが起きるわけである。
将棋は、一手勝ちがもっともわかりやすいという。
安全に指そうとすると、逆に危なくなることも少なくないのだ。
将棋の真理が的確に表されていて興味深いが、これは人生の真理、人生の抽象でもある。
ちなみに、私は将棋ファンの出戻り組だが(笑)、30半ばで出戻ったのは、プロ棋士の対局からそれを垣間見たからだ。
人生も、将棋と同様、逆転のゲームに違いない。
しかし、多くの人が、その喜びを享受せず、生を終えている。
それは、将棋と同様、一時かつ程々の勝勢で慎重になったり、逆転を絶望したりして、開き直りを躊躇するからだ。
真に幸福な人生とは、将棋と同様、敗北、即ち、不幸と紙一重に違いない。
★2012年1月6日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/
2012年01月05日
【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第28局の4▲久保利明王将△郷田真隆九段〕盛り返したか」加藤昌彦さん
いまだに久保(利明王将)優勢だが、郷田(真隆九段)が少し盛り返したのではないかと控室の検討陣は見ている。
しかし、久保には動揺はなかった。
読み筋通りに振興していたからだ。
(中略)
深夜の控室に、久保の師匠の淡路仁茂九段の姿も見える。
「こんな時間まで、将棋会館にいるのなんて久しぶりやな」と淡路九段。
久保に無言のエールを送っているように見えた。
以前何かの場で、米長邦雄永世棋聖が、「現在、王将と棋王を持っている久保利明(二冠)の師匠に淡路仁茂(九段)というのが居るが、彼は久保と19枚落ち(=王様以外の全ての駒を落とした、最高ハンデの対局)で指し始めた(=指導を始めた)。彼にとって久保は、『自慢の弟子』だ」との旨仰っていた。
淡路さんにとって久保さんが『自慢の弟子』なのは、自分が成し遂げられなかったタイトルの獲得を久保さんが成し遂げた「成果」に加え、自分が久保さんに正に一から将棋を教えた「自負」が大きいのではないか。
親にとって『自慢の子ども』は、『終生可愛い子ども』だ。
同じく、師匠にとって『自慢の弟子』は、『終生可愛い弟子』であり、勝負の世界に生きた最後かつ最高の賜物に違いない。
『自慢の弟子』の勝敗、行く末を見届けるのは、師匠の本分かつ本望に違いない。
★2012年1月5日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/
2012年01月04日
【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第28局の2▲久保利明王将△郷田真隆九段〕悔やんだ一手」加藤昌彦さん
序盤は郷田(真隆九段)側を持ちたい人が多かったが、中盤になると久保(利明王将)側を持ちたい人が増えてきた。
一手指したほうがよく見えるのがプロの将棋だ。
たしかに、「一手指したほうがよく見える」のはプロの将棋の定説だが、それはなぜか。
とりわけ優劣や勝敗を決する局面での着手は、概して、傍観者の予想を大きくかつ肯定的に裏切るからだ。
「予想がよく当たるようでは、本局は終局が近い」と仰る解説者(棋士)が少なくないのは、この為だ。
しかし、よく考えてみると、この定説は不可思議だ。
理由は主に二つある。
一つは、傍観者は概して対局者と同じ棋士で、棋力、並びに、その基盤能力である思考力において対局者と大差が無いに違いないからだ。
もう一つは、傍観者は概して対局者と異なり複数で、思考力の総和において対局者を上回るに違いないからだ。
なぜ、この定説は、不可思議ながら定説足り得るのか。
プロの将棋に限らず、当事者は傍観者よりも遥かに真剣で、傍観者とは異次元の緊張と負荷を、ひいては、野性の直感と深遠な思考を強いられるからではないか。
だから、棋士人生において圧倒的な当事者体験を有する、しかも、「大舞台」と呼ぶべきタイトル戦での当事者体験を圧倒的に有する羽生善治さんの着手は、他の数多の棋士よりも遥かに「一手指したほうが良く見える」のではないか。
★2012年1月3日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/