2011年12月
2011年12月30日
【BSNHK】〔邦画を彩った女優たち「さくら 民子 桐子 そして… 女優 倍賞千恵子」〕山田洋次さん
【ナレーション】
山田(洋次)監督は、倍賞(千恵子)さんが見せた何気ない演技を忘れられない、と言います。
それは、ビールで一息ついたお爺ちゃんにかけた一言。
(中略)
【山田洋次さん】
笠智衆さんの(「家族」の中で演じる)お爺ちゃんが、(あのシーンで)ビールを飲んで、「ああ、うまかぁ」って言うんですよね。
すると、「よかったね」って彼女(民子を演じる倍賞さん)が微笑む。
そういうアップが、とってもよかったですね。
「よかったね」っていう。
〔・・・〕
お爺ちゃんが「おいしい」って言う顔を見て思わず、「ああ、よかった」と思う瞬間はね、間違いなく、彼女は人生について肯定的だったろうなと思う。
長い旅っていうのは、基本的には辛いことばっかりなんですけどもね、まあ、言ってみりゃ、人間の一生もそうじゃないかと。
時々、そういう風に「よかったな」と思う、それも、自分のことじゃなくて、相手の人が、自分の愛する人が幸せな顔をしたんで、「ああ、よかった」と思うっていうかな、そういうことが何度かあれば、その人の人生っていうのは、そんなに悪くない。
そんなことをね、しきりにあのシーンを撮りながら、考えたもんですね。
「人生という長旅は、艱難辛苦が免れない。
極論すれば、『不幸の連続』だ。
しかし、そもそも幸福とは、『不幸の合間』、『不幸中の幸い』だ。
そして、『不幸の連続』は自然であり、だからこそ、幸福は『有り難い』。
当然、愛する人(他者)との出会いも『有り難い』。
ゆえに、愛する人が体験、感知した『不幸の合間』、『不幸中の幸い』を追体験、共感することは、『有り難い』幸福の極みに違いなく、人生を肯定する、即ち、人生という長旅を続ける一番の理由になる」。
私は、山田洋次監督のイイタイコトをこう解釈した。
人生を肯定するには幸福が欠かせないが、それには「有り難さ」を心得ること、「有り難さ」に鈍感にならないことが欠かせないに違いない。
★2011年12月11日放映分
https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20111211-10-10615&pf=f
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2011年12月29日
【フジ】「ボクらの時代」毒蝮三太夫さん
【高田文夫さん】
(毒蝮三太夫さんが立川談志さんと)50何年付き合った友だちっていうのは凄いよ。
【立川志らくさん】
他にね、居ないですものね。
【毒蝮三太夫さん】
いや、居たんですよ。
昔から彼の傍に沢山群がって。
だけど、みんな居なくなっちゃう。
【高田文夫さん】
あの師匠だよ、大変だよ、付き合うの。
前、(毒蝮三太夫さんと)呑んで訊いたことあるけどね。
「嫌なこと無かったの、談志師匠のこと?」って。
「うん、三回だけ殺意芽生えた」って。(笑)
(毒蝮三太夫さんは)言ってたもん、酔っ払って。(笑)
その位の付き合いだからね。
【毒蝮三太夫さん】
で、全部未遂だって。(笑)
【高田文夫さん】
未遂だったんだよなー。(笑)
【毒蝮三太夫さん】
(立川談志さんとは)同輩でしょ、俺。
同じ年だから、腹立つことはあるよ。
快適な奴じゃないもん。(笑)
私は、幼い時分、剣道を習った。
剣道で学んだことの一つは、人付き合いの極意(笑)だ。
私は、人付き合いをする際、とりわけ以下の三事項を留意、励行してきた。
一つ目は、「自分から、相手の間合いに入ること」だ。
相手の間合いに「自分から」入らなければ、自分が相手を斬る、相手に勝つことはない。
人付き合いは勝負ではないが、自分が相手から何らか得たいのなら、自分から相手の間合いに入らなければいけない。
二つ目は、「深く、相手の間合いに入ること」だ。
相手の間合いに「深く」入らなければ、相手から得られるものが無いか、得られても知れている。
自分が相手から貴重な、稀少な、有意義なモノを得たいのなら、相手の間合いには「深く」入らなければいけない。
三つ目は、「刺し違える覚悟で、相手の間合いに入ること」だ。
相手の間合いに「刺し違える覚悟で」入れば、相手に斬られる、負かされる可能性は高くなる。
また、恐れおののかれ、逃げられる可能性も生じる。
しかし、これらの可能性を賭して相手の間合いに「刺し違える覚悟で」入ると、何人かに一人は同様の覚悟で応えてくれる。
人と掛け替えの無い知見、感情の機微を交わしたいのなら、相手の間合いには「刺し違える覚悟で」入らなければいけない。
私は、以上を留意、励行し、これまで全ての人と付き合ってきた。
しかし、今回、毒蝮三太夫さんが、殺意を三度覚えながら、半世紀かつ終生立川談志さんと親交を続けられたことを知り、少なくともあと一つ有ると直感した。
それは、「突き詰めずに、相手の間合いに入ること」だ。
毒蝮さんが覚えた殺意の一度は、電車のホームで談志さんを線路に突き飛ばす形で発露したようだが、未遂に終わり、毒蝮さんは談志さんに「洒落だ」と弁解なさった。
「洒落だ」と弁解された談志さんは、それ以上毒蝮さんに反駁できなかったに違いない。
諸行無常の人生で人と永く付き合いたい、一期一会を全うしたいのなら、相手の間合いに「突き詰めずに」入らなければいけない。
【立川志らくさん】
のべつ「死にたい、死にたい」って言っていた師匠だけども、自分がもう病気になって苦しいのに、「早く殺せ」とか、「死にたい」とか一切言わなかったそうですね。
とにかく生きようとしたってことは(家族の人は)言ってましたね。
【毒蝮三太夫さん】
だから、「死にたい」とか(口癖の如く)言うような奴は、まだ生きたいんだよな。
生きたい奴は、言うんだよな。
だから、本当に死が近づいてきたら、そういうことも言わなくなる。
これは、太宰治を除き(笑)、真理に違いない。
「死にたい」というのは、自我の解放や他者の憐憫を企図した甘えだが、「死ぬこと」が人生のオプション(選択肢)、それも、数多のオプションの一つだから言える言葉だ。
「死ぬこと」が唯一解になれば言えない、少なくとも、口癖のように、人に聞こえよがしには言えない言葉だ。
オプションの過剰保有が寄与する不幸は、当人より周囲の方が、迷惑で大きいのかもしれない。
※2011年12月25日放映分
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/jidai/
http://bit.ly/jJAkxk
2011年12月22日
【人生】「仕事ができる人は、「負け方」がうまい」宋文洲さん
P28
誰でも簡単に手にすることのできる小さな得(あるいはズル)は毒薬です。
この毒薬が心を害し、成功への執念を蝕むのです。
リピート客に依存できないのが流しのタクシーですから、ドライバーは客に気を遣っても走賃は増えません。
しかし、キャンディーを用意して親切に接客するドライバーは、例外なく平均より二割以上も多く収入を得ています。
先にも述べましたが、彼らが二度と会わない乗客に親切にするのは自分のためです。
自分の心の太鼓を叩き続け、プロとしてプライドを呼び覚ましているのです。
私は「損をして得を取る」との言い方には賛成できません。
損と得が交換できると思わないからです。
誰もが手にできる得を人に譲ったり、誰からも責められないことではあってもズルを避けたりすることは、損得を交換するためでもなく、道徳のためでもありません。
自分のプライドと自信のためです。
プライドと自信を持ち続ける人は、成功しないはずがありません。
不遜ながら、私も「キャンディーを不断に用意している」(笑)、即ち、「最善努力を不断に励行している」つもりだが、それが「プロとしてプライドを呼び覚ましている」自覚は無かった。
私が自覚していたのは、「最善努力を断たない」ということだ。
なぜなら、最善努力は習性だからだ。
習性として不断に励行している間は、自然に行なわれるが、一旦断ってしまうと、不自然に行なわれる。
それは、励行ではなく苦行であり、成果もたかが知れる。
ただ、宋文洲さんのお考えは、言われてみるとその通りだ。
たしかに、「最善努力を不断に励行している」という自覚は、最善努力を習性とするプロフェショナルである最高の自負だ。
成果は、習性と自負に依存する。
2011年12月21日
【BSTBS】「SONG TO SOUL 永遠の一曲」Elvis Costello”She”
【ナレーション】
(※「ノッティングヒルの恋人」の脚本を担当していた音楽に詳しいリチャード・カーティスさんのアイデアに基づき、プロデュースを担当していたダンカン・ケンワーシーさんは、エルヴィス・コステロさんに主題歌「She」のカバーボーカルをオファーした。)
(エルヴィス・)コステロは、ワールドツアー中にもかかわらず、どうしても演りたいと言う。
スケジュールを調整して、ようやくレコーディングの時間が確保された。
【トレヴァー・ジョーンズさん/「ノッティングヒルの恋人」の音楽を担当】
短時間で録音をしなくてはならなかった。
コステロは、1時間後にはアメリカ行きの飛行機に乗る予定になっていた。
だから、空港に行く途中でスタジオに立ち寄って、レコーディングをしたんだ。
僕らはスタジオでマイクをセッティングして、彼の到着を待ち構えていた。
スタジオにやってきたコステロは、レコーディングを前にして、この曲をどう解釈して歌うべきか、信頼できる別のアーティストからの助言を必要としていた。
そして、それが彼の父親だったんだ。
【ナレーション】
プロのボーカリストとして活躍していたコステロの父、ロス・マクマナス。
実は、彼のレパートリーの一つが「She」だった。
【トレヴァー・ジョーンズさん】
コステロの父が「She」を歌っていたなんて、知らなかった。
二人は30分ほど電話で話していたが、僕らはそばでそれを聞きながら待つしかなかった。
まるで、父親と息子が車のエンジンの組み立て方を話し合っているみたいだった。
そんな風に、この曲の歌詞のフレージングをどうするか、二人で話していたんだ。
コステロが父親の解釈をとても大事にして、まじめに聞いていたのが、見ていておもしろかった。
コステロは(レコーディングに)真摯に取り組んだ。
細部まで注意を払い、一音の狂いなく、歌詞が最高に美しく流れるように、気持ちを込めて歌い上げた。
それで、あの、時代を超えたすばらしいカバーが完成したんだ。
(中略)
コステロは、自分の解釈と表現方法で、あの曲を歌った。
その点で、アズナヴールのオリジナルとは違うが、曲に込められた気持ちは全く同じだと思う。
【ハーバート・クレッツマーさん/「She」の作詞者】
コステロにはとても感謝している。
おかげで、あの曲を新しい世代に聴いてもらえたし、新しい生命を与えてもらった。
商業的にも成功した。
あれは(本当の「She」とは)違うと言ったり、二つを比較したりしたら、私は余程しみったれた人間だということになる。
【シャルル・アズナヴールさん/オリジナルの「She」の作曲家・歌手】
私の曲は時代を超えたものだ。
今の若者は、私が60年前に書いた曲を再発見してくれている。
60年前の曲で、今でも残っている曲がどれだけあるかい?
坂本龍一さんが、以前何かのメディアで、「音楽の技術的なモノは、モーツァルトやベートーヴェンの時代で既に打ち止めになっており、その後の音楽は『焼き直し』である」旨仰っていた。
この考えに則れば、所謂ポップスは、全て「カバー」であり、エルヴィス・コステロさんが「She」に施したような独自の解釈が施されて然るべきだ。
しかし、実際はそうではなく、だから、年々衰退し、マーケットをシュリンクさせているのではないか。
感動とは、他者の日常から窺えた希望だ。
だから、矢野顕子さんは、非日常の言葉が含まれている歌を歌わない、カバーしないに違いない。
ポップスに限らず、衰退している、マーケットがシュリンクしているコンテンツ、カテゴリーの特徴は感動に乏しいことだが、それは、創造者が独自の解釈を怠り、既出の他者の日常を焼き直していることが大きいのではないか。
★2011年12月18日放映分
http://w3.bs-tbs.co.jp/songtosoul/onair/onair_51.html
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2011年12月20日
【TV東京】「カンブリア宮殿」小山進さん(パティシエ エス コヤマ・オーナーパティシエ)
【ナレーション】
社員は毎日、小山宛の報告書を書くことが義務付けられている。
福岡出身、入社一年目の林田(彩希)は、敬語について先輩に注意されたことを一生懸命書き込んでいた。
【林田さん】
これに書けば、絶対(小山)シェフに伝わる。
もし、間違っとることを書いとったら、シェフ、ちゃんと訂正して教えて頂けたり、一つ一つチェックしてくださってるし・・・。
【ナレーション】
小山は、膨大な量の報告書を、一枚一枚、毎日読む。
そして、アドバイスを書き込み。
ここまでする理由は?
【小山進さん】
今日の一日の自分をまとめる時間を取って欲しいだけなんですよ。
書き続けることって、物凄い大事なんですよ。
【ナレーション】
モノ作りとは、商品を通じ、自分の思いを伝えること。
報告書は、伝えるためのトレーニングだ。
(中略)
【村上龍さん/司会】
報告書を、手書きでですね、毎日書くっていうことの、それが凄く重要だってことに、いつどうやって気づいたんですか?
【小山さん】
僕がやっぱり、16年間やり続けたっていうことが大きいと思います。
ケーキ屋って、最終的には、何を伝えたいんか、何を表現したいんか(が問われると思うんです)。
(だから、)その表現したいこと、伝えたいことがいっぱいある人の方が、絶対良いお菓子を作るし、面白い空間を生み出すと思うので、伝えることの練習(のつもりでやっています)。
ただなーんとなく一日過ごすのと、ちょっと何か気づいたことをメモに書いて、(例えば)ただ庭を通って「こんな花咲いてた」とか何でもいいんですよ。
人に伝えたいことを多く持って、それを一日でしっかりまとめて、で、明日のちょっとした目標を設定して、それに対しまた反省して。
やっぱり、続けるって物凄い難しいですけど、続けたことだけが物凄い自信に繋がっているので。
【村上さん】
何かみんな、自分が伝えたいことを自分で知ってるって思っているけど、案外知らないですよね。
こうやって(実際に)書いている時に、伝えたいことって、理性の下に無意識みたいな領域があって、そこら辺にゴチャゴチャあるんですよね。
だから、僕、書いている時に(自分が伝えたいことが)パッと浮かんできたりするんですよ。
だから、伝えたいことを書くっていうんじゃなくて、書くから伝えたいことが自分で把握できたりするんですよね。
【小山さん】
それです。
それやと思います。
本当に、書いているとアイデアも浮かんでくるし、本当に自分が言いたかったことっていうのが、たしかに浮かんで浮かんでくる。
だから、(16年間)書けたんだと思うんですね。
司会の村上龍さんが仰った、「自分が人(他者)へ本当に伝えたいことは概して無意識下に有り、書くことで自覚できる(→ゆえに、書くことを自分に課すことは、人へ自説を伝えたい人には有効、有意義だ)」旨のお考えには、強い共感を覚えた。
一方、ゲストの小山進さん(パティシエ エス コヤマ・オーナーパティシエ)が仰った、「お客さまに表現したい、伝えたいことがどれだけ沢山有るかで、ケーキ屋は、即ち、モノの製造販売店は、良い商品が作れるか否か、良い店が作れるか否かが決まる」旨のお考えには、強い確信感を覚えた。
そうなのだ。
だから、ハングリーな人が、ビジネス、プロフェッショナルの世界で持続的に成功するのだ。
何をどこで売るであれ、「何としても言いたいこと」が有る人、「言いたいこと」が何としても言いたくて仕方無い人、即ち、現状に飽き足らない人、大衆が見過ごしてしまうことを見過ごせない人でなくては、中長期的に人を惹き付けることはできないのあり、また、そういう人だからこそ、人は惹き付けられてしまうのだ。
★2011年12月15日放映分
http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/list/list20111215.html
2011年12月09日
【邦画】「ひとごろし」(1976)松田優作さん、高橋洋子さん
【およう/高橋洋子さん】
あなたには、お嫁さんがいらっしゃるんですか?
【六兵衛/松田優作さん】
私にですか?
私みたいに腰抜けで、臆病な者の所に来てくれる人など居ませんよ。
【およう】
でも、居るかもしれません。
【六兵衛】
ないない。
あるわけがない。
【およう】
でも、好きな人の一人や二人は居たんでしょ?
【六兵衛】
そりゃもう、この年ですから、憧れた人は居ましたが、でも、私などを相手にする物好きな娘さんは、一人も居りませんよ。
【およう】
ずいぶん、馬鹿なご家中だこと。
何も、武芸にばかり強いのが、お侍さんの資格じゃないのにね。
【六兵衛】
お嬢さん。
世間ではね、からかわれる人間が必要なんだと、私は思うんです。
どこでも一人位は、臆病者と呼ばれても怒らないような人が必要なんだと、私は思うんです。
成る程、揶揄は「される」が勝ちだ。
なぜなら、私たちはみな、来たるべき「死」を臆した「臆病」という病を患っているからだ。
この病は完治はできないが、自分を棚に置いて他者を揶揄することで、緩和はできる。
だから、世間には、「臆病者と呼ばれても怒らない人」、「他者の臆病者呼ばわりを容認、甘受できる人」が必要であり、そうした人は勝ちだ。
私が本作品を観るのは今回で十数回目だが、この台詞にかくも感動したのは、今回が初めてだ。
私の臆病が重篤になったためか、はたまた、年を取り、人の心情や世の真理に敏感になったためかは、正に「神のみぞ知る」ことだ。(笑)
2011年12月08日
【哲学】「ウルトラマンと「正義」の話をしよう」神谷和宏さん
P60
タバコはコミュニケーションを活性化させるための有益なツール、ぜいたくは悪という価値観は現代とは正反対と思われます。
このように価値観は時代と共に変わっていくものなのです。
それは「正義」についても同様です。
戦時中はアメリカという敵国を倒すことが国を挙げての正義でしたが、それが戦後になって180度転換しているのはわかりやすい例でしょう。
国文学者の石原千秋氏は「正しさが変わる」体験をしてきたと言います。
石原氏が小学生だった昭和30年代には煙突から煙がモクモクと出る工業地帯は、日本の加工貿易による発展という「正しさ」の象徴であったのに、中学2年生の時、公害問題が突如として取りざたされ、やがて、煙がモクモクと出る工場は「正しくない」ものとして扱われるようになったことを挙げています。
またそのような「開発は善」という流れが「開発は悪」と変わる中で、スーパーでの買い物一つとっても、当初は買い物かごを持参せずにレジ袋をもらえるのは、便利なこととして受け取られていたのに、最近ではエコバッグを持参する方が良い、というように「正しさ」が変わっていくことを訴えています。
不遜だが、私は、上記の内容に異論を禁じ得ない。
時代、即ち、「社会の空気」がいかに変化しようと、正義は不変だ。
「人を殺めること」は、いつの時代も「正しくないこと」だ。
正義は「物事の是非」だ。
物事には、普遍かつ不変の「是非」が厳然と存在し、価値観や思考や利害を理由に否定され得ない。
「ダメなものはダメ」であり、これを「社会の空気」に流されることなく主張、次世代継承できるところが、人間の人間たる一番の所以だ。
時代の変化で変化するのは、倫理だ。
倫理は「物事の良否」であり、「社会の空気」に比例して変化する。
現に今の日本では、「結婚前にセックスすること」は当然かつ自然だ。
私たちは、正義と倫理を混同してはいけない。
2011年12月06日
【BSNHK】「いつ治療をやめるのか アメリカの終末医療」ジュディス・ネルソン医師、ケレン・オスマン医師
【ジュディス・ネルソン医師/マウント・サイナイ病院集中治療室】
(延命処置を選択するか否か)決断を下す際に、様々な不確定要素が邪魔をします。
色々な治療法があるので、それをいかようにも組合わせられるという幻想が生まれてしまったんです。
実際のところは、たとえどんなに成果を上げている医療技術があっても、元の病気や、患者の状態の方が、最終的な結果に大きな影響を及ぼすのです。
しかし、技術が存在することで、それを使うか使わないかの決断が生死を決めてしまうと、患者や家族には思えてしまうんです。
そう誤解させてしまうのは、私たち医師の本意ではありません。
【ケレン・オスマン医師/マウント・サイナイ病院骨髄移植室】
病状が良くなる可能性が無い時、私たち医師が唯一できることは、良い死を迎えさせてあげることだと思います。
患者の痛みや苦しみを取り除き、状況を受け入れられるようにすることです。
でも、恐らく、「良い死」という考えに拘るのは、むしろ患者の周りに居る人たちの方なのだと思います。
その時の記憶が残るからです。
実際に亡くなっていく人の気持ちについては、誰もわからないでしょう。
【ジェローム・グループマン医師/ハーバード大学医学部教授】
重病の患者は、できる限りの治療を受けようとします。
たとえ、治る可能性が僅かでもね。
勿論、回復しないことも度々です。
しかし、時には、回復するのです。
ですから、限界に挑もうとする治療や試みを無益だとか無意味だとか決め付けないよう、十分気をつけるべきです。
そうでなければ、医学の進歩は無いのですから。
【ジュディス・ネルソン医師/マウント・サイナイ病院集中治療室】
病状が著しく重く、常に人口呼吸器を使っている患者は、アメリカには十万人居ます。
こうした患者のケアにかかる費用は、年間200億から250億ドルと推計されています。
集中治療室での技術が向上すればするほど、生と死の間で中吊りになる人が増えていくのです。
【デビッド・マラー医師/マウント・サイナイ医科大学医学教育学部長】
医療が、より多くのものを提供するようになったことで、患者にある種の期待感を持たせるようになりました。
「病院に来ればもっと何かが得られる」という期待感です。
医師はより積極的な治療を行い続け、患者はいつまでも期待を抱き続ける。
アメリカでは、それが当たり前の医療となっています。
勿論、医療の進歩で、多くの貴重な命が救われてきたのは、間違いありません。
しかし、そのことで、患者自身やその家族、愛する人たち、また、国の医療制度が、大きな痛手を受けているのも事実です。
私は、母を、本人の希望に従い延命処置を選択せず亡くしている。
その為、とりわけ上記のコメントには深く考えさせられた。
そして、主に以下の二つの気づき、再認識を得た。
一つは、オプション(選択肢)の過剰保有は、期待値の過剰な高騰を促すと共に、幸福どころか不幸に寄与しかねない、ということだ。
たしかに、保有するオプションが少なければ、ニーズが完全達成される期待値、そして、実績値は低くなる。
しかし他方、オプションの選択、決断に要するコストが少なくて済む。
また、その分、ニーズが達成し得なかった時に覚える後悔も少なくて済む。
ビジネスでよく言う「顧客満足度」も、「期待値と実績値の差分」を定量化しただけで、本質的には同義だ。
だから、「ローマを見て死ね」という格言があるが、私たちは、〔ローマという地名〕、並びに、〔ローマという町に行くことが物理的には可能だという事実〕を知らなければ、ローマを見ずに生活をしても、幸福度は下がらない。
このように考えていくと、幸福度と分相応度は比例関係にあるにように思える。
「分相応」という言葉、概念の本意は、「オプションの最適保有」ではないか。
もう一つは、医療サービスの真の顧客は、患者ではなくその家族である、ということだ。
本事項は、現状の「お受験」や教育サービスも同様だ。
いずれのサービスも、受益者本人の満足度や評価より、家族のそれらがサービスの(リピート)購入の決め手になる。
いずれのサービスも、内容や技術が向上している割には、受益者満足度が向上しあぐねている、結果、社会へポジティブフィードバックを与えあぐねている印象がある。
勿論、この原因は多岐に渡るだろうが、元凶は本事項にあるのではないか。
★2011年11月30日放映分
http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/111130.html
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2011年12月03日
【新橋商事】「第24期竜王戦第五局▲渡辺明竜王△丸山忠久九段」大内延介九段
【Q1】
本局での丸山忠久九段の敗着は何か?
【A1】
確実な敗着は無いように感じる。
【Q2】
丸山九段に確実な敗着が無いとなると、渡辺明竜王の本局の勝因は何か?
【A2】
「気づくと優勢に立っていた」という意味で、本局は渡辺竜王の作戦勝ちに感じる。
これは、本局に限らず、今期の竜王戦全般に感じる。
渡辺さんは、とりわけ竜王戦では本当に滅法強く、正に「竜王男」だ。(笑)
【Q3】
渡辺竜王の作戦勝ち、優勢を決定付けた一番の有効手は何か?
【A3】
59手目の▲2三歩だ。
一見▲2ニ歩なのだが、こちらの方が優っている。
プロでも、なかなか思いつき難い手だ。
私は、今を遡る頃三十数年前、兄に強いられ(笑)将棋を始めて間も無くして、「穴熊(あなぐま)」という戦法(戦術)と、それが大内延介九段(※当時の段位は不明)のお家芸であるのを知った。
切っ掛けは、私より遥かに高棋力で、飛車角二枚落ちでも歯が立たない兄が、平手で指す時しばしば採用してきたことだ。
相手の守備の陣形を全く崩せず負かされるのは正に完敗の極みで、当時私は、幼心に忸怩たる思いを幾度も覚えた。(笑)
同時に、このような卑怯かつ取り付く島の無い(笑)戦法を愛好する大内さんはいかなる人間か、不可思議かつ恨めしく思った。(笑)
しかし、ある時、大内さんが時の中原誠名人に挑戦し、勝てた勝負を悪手で落とし、名人位を不意になさったてん末を知った。
以来私は、打って変わって大内さんに魅力を感じるようになったものの、なぜかNHK杯を含め、ライブの大内さんを拝見する機会が無かった。
そこで、過日google+でご縁を授かったKさんから本大盤解説会の予定を告知いただき、参加した。
将棋界の大御所の大内さんの解説は、頭の天辺から足の指先まで現代将棋一辺倒の中堅棋士の解説に慣れた私には、却って新鮮に聞こえ、満足した。
たとえば、25手目の▲3五歩からの渡辺明竜王の仕掛けの辺りなど、「このような仕掛けに対して、昔なら後手はこのように厚みで対応、対抗するのも有力だったが、今はそれは良くない、勝てないようだ」と新旧比較で現代将棋を紐解かれ、私を含め(笑)比較的年齢層が高かった参加者の多くは、高い満足を覚えたに違いない。
上掲の内容は、注釈にも付記した通り、解説会終了後、私が大内さんに個別に質問した内容だ。
私なりに本局を合理的に総括したかった、また、大内さんの真の魅力を五感に留めておきたかったが為に敢行した、不遜な暴挙のてん末だが、大内さんは未知かつ一介の将棋好きオヤジ(笑)の私に笑顔でハートフルにコミュニケートくださり、更に満足が進んだ。
大内さんの回答でとりわけ考えさせられたのは、以下の二つだ。
一つは、「確実な敗着、悪手が無くとも、勝負は負けることがある」、ということだ。
これは、様々な解釈、考察が可能だが、ひとまず私が血肉にしたのは、以下の事項だ。
●競合者が居る勝負事では、大きなミスをおかさないことが必ずしも勝利を担保しない。
●大きなミスをおかさずとも、小さなミスをおかせば、勝負は負けかねない。
●大きなミスをおかさずとも、ポイント(優勢事項)を取らなければ、やはり勝負は負けかねない。
もう一つは、「優れた戦略は、相手が注意する以前に優劣を決定付ける」、ということだ。
これも、様々な解釈、考察が可能だが、ひとまず私が血肉にしたのは、以下の事項だ。
●優れた戦術は、優れた戦略に及ばない。
●戦術(局所)の過剰な意識、注力は、「寝た子を起こす」こと、ひいては、戦略計画(全体最適化計画/構想)の進捗を妨げることになりかねない。
現在、大内さんは70の齢を重ね、現役引退の後、将棋の普及に尽力なさっている。
大内さんは、本大盤解説会の閉幕時、参加者に深く一礼しながら以下の旨仰った。
今日は本当に寒い中、ご来場ありがとうございました。
主催者の意向が続けば、次回は来年ここで名人戦の大盤解説会をやりますので、是非また来てください。
たしかに、大内さんが公式戦に出場することは、この先無い。
しかし、将棋への愛情と最善努力を欠かさない大内さんの将棋人生は、依然現役に違いない。
私は、大内さんに「生涯現役」の何たるかを身をもって教示いただき、満足のみならず感動した。
私は、大内さんの将棋人生の益々のご隆昌を、この場を借りて祈念したい。(礼)
★2011年12月2日新橋西口SL広場にて催行
※1:解説女性棋士は藤森奈津子女流四段、駒操作は藤森哲也四段
※2:上記の大内延介九段の言はいずれも本会終了後の個別質問の意訳
http://www.faro.co.jp/business/event/111013_meijin.html
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2011年12月02日
【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第23局の2▲佐藤康光九段△羽生善治王位〕新しい試み」関浩さん
しばらく定跡化された手順が続く。
ざっと流れを追ってみよう。
(中略)
前例は6局あって、後手の5勝1敗。
後手有望の分かれと見ていいが、(本局の先手番の)佐藤(康光九段)には温めて対策があった。
本日終了図の▲3七桂だ。
(中略)
つまり、佐藤は▲3六銀の1手を省いてみようと考えた。
「必要は発明の母」という。
「省略の発想は新手の母」といえる
「省略の発想は新手の母」というのは、成る程言い得て妙だ。
私たちは、物事を取り込む、抱え込む、増やすことは得意かつ日常的だが、それらを解き放つ、捨てる、減らすことは甚だ不得意かつ非日常的だ。
そして、厄介なことに、後者は概して、持続的な成長、成功のための改善、変革の妨げになる。
後者を旨とする佐藤康光九段の▲3七桂の試みが本局の勝利に繋がるか否かは不明だが、「棋士佐藤康光」の持続的な成長、成功を必ずや後押しするに違いない。
しかし、なぜ、私たちは、後者が殊に不得意かつ非日常的なのか。
一言で言えば、前者はデフォルト(既定)になり易いからだ。
私たちは「思考」が不得意かつ嫌いだ。
物事を考えることは、何も考えずに行動することの何倍も心身を疲弊させるからだ。
だから、私たちは、「それは(考えるまでもなく)そんなものだ、やるものだ」と物事を既定することを選好し、得意かつ日常的にする。
さらに、一旦既定した物事を解除することに、強い喪失感や不安感を覚える。
既定した物事を維持した時の長短所は予測可能だが、解除した時の長短所は実行してみないとわからない所が多く、予測困難だからだ。
私たちは、予測困難な「明るい」未来よりも、予測可能な「暗い」、でも、「程々の(=真っ暗ではない)」未来を選ぶものだ。
では、なぜ、佐藤さんは、後者を実行できたのか。
「デフォルトにこそ、成長や成功の抑止元凶が潜んでいる」。
「デフォルトにこそ、成長や成功のタネが転がっている」。
佐藤さんが、これらを心底心得ておられるからではないか。
また、それ以上に、「もっと勝ちたい」、「もっと強くなりたい」と不断に切望なさっているからではないか。
「不断の成長、成功願望は新手の聖母」に違いない。
★2011年12月2日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/
2011年12月01日
【観戦記】「第70期名人戦C級1組順位戦〔第5譜▲糸谷哲郎五段△内藤国雄九段〕早指しで完勝」上地隆蔵さん
▲2四歩が痛打。
△同馬は▲3ニ馬で先手必勝。
実戦も似た順になり、糸谷(哲郎五段)は勝利を決定づけた。
歩の成り捨てから▲5八飛がソツのない活用で素早く寄せた。
(中略)
糸谷はわずか(持ち時間6時間の内)わずか1時間48分の消費で完勝。
しかも彼は対局中、席を外すことが多く、実質の考慮時間はもっと少ないに違いない。
「早指しの糸谷」の本領発揮だった。
後半戦の暴れっぷりに期待したい。
私は、基本羽生ヲタで、渡辺明竜王と藤井猛九段も敬愛しているが、別枠で(?・笑)、糸谷哲郎五段に注目している。
糸谷さんに注目し始めたのは、2009年度のNHK杯での暴れっぷり(笑)を目の当たりにしてからのことだ。
対戦者が着手するや否や、「読んでました!」と言わんばかりに、殆どノータイムで着手。
そして、本局のように、持ち時間を大量に余らして並み居る格上棋士を正になぎ倒し、準優勝を飾られた。
準決勝戦で永世竜王の渡辺明竜王を撃破した時は、放送時間が余り過ぎ、別途臨時番組が放映された。
糸谷さんの「早指し」を身上とする特異な指しっぷりは、下手の横好きの私からするとあたかも大リーグボールで(笑)、痛快この上ない。
ちなみに、私が糸谷さんの指しっぷりを痛快に感じ、惹かれるのは、それが、「早見え」の才と決断力の賜物だからだ。
オヤジの私は(笑)、若くて高次の「早見え」の才と決断力に、憧憬と触発、そして、不遜だが少しばかり懐古を覚える。
よって、私も、本記事を執筆下さった上地隆蔵さん共々、「早指しの糸谷」の益々の本領発揮と暴れっぷりを期待したいところだが、断腸の思い(笑)で、期待を後者に限りたい。
なぜなら、糸谷さんは、過日の個別質問の回答の折、以下の旨付言くださったからだ。
私の場合、最善手の95%は直感の着想だ。
ただ、これは、最善手の5%は直感で着想できていない、直感から漏れている、ということでもある。
今以上に勝つには、持ち時間を有効活用し、直感以外で残り5%の最善手をも着想できるようにならなければ、と思っている。
誤解を怖れずに言えば、糸谷さんの「早指し」の本質は、自己肯定だ。
高次の「早見え」の才と決断力に基づく自分の直感を信奉し、それに盲従したてん末が「早指し」だ。
たしかに、糸谷さんに限らず、人が生きていく上で、自己肯定は欠かせない。
しかし、プロ棋士にとって対局は、「自己肯定」の場ではなく、「勝つ」場だ。
眼前の一局に勝つことが、自身の地位とキャリアを高め、新たな自己を創造する。
もちろん、自己肯定の完遂、即ち、直感の盲従で、眼前の一局が勝てれば最高だ。
しかし、それが危ういなら、意識的に自己否定を断行する、即ち、積極的に直感を疑い、直感外で最善手を探求するべきだ。
もとより、将棋に限らず、次段階への成長と成功は、自己肯定ではなく、自己否定の果てに果たせるものだ。
たしかに、結果、糸谷さんは、「早指し」という大リーグボール、並びに、「早指しの糸谷」という称号を失うかもしれない。
また。私を除く一部のファンをも失うかもしれない。
しかし、それでもやはり、糸谷さんは、眼前の一局に勝つべきだ。
そして、生来のポテンシャルをより多く開花させ、次段階、異次元の自己肯定を果たすべきだ。
★2011年11月26日付毎日新聞夕刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/
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