2023年08月22日
【医療】「60歳うつ」秋田巌さん
P128
第三章 生活習慣と回復後の生き方
精神科医療の奇妙な文化
当時の私のような若輩者の医者であっても、懐かしく感じてお手紙をくださるように、精神科医は患者さんの支えになっています。私がいい人という意味ではなく、精神科医はいい人が、感じのいい人が多いのです。
診療分野の性質上、患者さんの生活や心の動きに分け入っていきます。感じの悪い人には入ってきてほしくないですから、感じのいい人が多いのは当然でしょう。
また、投薬やカウンセリングなどを通して、時間をかけて患者さんを支えている、というような感覚もあります。
支えているような気分になれる、というと皮肉でしょうか。
患者さんのほうでも、精神科医は優しく接してくれる、精神科医に支えてもらっている、人生を共に歩んでくれている、という感覚はあると思います。
例えば、同じ精神科医でも、5分間診療ではなく長く話を聞いてあげる医者もいます。そうすると、「本当にあの先生はよく聞いてくださるし、支えてくださる」となります。
しかし、その関係性はある真実を見逃しています。こうした寄り添う診療で、知らず知らずのうちに、依存させてしまっているということがあるのです。
医者のほうは、頼られると、何かやれている気になりがちですが、そもそも頼られてはダメなのです。
優しくて感じのいいお医者さんが聖人に見える人もいるでしょう。でも私は時々、そんな人が半分、悪魔に見えることもあります。
やはり健康は自主管理。患者さんが、自分で人生を切り拓いていく。その「助け」以上のものになっては、だめなのだと思います。
そうすると、精神科医は弧度に苛まれるでしょう。何しろ、患者さんと共に歩むことを拒むわけですから。つまり、孤独に耐える力が、精神科医に要求されることになります。
私の師匠の一人、アドルフ・グッゲンビュール=クレイグ博士が、「我々の分析家という仕事は、売春婦の仕事に似ている」と発言したもので、轟々たる非難を浴びました。ですが、それは的を射ていると思います。
分析家のみならず、精神科医は、患者と友人でもなければ、恋人同士でもない。夫婦でもなければ、家族でもない。使い捨てにされることを厭っては、だめなのです。いやむしろ、積極的に使い捨てにされる仕事であることを、引き受けるべきなのです。
脱線しますが、グッゲンビュール先生は、とても変わり者、かつ、賢者でした。私は、「ゴッキンゲルゲル・ゴキ博士」をSNS上では名乗っていますが、これは「グッゲンビュール」からとったものです。
当院はだいたい2~3週間待ちです。藤川(徳美)先生のふじかわ診療内科クリニックもそれくらい。でも半年待ちとか、下手したら1年待ちのクリニックもあります。新患をとらないところもあります。ずっと薬をもらいに、ずっとカウンセリングに、既存の患者さんが通うからです。そういうところは得てして「高評価」であったりします。
本来だったら、診察をして治療をしたら治って、どんんどん患者さんが入れ替わっていくことのほうがよいことであるはず。しかし、この「高評価」の空間に通ううちに、60歳の転機を自分の問題として真正面から捉えるとか、自分の人生についてもう一度考えるとか、そういう大事なことに気がつかないままになってしまいます。
一応、口では「自分のことをしっかり見つめて、がんばっていきましょう」というようなことは言うでしょう。でも、薬に依存しながらではそれは無理なのです。
医者は、「1剤くらいだったらいいだろう」「これくらいなら問題ないだろう」と考えます。患者さんは、「ほんのちょっとしか飲んでないし、あの先生はいい先生だから」と、それですべて完結してしまいます。製薬会社も大満足です。新しい知見も、本質的な視点も、入り込む余地がありません。
人間は甘く、弱い生き物である。
ややもすると「誰か」に頼りっぱなしである。
人間は根本的に依存症である。
そのさまは寄生虫に似て、究極離別不能なばかりか、相手を道連れにする。
依存症を発症した人は、背景こそ十人十色だが、そもそも孤独でも生きられる術、ないし、気概を持っていない、もしくは、何かで失ってしまっている、点で等しい。
「人間、依存症を発症してナンボ」と開き直るのも人生だが、それが無理なら「使い捨てにされる」恐怖への耐性を育み、孤独でも生きられる術と気概を担保するしかない。
kimio_memo at 07:25│Comments(0)│
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