【洋画】「クワイエット・プレイス/A Quiet Place」(2018)【邦画】「TOKYO JOE マフィアを売った男/The Man Who Brought Down the Chicago Mob」(2008)

2022年04月25日

【GF01】「『乗れている!』感&好タイム」20220425荒川サイクリングロード修行結果

走行時間:1時間55分(+2)
走行距離:51.36km
平均心拍数:127bpm(-)
平均ケイデンス:79rpm(-2)
平均速度:26.7km/h(-0.5)
最高心拍数:145bpm(-8)
最高ケイデンス:129rpm(?)
最高速度:48.2km/h(+1.7)

中3日のインターバルを経ての修行である。
本当は前々日が好都合だったが、さすがに中1日では「リスクがベネフィットを上回る」(苦笑)ことに加え、当日は妻孝行日と相成り(笑)、中3日に収まった(?・笑)次第である。

補足すると妻孝行は近所のツツジ(とその他名花)散策である。
ここは修行後のルーティンである「小一時間ウォーキング」のルートで、私自身は体験済である。
ではなぜ改めて、修行をスキップしてまで(笑)散策したかというと、妻にも体験させたかったからである。
近所に住みながら彼らの咲きっぷりを体験していないのは、また、そもそも彼らの住処を知らない(吃驚!)のは、余りに勿体ないと考えたからである。
ちなみに、心穏やかにして見る彼らは、同じ好天下でも、修行後の精神高揚冷めやらぬ時より味わい深く、見惚れる一択であった。
感動の可否と多寡は、当人の心境に依存する。

前回に続き、GF01での出走である。
連投の訳は、直截的には、チェーン洗浄&注油を目前(二向聴。笑)に、水溜り(※前夜降雨分)で汚れても良いからだが、深層心理的には、前回の「乗れている!」感が冷めやらないからである。(笑)

幸い、深層心理は念願成就し(笑)今回も跨るや否や「乗れている!」感が宿った。
「乗れている!」感の本当の由来は依然不明だが、以前よりポジション、および、ライディングが安定している感があり、また、その因子として以前より「肩が(内側に)入る」ようになった(感がある)ことと、「(過剰前傾を促さない範囲で)上体を下げられる」ようになった(感がある)ことが思い浮かばれる。
とはいえ、ではなぜそれらが以前よりデキるようになったかは、これまた依然不明だが、ギターの速弾きと同様、「持続的な練習の果て、ある日突然デキるもの」かもと、今は思う(他ない。笑)。

ただ、「乗れている!」感に「水を差す」ことがあった。
出走後約三分、ふとサイコンに目をやった時のこと、なんと速度とケイデンスが無表示ではないか。(汗)



サイコンを凝視するに、なんと速度とケイデンスのBluetooth接続が切れているではないか。(大汗)
送信元のセンサーの電池が突然死したか、はたまた、センサーそのものが物理的に突然死したか。
ともあれ、今日のところはスルーし、このまま走り抜くか。





やはり、速度とケイデンスを確認できないまま修行するのは、納豆なしに朝食を取るに等しく(?・笑)、ひと先ず帰宅し、電池を新品交換した。
サイコンに目をやると、速度とケイデンスのBluetooth接続が表示されており、大事(センサーの突然死)には至らなかった。
水は差されたが、事なきを得、モチベは下がらかった。
終始「乗れている!」感が持続し、前回ほどではないがタイムも良かったのは、結局ココかもしれない。(笑)

最高気温は26度である。
風は弱く(※レベル3中)、予報通り初夏の、まだ苦しくない(笑)修行環境である。

重点取組の山本元喜の説く「(身体の)重心はサドルに乗っていること」と、「ペダルを正しく『踏み』『回す』こと」の具現は、「乗れている!」感のもと、前回に負けず劣らず最高である。
速度に色気(?・笑)が出ると過剰前傾になり、それを手のしびれが予兆的に教えてくれる場面があったのも前回同様だが、前回と異なり両手ではなく専ら左手で、また、股擦れは予兆共々無発症だった。
同じように走り、同じような感慨しつつも、症状レベルは微妙に違うのだから、サイクリングの奥深さを改めて思い知るばかりである。
ともあれ、前回と同様、次回もこうありたいと願うばかりである。(笑)

タイムは、アゲインストの往路が目標マイナス1分の46分、フォローの復路がマイナス2分の45分、トータルが1時間55分である。
風の向きと強さが前回とほぼ同様で、タイムは前回より往復共々短いのだから、申し分があろうはずがない。(笑)

帰宅直後の疲労感は普通である。
21時半に就寝し、二度のトイレ覚醒を経、8時間寝た。
恒例の4時台の早朝覚醒がなく、質量共々担保されたのは久しぶりで、嬉しい。
また、だからだろう、寝起きも、恒例の翌日午前中の後遺症も、不快と無縁だった。
最近思うのだが、歳をとって死ぬ、というか、死ぬ易くなる、のは、歳を取ると睡眠の質量担保が困難化し、健康、挙句、生存の維持に必要なリカバリ(システム)が負の循環一方にな(り易くな)るからではないか。
以前述べたように、私は長く生きたいとは思わないが、健康寿命は長くありたい。
睡眠の質量担保は、正に喫緊、そして、終生の課題である。

kimio_memo at 12:00│Comments(0) ロードバイク | [乱文御免]荒サイ修行

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