2011年09月05日

【将棋】「将棋をやってる子供は、なぜ「伸びしろ」が大きいのか?」安次嶺隆幸さん

P17
この「お願いします」「負けました」「ありがとうございました」が3つの礼。

(中略)

将棋は、相手がいなくてはできません。
目の前に座っている人がいてくれるから対局が成立する。
だから、「お願いします」「ありがとうございました」と敬意を表して挨拶をするのです。

「負けました」の礼にしても、大きな意味があります。
将棋の一手を積み木にたとえると、対局するということは、自分が積み木を置いたら相手がその上に重ねて積み木を置くといった具合に、百何十もの積み木を注意深く積み上げていくようなもの。
そこには、自分だけでなく相手が熟考を重ねた時間や思いも積み重ねられている。
だから負けたら、「自分の考えが足りませんでした」「やっぱり自分が弱かったです」と潔く自分の負けを認め、相手に「負けました」と宣言しなければならないのです。

そして「感想戦」は敗者への慰めであり、「次はがんばれよ」という声援でもあります。
それを通じて、負けた者も次へ進む「勇気」と「負けから学ぶ姿勢」を育むことができるのです。

古来、日本には武道や茶道など「○○道」という、型から入って、そこに込められた「心」を体得していく文化がありました。
将棋における3つの礼は、まさにその「型」に通じます。

自己否定は成長の好機だが、概して見過ごされる。
現在の能力に加え、過去行なった思考や意思決定の駄目さ、不十分さを責任追及されるからだ。
成長は、現状の総括と清算無しにあり得ない。
私たちは、自己否定の勇気を不断に持ち続けなければいけない。


P66
じつは以前、羽生(善治)名人に「将棋に闘争心はいらないのですか?」と聞いたことがあるのです。
「当然いりますよね?勝負ですものね」と言ったら、軽い口調で「いらないんですよ」と。
私は思わず、「あの、ホントですか?」と確認してしまいましたが、「ええ、いりません。闘争心はかえって邪魔になることもあるのですよ」とおっしゃるのです。

(中略)

しかし考えてみれば、将棋は自分一人ではできません。
目の前に座っている相手がいてくれるから対局が成立する。
何度も繰り返しになりますが、将棋とは、対局者が二人して、自分の力を出し切って最善手を模索し合う競技です。
ですから自分が一手を指したら、次の一手は相手にゆだねるしかないのです。

これは日常生活における人間関係でも同じかもしれません。
たとえば仕事の場面で、営業マンが絶対この話をまとめてみせる、相手に「うん」と言わせてみせると、自分一人で息巻いてみたところで、相手が思いどおりの色よい返事をしてくれるとは限りません。
むしろ、強引に結果を求めるその姿勢に相手は辟易して、イヤな感情さえ覚えてしまうこともあります。

が、誠心誠意説明したあと、「では、あとのご判断はおまかせしますので、ゆっくりお考えください」と相手にゆだねてみると、相手も案外その気になってくれて、いい結果につながることがあるものです。

絶対勝とう、何としても商談をまとめよう、という気持ちが先行すると、そこのばかりこだわってしまって、広い視野で物事を見られなくなってしまいます。
すると相手が自分の思惑と違った反応をしてきたとき、対応できない。
失敗をカバーできないから、ダメージも大きくなる。
しかし、最善を尽くしてさまざまな手を考えたうえで、あとは相手にゆだねることができたなら、柔軟に対応することが可能です。
人間関係においては、そうした心の余裕が相手を受け入れる度量が必要なのです。

(中略)

「闘争心はいらない」とは、勝ちを意識しすぎたり、勝負に力んでしまったりすると、そのせいで肝心なことが見えなくなって自分の力を出せなくなることがある。
そのブレーキ役が闘争心ということだったのでしょう。

(中略)

相手が勝ち気いっぱいで臨んでくれば、相手の気持ちや指し手は読みやすい。
しかし、闘争心を捨てて何でもどうぞという態度で来られたら、棋士にとって、これほど恐ろしい相手はいないのではないでしょうか。

闘争すべきは、最善努力から逃げようとする自分であって、眼前の相手ではない。
眼前の相手は、最善努力、ひいては、成長、成功の好機、パートナーである。


P78
しかし、そうやってすごくたくさんの手を読んでも、その読みがすべて無駄になってしまうかもしれないのです。
考えてはみたけれど、その結果、やっぱりこの手はダメだということも当然あるわけです。
むしろ、ダメだという結論に達する手がほとんどです。
そうしたら、そこまで読んだものを捨てて、また一から考えることになるのです。

(中略)

「そこまではちょっと無理なのではないですか?」と、以前、羽生名人に何回か食い下がって聞いたことがあるのですが、「いいえ。その読みはけっして無駄にはなりません。形が変わるかもしれないけれど、必ずどこかで応用できます」という答えが返ってきました。

(中略)

羽生名人の著書に「変わりゆく現代将棋」という本があるのですが、そこにはまさしく無駄が書いてありました。

変わりゆく現代将棋 上
羽生 善治
毎日コミュニケーションズ
2010-04-23


「こうやると、こうなって、そのあとはこうなって、こういう局面になるから、この手はやっぱり少し疑問だ」などと、ご自身の読みの一部を披露なさっている。
私は読んだだけでなく、それを追って実際に駒を並べてみたので、「え?せっかく並べたのに、だったら、これじゃなくてもよかったんだ」とか、「じゃあこっちなんだ」と面食らうこともあるほど、複雑な読みが書いてある。

そこまでオープンにしてしまう姿勢に驚くと同時に、いつもこういう作業をなさっているのだと舌を巻いてしまいました。

さらに、そういうふうに書けるということは、さまざまな手の道筋をはっきりと覚えているということになります。
こういうときは、こうなって、ああなって、だから疑問な手だ、でもこういうときなら、もしかしたら使える手かもしれない、などとちゃんと整理されている。

ということは、読みの無駄は先の言葉どおり、やはりけっして無駄ではないのです。
そのときは一見無駄なように見えるかもしれないけれど、自分の中では絶対に無駄にはならない作業をしていることになるのです。

こういう作業をないがしろにしないのは、将棋が相手だけでなく自分との戦いでもあるからです。

自分との戦いという観点から考えてみると、しっかり読んで指した手は、たとえその対局に負けたとしても自分自身に納得がいく。
しかし、途中でいいかげんに指して負けたとしたら、たとえ勝っても、あとには自己喪失・自己嫌悪だけが残ってしまう。
棋士はこれをもっとも恐れているのです。

なぜなら、将棋はすべて自己責任。
結果はすべて自分で背負わなければならないからです。

自分自身を信じる気持ちがなければ、どうやって自分の手を指していくというのでしょうか。

現状の最適解が不変の最適解であり続けることは、あり得ない。
だが、現状の最適解を案出するのに要したプロセスは、実行の躊躇を無くし、未来の最適解を案出する先駆けになる。


P102
最善の手を考えることは、正しい道を探る作業でもあります。
それについても、自分は正しい道を選んだつもりだったけれど、もしかしたらそれは正しい道なのではなくて、自分勝手な道だったのかもしれない、と考えられるようになっていきます。

人生においてはもちろんのこと、将棋においても、正しい道を探すのには困難が伴います。
とちらに進んだらいいのか皆目わからない霧の中を歩むのは、けっして楽な作業ではありません。

そんな霧の中でむずかしい局面にぶつかったとき、「これが自分の個性だから」「こう指したいから」と安直に結論を出してしまえば、その場はしのげるかもしれません。
つらくめんどうくさい作業なんて、しなくてすんでしまうかもしれません。

(中略)

けれど、「自分はこうだ」「こうしたいんだ」という独りよがりは個性ではありません。
それは、他人の眼を意識しないでスプレーで落書きをするようなもの。
本当の個性は、そうした独りよがりのはるか向こうにあるものではないでしょうか。

将棋においても初めのうちは、子供たちは「ぼくはこういう手が好きだから」「こう指したいから」と指してしまうことがよくあります。
しかし、負けることによって、「こう指したい」というのは自分の好みで選んでいるだけだった、その局面ではよく考えて、こう指すべきだったのだ、ということが次第にわかってくるのです。

そうした積み重ねによって、「ちょっと待てよ。ここは一手辛抱してみようか。そういえばこの間、誰かがこういう手を指していたな。だったら、ここはこうしたほうがいいんじゃないか」と、心の中で葛藤することを覚えていくのです。
その葛藤が、自分の好みと正しい道の違いを気づかせてくれるのだと思います。

教育でもよく使われるが、昨今「個性」は、努力怠慢の免罪符と化している。
「個性」とは、神もしくは後世のみが判断し得る「もう一つの最適解」である。


P109
以前、羽生名人に「プロとアマチュアの将棋で一番の違いは何ですか?」とうかがったことがあります。
そうしたら、「なかなか寄せられない終盤戦をいかに耐えていくか。その我慢の力ですかね」とおっしゃっていました。

勝利を目前にして勝ちに向かうとき、あるいは負ける寸前だが可能性はまだ残されているとき、立場は違えどそうした踏ん張りどころこそ、もっとも自分が試されるとき。
一流のプロ棋士は、そこをぐっと耐えることができるということなのです。

成る程だが、可能性を信じ耐える力があるから、プロ(に)な(れる)のか。
それとも、可能性を信じ耐える理由を見つける力があるから、プロ(に)な(れる)のか。


P114
もちろん将棋の詰み勘のほうは、そんなにたやすく身につけることはできません。
しかし子供でも、一度勝てると自信がつく。
勝てると、それまで自分が努力をしてきたことを「そうだったんだ。これでよかったんだ」と思えるようになる。

言ってみれば、自転車に乗れるようになる感覚です。
一度自転車に乗れると、「あれ?乗れたぞ!」という感じで、どうして乗れたのかはよくわからないけれど、そのコツを体得できます。
そうしたら、次からは必ず乗れる。
それに似たことを勝つことで体験することができるのです。

そしてその自信が揺るぎないものになって、努力する道筋がはっきり見えてくるのです。
成功体験が次の勝ちにつながり、さらには詰み勘を養っていくことにもつながるわけです。

(中略)

こう考えてみると、”考え続ける筋肉”を鍛えるということは、すなわち”自信の筋肉”を鍛えることでもあるのです。

成功体験を得る(重ねる)ことは、”自信の筋肉”を鍛えることである。


P125
戦法にしても、棋士それぞれに得意とする戦法があります。
相手が得意な戦法においては相手が上、自分は弱いと認めることができれば、そこでは相手の言い分を聞いてみようという態度で臨めます。

そういうふうに気持ちを整理して、その分野の専門家の声に素直に耳を傾けてみると、「なるほど」と教えられることは多いものです。
たとえ負けたとしても、そこでつかんだものを次に生かせばいい。

その経験を参考にして、次の機会に自分で応用できれば、相手の学びから自分も多くを学びとることになります。

自分の弱いところを認めたことが、大きな視点に立ってみれば、自分の弱さを克服することにつながるわけです。

羽生名人は、しばしば相手の得意戦法に立ち向かっていきます。
何も戦法を相手に合わせる必要はないのです。
素人考えでは、相手がそれに長じているなら、それを避けて、違う戦法で戦えばいいように思います。
ところが、羽生名人はあえて同じ戦法に飛び込んでいくのです。

相手の得意戦法に立ち向かうのは、それでも戦えると考えているようにも見え、自分への過信の表れでは?ととらえる読者の方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、それはまったく逆です。
羽生名人は、相手が自分よりその戦法に秀でていると認めているからこそ、自分の弱さを認識しているからこそ、それに挑んでいるのです。

相手の学びを自分も学ぼうというその姿勢、その謙虚さーーひょっとすると、これが羽生名人の強さの秘密なのかもしれません。

将棋の世界では、どんなに強くても百パーセント完璧ではいられません。
自分は百パーセントではない、自分よりもっと上がある、まだまだ教えてもらうことがある。
そう思える謙虚さが、学び成長する原動力になるのです。

「藤井システム」の創造者である藤井猛九段は、「『藤井システム』を正確に指しこなせたのは、自分をおいて、羽生さんだけだ」と、雑誌のインタビューで仰っていた。
相手の強さと自分の弱さを共に認め、相手の学びを謙虚に学び抜けば、創造者と同等に、解(ソリューション)を会得できる可能性があるということか。


P144
羽生名人は「銀」使いの名手です。
それができるのは、日々研究を積み重ねている賜物。
私がそれを怖いほど感じたのは、羽生名人の駒を見たときでした。

じつは、私が将棋の駒を買おうと思っていたら、「手元にありますから送りますよ」と所有なさっていた竹風作の逸品をくださったのです。
届いた駒を見ると、それは羽生名人が日夜研究に使っていた駒でした。
それがなんと驚いたことに、銀だけ裏がすり減っていたのです。

パチっと盤面に打ちつけるときに、駒はこすれます。
しかし、硬い柘植でできている上等な駒だけに、並たいていのことではすり減るはずがありません。
研究のために盤面に駒を並べ、銀をどう使うか考えながらよほど繰り返し、繰り返し打ち付けたのでしょう。
使い込んで美しい飴色になっている駒は、ほかはみんなきちっと角張っているのに、銀だけがすり減って角が欠けたようになっていました。

名手と称される人は、必ず、並大抵で無いことを、並大抵にやっている。


P191
感想戦とは、対局を巻き戻して「これが悪手だ」というものを見つけ出す作業と言い換えてもいいでしょう。
そのためにプロ棋士は感想戦を何時間もかけてやるのです。
そして悪手を見つけたら、どうしてそんな手を指してしまったのか、そのときの自分の心理状態や相手への気持ちはもちろん、体調や食事、前日の過ごし方など何もかも全部さらけ出して敗因を考えるわけです。

悔しさや情けなさといった気持ちをぐっとたたんで、自分の弱さと向き合わなければならないのですから、それはつらい作業です。
しかし、だから悪手から学べる。
単に「あーあ、失敗しちゃった」というだけでは終わらない。
感想戦という儀式があるおかげで、一局を客観的に見直すことができ、敗北から学ぶことができるのです。

よくぞ先人はこうした儀式を作ってくれたと感心させられます。
たしかに弱さに向き合うのはつらいものです。
感想戦はその一番つらいことをしなさいと促す、一件酷なシステムです。
けれど、だからこそ、感想戦という儀式がありがたいのです。

つらいからこそ、儀式の形になっていなかったならば、勝者も敗者も一緒になって敗因を検討しようとしたら、そのつど対局者同士が相談して、「つらいだろうけど、一緒に悪手を検討してみようと」と決めなければなりません。
それはもっとつらい。
ところが、儀式で検討することが決まっていれば、すんなり儀式に移ればいいわけです。

儀式だからこそ、自分の弱さに素直に向き合えるということはあるのではないかと思うのです。
儀式にのっとったほうが、自分の弱さを認めたり、つらさを乗り越えたりすることができるという面もあるのではないでしょうか。

感想戦は「儀式」であり、「to do」だ。
将棋が持続的に発展しているのは、棋士の相対的な棋力が持続的に向上していることに他ならない。
そして、それは、感想戦という検証と総括のプロセスが「to do」化されていることが大きい。
将棋には、老舗企業と同様、持続的に発展する「仕組み」がある。







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2011年09月04日

【NHK】「細野晴臣 音楽の軌跡」細野晴臣さん

同じことの繰り返しほど、あほらしいことはないしね。
やはり、そこに何か発見とかクリエイティビティなるものが、常に新しく芽生えていないと、衝動が出てこないっていう。

(YMOの散会に際し)疲れ果てて、芸能人のような感じになっちゃいましたから。
音楽にとどまらなかったですよね、カルチャーとして捉えられてたから。
何かのキャラクターになってしまったわけで、やりたいことが制約されてきたんです。
というのは、「RYDEEN」のような曲をまた作ってくれと言われることが出てきて。
同じことは二度できないんですよね、みんな。
繰り返しはできない。
商売じゃないですから。
そこらへんが割と青二才というかね、音楽ばっかりのこと考えてたんで。
それで嫌になっちゃんですよ(YMOを続けていくことが)、結果はね。

(YMOの活動を再開して)何か一回りするんだという実感があったことはあったんですよ。
だから、人生は、一直線じゃなくて、螺旋を描いて回っているんだと。
同じ所に居るようで、上から見ると同じだけど、横から見ると、螺旋なんで、違う所に居るんですけど、二次元的に見ると、同じ所に居たりもするんですよ。

たしかに、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)に狂った私は、「RYDEEN」と「TECHNOPOLIS」を毎日聴き(笑)、「RYDEEN」のような曲がまた出るのを待ちわびた。

ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー(2018年リマスタリング)
YELLOW MAGIC ORCHESTRA
ソニー・ミュージックダイレクト
2018-11-28


しかし、それは叶わなかった。
けれど、結果として、それは良かった。
なぜなら、「RYDEEN」のような分かり易く、キャッチャーな曲が皆無な「BGM」が、今の私の”YMOベストアルバム”だからだ。

BGM(2019 Bob Ludwig Remastering)
Sony Music Direct(Japan)Inc.
2019-05-29


たしかに、「BGM」を初めて聴いた時は、落胆した。
「RYDEEN」のような曲が無いばかりか、曲調や音色が悉く暗く、萎えた。
YMOの終焉さえ予感した。
しかし、繰り返し聴く毎に、印象は変わっていった。
「なんだかよくわからないが、これはスゴい」と。

「BGM」がリリースされ30年の時が流れた。
YMOはいまだに大好きだが、「RYDEEN」は専らライブアルバム(「FAKER HOLIC」)のを聴いている。
スタジオアルバムでよく聴くのは専ら「BGM」で、次は次にリリースされた「TECHNODELIC」だ。

Technodelic
Y.M.O. (YELLOW MAGIC ORCHESTRA)
MUSIC ON CD
2015-06-05


音楽に限らず、名作は時間に負けない。
そして、時間と共に価値を表出する。
「BGM」を聴く度、つくづくそう感じる。

名作が時間に負けず、時間と共に価値を表出するのは、根源的な新しさ、クリエイティビティがあるからではないか。
そして、そうした根源的な新しさ、クリエイティビティは、創造者(クリエーター)が、同じこと(方法論)を繰り返すことへの嫌悪と畏怖を積極的に受容することからのみ生まれるのではないか。



★2011年5月29日放送分
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2011/0529.html

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2011年09月03日

【BSTBS】「グリーンの教え」鈴木亜久里さん

【鈴木亜久里さん】
この頃ね、ゴルフのレッスン通っているんですけど・・・

【石川次郎さん】
習ってるんですか、ハンデ9のくせに。

【鈴木亜久里さん】
いや、ていうか、ゴルフ(は)上手くなればなるほど、習った方が僕いいと思う。

【石川次郎さん】
すごい所に気がついてますね。
僕、その通りだと思いますよ。

【鈴木亜久里さん】
やっぱり、上手くなればなるほど、自分で「習いたくない」っていう気持ちもあったんですけど、でも、もう習ったら目から鱗のこといっぱいあるし、習わないと、(つまり、)自分で練習場へ一人で行ってゴルフを練習しているのは下手を固めてるもんだな、と思って。

鈴木亜久里さんの「下手(へた)を固めてる」というお言葉は、成る程かつ同感だ。
そうなのだ。
人は、自分自身では、今の自分の下手さに気づき難いし、気づいても認めない。
そして、知らず知らずの内に、恥を上塗りするが如く下手さを上塗りし、固めてしまい、結果、一層気づき難くしてしまう。
物事が下手な人がえてして頑固なのは、人(他者)に忠言を求めず、自分の下手さを自分で固めた一てん末ではないか。

【鈴木亜久里さん】
他のスポーツは何をやっても(ミハエル・シューマッハより)オレの方が上手いんだけど、レースだけはアイツの方が上手かった。(笑)

これは、シューマッハさんの方が、鈴木さんより「下手を固めなかった」ということか。(笑)
鈴木さんの生来かつ終生と思しき「負けず嫌い心」に、感心感動した。


★2011年8月27日放送分
http://w3.bs-tbs.co.jp/green/bn72.html



kimio_memo at 06:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0) テレビ 

2011年09月01日

【NHK】「ディープ・ピープル/ものまねタレント」コロッケさん

【ミラクルひかるさん】
若い頃の方が、やっぱり似てたな、とかってないですか?

【コロッケさん】
こういうと終わっちゃう話なんだけど、俺は(そもそも)「似せよう」って思ってないからね。

(中略)

物真似はね、大きく分けると、コピー派とパロディ派に分かれるのね。
だから、どっちを目指すかだよ。
ただ、長年、色んな方を見てると、コピー派を目指してしまうと、ある時、ちょっと似てなかったりした時に、周りのお客さんって勝手に、「あれ、似てないじゃん、これ。あれ、じゃ、他も本当は似てないんじゃない?」とか、すごいね、恐ろしい状況に陥るんですよ。
「あれ?」みたいな。
ただ、その代わり、パロディー派っていうのは、最初から似てないと、最初から蹴られる場合があるんだよね。
「ふざけ過ぎ」とか、「何やってんの」みたいな。
「気に食わない」とかね。

言い換えれば、コピー派は「技術至上主義」で、パロディ派は「面白至上主義」であろう。
「自分はパロディ派を志向している(=コピー派を志向していない)」というコロッケさんのお考え(=戦略)は、成る程かつ賢明に感じた。

たしかに、コロッケさんが仰った「コピー技術の日々のバラツキ」は、コピー派を志向する上でリスクになろう。
しかし、リスクなら、これよりも、「来るべきより優れたコピー技術者の出現」や「高技術の果ての本物への回帰」の方が、余程リスクになるのではないか。

お客さまが物真似を見る根源的ニーズは、「面白い」という感情(変化)だ。
お客さまは、芝居と同様、物真似を観て「面白い」と感じるのは本望だが、「上手い」と感じるのは本望ではない
コロッケさんが戦略的にパロディ派を志向なさっているのは、コピー派を志向するリスクもさることながら、物真似に対するお客さまの根源的ニーズを重要視、最重視なさってのことに違いない。
コロッケさんが、30年もの長きに渡り、物真似タレントとしてトップクラスに君臨なさっている道理が伺えた気がした。



★2011年7月11日放映分
http://www.nhk.or.jp/deeppeople/log/case110711/index.html



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2011年08月30日

【BSTBS】「グリーンの教え」小田禎彦さん(加賀屋代表取締役会長)

({接待ゴルフの極意はあるか?」の問いに)気分良くですね、喜びをもってですね、「いやあ楽しかった、いいゴルフになった」と、そういう気持ちになっていただけることに心がける、ということになりましょうか。

我々の(やっている)この旅館業といいますと、お客さまにですね、「一泊二食の宿泊をしていただく」という形は売っているわけですが、(本当に)売っているものは何だっていうと、「明日への活力注入業」なんですね。
美味しいもの食べて、お風呂入って、いいサービスを受けてですね、「ああ楽しかった。明日からまた職場帰って、まあストレスばかりだけど、これ頑張るぞ」と、そういう気持ちになっていただけることがですね、我々のミッションステートメントということになるんだろう、と思うんですね。

企業が商品を販売する目的は、「対象とするお客さまに~という気持ちになっていただくこと」に結集する。
商品は販売できたものの「対象とするお客さまに~という気持ちになっていただくこと」ができなければ、それは商品を販売する目的を果たしたことにはならない。
当然、”その”お客さまから授かったご縁は、これで終わりだ。
加賀屋が持続的に成功しているのは、「加賀屋の宿泊サービス」という商品を再購入くださったり、友人知人に勧めてくださる優良リピート顧客の創造率が高いからに違いない。
それは、多分に、商品販売の目的である「来館くださった”その”お客さまに明日から心機一転頑張る気持ちになっていただくこと」に経営者の小田禎彦会長以下スタッフが納得し、何より実現に努めておられるからに違いない。


(「全社員が携行している『加賀屋業務心得』の中に『クレーム0(ゼロ)を目指す』という項目があるが、そもそも加賀屋におけるお客さまからのクレームとは何か?」の問いに)やはり、「最高のアドバイス」と申し上げていいと思うんですね。
「良薬口に苦し」ですから、あまり聞きたくはありませんが、でもやっぱりお聞かせいただかないと、「お前ん所なんか、もう使ってやらないよ」ということに繋がっていくわけですね。
「これ、直してやれば、また使うよ」と(いうことにも繋がっていくわけです)。
リピーターが命です、我々(の仕事)は。
ご満足してお帰りになればですね、リピーターになりますし、ご不満でお帰りになれば、「あんな所(もう)行かないよ」ということが、どんどん広がるわけですから、やはり、そのクレームをいかに潰していくのか、まあこれにホント競争ですね。

「来館くださった”その”お客さまに明日から心機一転頑張る気持ちになっていただくこと」は、”その”お客さまと真摯にツーウェイコミュニケーション(対話)を重ねることからのみ達成できる、と小田さんはお考えなのではないか。
「お前ん所なんか、もう使ってやらないよ」と、クレームを仰るお客さまの台詞と心情を代弁なさったことから、そう直感した。
小田さんのお考えは、御意かつ同感だ。


(宿泊客)アンケートはですね、私ども一番力を入れているんですが、これをですね、分析しますと、やっぱり一番は、「お客さまの立場で(仕事を)考えないで、社員の段取り(を)優先する」というのがクレームで一番多い。
二番目は、やっぱり、「説明不足よりひと言多い」、「言い訳する」、これが二番目です。
三番目は、やっぱり、お客さまのニーズが多様化、個性化、高度化してですね、その感性をですね、どれだけ社員が高めていくのかっていう、この辺の難しいクレームというのがあります。
ですから、(年3回全社員が参加する)「クレーム0大会」というのをやりましてですね、失敗し易い所を社員同士が諌め合ってですね、何とかゼロに持っていこうと(しています)。
(その時に表彰する「クレーム大賞」とは、クレームそのものやクレームを受けた人を)つるし上げではなくてですね、みんなで、「こんな馬鹿な恥ずかしいクレームは(今後)貰わないようにしようぜ」ということで〔中略〕あんまり暗くなってもね、みんな反省している中で、(クレームを受けた人を)「お前何やっているんだ!」〔とつるし上げる)っていうのでは、(社員の)反感になりますから。

自分以外の人間が受けたクレームは、ややもすると、他人事で終わる。
しかし、クレームは「明日は我が身」であり、スタッフが受けたクレームは会社が受けたクレームだ。
スタッフ個人が受けたクレームを全スタッフで共有し、自分事として受けとめる機会を経営者が定期的に催すのは、スタッフにとっても、会社にとっても、「転ばぬ先の杖」の高費用対効果イベントになるに違いない。



★2011年8月20日放送分
http://w3.bs-tbs.co.jp/green/bn71.html



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2011年08月29日

【将棋】「小池重明実戦集―実録・伝説の真剣師」宮崎国夫さん

P37
小池(重明)と奨励会員達は金を賭けて真剣に将棋を指しているものの、とても仲がよくいっしょに酒を飲みに行ったり、麻雀を打ったり、と親密な交際をしていた。
「賭け将棋」という言葉を耳にしただけで、真剣、血なまぐさい殺伐とした勝負と思い込み目くじらを立てて「罪悪視」している者からすれば、ふだん将棋を指して金をやり取りしている者同士が盤を離れたら仲が良いなんで信じられないかもしれないが事実なのだ。
むしろ賭け将棋は仲が悪い者同士がやることのほうが少なく、仲が良い者、ライバル同士が小遣い銭を賭けて強くなるためにやる場合が多い。
「大阪将軍」の異名を持つ沖元ニ(アマ名人二回、読売アマ実力日本一)は真剣について次のように言う。

私はね、真剣という言葉おかしいと思う。
真剣というのは誤解を招く言葉や。
これまで真剣を取り扱った小説なんかの影響もあるかも知れんが、一般には、だまして金を取るというイメージがまだあるようや。
私は賭事は大嫌い。
いままで競輪、競馬とか、そういうたぐいの賭事はいっさいしたことはない。
将棋は賭事と思っていないからやるんや。
また我々のように上になってくると、特に大阪の人はなにがしか乗せないと将棋しないわけやね。
お互い罰則というわけ。
お金がいかんなら食事の奢り合いでもええんやないかな。
負けた方が勝った方に指導料払うぐらいの気持ちを持つことは必要やと思う。
無料(ただ)の将棋を勝っても負けても、ただ指しているだけという人よりはずっと将棋を大事に指すはずや。
お金をどうのこうのをいうよりは将棋を大事に指すということが一番必要なことで、上達の近道と私は思っている。
プロもおかしなことを言う。
アマには賭け将棋やったらだめといいながら、自分らは奨励会時代、強くなるためにほとんどの人がやっとるんや。
奨励会員が賭け将棋をやっているのを見て、やってはいかんと注意するプロはまずおらんのと違うかな。
つまりプロ棋士は一局百円とか千円で指しているのを見ても賭け事と思っていないはずや。
強くなるために、将棋を一生懸命指す手段をしてやっているので当然のことと思っているはずや。
今の世の中、千円、二千円は大したことない。
これを賭け将棋とは言わん。
そんなわずかなもんは賭けたうちに入らんと私は思っている。

「真剣」の本質は、刹那の金銭授受ではなく、「将棋を大事に(真剣に)指す」インセンティブである、という沖元ニ元アマ名人のお考えは、成る程かつ同感だ。
人が物事を大事に行なう、それも、毎回大事に行なうのは、容易ではない。
物事を、それも上達を希求する物事を、「大事に行なうといい理由」、ないし、「大事に行なわないといけない(困る)理由」を能動的に設けるのは、合理的かつ有効だ。
物事に長けている人は必ず、物事を大事に(真剣に)行い続けるインセンティブを設け、受容している。


P113
ニ局目は序盤早々互いに工夫して指し手争いをしたが定跡形に落ち着く。
このあと、定跡を知らない小池はまたも不利になる。
だが、ここからが小池の真骨頂だ。
次々と歩を自陣に打ちおろし「小池流」の我慢、辛抱の連続だ。
これに惑わされた大鷲(将人)は優勢を意識し過ぎて一気に決めにいけばよいところを、フルえたか、安全に、安全に、と指し回す。
必勝形なだけに、安全に手堅く勝ちたい、誰もが持つ実戦心理である。
ところが、誰にもある事だが、勝ちを読み切って安全勝ちを目指すなら、なんら問題はないが、なんとなく怖いから安全に指そう、これが危険で、どうやら大鷲は後者のパターンにはまったらしい。
安全勝ちと逆転負けは背中合わせである。

「安全勝ちと逆転負けは背中合わせである」という言葉が胸に残った。
たしかに、安全勝ちを希求する心情は、油断と緩手を生み、相手に逆転の機会を与える。

安全勝ちを希求する心情は、概して、優勢の安直な自覚から生まれる。
そもそも、優勢と劣勢は紙一重だ。
優勢の自覚には、慎重さと過小さが十二分に必要だ。


P386
小池、加部(康晴)戦終了後、数人で始まった打ち上げの会も一軒、二軒と梯子するうち、気が付くと小池さんと私(美馬和夫)の二人きりになっていた。
「アマチュアの強豪って、たいていの人が強くなるために仕事や家庭を何らかの形で犠牲にして、それでも得られるものは大したことないもんなあ」
今まではしゃいでいた小池さんが急に静かな口調で語りだした。
(中略)
びっくりするような顔で、ずっと何も言わず、話に耳を傾けていた私に、小池さんは少しトーンを上げてこう言った。
「オレが将棋を勝ちたいを思うのは、単に負けず嫌いだからじゃないよ。オレも将棋でかなりのものを犠牲にした男だからな。命を賭けるっていうと大袈裟かなあ。そう、勝つことのみが自分の存在価値を示すって感じだな・・・。言っている意味、分かるかな?」

小池重明さんが終生強かったのは、持ち前の異才に加え、終生言葉だけでなく真に、自らの身を削って、将棋だけを愛し続けたからかもしれない。
そして、だからこそ、小池さんは、多くのアマ、プロ棋士から、終生、その唯一無二の存在価値を是認され、愛され続けたのかもしれない。

小池さんは、人から愛されるために、自らの身を削って生きたのかもしれない。
そして、だからこそ、小池さんは、今なお、その破天荒かつ不世出な生き様が偲ばれるのかもしれない。


P432
〔自戦記:金子タカシ〕
例の「終盤に時間を残す」ため早めに決断してパッパッと指すという調子で▲6一飛と打った。
そして読み筋通りに(?)△7ニ銀▲7一銀と進んだ時、(小池)名人の手がすっと伸びて△同角。
「あっ」と叫んだが、もう後の祭りである。

それにしてもひどい一手パッタリであった。
よほどここで投げようかと思ったが、それだとあまりにも一手パッタリが目立つと思い最後まで指した。

第2図から問題の▲6一飛辺りの局面では残り時間は10分ほどで最後の詰めに時間を残そうとパッパッと指したのだが、この辺りの局面こそ時間を使い切っても寄せをじっくり読むところであり、局面のとらえ方が甘かったと反省する。

またこの辺では棋勢の好転に、ひょっとしたら勝てるのでは、という邪念が入り腰が浮ついていた。
その意味でもじっくり腰を落とすところだった。

考えてみれば、相手が小池名人だから時間を意識して早指しになり棋勢の好転に邪念が入ったわけで、そのため一手パッタリが出たのだから順当な逆転負けともいえる。

しかしこのように強い人の「力」に負かされるのではなく、「力」に怯えて自分で転んでしまうのは一番良くないことであり、まだまだ精神的にも技術的にも修業未熟だと痛感した。

金子さんの二つのお考えが胸に残った。

一つは、「強い人の『力』に負かされるのではなく、『力』に怯えて自分で転んでしまう」というお考えだ。
過日、深浦康市九段が「可能なら、今後羽生善治さんとの対局は、全てインターネットでやりたい」と仰ったのは、正にこのことに対する危惧である。
これは、プロ、アマ関係ないのはもちろん、将棋にとどまらない。
弱者の宿命と言ってしまえばそれまでだが、強者の小池さんでさえ、対局前日及び当日飲酒を欠かさない(→正気さを適度に減らす、緊張を適度に解く)など、このことにでき得る対策を講じておられたことを忘れてはいけない。

もう一つは、「最終の詰めの局面に時間を潤沢に投じようと事前に考えるあまり、形勢を楽観してしまったことも手伝い、時間を投じるべき中盤の重要局面で時間を投じ損ねてしまった」というお考えだ。
たしかに、金子さんの事前のお考えは、小池さんの終盤の強さを封じる有効な作戦ではある。
しかし、この作戦が有効なのは、終盤に辿り着くまで形勢が互角か互角以上に保てた時であり、敗勢の時は全く無効である。
物事を進める上で事前の考えは重要かつ不可欠だが、それに引きずられる一方では成功はあり得ない。



小池重明実戦集―実録・伝説の真剣師
宮崎 国夫
木本書店
1998-12-01




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2011年08月27日

【BSTBS】「SONG TO SOUL 永遠の一曲」The Police”Message in a Bottle”〔解説〕村上秀一さん

俺は、一人のミュージシャンとして、やっぱり大ファンだよね。
ファンと思わせてくれる人、意外と少ないのよ、ここまでやってて段々もう古狸になってくると。
音楽の一つの魅力はね例えば高校生の時に聞いた曲があったとしたら、それを例えば50(才)、60(才)で聞いても、そこに帰れるんだよね。
ワープしちゃうの
これは音楽のマジックだと思うんですよ。
でも、ポリスなんていうのは、僕にとっては最たるものかな、その中で。
いっぱいありますけどね。
でも、やっぱり、「5つ挙げろ」と言われたら、中に絶対入ると思うね。

ポリスがすごいのはね、ポップなの、やっぱり。
だから、今の人が聞いても、初めて聞いた人、例えば、この「孤独のメッセージ(”Message in a Bottle”)」って聞いたら、俺たちとは違う風に聞こえるとは思うんだけど、すぐ食いつくと思うんだよね。
「かっこいい」って。
それでいいのよ。
これがポップ。
だから、能書き無くて、「ここで(ドラムの)スチュワートがどういう風にリズムを書いているのか?」とか関係無いんだよね、一般の人は。
そりゃ、俺らはもうニヤニヤ笑って聞いてるけど、でもやっぱりキャッチだよね、一瞬の。
「かっこいいじゃん、この曲!」って。
それを持っているのがポリスなのよ。

やっぱり、残るんじゃないかな。
その時代時代に、また違う人がキャッチして、違う解釈なり。
やっぱり、残る曲ですよね。
(残ると)思う。

村上“ポンタ”秀一さんが考える「音楽の一つの魅力」は、成る程だと思った。
私がYMOやヴァン・ヘイレンの曲を聞いている時(笑)懐古プラスアルファの心地良さを感じるのは、詰まる所、それらの曲にハマっていた若い時分の感性と心情を取り戻しているからに違いない。

村上さんが考える「音楽の一つの魅力」は、本や映画はもちろん、多くのコンテンツに当てはまる。
ワープは人間の根源欲求ゆえ、該当コンテンツは工夫でもっと売れるに違いない。



★2011年8月21日放映分
http://w3.bs-tbs.co.jp/songtosoul/onair/onair_09.html

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kimio_memo at 08:45|PermalinkComments(0) テレビ 

2011年08月26日

【BS朝日】「カーグラフィックTV/ルノーウィンドとゴルディーニそしてIQ GO」松任谷正隆さん

僕、田辺(憲一)さんとは違う意味で、MT(マニュアル・トランスミッション)を支持するんですよ。
人間は、色んなことを並行してある程度できる頭を持っているじゃないですか。
でも、僕、運転をする時は、運転に専念すべきだと思うんですよ。
MTって、運転を専念させるのを助長させると思うんですよ。
だから、集中できる。
ATは、逆に油断をさせる。
だから、その間に、たとえば電話とか、色んなことを考えちゃうとか、そういう何かこう運転とは逆のモーションが忍び寄って来易い。
そういう意味で僕は、「MTは安全だ」って言い切りたいですけどもね。

松任谷正隆さんのご主張は、尤もで正しい。
自動車は、人を楽に移動し得る反面、人を不意に殺傷し得る乗り物だ。
よって、自動車の運転は心身共々集中して行うべきで、それを促すMTはATより安全だ。

松任谷さんのご主張は、自動車の根本思想と根源価値に帰属する。
この類の主張は、本来自動車メーカーが、不断かつ先頭立って世に訴えるべきだ。
そして、現在と未来のドライバーを啓蒙すべきだ。

にも関わらず、自動車メーカーは、これを怠り、「エコ」や「ハイテク」ばかり喧伝している。
これは、本末転倒かつ誤りで、ドライバーの減少と劣化を促している。
日本の自動車不況の元凶は、自動車メーカーの主張怠慢にある。



★2011年8月17日放送分
http://www.bs-asahi.co.jp/cgtv/prg_20110817.html

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kimio_memo at 07:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) テレビ 

2011年08月25日

【将棋】「真剣師小池重明疾風三十一番勝負」団鬼六さん

P147
如才のなさ

小池(重明)は或る人には徹底して嫌われ或る人には徹底して好かれるという特異な性格を持っていた。

小池の不可思議な魅力というものは、人間の純粋性と不純性を重ね合わせて持っていた事による。
あれ程、大胆に見えても小心な男はいなかった。
善意と悪意が共存していた。
勇気と臆病を同居させているようなところがあった。

小池は破綻と、挫折をくり返していたが、彼を蔑みながらも愛さずにおられぬ人が多かったのは彼の好人物性にあるのではないかと思う。
男というものは、好人物を常に友人として持ちたがるものである。

(中略)

さっきまで前非を悔いて流していた涙がまるで嘘みたいで、反省しているのか、いないのか、訳がわからない。
小池にかつて迷惑をかけられた人々も、結局は小池に煙に巻かれた形になってしまうのだ。

とにかくこういう酒席などでは小池は一種の男芸者になりきり、一座を陽気にするコツをつかんでいた。
人々を面白がらせる座興的話術の才能を発揮するのだ。
それは彼の暗い生い立ちに起因しているようで、悲劇を喜劇に茶化す道化の役がうまいのである。

(中略)

これまで幾度となく小池に煮え湯を飲まされながら、性こりもなく小池を庇護したがる古沢(文雄)社長の気持ちは何だろうと、私には不思議に感じられる事がある。
古沢社長は、小池が異端のアマ強豪といわれる程の強烈な個性を持った将棋の天才である事を最も認識しているだろう一人であり、その異端の天才故に彼の持つ性格破綻ぶりもどこかで容認していたとしか思えない。
晩年に近い小池の破滅型人間性に私が次第に魅せられていったように、古沢社長は若年期からの小池の、もう救いようのない破滅性を愛さずにはいられない一人になっていたのかもしれない。

小池はしばらく小池社長のお抱え運転手をやっていた事もあった。

その頃の話を酒席で古沢社長に聞かされた事があった。

「取引先のお客からも小池は如才がないから好かれるんです。
それに小池は身体がでかいから、運転手兼用心棒みたいで心強いでしょうと、先方の客にいわれた事もあります。
知らない人から見ると小池は礼儀も心得ているし、話術も巧みだから頼もしい運転手に思われるんですが、僕から見るとろくでもない運転手でした。

(中略)

主人が商談中に白タクをやる運転手がこの世にいますかねえ。
僕はじっとしているのが嫌いなタチだからと吐(ぬ)かすのです。
呆れました」。

古沢社長は呆れた、驚いた、とかくり返していたが、そんな小池の野放図さをむしろ、楽しんでいるようなフシが感じられた。

小池重明さんが「或る人には徹底的に好かれた」のは、小池さんが「憎めない人」だったからではないか。
小池さんが「憎めない人」だったのは、将棋に関する異才と人間関係に関する如才無さを基盤に、団鬼六先生の仰る「好人物性」が評価されたからではないか。

小池さんの好人物性が評価されたのは、小池さんの破天荒かつ天真爛漫な生き様が阿呆らしくも格好良く感じられたからではないか。
人間の不純性を童子よろしく露にした挙句絶妙に茶化し、純粋性をプロ以上に将棋一本に結集、結実させた小池さんの生き様は、今なお、或る人の羨望と評価の対象になり得るのではないか。







kimio_memo at 07:53|PermalinkComments(0) 書籍 

2011年08月24日

【BSTBS】「スポーツ偉人列伝/津田恒美」紀藤真琴さん

相手バッターに対して、「真っ直ぐでいってやるよ。その真っ直ぐを打ち返してくれよ」っていう感覚とか、「お客さんはみんなオレのストレートを見に来てるんだ」っていう・・・。

なぜ、津田恒美さんは、直球主体の真っ向勝負に拘ったのか。
紀藤真琴さんのお話から一番に伺えた理由は、やはり、「直球主体の真っ向勝負を、プロ野球人である自分の最大の強み、矜持と認識していたから」だが、もしかすると、「お客さま第一主義者だったから」ではないか。
津田さんは、森村誠一さんと同様、「お客さまは自分の精神を買いに来ている」旨お考えだったのではないか。
そして、「自分の精神の唯一無二性を評価、期待して球場へ来てくださったお客さまは決して無碍にすべきでない」旨自分に言い聞かせておられたのではないか。


(体調不良が見て取れる津田さんに広島東洋カープのチームメンバーの)みんなが「病院へ行った方がいい」って勧めるんですけど、そこで出た言葉っていうのが、やっぱり今の選手にはちょっと聞かしてあげたいなっていう言葉だったんですよね。
「休むと、一軍から下ろされて、二軍になるから」っていう、こういう考え方なんですよ。

人が行動を起こすのはインセンティブ(誘引)の為せる業だが、インセンティブは大きく二種類ある。
一つは、「~をすると・・・が得られる」というポジティブなそれで、もう一つは、「~をしないと・・・を失う」というネガティブなそれだ。
いずれも時と場合により効果を発揮するが、誤解を恐れずに言えば、より強力なのは後者だ。
なぜなら、人は、「現状が良くなること」より、「現状が悪くなること」の方に敏感だからだ。
プロフェッショナルの津田さんが医師の診察を先延ばしなさったのは、ご本人としては自然かつ止むを得なかったのはないか。
ネガティブインセンティブの強力さを、改めて思い知った。



★2011年8月17日放送分
http://www.bs-tbs.co.jp/app/program_details/index/SPT1000800
http://ameblo.jp/ocean33611/entry-10815435111.html



kimio_memo at 06:49|PermalinkComments(0) テレビ