2011年07月17日

【観戦記】「第69期名人戦七番勝負〔第7局の7▲森内俊之九段△羽生善治名人〕両者の形勢判断」上地隆蔵さん

森内はこのあたり「自分のほうが悪い」と判断していた。
しかし控室では先手ペースという声が多かったですよ、と伝えると、森内は「大局観が悪いのかな・・・」。
見解の相違に首をかしげた。
一方、羽生も形勢に自信が持てなかった。
息長く指す△8ニ飛を(この図の局面で)選んだのは、そういう理由だった。

総合的に考えると、図の局面は先手に分があるのだろう。
森内は若い頃「石橋を叩いて、なおかつ渡らない」と言われたほどの慎重派で、形勢判断がカラめなのかもしれない。

一体何が、これらの真逆の形勢判断を生み出したのか。
たしかに、森内俊之九段(※当時)の「慎重な棋風」は一因に違いない。
しかし、それ以外の、または、それ以上の要因が、少なくとも二つあるのではないか。

一つは、「当事者と非当事者の違い」ではないか。
「客観では見えるものの主観では見えない(見落としてしまう)」というのは、ままあるものだ。
また、「自己責任を背負っていないがために見えるものの、自己責任を背負っているがために見えない」というのも、ままあるものだ。

もう一つは、「リスク感知力の高低」ではないか。
経験値が高く、普遍の真理に精通しているトッププロほど、潜在リスクをいち早く感知するものだ。
凡人には顕在化されていないリスクも、非凡には顕在化されているものだ。



★2011年7月17日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/

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2011年07月16日

【NHK教育】「NHK杯テレビ将棋トーナメント」豊川孝弘七段

(▲8四角に▲6六歩と△6ニの飛車を攻めても、次に▲6五歩と歩を取れないので、対戦者と自分の)二人で(自玉を)潰してますもんね。(笑)
よくね、丸山(忠久)さんに言われるんですよ。
「豊川さん、相手の攻め駒攻めちゃうからダメですよ」って。(笑)

こんなに笑顔が多い感想戦は初めて見た。(笑)
豊川孝弘七段が、自らの負けをおして「豊川孝弘ショー」を披露くださったお陰だ。

敗因を、自虐ネタで明快に抽象化しながら、しかと自認なさる。
「対戦者(※本局では小林裕士六段)よし」、「観戦者(ファン)よし」、「自分よし」の「三方よし」を正に地で行く豊川七段を、私は愛して止まない。(笑)



★2011年7月10日放映分
http://cgi2.nhk.or.jp/goshogi/kifu/sgs.cgi?d=20110710


kimio_memo at 07:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) テレビ 

2011年07月15日

【観戦記】「第69期名人戦七番勝負〔第7局の5▲森内俊之九段△羽生善治名人〕2人の長考」上地隆蔵さん

注目の封じ手は▲5三桂左成だった。
▲8ニ歩を本命視していた控室の予想は外れた。
2時間近い大長考。
後日森内にその読み筋を尋ねてみた。

「▲5三桂左成と▲8ニ歩の比較でした。
(図で▲8ニ歩は以下△6五歩▲8一歩成△3三桂▲1五桂△1四金となり、そこで▲1六歩や▲2三歩が有力。
これもなかなかの変化でした。
どちらが良かったかは厳密には分かりませんが、やはり▲8ニ歩が自然だったと思います。
ただ基本的にどちらも自信はありませんでした。
最後は勘で決めました」
(後日取材と返答メールで構成)

森内俊之九段(※当時)は、当時▲8ニ歩を自然に感じ、最後は▲5三桂左成を「勘で決めた」、と。
名人位がかかった最終局の最大の分岐点で、自然さより勘を重視した、と。
やはり、プロフェッショナルが「獣道」で最後に頼りにするのは、自分の「勘ナビ」ということか。



★2011年7月15日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/

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2011年07月14日

【観戦記】「第69期名人戦七番勝負〔第7局の4▲森内俊之九段△羽生善治名人〕新工夫の△3六歩」上地隆蔵さん

図の局面は、王将リーグ▲羽生ー深浦九段戦と同一。
深浦九段の指し手は△3三桂だったが、羽生は(本局では)△3六歩と手を変えた。
「王将リーグのときに△3六歩があるのではと考えていました」。
後日の羽生のメールだ。
盤上に出現しなくても、実戦の中で気づいた小さなことを後の対局で試す。
超多忙な羽生ならではの新手実践法で、おそらく他にも気づきの種はストックしているのだろう。
(中略)
森内もこの△3六歩は有力視していた。
「王将リーグの棋譜を見たとき、アレ、なんで深浦さんは△3六歩と垂らさなかったのかな?と。
先手の飛車を狭くしつつ、歩成を狙っていて幸便に見える」と森内は話す。
解説の中田宏八段は「ただしなけなしの1歩を使うのでそのあたりがどうか。現状は難しいが、個人的には先手を持ちたい」と意見を述べた。

羽生善治さんが指した△3六歩は、羽生さんがよく仰る「情報高速道路(ハイウェイ)理論」だと、当時は既に完全な「獣道」ではなかったようだ。
羽生さんは、他の棋士よりも積極的に「獣道」を志向なさっているが、実際に「高速道路」から「獣道」へ降りるのは、とりわけトッププロ棋士との対局だと、相当難しそうだ。



★2011年7月14日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/

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2011年07月13日

【インタビュー】「10年続けるつもりで、やりなさい」羽生善治さん

ただ、どうして将棋に熱中したかというと、他のゲームはしばらくやると、なんとなく「こういう風にやれば勝てる。」「こういうパターンでやればいいんじゃないか。」というのが、見えるとまでは言わないんですけども、なんとなく輪郭がわかってきたのに対して、将棋というのはまったくそれがわからなかったんです。そこに、とても惹きつけられていました。

この内容は以前「100年インタビュー」でも見聞しているが、久しぶりに改めて活字で読むと、すごい内容だ。
改めて感動した。

「要領がつかめないモノに、要領がつかめないモノほど、惹かれる、惹かれ続ける」。
私は、44年の人生に中で、この逆の習性の人を山ほど見かけたが、この習性を持つ人を殆ど見かけていない。
そして、自分自身、この習性を持っていると言えない。

なぜ、私たちは、この逆の習性を持っているのか。
なぜ、羽生善治さんは、この習性を今なお持ち得ているのか。
妄想の域は出ないが、「『成功の定義』の違い」に因るのではないか。

羽生さんが思考、希求する成功とは、「勝率100%の『絶対的な法則』を会得すること」なのではないか。
羽生さんからすれば、「眼前の相手に勝利すること」や「(それにより)社会的ないし経済的な報酬を得ること」は、希求し続ける過程でたまたま授かった副産物や、マラソンでの給水/給食の類に過ぎず、成功の範疇に入らないのではないか。

もちろん、「勝率100%の『絶対的な法則』」というのは、将棋に限らず殆どのモノが(人間が発見でき得)ない。
しかし、羽生さんは「それでいい」、「それだからこそいい」とお考えなのではないか。
不謹慎かつ不本意な妄想だが、もしコンピュータが将棋の「勝率100%の『絶対的な法則』」を発見してしまったら、羽生さんは誰より早く現役を引退なさるのではないか。

一方、羽生さん以外の棋士や私たちの多くが思考、希求する成功とは、やはり、「眼前の相手に勝利すること」や「高勝率で社会的ないし経済的な報酬を得ること」なのではないか。
「高勝率を上げる法則を見出すこと」には関心が高く、深く取り組むが、「勝率100%の『絶対的な法則』を会得すること」には関心が低く(←「そもそも発見不能ゆえ希求すべきでない」と思考している)、成功の範疇に含めていないのではないか。

以上の妄想が相応に正しいとすれば、羽生さんの勝利は、正に「無欲の勝利」だ。
勝利の女神がこれまで羽生さんに多々微笑んできたのは、そういうことなのか。



★「DANNAmethod/RELAY OF LIFE STOCK」より
http://www.winpeace.jp/project/relayoflifestock/habu/1.php

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2011年07月12日

【観戦記】「第69期名人戦七番勝負〔第7局の2▲森内俊之九段△羽生善治名人〕2人の心境」上地隆蔵さん

勝ったほうが名人という世紀の大一番を、両者はどのような心境で戦ったのか。
羽生は「自然体で臨むように心掛けていた」、森内は「悔いの残らない将棋を指したいと思っていた」と後日、その心境を明かした。

羽生善治さんは、当時も「平生の振る舞い」にいつもと同じように励まれ、真に自然体で臨まれていたに違いない。
羽生さんは今回名人位を失冠なさったが、それは羽生さんの解釈からすると、長い(棋士)人生における平生の一出来事なのかもしれない。



★2011年7月12日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/

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【将棋】「Number2011年7月7日号/天才棋士の意外な集中法・調子の上がらぬ朝にこそすべきことがある」羽生善治さん

取材を申し込んだのはそんなときだ。
「カド番ではさすがに難しいでしょう」という他の棋士の意見はもっともだったが、羽生自らこの日の取材を提案してきてくれたのだ。
(中略)
5日後に控える第五局は不利な後手番で、真の大一番である。
プレッシャーのかかる時期に、羽生はなぜ、取材を受けてくれたのだろう。
(中略)
「タイトル戦といえども、極力普段通りに、普通に過ごしながらやっているということですね。
将棋の世界はオフシーズンがないので、他の相手も、出来る範囲でやりくりしながらやらざるを得ないですしね、ええ」。

ーー名人戦で3連敗。
どう心の整理を?
「そうですね・・・まあでも、カド番はよくあることなんです(笑)。追い詰められた状況では、やっぱり、120%の力を出したいと思うわけじゃないですか。うん・・・でも、基本的に、それは無理なんですよね」。

ーー無理・・・?
「ええ。
そういう時は、普通にやることすら難しいわけですよ。
自分が出せるものは決まっているから、今まで通り、対局に全力を尽くすしかない。
でも、ずっと同じ集中力、高いテンションを保つのは、難しいんです。
1年の中でも、1日の中でも、波がある。
気分の浮き沈みは人為的に変えられるものじゃないので、それに合わせてやっていく。
(以下省略)

ーーということは、心はコントロールできない、と?
「どうにもならないところもあるんじゃないんですかねぇ・・・。
でも、逆に1日中、ずっと調子が悪いということも少ないと思いますよ。
(中略)
・・・長く続けていたらそういうときもあるから、まあ、そのときはそのときでどう立て直せるか。
(以下省略)

楽しげに笑うと、問わず語り続けた。
「諦めることも大事だと思ってるんです。
つまり、沢山こなしていく場合には、当然、調子の悪い日もあるんだと思っていたほうがいいような気がしています。
完璧さを求めちゃうと、却って立ち直りが難しい。
高いテンションを保とうとすればするほど、逆に下がっちゃう。
一番は、無理をしない。
無理をすると必ず後で反動が来るので、自然に出来ることをする。
ただこれは、あくまで長いスパンでやる競技の考え方です。
それこそ、オリンピックは4年に一度の人生の大勝負なので、絶対に無理しないとダメでしょうけど(笑)」

ーー羽生さんは、勝っても負けても、反省したらすぐに忘れるそうですね。
「きちんと自分なりに検証するということが大事だと思うんですけど、何て言うんでしょうかね、屁理屈でも何でもいいから、自分の中で消化できれば忘れられるんじゃないですかね。
例えば、単についていなかったとか、あの審判が悪いとか・・・」

ーー人のせいでも?
「いやいや、それでもいいんですよ。
自分なりに納得すれば、次に向かっていける・・・。
理由は何でもいいんですよ(笑)」

緊急の事態、極限の事態にあるべき心境は、自然だ。
この場合の「自然」とは「平生」と言ってもいい。
「自然な心境」とは「平生」のそれであり、即ち、「いつもと同じような心境」ということだ。
私たちの多くは、このことを頭ではわかっている。
しかし、実際に緊急の事態、極限の事態に陥ると、「いつもと同じような心境」で居られない。
なぜか。
羽生善治さんのお話から伺えたのは、最初から無理だと諦めている、無意識に却下(キャンセル)しているからではないか、ということだ。
羽生さんは、名人戦のカド番時という正しく緊急の事態、極限の事態に、取材対応という「平生の振る舞い」を普通になさった。
羽生さんのように「平生の振る舞い」にいつもと同じように励むことこそ緊急の事態、極限の事態において「平生の心境」、「自然な心境」で居られる最も有効かつ自然な心得、活動なのかもしれない。

羽生さんが感想戦を他の棋士以上にしかと行われる一番の趣旨は次局に改良を加えることだと考えてきたが、そうではないのかもしれない。
一番の趣旨は本局をスッキリ忘れることなのかもしれない。
「敗因、悪手、緩手の原因を自分が納得できるまで見出すことで、本局のてん末に納得し、本局をスッキリ忘れる。
前局の消化不良こそ、『平生の振る舞い』、ひいては、『自然な心境』を阻む元凶になりかねない」。
羽生さんは、このようにお考えなのかもしれない。







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2011年07月11日

【邦画】「男はつらいよ 第6作 純情篇」(1971)

【絹代(宮本信子さん)】
何で・・・何であんげん酷か男んとこば、帰らんといかんとね。
うちは、もうあんな男の顔も見たくもなか。
思い出したくもなか。
うち、父ちゃんと一緒に・・・

【千造(森繁久彌さん)】
(そんなことは)できんて。
明日の船で帰れ。

【絹代】
どうして・・・
どうして、そんげん惨かことを・・・

【千造】
絹代。
三年間も便り一つもよこさず、急に(実家に)戻ってきて、お父ちゃんが死んどったら、どげんする気やった?
おいは、そう長くは生きとらんぞ。
おいが死んだら、お前はもう帰るとこは無いようになる。
その時になって、お前が辛かことがあって、クニに帰りたいと思うても、もうそれはできんぞ。

【絹代】
でも、うち、もう、あんげん男とは・・・

【千造】
お前が好いて一緒になった男じゃろが。
そんならどこか一つくらい、良かとこのあっとじゃろ。
その良かとこを、お前がきちんと育ててやらんば。
その気持ちが無うて、どんな男と一緒になったって、おんなじたい。
おいの反対ば押し切って一緒になったんなら、そんぐらいの覚悟しとらんで、どげんすっか。
そんな意気地の無いことじゃ、父ちゃんは心配で、死ぬることもできん。
(寅さんに向かって)えらい娘が世話になりまして。
母親をこまい時に亡くしまして、目の届かんことも多くて。
しかし、あんたみたいな良か人に会えて、本当に良かった。
ま、ゆっくりしてください。
今、あの水イカの刺身作るけん。
どうかしましたか?

【車寅次郎(渥美清さん)】
全くだ。
おじさんの言う通りだよ。
帰れる所があると思うからいけねえんだよ
失敗すりゃまたクニに帰りゃいいと思っているからよ。
俺は、いつまでたったって、一人前になれねえもんなあ、おじさん。

【千造】
クニはどこかね?

【車寅次郎】
クニかい。
クニは、東京は葛飾の柴又よ。

【千造】
ほう。
親御さんは居るのかね?

【車寅次郎】
もう死んだ。
でもなあ、親代わりにおいちゃんとおばちゃんが居るんだ。
それに妹が一人居るよ。
おじさんの娘と同じくらいの年頃だ。

【千造】
幸せかな、妹さんは。

【車寅次郎】
ああ、子どもが居るよ。
その亭主っていうのがね、俺みたいな遊び人とはまるで違うんだ。
まじめの上に「糞」っていう字がつく位の奴なんだよ。
印刷工場の職工やっているよ。
その印刷工場の裏手でもってね、俺のおいちゃんていうのが、ケチなダンゴ屋やってるんだ。
さくらがよ、あ、こりゃ、俺の妹だけどね、近所のアパートに住んでるんだ。
買い物の帰りなんか、子ども連れてね、ダンゴ屋へちょくちょく顔出してよ、くだらねえこと喋っている内に、陽が暮れらあな。
「どうだい、晩御飯食べておいきよ」
「いいよ、悪いから」
「何言ってるんだい、これからじゃ面倒だろ、ね。
さ、裏に亭主いるんだから、博呼んどいで」。
みんなが円く、賑やかに晩飯よ。
その時になると決まって出る噂が、この俺だ。
俺はもう二度と帰らねえよ。
いつでも帰れる所があると思うからいけねえんだ、うん。

(汽笛の音がする)

【千造】
風が出てきたな。

【車寅次郎】
おじさん、今の汽笛は何だい?

【千造】
ありゃ、渡し船の最終が、もうぼつぼつ出るっちゅう合図たい。

【車寅次郎】
さ、最後が出るか。

【千造】
どうしたの?

【車寅次郎】
いや、出るってよ。

【千造】
ションベンか?

【車寅次郎】
ションベンでない。

【千造】
便所ならこっちにある。
いや、表でやってよか。

【車寅次郎】
俺は帰らねえ。
どんなことがあったって、二度と帰りゃしねえよ。
帰る所があると思うからいけねえんだ。
でもよ、俺帰ると、おいちゃんやおばちゃんたち喜ぶしな。
さくらなんか、「お兄ちゃん、ばかね、どこ行ってきたの」なんて、涙いっぱいためてそう言うんだ。
それ考えると、やっぱり帰りたくなっちゃったなー
でも、私は、二度と帰りませんよ。
でも、やっぱり帰るなあ、うん!
(席を立つ)
あばよ!
(家を出る)
おーい、その船待ってくれよ、おーい、待ってくれ!

【絹代】
あれえ。
うち、あの人にお金ば借りとったとよ。

【千造】
もう間に合わんわい。
あの人は、ちょっと体の悪かとね。
かわいそうに。

「帰れる所があると思うからいけない」が、「帰れる所があると思えるからいい」。
このジレンマと真理を、渥美清さんが、森繁久彌さんが、宮本信子さんが、山田洋次監督が、見事に教諭くださった。
私が、最後の肉親である実兄の家(実家)をおよそ月に一度訪れているのは、「帰れる所があると思えるからいい」のか?(笑)

帰郷した傷心の娘に「帰れ」と明言する千造のような親、上司は、最近てっきり見かけなくなった。
幸運なことに、亡き母とサラリーマン時代の三上司(Sさん、Sさん、Mさん)はそうだった。
自分の気持ちや希望を押し殺し、自分の評価や利益を放棄し、子どもや部下の利益と将来を最優先する。
先に逝く親や上司は、かくあるべきだ。



松竹 寅さんシリーズ 男はつらいよ 純情篇 [DVD]
出演:渥美清、若尾文子、宮本信子、森繁久彌
監督:山田洋次 
松竹
2014-07-25




kimio_memo at 06:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 映画 | -男はつらいよ/寅さん

2011年07月10日

【邦画】「八日目の蝉」(原作:角田光代さん/監督:成島出さん/主演:井上真央さん、永作博美さん)

四年間、子育ての喜びを味わわせてもらったことを感謝します。

不倫相手の男性宅から乳飲み子を連れ出し、四年間生活を共にした野々宮希和子(演:永作博美さん)は、裁判の最終弁論でこう述べた。
そして、この弁を聞いた乳飲み子の母の秋山恵津子(演:森口瑤子さん)は、苦虫を噛み潰したような表情を見せた。

私は男である。
しかも、妻は居るが、子どもは居ない。
なので、女性の多くが欲し、感じるという「子育ての喜び」というのは、正確には理解していない。

しかし、映画からうかがえた「子育ての喜び」には、違和感を抱いた。
理解はできたつもりだが、共感はできなかったし、共感してはいけない気がした。

なぜなら、それが、「母親として子どもに受容され、肯定評価され、懐かれること」だったからだ。
これは、あまりにも「母親目線」過ぎはしないか。

「子育ての喜び」とは、本来もっと「子ども目線」なものではないか。
たとえば、「子どもが以前よりも自律した個人へ成長した跡を確認できたこと」といったものであるべきではないか。

子どもが「子ども」と称される時期に最優先して果たすべきは、一人で健やかに社会生活が営めるだけの人的基盤を確立することであるはずであり、親が子どもに最優先して果たすべきは、それを確実に見届けることであるはずだ。
そして、もし、自分が親として受容されなくとも、肯定評価されなくとも、懐かれなくとも、子どもが一人の自律した人間として成長すれば、最大、最高の「子育ての喜び」を感じて然るべきだ。
だから、恵津子は、希和子が乳飲み子の我が子を四年間勝手に連れ出し、成長を見届ける機会を奪ったことは非難、憎悪して然るべきだが、乳飲み子を一人の自律した人間に近づけてくれたことは肯定評価、感謝して然るべきではないか。
私たちの多くは、「母性」という言葉で、「子育ての喜び」を勘違いしているのではないか。

昨今、DVをよく見聞きするのは、「子育ての喜び」のこうした誤解が一因ではないか。
子どもは、自分の欲望を満たす愛玩物やペットではなく、その真逆のものだ。
「自分の感情や利益を最優先する人」や「他者の喜びを自分の喜びに置換し難い人」は、親になるべきではない。



★2011年6月19日王子シネマにて鑑賞
http://www.youkame.com/index.html

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kimio_memo at 08:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 映画 

2011年07月09日

【講演】「『スティーブ・ジョブズ脅威のイノベーション』発売記念セミナー」カーマイン・ガロさん

スティーブ・ジョブズは、決して「コンピュータを作ること」に情熱(パッション)を持っていた、傾けていたのではなく、「人々がそれぞれのクリエイティブな能力を解放することができるようなツールを作る、そういうツールを提供すること」に情熱を持っていた、傾けていたわけです。

スティーブ・ジョブズが「人々がそれぞれのクリエイティブな能力を解放することができるようなツールを作る、そういうツールを提供すること」に情熱を傾けていたのは、「人々がそれぞれのクリエイティブな能力を解放することができる」状態が、自ら掲げたビジョンだったからに違いない。
そして、ジョブズにとって、「(より使い易い)コンピュータを作ること」はそのビジョンを達成するツール、プロセス、手段に過ぎず、傾けた情熱は、ビジョン自体へ向けたものと比べると、質的(レイヤー的)に全然低かったに違いない。

なぜ、ジョブズは、依然、富と名声を得てもなお、肉体が老いさらばえてもなお、「人々がそれぞれのクリエイティブな能力を解放することができるようなツールを作る、そういうツールを提供すること」に情熱を傾けているのか。
それは、傾け続けるだけの情熱とクリエイティブ(能力)に恵まれていることに尽きるのであろうが、情熱を後押ししているモノが少なくとも三つあるのではないか。

一つ目。
それは、ビジョンには、ツールやプロセスとは異なり、ゴールがあり得ないからではないか。
もし、ジョブズの一番の起業理由が「(より便利な)コンピュータを作ること」だったり、掲げたビジョンが「便利なコンピュータが人々の間に行き渡っていること」であったら、とっくに悠々自適の生活を送っているのではないか。

二つ目。
それは、そのビジョンがジョブズにとって、「絶対にそうあるべき!」とか「何としてでもそうしたい!」と達成を切望する「真のビジョン」だったからではないか。
真のビジョンである以上、掲げた自分が達成を確認できない、未達だと思っている内は、たとえクリエイティブは枯渇しようと、情熱は枯渇せず、不断に湧き出るのではないか。

三つ目
それは、そのビジョンが社会にとって、「絶対にそうあるべき!」とか「何としてでもそうしたい!」と達成を切望する「真の社会のビジョン」になり得たから、つまり、「大義」へ昇華したからではないか。
そのビジョンの達成を切望しているのが自分だけではない、自分以外の多くの人がそのビジョンを肯定し、賛同し、ともすると自分以上に達成を切望している、つまり、自分が掲げたビジョンが「大義」へ昇華している以上、生きている限り、それを活かさない手はなく、情熱を絶やすことなどもってのほかであり、かつ、そもそも考えられないのではないか。



★2011年7月7日催行
http://www.ustream.tv/recorded/15846153
http://agilemedia.jp/blog/2011/07/post_295.html

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kimio_memo at 07:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 講演/セミナー